第十一節 名無しの彼の、旅の終わり

 名無しのエトランゼは、必死に走っていた。

 長い旅だった。仲間達と共に、沢山の人と関わりながらここまで歩いてきた。

 気の合う奴等だったと言えるだろう。困っている人を助けて、感謝の言葉を貰い、少しばかりの報酬と共に次の目的地へと向かう。

 彼等の行いは人々に希望を与えた。この世界にやって来て迷子のように生き続けなければならないエトランゼに、元の世界に帰還できるかも知れないという一縷の望みを抱かせた。

 いつしか、それは彼女の心の中にもあった。

『世界を愛するための冒険』から、『救いを求める人々に手を差し伸べる旅』へと。

 本当は、こんなところに来る必要などなかったのに。

 その先に危険があると判っていたのならば、退き返せばよかったのに。

 それでも進み続けた。人々の想いを背負って。

 ――彼女はエトランゼの『英雄』と呼ばれていたのだから。

 吹雪が晴れたその先に、白い世界が広がっている。

(どうして止めなかったのか)

 そんな疑問だけが、ずっと頭の中を回っている。

 彼が今背負うのは、名無しのエトランゼをこの旅に誘ったエトランゼの英雄。

 最初は少人数だった旅も、エトランゼを救いたいという想いに答えて道中で多くの仲間が合流した。

 喧嘩をすることもあった。意見が合わないと嘆くこともあった。

 それでもどうにか、ここまでやってこれた。

 その誰もが、もういない。

 御使いを名乗る者に、彼等の自慢のギフトは尽く役に立たなかった。

 これは何の皮肉だろうか。

 最も強い力を持ったエトランゼで、そしてこの中で恐らく唯一であろう。

 元の世界への帰還など本気で望んでいなかった一人だけが、生きて、意識を保って雪の中をただひたすらに走り続けていた。

 御使いを名乗る者に、そこで見た全てのものに背を向けて。

 ヨハンの背中には少女。傷ついた身体で力なく、ぐったりとした様子で、意識もなく背負われるままになっている。

 膝まで埋まるほどの雪を掻き分け、ヨハンは走っていた。いや、走っているというのが滑稽なほどにその速度は遅い。

 彼に最強の座を与えていたギフトはもうない。

 白い世界に現れた御使いは、この地に足を踏み入れた人間を嘲笑し、ギフトを振りかざそうとする愚か者たちを一蹴した。

 そして凄惨な殺戮の後に、興味深げにヨハンを見た。

 ぶつぶつと独り言を呟いた後に、ヨハンのギフトに、魂に蓋をするようにその力を封じ込めてしまった。

 それからヨハンは逃げた。傍にいた、まだ辛うじて息のあったイブキを背負って、無様に御使いに背を向けて走り続けた。

 後ろを振り返るのが怖い。あの力を持ってすれば、必死に走った程度の距離など瞬く間に詰めることもできるだろう。

 それでもまだヨハンが生きているのは、単なる遊び心か、それとも逃げる者は追わないという慈悲故か。

 理由は判らないが、安心はできない。もし相手が遊んでいるだけなのだとすれば、次の瞬間には殺されていてもおかしくはないのだ。

 次第に、疲れは身体の動きを鈍らせる。

 雪に足を取られ、ヨハンは無様にも目の前に広がる真っ白な雪原に頭から突っ込んだ。

 痛みよりも何よりも、背負っていた彼女の無事が気になり、飛び跳ねるように身体を起こす。

 よかった。彼女はすぐ傍に倒れていた。まだ息もしている。

 助け起こそうとして雪を掻き分けて歩いていると、他の誰かの気配を感じて、悪寒と共に振り返る。

 頭の中ではどうやって撃退するかを必死で考えても、ギフトのないヨハンには最早、抵抗することすらもできはしない。

吹雪の先、そこに人影があった。

 ゆらりと幽鬼のように佇むそれは、白いベールを纏い、吹き荒ぶ雪の中だというのに平然とそこに立っている。

 ――女だ。

 果たして先程の御使いか、それとも別の何かか。

 どちらにしてもこんな場所にいる者が、只物であるはずがない。

 視界を遮る雪の中に、女の顔が一瞬だけ見たような気がする。

 女は微笑を浮かべていた。だというのに、何故かその表情は物悲しげだった。少なくともヨハンは、そう思ってしまった。

 何も言わず、何かをするわけでもなく、女はヨハンに背を向ける。

 そして一歩、また一歩とそこから離れていった。

 その背に声を掛ける勇気などあるわけもなく、ヨハンはこれ以上何も起こらないことを祈りながら彼女の姿を見送る。

 女の姿が消える。

 深呼吸一つして、すぐに頭を切り替える。これで助かったわけではないのだと。

 すぐにイブキを再び背負おうと前を見ると、不意に先程まで吹雪いていた雪がやんでいた。

 一瞬の間に空には太陽が覗き、真っ白な雪原を反射して眩く光を放っている。

 その灯りに目を焼かれたのか、イブキが小さな呻き声を上げた。

