第十二節 名を得た彼の、旅の始まり

 薄っすらと目を開くと、葉が生い茂る枝の間から、満天の星空が覗いていた。

 その横には月もあり、その光で森の中を照らしている。

「お前、寝てばっかだな」

 怪我には治療が施されており、傷口には包帯が巻かれている。ローブはヨハンの身体の上に、布団代わりに掛けられていた。

 水音がすぐ傍から聞こえる。どうやらトウヤが川縁まで運んでくれたらしい。

「助かった」

「飯、食えるか?」

 ぱちぱちと火花を散らす焚火の傍では、串に刺さった魚が香ばしい匂いをさせている。トウヤの横には骨になったそれが捨てられていた。

「……いや、すまん。無理そうだ」

 致死性のものではないだろうが、毒はじわじわとヨハンの身体を蝕んでいた。

「そっか」

 施された治療は、お世辞にも適切とは言い難い。トウヤに医療の知識はないし、包帯や薬の量も足りていない。

 トウヤもなんとなくその状況を察しているのか無理には勧めず、焼き魚を自分で処分すべく口に咥える。

「ギフトで火を起こしたのか?」

「そうだけど……。なんか不味かった?」

「いや、便利な力だなと思ってな」

「まったくだよ。キャンプでバーベキューするときとかな」

 トウヤが珍しく冗談を言ったので、ヨハンは苦笑してしまう。

 しかしそれを言った当の本人は、食べ終えた魚を地面にぽいと投げ捨てながら、

「……もう、行くこともないだろうけどな」

 そう呟いた。

「別に、行けばいいだろう。カナタでもヴェスターでも、誰でも誘って」

「はぁ? そう言うことじゃ……。いや、もうそう言うことなんだな。

 この世界に来たばっかりの頃は、必死で足掻きながら、でもいつか絶対帰れるって自分に言い聞かせてた。だから強く生きていようって、帰って友達とか親にこの世界であったことを土産話にしてやろうってさ」

 焚火に横顔を照らされながら、トウヤはヨハンの顔を見ずに言った。

 心細かっただろう、不安で眠れない夜もあっただろう。

 トウヤの心が弱いわけではない、エトランゼは大抵がそうなる。その中で、自分なりの理由を見つけてこの世界で生きるか、嘆いたまま死ぬことになる。

「俺達、帰れるのか?」

 それは誰もが抱きつつも、口にできない疑問だった。

 勿論ヨハンとて全てを知っているわけではないが、漠然と結論が出つつあった。

「……無理だな」

 この世界から元の世界に帰還する術はない。少なくとも人間の手段では。

 大魔導師と呼ばれた老人にも、それ以上の力を持ったヨハンにもそれを成すことはできなかった。

 この世界に来た以上、帰る手段もあるはずなのだが、今のところその手掛かりすら全くない。未来永劫とは言わないが、ヨハン達が生きている間に戻る手段が手に入る可能性は限りなく低いだろう。

