第三節 海の女達
「敵小型船、こちらに併走してます!」
「んなの見りゃ判るよ! 操舵係、しっかり舵取って近づかせんじゃないよ!」
「あいあいさー!」
ベアトリスが叫び、海賊達は陽気な様子でそれに答える。
彼女が駆るキャラック船は今向かって来ている船よりも大型で、正面からぶつかり合えば相手に勝ち目はない。
向こうもそれを判っているから、併走する形をとっているのだろう。
慌ただしく船員達が動き回るなか、カナタは甲板と船室の出入り口に積まれた荷物の影から、事の成り行きを見守っていた。
「あぁん? あの小っちゃい船と、もう一隻だけかい。舐められたもんだね、砲撃の用意をしな!」
「連中に大砲の力ってやつを見せつけてやりますぜ!」
断続的に轟音が響き、マーキス・フォルネウスから砲撃が放たれる。
オルタリアでは魔法技術が優れている反面、火薬による武器はそれほど発達していない。中でも船に取りつける大砲などに関しては、殆ど実用化もされていないような有り様だ。
だからと言って相手の船が一方的にやられているのかと言えば、そんなことはなかった。
「ぎゃあ!」
海賊の悲鳴が響き、続いて重い物が木の床に倒れる音が聞こえる。犠牲になったのは前後で舵を取っていた船員二人。
「あの距離から狙ってきたのかい……!」
こちらの大砲も牽制程度の効果しかない距離から、相手は的確にこちらの操舵主を狙ってきたということだ。
「ちっ! 船が傾く! 誰か舵を取りな!」
ベアトリスの命令に従って走ろうとした船員の頭に、見事に風穴が空いた。
血飛沫を噴き上げて倒れるその姿を見て、海賊達は一気に気勢を削がれていた。
もし舵を取りに行けば、確実に頭をやられる。最初の一撃ならまぐれ当たりと呼べたが、どうやら相手の腕はそんなものではない。
「船長!」
「判ってる!」
そうしている間にも相手の船はじりじりと感覚を詰めてきている。だが、そうなればこちらの大砲の餌食となるだろう。
そう高を括っていたベアトリスに、更なる驚きがもたらされた。
「ひ、人が、人が海を走って来てる!」
「馬鹿言ってんじゃないよ! セイレーンに幻覚でも魅せられてんのかい! それより早く大砲を連中のどてっぱらに……!」
また船上で悲鳴が上がる。
今度は狙撃によるものではない。ベアトリスがその方向を見ると、見覚えのない女が一人、そこに立っていた。
「いつの間に来たんだい!」
「だから、海の上を走ってきたんですって!」
色素の薄い、前髪は片目を覆う長さ。長く伸びたもみあげを結び、後ろは短く切られた蒼銀の髪の少女は踊るようにカトラスを振るう。
その度に彼女を取り押さえようと包囲する海賊達が、その刃の旋風に切り裂かれて船上に倒れていく。
「情けない……! たかが小娘一人じゃないか!」
ベアトリスが大きく踏み込んで、カトラスを構えて女の前に滑り込む。
そのまま全体重を乗せた一撃を、女は両手の刃を交差させて受け止めた。
女はベアトリスの攻撃を回避するつもりだったが、その踏み込みの素早さ、勢いに気圧されて苦し紛れにその鋭い一撃を受け止めることになった。
「速度はあるけど非力だねぇ、お嬢ちゃん!」
「まさかお婆ちゃんがこんなに力持ちだとは思いませんでしたよ」
女はその上でまだ、軽口を叩いて見せた。
「伊達に五十年も海賊やってないよ!」
「ええ、これは不覚です。正面からでは勝てそうにありませんが」
女はカトラスから手を放して、ベアトリスと距離を取って船の縁に飛び乗る。
「身投げでもするつもりかい?」
「はい。海はわたしの強い味方ですから」
女の身体が宙を舞った。
ベアトリスはその行いに驚いて、船の縁まで近寄ってその身の行く末を覗き込む。
すると驚くべきことに、女は空中で姿勢を変えて、海の上に足を付けて着地して見せた。
「そこ、危ないですよ」
女が足元に手をかざすと、海の水がまるで鎖のように伸びて、ベアトリスの腕に絡み付く。
「こんな子供騙しで!」
すぐさまベアトリスがカトラスで斬りおとすと、それはただの海水に戻って足元に落ちる。
「船長!」
「今度はなんだい!」
「て、敵の船が……すぐ傍に……」
逆側を見れば、小型の船がすぐ傍にまで近寄って来ていた。
それを止めるために奮闘していた大砲は、水上を縦横無尽に駆け巡るあの女の手によってすっかり無力化されていた。
近付いたことにより届くようになった矢や鉄砲が降り注ぎ、障害物に隠れてそれをやり過ごしている間に、敵船は瞬く間に梯子やロープを伸ばして、こちらの船を完全に補足する。
「白兵戦用意! ここで巻き返せ!」
「アイ、マム!」
「海の悪魔、フォルネウスに喧嘩を売った意味を教えてやるよ!」
血気盛んな船員達が、それぞれに武器を構えて突撃してくる敵兵を迎え撃つ。
剣と剣が打ち交わされ、また鉄砲と矢の弾が互いに交差して、瞬く間に甲板は戦場の様相へと変貌した。
中でも一際目立つ、血気盛んな水兵が一人。
赤いバンダナに長い金髪、身体は子供のように小柄だが、その服装はまるでベアトリス達と同じ海賊のようで、水兵たちの中でも異彩を放っている。
手に持った銃をぶっぱなして確実にこちらの船員を仕留めながら、近付いてきた敵はカトラスで撫で斬りにする。
その力は凄まじい。厄介な海を渡る力を除けば、この中で一番の暴れん坊ではないだろうか。
そしてそんな姿を見れば、ベアトリスも腕を疼く。この船を仕切る船長ではあるが、闘争心なくて海賊できるか!
「そこの金髪! アタシが相手をしてやる!」
「婆が相手になるか! 引っ込んでろ!」
「口は達者だねぇ、小娘!」
ベアトリスは甲板を駆け、邪魔な敵兵を瞬く間に斬り伏せてその女の目の前まで一気に躍り出る。
そして先程取り逃がした女にしたように、カトラスを陽光に光らせながら一気に躍りかかった。
「甘いよ、クソガキ!」
「ババアっ……はやっ!」
老いた海賊は、その金髪少女の予想よりも早く、その目の前に着地する。
そして振り下ろされたカトラスの重みもまた、彼女の想像を遥かに超えていた。
「うえぇ!?」
カトラスを手から叩き落とされながらも、少女はすぐさまベアトリスの二撃目を身体を捻って避け、腰の辺りに手を伸ばす。
ベルトにぶら下げてあったフリントロック式の小型銃を手に取ると、それを彼女の顔面に向けて容赦なく引き金を引いた。
「ハッ……!」
「うそぉ! 婆さん無理すんなよ!」
「無理もしてないさ、あんたとは年季が違うだけさね!」
横薙ぎに振るわれたカトラスを、金髪少女は銃のグリップ部分で受け止める。足を踏ん張り、全身の力を込めての防御だが、それでもベアトリスを押し留めるには足りない。
「ラニーニャ!」
金髪少女が叫ぶ。
海から飛沫が上がり、人影が上空からベアトリスに向けて放ったそれは、槍のように尖らせた海水だった。
「さっきからちょこまかと……面倒なエトランゼだね!」
ベアトリスはその槍を振り向きざまに叩き落とす。
「今のを避けますか……。お婆さん、素直に感心しますが……!」
ラニーニャと呼ばれた、海を走るエトランゼの少女は、金髪少女に加勢するためにベアトリスへと一気に距離を詰める。
両手に握ったカトラスと、金髪少女の銃撃、その両者が前後からベアトリスに向けて襲い掛かった。
彼女を護るべき海賊達は、手練れの水兵たちに阻まれて援護をすることができない。仮にこの間に入れたとしても、少女達どちらを見ても並の相手では押し留めることすらも困難なほどの実力者だった。