「……そっか」

「悲観してばかりでもない。もう少しエトランゼを取り巻く状況が改善すれば、その中で帰還に向けて働きかける動きも大きくなる。そうなれば……」

「その話、今はいいや」

 膝を立てて、トウヤは相変わらず焚火を見つめている。

 その顔に浮かんでいる表情は、諦めや絶望では決してなかった。

「……俺はさ、」

「待て」

 ヨハンの声がトウヤの言葉を遮る。

 それから二人は黙って耳を澄まして、遠くから聞こえてくる音に意識を傾けた。

 数名の声と、戦いの音。魔物の唸り声も聞こえてくる。人間の方が数は多く、次第に魔物の声は弱々しいものになっていった。

「仲間かな?」

「方角や時間から考えて可能性は低いな」

 森に逃げたタイミングで考えれば、ヨハン達がほぼ最後になるはずだし、道に迷っていたのだとしたらそれが集団で、魔物を軽く蹴散らせるほどの余力があるのもおかしい。

 森で過ごした時間から考えても、十中八九オルタリア軍の捜索隊だろう。

「まだ遠いけど……。多分、見つかるよな。早く逃げないと」

 焚火を手早く消して、トウヤが立ち上がる。纏めるほどの荷物もないので、出発はすぐだ。

「あんたも早くしろよ」

「……いや。俺はここまででいい」

「どういう意味だよ?」

 立とうと力を込めれば包帯に赤い血が滲み、毒は身体を確実に蝕む。

 最早目は霞み、一人で立って歩くことすらも困難だった。

「幸いこの小川はフィノイ河からの支流だ。辿っていけば森も抜けられる」

「……何言ってんだよ!」

 トウヤの手がヨハンの肩を掴む。

 そして至近距離で見て、改めて実感してしまった。

「判るだろう。怪我と毒でろくに歩けない俺を連れていたら、連中に追いつかれる。逆に俺がここで時間を稼げば、それ以上の追撃はなくなるだろう」

 オルタリアが一番仕留めたいのはヨハンのはずだ。その任務が終われば、今も逃げ続けている兵達にこれ以上時間を割くとは考えにくかった。

 ここで残れば、トウヤを『確実』に生還させることができる。

「作戦の失敗の原因は俺にある。責を取ると思えばまぁ、納得もできる。……何より、お前が生き残ってくれればイシュトナルのためにもなる」

 トウヤはまだ若くて未熟な部分も目立つが、その真っ直ぐな生き方はなかなか真似できるものではない。例え失敗しても、自分がやるべきことを見極めてその道を走る。彼のその行いは今後、多くの人を動かす原動力となるだろう。

 エレオノーラやカナタ、トウヤにあって、ヴェスターやヨハンにないものがそれだった。

 そんな稀有な少年を、ここで残骸に巻き込まれて殺すわけにはいかない。

「俺のことは気にするな。一人の方が、案外生き残れるものだ」

 それは嘘だ。動けない身体で武器もなく、逃げられるわけもない。

 ただそれでも、ここで二人が死ぬよりはずっといい。

 若者の命を繋いだとあれば、上出来な死に方だろう。

 ――ヨハンはそう考えていたのだが。

「ふっッッざけんなよ!」

 ヨハンの身体が宙を舞った。

 トウヤが無理矢理立たせ、それを地面に叩きつけるように放り投げたからだった。

 地面に投げ出され、土塗れになって呆然とするヨハンを、トウヤは怒りを込めた目で見下ろしている。

「ここまで来て、ここまでやっといて何やりきったみたいなこと言ってんだよ! 全部あんたがやったんじゃないか! お姫様を助けて、御使いを倒して、イシュトナルを発展させて……。そして今度は、オルタリアとの戦って……!」