「……いただきましたよ」
「卑怯とは言わないだろ、婆さん」
抜群の連携による確殺の一撃。
最早二人を止められる者など、船上にはいない。
少なくとも、そう判断していた。少女達も、ベアトリス自身も。
その双刃を唸らせるラニーニャとベアトリスの間に光の盾を広げた少女、カナタが乱入して来るまでは。
▽
――何してるんだろう、ボクは。
そんな考えが頭の中でぐるぐると渦を巻く。
カナタは頭がよくない、その自覚はある。しかし、ここまでとは自分でも思ってもみなかった。
拾われたとはいえ海賊、ベアトリス自身も言っていた通り悪党だ。
そして状況は海賊を襲ってきた側に傾いている。彼女達が海賊でないのならば戦いが終わるまで隠れていて、後になってから捕まっていたとでも言いながら出ていけばいい。
それが、一番正解だと判っていたはずなのに。
「……あんた……!」
ベアトリスが驚きの声を上げる。
それも無理はない。彼女にとってはカナタのギフトは単なる役立たずでしかなかったのだから。
「ほほう、これはなかなか」
正面に立つ少女の、片目を隠す髪が、さらりと揺れる。
「クラウディアさん。この子はわたしが倒します。貴方はそちらのお婆様を」
「……ラニーニャ? まあいいか、りょーかい!」
金髪少女、クラウディアはすぐさま銃を突きだし、続けざまに発砲。
一方のベアトリスも態勢を立て直したからかそれを回避ながら、距離を詰めてはカトラスの斬撃を繰り出していく。
「それではこちらも始めましょう、可愛い海賊さん」
「いや、ボク……うぇっ!」
ラニーニャの姿が消失する。
決して消えたわけではない。姿勢を極限まで低くしながらの移動が素早過ぎて、カナタには一瞬捉えることができなかっただけだ。
目の前に現れた二つの刃を、セレスティアルの盾が完璧に防ぎきる。
そのままそれを剣の形に変化させて、彼女に正面から叩きつけた。
「……珍しいギフトですね」
「ちょっと! ボクの話を聞いてくれたりは……!」
「しません! 悪い人の話を聞くのは、そちらが独房の中に入ったときか、もしくは今際の時だけですよ」
剣と光が打ち鳴らされ、またラニーニャの姿が消える。
今度は側面、セレスティアルの剣を伸ばして無理矢理にそれを叩き落とす。
気付けば彼女は背中側に移動しており、容赦なく無防備なそこを斬りつける。
「あーもう!」
カナタも身体を捻りながら、正面に盾を展開する。
ラニーニャが思っていた以上にそれが防御できる範囲は広く、彼女のカトラスはセレスティアルの盾を傷つけることはできなかった。
「凄いギフトですね。……ですが!」
ラニーニャが飛び上がる。
そのまま船の縁を飛び越えて、海上へと降り立った。
波に揺られながら海面に立った彼女は、足元に手を翳して、そこに無限に広がる水面を操る。
水が盛り上がり、鎖のような形になってカナタへと伸びてきた。
「うわっ!」
水の鎖はカナタが弾くよりも早くその腕に巻きつき、小柄な身体を軽々と空中に持ちあげる。
そしてそのまま、海の上へと放り投げた。
「ちょっと卑怯かも知れませんけど、これで終わりです」
勢いよく海面へと落ちていくカナタ。彼女の言う通り、このまま海に落ちたら波に呑まれ、もう上がって来ることはできないだろう。
「くぅ……! こんな短期間で二度も溺れたくないよ……!」
つい先日、カナタは仲間と揉め事の最中に魔物に襲われ、地底を走る川に叩き落された。
その反省が即座に生きたというわけではないが、半ば本能的に溺れた直後のことを思いだして、あの苦しみを二度と味わうものかと、直感が身体を突き動かす。
逆さまになった状態で、反射的に片手を海へと伸ばす。