 今度はヨハンの身体が持ちあがる。

 隣に立ったヨハンが、そこに肩を貸して、引きずるように歩き始めた。

「殺させない。絶対に死なせるかよ。あんたは色んなもんを変えちゃったんだ、それはもう戻らない」

 死ぬ運命にあったエレオノーラを救った。

 御使いを倒した。

 イシュトナルに街を拓いた。

 魔法使いの少女を連れ戻した。

 そして今、オルタリアを撃退した。

 それは当然、ヨハン一人が成したことではない。むしろその中で彼が果たしたことなど、極小さな役割でしかなかった。

「……あんたとカナタはそれをやったんだ。誰もが望んでできなかったことを……。それがどれだけの人に希望を与えたか、判ってんのか?」

 あの夜、トウヤはヴェスターに語った。

 カナタの横に立つのは自分ではない。勿論、ヨハンのことをしっかりと認めたわけでもないが。

 それでも心の何処かで、明日の見えない日々に希望を見せてくれた二人に感謝していた。

 そして何よりも。

「あんた達の作る先が見たいんだ。昨日まではくそったれだったこの世界が変わってくのを」

 そんなものはトウヤの勝手な期待に過ぎない。

 しかし、それを判っているからこそ手を貸すことに決めた。

 そう思ったとき、トウヤにとってカナタはそう言った対象ではなくなっていた。

 ――いけすかない大人だったヨハンもまた、トウヤの中で意味を変えた。

「……でも、俺にはもう何もない。理想も大志も、何のために戦うかさえも」

「……あんたの望みはなんだよ? 全くないってことはないだろ」

「俺の、望み……?」

 無茶ばかりする少女がいた。彼女の世話を焼くのは楽しかった。叶うのならば彼女が完全に独り立ちするその時まで、危なっかしいその手助けがしたい。

 理想を語る姫を美しいと思った。その想いが世界を変えるというのならば、その手伝いをしてやりたい。

 失ってしまった光がある。罪滅ぼし、と言うわけではないが、彼女が許すのならばその心を受け継いで生きていきたい。

 そしてその過程で、誰かが今よりも幸福になれるのならばそれに越したことはないだろう。

 例えそれが痛みを伴うものであっても、進むことができる。いや、だからこそその道を選ぶ価値がある。

 最強のエトランゼたる名無しの男では決してなしえなかったことが、今ならできるのかも知れない。

「……ほら、何かしらあっただろ?」

 ヨハンは今、自分がどんな表情をしているかも判らない。ただそれを見たトウヤは、仕方ないという風に苦笑いを浮かべていた。

 ルー・シンの言葉は認めなくてはならない。

 名無しのエトランゼは人になることを恐れた。そして今もまだ怖がっている。

 その理由は簡単で、人として生きる理由が見つからないのではと、心の何処かで思っていたからだった。

 人に請われるままに力を振るった神の成り損ないは、人に墜ちたとき、自分の意思で何かをすることに怯えた。

 ――だが、言葉にしてしまえば何と言うこともない。

 エレオノーラに請われ、カナタに頼られ、それだけでよかったのだ。

 ずっとそのままと言うわけにもいかないが、差し当たっては、それでいい。

 生きる目的を本当の意味で見つけられる者など、そうそういるものではないのだから。残骸からそんな凡人の一人に、ようやくヨハンもなれたということだ。

 そして、そうなっては一つ不都合がある。

 現金なことだが、ここで死ぬわけにもいかなくなったことだ。

 そのことを気付かせてくれた若武者に声を掛ける。

「一度降ろしてくれ。もし生き残るなら、一応は考えがある。上手く行くかは判らんが」

「……話してみろよ」

 ヨハンの身体を降ろし、トウヤもその正面に座り込む。

「先に言っておくが、俺を置いて行った方がお前が生き残る確率は圧倒的に高いし、何よりこれをやるなら死ぬ気で働いてもらうことになるぞ。今から朝まで」

「別にいいよ、そのぐらい。二人で生き残ってやろうぜ。俺もあのサムライにやられっぱなしは嫌だし、あんただってあの顔色悪い奴に仕返ししたいだろ?」

「…………」

「なんだよ、渋い顔して」

「いや、エレオノーラ様と喧嘩別れ同然に出てきたことを思いだしてな。生き残ったらそれも解決しなければならないのか、と」

「……お前さ、一回姫様とちゃんと話した方がいいって、絶対」

 呆れながらそう言ったトウヤの言葉を最後に、雑談は締めくくられた。

 それからヨハンは作戦をトウヤに語り、トウヤは一晩中それを果たすために駈けずり回ることになった。


 ▽


 森の中に鎧の音が幾つも鳴り響く。

 隊列を作って行進するのは、ルー・シンの指示を受けて派遣されたラウレンツ率いる捜索隊だった。

 彼等は手分けして森の中に入り込み、残党狩りを行っていたが、その成果は多いとは言えない。

 せめて敵の指揮官でも捕らえようと、ラウレンツ直々に陣頭指揮を執ってはいるのだが……。

「ラウレンツ様! 別動隊より報告です! 先程再び交戦したコボルトの殲滅に成功。ですがどうやらそれも群れの一部らしく、昨晩のことを考えればまだ引き続き警戒は必要かと」

 手分けしておいた部隊の伝令が、草木を器用に踏み分けて、ラウレンツの前に歩み出た。

「おう。怪我人はどうなってる?」

「重傷者はいませんが、軽傷者が若干名出ております」

「……そりゃ参ったな」

「……はい。持って来た医薬品も昨晩の戦いで底を尽きつつありますので」

 報告に来た兵士の顔が暗くなる。

「ったく。なんだってんだよ。取り敢えずは捜索は続行。ただし体調不良を訴える奴がいたら、すぐに街に戻れ。下手すりゃ命に関わるぞ」

 返事を返して、伝令は別動隊の方へと戻って行った。

 魔物の襲撃があったのは、昨晩遅くのことだった。それほど大がかりな襲撃もないだろうと踏んで、部隊を分けて野営をしていたラウレンツ隊は、各個に攻撃を受けて夜通し戦う羽目になった。

 何が原因かは判らないが、こうして夜が明けた今でも断続的に魔物により襲撃受けている。正確にはこちらを狙っているのではなく、偶然遭遇したから戦いになっているのだが、気が立った魔物達を宥める方法などあるわけもない。

 戦力的には有利だが、だからと言って戦って全く被害がないわけではない。特に森の中では軽傷すらもそこから病原菌が入ったり、森に幾つも生息する毒を持った動植物に触れられて毒に冒されるなどその二次被害を生む危険性もある。

「これが国の存亡を賭けた重要な任務ってならまだ頑張りようもあるんだがね」

 ぼりぼりと後頭部を掻きながら、思わず口に出た。

 他の兵士は黙って聞いているだけだが、きっと心の中ではそれに同意していることだろう。

 ルー・シンが語った通り、既に戦いには負けている。しかし、ディオウルでの勝利によってどうにかホーガン家の面目は保った。

 この戦いはもうすぐに終わる。それはラウレンツも兵士も承知している。だからこそここで無駄に被害を出すことに対して積極的になれないのは仕方のないことだ。

「それに、どうにも匂う」

「は、動物の糞でしょうか?」

「そうじゃねえよ!」

 先日敵の脱出口を作ることになった西側を護っていた軍の兵士がラウレンツの言葉に反応する。彼等は自分達の失態に責任を感じ、旗下の兵を休ませる代わりにこうして同行してくれていた。

「魔物がそんな積極的に動くか? こっちは数は多くないとはいえ武装してんだぞ?」

「た、確かにそうでありますね。だとすれば敵の謀でしょうか?」

「魔法とか、あのギフトってやつかも知れないしな。何にせよ何かしらの仕掛けが働いてるのは間違いないだろうよ」

「でしたら撤退も視野に入れては? 自分としては雪辱を果たせないのが悔しくありますが、これ以上被害を出すわけにも……」

「そりゃそうかも知れんがね。……ただ、こっちにも意地がある」

「差し出がましいことを言いました。申し訳ございません」

「構わんよ。はっきり進言してくれる部下は貴重だ。わざわざ責任とって付いて来てくれた気骨といい、正式に俺の隊に欲しいぐらいだ」

「光栄です」

「おう。……っと、その話は後だな。どうやら俺はまだツイてるみたいだ」

 ラウレンツの視線の先には、剣を構えた一人の少年と、その傍で座り込んでいる男の姿があった。

 忘れもしない、その少年は先日やりあった若き剣士。そしてその横の男は今回の件の指揮官であり、ルー・シンが気にしていた男だ。

「なんだ二人か? どうにも進退窮まってるな、イシュトナルの指揮官さん」

 今にも斬りかかって来そうなトウヤは無視してもう一人の男、ヨハンに声を掛ける。

 既に部下達は臨戦態勢に入っており、数は少ないもののたった二人を殲滅するだけの余力は充分にある。

「無駄に殺しをする主義じゃねえ。武器を捨てて投降しな」

 二人にその気配はない。

 ラウレンツは溜息を一つ付いて、部下に攻撃命令を出すために片手を上げる。

 前衛に立つ少年はそれなりの使い手だ。それを警戒して、もう片方の手ではすぐに戦えるように槍の柄を握っていた。

「戦う前に一つ、交渉がある」

「……交渉?」

 まさかのその言葉に、ラウレンツは動きを止める。交渉はお互いに益がなければ成立しない。そしてこの場で、相手側がその身柄以上にこちらの利益になるものを差し出せるとは思えなかった。