そこから展開したセレスティアルの、光の壁が膜のように薄く広がり、カナタの身体はそこに落ちて海の上を滑るように転がった。
「痛てて……」
打った腰をさすりながらも立ち上がり、ラニーニャの姿を探す。
カナタを海上に引きずり込んだ本人は、呆然としてこちらを見ていた。
「はぁ!? なんで海の上に立ってるんですか! ズルです、ズルじゃないですか!」
余程驚いたのか、先程までの楚々とした口調などかなぐり捨てて、ラニーニャはカナタを指さして罵倒する。
「ズルって……。そっちもやってるじゃん」
「わたしはいいんですー! こういうギフトですから、水があって初めて意味があるんですから、このぐらいはできないとやってられません! それに比べてそっちは……!」
ラニーニャの姿が消失する。
低姿勢からの一挙の踏み込みに、カナタはあわや彼女を見失いそうになった。
交差するカトラスの一閃を、カナタのセレスティアルの剣が受け止める。
「早いけど、力はそれほどでも……!」
意識を集中する。
セレスティアルの剣は切れ味を増し、ラニーニャのカトラスを浸蝕し、逆にその刃を斬り落とそうとする。
「嘘っ……!」
「このっ……!」
彼女が驚いた隙を突いて一気に押し返そうとしたカナタだが、ここで予想もつかない事態が起こった。
剣に力を集中させ過ぎた影響か、足元のセレスティアルがお留守になり、カナタの身体は海の中へと沈んでいったのだ。
「へ?」
突然目の前から消えた敵に、間抜けな声を上げるラニーニャ。
それはカナタも同様で、予期せぬ事態に驚いて、水の中でどうにかしようともがく。
「ごぼぼ」
口から空気を吐きだしながらも、カナタは水面を見上げ、船がある方向へ手を伸ばした。
セレスティアルを、ロープのような形へと想像する。
火事場の馬鹿力と言うやつか、奇跡的に成功し、カナタの手から伸ばされた極光でできたロープは船の縁の部分へと伸びて、絡み付く。
それを引っ張るような要領で短くすることで、カナタの身体は船の縁へと飛ぶように浮上していった。
「パ、パクリです! パクリ! それさっきわたしがやったやつじゃないですか!」
「う、うん……。おかげで助かっ……」
「隙ありぃ!」
「うええぇぇぇ!」
縁の部分に掴まるカナタの後頭部に、背後から銃身が伸びてきて、容赦なく発砲する。船上で戦いを続けていてたクラウディアだった。
「このベアトリスを相手によそ見とはやるじゃないか!」
「はんっ! 耄碌婆相手なら余裕だよ!」
すぐさまベアトリスがクラウディアに斬りかかり、二人は再び戦いを始める。
カナタもロープを伸ばして海上に着地すると、律儀なことにラニーニャはそこで待っていてくれた。
「では、勝負の続きと行きましょう。このラニーニャさんの華麗な技をパクったからには、使用料を頂きますから」
カトラスを腰の鞘にしまって、両手を海へと翳す。
海から伸びた水が、彼女がそれまで握っていたカトラスと同じような形となって、その両手に握られた。
「……それ、ボクのパクリじゃん」
「昔からやってたからそれは無効です!」
何処となく理不尽な言い訳と共に、ラニーニャは容赦なく斬りかかってくる。
「相変わらず、速い……!」
回転するように振るわれた水の刃が、カナタの光の剣とぶつかり合う。
「だけじゃありませんよ」
そのままカナタの背後まで駆け抜けたラニーニャの手の中で、水は剣ではなく鞭のように形を変えて、カナタの足へと伸ばされ絡み付く。
「水は無形ですから、こんな風に自由自在に」
足を引きずられ、背中から海上に倒れ込むカナタ。
そのまま自分の足元まで引き寄せて、もう片方の刃を容赦なく突き立てる。
意識の集中だけで目の前に極光の壁を広げるカナタだが、それを貫通するように水の刃の先端が額に触れる。