「昨日の夜から断続的に魔物の襲撃を受けているだろう? そちらの傷ついた様子を見ればそれは一目瞭然だ」

 ラウレンツの兵も武具も、ヨハンの言う通り魔物との戦いで傷を幾つも作っていた。

「やっぱりお前さん達の仕業かよ。どんな手を使ったんだい?」

「幾つかの爆発物と、そいつのギフトでな。森のあちこちに派手に火や爆発を放った。それに驚いた魔物達が暴れ出し、身近で一番音を立ててる人間に向かって侵入者を追いだしに掛かっただけのことだ」

「……へっ。そりゃ、随分と趣味の悪い作戦だこと」

 実働したのはトウヤ一人だ。煙で匂いを誤魔化し、コボルトのねぐらに火を付けて回る。慌てて飛び出したコボルト達は縄張りを侵略されたと勘違いして、森の中をうろつく人間に報復する。また逃げている途中で興奮状態にあれば、その意志がなくても戦いは始まる。

 そして今森の中で最も目立つのは、しっかりとした装備と人員を整えているラウレンツの追撃隊だ。

 完全に成功するとは言い難かったが、運よくヨハンの目論見通り、ラウレンツの部隊は夜から何度も魔物と遭遇する羽目になった。

「やってくれたじゃねえか。尚更逃がすわけにはいかなくなったぜ」

「魔物はまだこの周囲を徘徊している。時間を掛ければかけるほど、お互いに無事に脱出できる可能性は低くなるぞ」

 別にこの森中の魔物を相手にしたところで引けを取るとはラウレンツは思っていないが、死者が出るのは事実であり、それは避けたい事態でもある。

「なら、さっさと仕留めさせてもらおうか」

 槍を構える。

 後は号令一つで駆けだせる状況にあってもまだ、ヨハンは余裕の表情を消すことはなかった。

「もう一つ、交渉材料がある」

「続きは地獄でやりな」

「あんたの命だ」

 ざわめきが起こり、兵達の動きが止まった。

 ラウレンツはすぐさま背後で起こった異常事態に対応しようとして、やめた。

 振り返れば恐らく命はない。相手は決して外さず、ラウレンツを殺すことができる、本物だ。

「いや、確かにこりゃ……。失敗したなぁ。骨のある奴を誘えたと思ったんだがな」

 ボウガンを構え、兜を脱ぎ捨てた、西軍から動向を申し出た兵士。その下にあった端正な顔立ちは、オルタリア軍のものではない。

「てっきり紛れ込んでた裏切り者は、全員見つかったと思ってたんだけどな」

「何人かは犠牲になってもらったぜ。こうして保険を掛けるためにな」

 かつてアサシン組織に所属していたその凄腕の暗殺者は、カーステンの部隊に紛れ込み嘘の報告を行い、その後もオルタリア軍の中で工作活動を行いながらずっとその身を潜め続けていた。

 それは先程語った通り保険のため。いざと言うときに確実にヨハン達を逃がすために、敵陣の中で殿を務めていた。

「すみませんが、そっちの部隊には所属できませんな。仕える主が別にいますんで」

「ラウレンツ様!」

「はいはい。動くなよお前さん達。この隊長さんの頭をぶち抜かれたくなかったらな」

 その身を敵に囲まれ剣と槍を向けられながらも、ゼクスは全く怖じた様子もない。構えたボウガンの矢先は、真っ直ぐにラウレンツの後頭部を狙っている。

「交渉の続きだ」

「俺が自分の命を捨ててあんたを殺そうとしたらどうする?」

「その可能性は低いだろう。お前は優秀な指揮官だ。だから判っている、俺の命にそこまでの価値はないと」

「……ちっ。それはそれで、やり辛い相手だ」

 だが、その言葉は正しい。

 追撃に出る前にルー・シンに言い含められていたことがある。それは決して無理をして命を落とすような真似はするなとのことだった。

 戦場で命を捨てるのが兵士の役目だが、上官からそう言われてしまった以上、従わざるを得ないのもまた兵士だ。

「時間を掛ければ魔物が集まってくる。連中は食料も焼かれてご立腹のようだからな」

「くっそ。判ったよ判った。今日は俺の負けだ、負けでいい」

 槍を捨てて両手を上げるラウレンツ。

 そのまま視線で命令すると、一瞬戸惑ったがすぐに兵士達は森の奥へと移動を始める。

「そのまま真っ直ぐ歩いて仲間と合流しろ。もしこっちに引き返すような真似をしたら、この木の間から出もあんたを射抜けるぜ」

 ラウレンツの度胸も大したもので、ゼクスの脅しに全く動じた様子もなく、森の方へと歩いていく。

「やるかっつの。こちとら現場が長いが、こう見えても騎士様だぜ? 一度決まった誓いを破りゃしねえよ」

 そう言って木々の奥へと消えていくラウレンツ。

 最後、その姿が消える間際に、一度だけこちらを振り返った。

「ヨハンさんって言ったっけ? うちの軍師殿も凄いがあんたも大したもんだ。……俺としちゃもう、イシュトナルの相手はしたくねえな」

「光栄だ。こちらも二度とヴィルヘルムの相手はしたくない。心臓に悪い」

「ははっ、そう言ってもらえりゃ嬉しいね。あばよ」

 今度こそ、森の中へとラウレンツの姿が完全に消えた。

「……よし、帰るぞ。どっちか肩を貸してくれ」

 安心と限界により最早一歩も動けない状況で、口だけは偉そうにヨハンがそう言って、一連の戦いは人知れず、静かに幕を下ろすことになった。


 ▽


 オルタリアとの間に和平はなった。

 本来はエレオノーラとヘルフリートが直接の会談をすべきところではあるが、それを拒否したヘルフリートにより、お互いの使者による話し合いで事は進んでいった。

 イシュトナルの出した条件は捕虜の解放と、奪取した二つの都市の解放。その代わりに同じく捕虜の解放と停戦、加えて双方の民間人によるフィノイ河の横断許可。

 奪われた街が無傷で戻ってくることに加えて、捕虜とされた中には有力貴族も含まれており、幾らヘルフリートと言えどそれを突っぱねてまで戦いを継続することはなかった。

 これにより彼の心の中には更なる淀みが生まれることになるのだが、それは今のエレオノーラの知るところではない。

「これで一段落、と言ったところですな」

 エレオノーラの傍に仕える貴族の一人が、安堵の息と共にそう言った。

「……うむ」

 それに対して静かに頷く。

「ですがこれで終わりではありませんぞ。ヘルフリート陛下はまた仕掛けてくるでしょうからな。それまでに戦力を整えるのか、それとも降伏するのかを考えなければ」

 そう釘を刺す、もう一人の貴族。

「そうだ! 南方に助けを求めるのは如何でしょうか? そうでなければ海の向こうにでも……」

「諸侯」

 ディッカーが少しばかり低い声で、話し合いを始めようとする彼等を諫める。

 前線で戦うことのない彼等はこれからが本領の発揮と言うことは確かなのだが、今はその必要もないだろうと。

「今日はここまでと致しましょう。どちらにせよここ数日は、動向を見守る必要もありますからな」

「ふむ……。ディッカー卿がそう仰られるのでしたら」

 一人がそう頷くと、他の者達も特に異論もないようだった。

「では今日のところはこれでお暇すると致しましょうか。いや実のところ新しくエトランゼのメイドを雇ったのですが、これが料理が上手で……」

「そうですか! 私の娘もエトランゼと交流があるようで、いや彼等は話を聞けばなかなか、深く学問に通じている者が多く……」