セレスティアルを全開にすれば、彼女の攻撃を弾くことは不可能ではないが、それをすれば海上に展開している分がお留守になり、再びカナタは水の中へと落ちてしまう。
極光の壁を解除、即座に首を逸らすことで、急に抵抗がなくなって狙いを外したラニーニャの刃は海面へと叩きつけられた。
「そんな……!」
集中が切れて、足元に絡み付いた水が消えている。
「こうしたら……、どうなるかな!」
息を全力で吸い込んで、カナタは自分の身体を海の中へと落としていく。
「なにを……!」
その間に、ラニーニャの手首には、彼女にされたようにセレスティアルを紐のようにして結び付けておいた。
急激に足元に引っ張られたラニーニャは、顔面から海上にぶつかって、そのままカナタと一緒に海の中へと落ちていく。
だが、ラニーニャのギフトは水を操るもの。水上よりも水中が本領とも呼べるものだ。
だからその点に置いて、彼女は顔の痛みと鼻血が出たことはともかくとして、それほど焦ってはいなかった。
息が続かないのはお互い様だが、その間に決着を付ければいい。ただそれだけのこと。
その身体が水中へと落ちたとき、予想より遥かに近い位置にカナタがいたことが、唯一にして最大の誤算となる。
(ちかっ……!)
カナタは水中でラニーニャとの距離を詰めて両手に握ったセレスティアルの、大剣と呼んでもいいほどの大きさの剣を全力で振りかぶる。
必死で離脱するラニーニャと、それを追いかけるカナタ。
海の上を悠々と渡っていた彼女達の身体は、最早半分が海水につかった状態でようやく肩から上を海面に出しているような状態だった。
荒い息を吐いて、二人は睨み合う。
そこに水を入れたのは、空から落ちてきた二つの樽だった。
「なにこれ?」
「……さあ?」
飛んで来た方を見上げれば、クラウディアとベアトリスが互いを牽制しながら、じりじりと距離を取っているところだった。
「ラニーニャ! 今回の戦いは水入りだ、決着はお預け!」
「やるじゃないかカナタ。あんたの戦いぶりにビビっちまったみたいだし、今日のところは見逃してやろうじゃないか」
「口が減らない婆だな。見逃してやるって言ってんだよ!」
「はいはい。それでいいからさっさとそっちの舟板みたいな嬢ちゃん連れて帰んな。胸の大きさをあんたが吸い取っちまったのかい?」
「なっ、うるせー! どうせ婆は垂れてんだろ!」
ベアトリスのからかい通り、ラニーニャは年頃の女性にしてはかなりスレンダーな身体つきをしている。カナタには人のことは言えないが。
一方のクラウディアは身長の割にはしっかりと出るところが出ていた。
「あんたもいずれそうなるんだよ、お嬢ちゃん」
「うっさい婆! 撤退だ撤退、ラニーニャもさっさと引き上げるよ!」
号令と共に、海賊船に乗り移っていた船員達は自分の船に引き上げていく。
ラニーニャも樽に掴まり、そこから伸びたロープによってクラウディアの船へと引き上げられていく。
「あんたはこっちだよ。こりゃ今日は宴をしなきゃならんね。海で散った偉大な同志と、新たな仲間を歓迎してね」
上機嫌に笑いながら、ベアトリスは他の海賊達の気遣いを無視して自らカナタのしがみつく樽を引っ張り上げる。
複雑な思いを抱きつつも、カナタの胸中にはベアトリスを護れたこと、そして彼女の仲間として認められたことへと確かな高揚感があった。
▽
「だー、もう! ムカつく、ムカつくよあの婆!」
がんと、樽を蹴る音が甲板に響き渡る。
それに対しての船員の対応は慣れたもので、呆れ半分、微笑ましさ半分でその姿を見守っていた。
怒り時の彼女には迂闊に話しかけてはならない。それが彼等が拠点とする港町、ハーフェンの鉄則だった。
唯一の例外を除いては。
「まあまあ、少し落ち着きましょう。クラウディアさん」
穏やかな笑顔で、船員から受け取った布で髪を拭きながら彼女に近寄っていくのは水を操る少女、ラニーニャ。
普段は快活な少女であるクラウディアだが、その反動と言うべきか、怒り狂っているときは当たりを気にせず暴れまわる。しかし、何故かこのラニーニャと言う少女には一切暴力や暴言を吐いたりすることはない。
「ラニーニャ! でもさー……」
ぷぅと膨らんだ頬を、ラニーニャは指で突きながら、
「イレギュラーがあったから失敗しただけですよ。作戦自体は有効だったじゃないですか」
そう彼女を慰める。
「そりゃそうだけど……」
「過ぎたことを考え過ぎても仕方ありませんよ。あの海賊船がこの辺りにある限り、機会は幾らでもありますし、ね」
意味深に呟くラニーニャの心の中には、クラウディアを慰める以外の強い感情が籠っていた。
クラウディアも長い付き合いの中で、彼女の性格をよく知っていたので、それをすぐに察する。
「悔しいんだ?」
意地の悪い笑みで、下の方から上目遣いにラニーニャを見上げる。
「ええ。まさか遅れを取ることになるとは思ってもみませんでしたから」
「だよねー。アタシもそう思う。ラニーニャが海の上で負けるなんて初めてじゃない?」
「いえ、厳密には初めてではありませんが」
彼女がそう言うと同時に、風が髪を揺らし、隠れていた左目を陽光の元に曝け出す。
「あ、ごめん……」
「気にしないでください。それよりもほら、あっちでクラウディアさんを呼んでますよ」
ぽんぽんと頭を撫でて、船室の入り口へと顔を向けさせると、そこには船員が手を振ってクラウディアに呼びかけていた。
「お嬢! お茶が入りやしたぜ! それと、死んじまった奴の名簿を書かないと」
「海の上ではお嬢って呼ぶな! ……名簿はアタシが書くよ。それじゃあ、ラニーニャ。また後で」
「ええ、次は勝ちましょう」
力強い笑みを見せて、クラウディアは船室の方へと向かって行く。
その後ろ姿を見送ってから、手持無沙汰になったラニーニャは船の端に寄って、ついさっきまで戦っていた海賊船が去っていった方角を見つめる。
「あの海賊船……。あの海賊旗、恐らくはマーキス・フォルネウス号」
ラニーニャも船乗りになって、クラウディアと共に武装商船に乗るようになって数年。常に海の情報には目を光らせていた。
少し前までは、あまり造船技術が発達していなかったオルタリアの沿岸部を狙った海賊が商船を狙ってやって来ていたものだ。
しかしそれも、クラウディアがハーフェンを治める父を半ば無理矢理に脅して武装商船団を組織することによって数を減らしていた。
正直なところ、オルタリアは海上輸送においてはそれほど発達しているわけではなく、海の向こうにある国や島々との貿易も積極的ではない。
海賊からすればリスクがリターンを上回ったと言ったところだろう。勿論、それは組織だった行動をする海賊連中だけで、身の程知らずの愚か者たちは何度もやってきた。
そしてその尽くを、ラニーニャ達は返り討ちにしてきた。
「わたしの記憶が正しければ、マーキス・フォルネウスがそんな馬鹿なことをする海賊とは思えないのですけどね」
女海賊ベアトリスの名はオルタリアの船乗り達にまで轟いているが、それは最早伝説染みたもので、彼女がこんな――自分達で言いたくはないが――大した実入りもない海に来るとは思えないのだ。
「それに、確か彼女は……」
ラニーニャの呟きは、激しさを増す海の風に紛れて消える。
潮風の寒さに耐えられなくなった彼女は、クラウディアがいる船室の中へと向かって行った。
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