 すっかりイシュトナルの色に染まった彼等は、王族の前だというのにそんな世間話をしながら部屋から出ていった。

 それに機嫌を害したわけではないが、エレオノーラの表情は晴れなかった。

「ディッカー。お前も下がっていいぞ」

「……姫様」

 家臣の心配そうな声に、エレオノーラは必死で笑顔を作って答えた。

「大丈夫。妾は嬉しいのだ。あの貴族達が、少しずつではあるがエトランゼと溶け込んでいる。……それこそが、目指すべき形であろう?」

「そうですな。その道を進まれるがいいでしょう。このディッカーは、何処までもお供致します」

 そう言って、ディッカーも退出すべく扉へと向かって行く。

 扉を押し開いたディッカーが、少し離れたところを見て一瞬固まったのだが、エレオノーラがそれに気が付くことはなかった。

 彼が出ていき、部屋の中には再び静寂が訪れる。

 エレオノーラは一人で泣こうかとも思ったが、それをする前にタイミング悪く、扉をノックする音が聞こえてきた。

「どうした、ディッカーか? 忘れ物でも……」

「エレオノーラ様。遅れて申し訳ございません。只今帰還いたしました。身勝手の罰に付いては何なりと……」

 彼が跪こうとする。

 それをエレオノーラは許さなかった。

 椅子から飛び出して、その胸に飛び込んで顔を埋める。

 戦場から間をおかずここに来たのだろう。泥と、血の匂いが酷い。エレオノーラの白いドレスもあっという間に汚れてしまった。

 でも今は、そんなことは全く重要ではない。言わなければならないことがある。語ってもらう必要がある言葉が幾つもある。

「……ヨハン殿」

「……はい」

「そなたは全く、本当に……。大層な、馬鹿者だな。大馬鹿者だ」

「否定したいところですが、残念なことに事実のようです。作戦を失敗して、多くの被害を……」

「そこではない! 妾が言っているのは、その失敗の根底にあるものだ。己の身を顧みないその心が、多くの兵を危険に晒した。違うか?」

 返答はなかった。

 胸に顔を埋めたまま、涙声でエレオノーラは続ける。泣き顔を見られるのが嫌だと言うよりも、そうしているのが心地よかった。

「学べ、ヨハン殿。そして人の言葉を聞き、常に妾にとっての最善となるように選択しろ。そうでなければ、妾の第一の家臣としては力不足だ」

「どうやら、そのようですね。姫様の無茶な理想を叶えるには確かに、このままでは行けません」

「他にも言いたいことは沢山あるんだぞ。勝手に自分の部隊を作ったこともそうだし、ここに来てから妾のことを蔑ろにしている気もしてたし、それから……うぐ」

 背中に手を回されて、エレオノーラは言葉を失った。

 そうして少しの間至福の時間を過ごしてから、二人の身体は離れる。

 その時にした名残惜しそうな表情は、残念ながら目の前の男には気付いてもらえなかったようだが。

「お互いのことを、より知る必要があるでしょう」

「ああ! うむ、その通りだ! ……ヨハン殿に語りたいことは沢山あるのだ、意見が聞きたいことも山ほどな! ……そして、できれば、ヨハン殿の話も聞かせてほしい」

 目を伏せて懇願するエレオノーラに、ヨハンは優しく頷く。

 それでまたエレオノーラの中で気持ちが高まってしまい、どさくさに紛れて今ならばもう一度ぐらい抱きついても大丈夫なのではないだろうかなどと邪なことを考えていた矢先。

 ノックもせずに部屋に飛び込んできた誰かの所為で、その計画は泡と消えた。

「サアヤ?」

「ヨハンさん! お戻りになったんですね! よかったぁ」

 ほっと胸を撫で下ろすエトランゼの少女に、エレオノーラは何か言ってやろうとも思ったが、彼女の気持ちも痛いほど判っているので寛大に見護ることにした。

「あの、それで……、大変なんです!」

 だが、安堵の表情も束の間。

 すぐにサアヤは緊迫した表情で、ヨハンとエレオノーラを見る。

「えっと、あれがあれで……その、だからとにかく大変で……!」

「いいから落ち着け。まずは深呼吸でもしたらどうだ?」

「は、はい! すー、はー。すー、はー」

 胸に手を当ててそれを繰り返し、ようやくサアヤは落ち着きを取り戻したようだった。

 そしてサアヤはゆっくりと、その言葉を告げた。

「カナタちゃんが……。ダンジョン攻略中に魔物の襲撃を受けて、行方不明に……!」


 了

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