 冷たさで痺れる手で、その身体を抱き起して軽く揺する。

 瞼が動いて、それからゆっくりと開かれていく。

 無事だったかと。

 心の底から安心する。失ったものは多いが、一番失ってはならないものを助けることはできた。

 ギフトのことも、御使いのことも今は置いておけ。それは後で考えればいい。

 今はこの、ヨハンがここまで旅を続けてきた『理由』の無事を喜ぼう。

 そう思った矢先のこと。

 彼女の発した言葉は、ヨハンに完全なる旅の終わりを告げるものだった。


 ▽


「……い………おい、起きろよ!」

 ぐらぐらと身体を揺り動かされる感覚に、ヨハンは半ば無理矢理夢の中の世界から引きずり戻された。

 木々の間から差し込む太陽の光を逆光に、一人の少年がヨハンのことを覗き込んでいる。

「……トウヤか。すまん、寝過ぎたか?」

「……いや。っていうか、顔色悪いぞ。大丈夫か?」

「あまり大丈夫ではないかも知れん」

 頭がぼんやりとして、全身が気怠さに包まれている。

 まるで風邪を引いたかのような倦怠感だが、事態はそんなに簡単ではなさそうだった。

「……毒のある植物にでも触ってしまったか。昨日は暗かったし、必死で走っていたからな」

 二人がいる場所は、ディオウルの西に広がっている森林地帯。その入り口は木々の伐採や野生動物、魔物に対する狩りなどで人の出入りも激しいが、それより奥になると人間の気配が殆どない未開地となっている。

 オルタリアの軍から逃れて身を隠すには適した場所ではあるが、それはある程度の人数で来れた場合での話だ。

 ここにいるのはヨハンとトウヤの二人。しかも食料などの物資も持っていない。その状況では敵軍の追撃を誤魔化してくれる動物や魔物の類ですらも脅威となる。

「……恐らくは、オルタリア軍も森に入っているだろうな」

 和平が成立するまでには数日の誤差がある。その間に何としてでもこちらに打撃を与えておきたいというのが向こうの意見だろう。

「一ヵ所に長居はしてられないってことだろ? お前、得意のポーションで治療とかできないのか?」

「……解毒薬の類は持って来ていない。それに傷を治す物も、負傷した兵士に分け与えて殆ど使い切ってしまったからな」

「じゃあこの場で作ることとかは? そう言うギフトなんだろ、今は」

「無理だな。それほど大がかりである必要はないが道具が必要だ。今ここにそれはない。……どうした?」

 顔を上げると、トウヤは何とも言えない表情でこちらを見下ろしている。

「……あんた、肝心な時に役に立たないよな」

「……よく言われるし、自覚はある」

 項垂れるヨハン。

 だが、だからと言っていつまでもじっとしているわけにもいかない。立ち上がろうとしたがすぐに足元がふらついて、近くの木に手をついた。

「……思いの外、深刻なようだ」

 それに加えて、二人とも完全に無傷と言うわけではない。癒しのポーションの類はだいたい使ってしまったので、ここからは敵と遭遇することが致命傷となりうる。

 オルタリア軍は当然として、例え統率が取れていない魔物であろうと、無傷で倒せるほどに二人とも強くはない。

 それに今は止んだ雨だが、ぬかるんだ地面は確実に二人の足跡を残している。一度それが見つかれば追跡部隊に追いつかれるのも時間の問題だ。

「行くぞ」

「もう少し休まなくて大丈夫かよ?」

 有無を言わせず、先頭を歩きだす。

 それも最初だけで、膝の辺りまで伸びて纏わりつく草木をふらつく身体で踏み越えているだけで、トウヤは悠々とそこに追いついて隣に並んでいた。

「で、方向は?」

「恐らくはあっちが南だ。見つからずに森を抜けるか、ここで数日を過ごして停戦命令が出れば俺達は助かる」

「最悪隠れてるのもありってことか」

「その場合は敵兵を避けれたとしても、餓死かもしくは魔物の餌になるだろうが」

「選択肢ないじゃないか」

 トウヤの突っ込みを受けて、二人は南方へと歩き始めたが、その道のりは困難を極めた。

 雨はイシュトナルの兵達が脱出するのに多大な貢献をしてくれたが、上がってしまえば湿気の上昇による蒸し暑さで森の不快指数を上昇させる。加えて雨上がりは虫が活発化して、あちこちを飛び回るため非常に鬱陶しい。

 鬱陶しいだけならまだいいが、蚊や蛭のような人の血を吸う生き物は毒性を持っている可能性が高い。ましてやこの世界の生き物は大凡で七割以上が未知の生物だ。

「ずっと疑問だったんだけどさ、この世界にも犬とか猫がいるって変だよな」

「……別に変でもないだろう。人間が俺達と同じように進化してきたというのなら、犬猫がそうであってもおかしな話ではない」

「それもそう……か?」

 魔物と言う生き物がいる時点で食物連鎖が変化し、本来とは違った生態系が築かれているので必ずしもヨハンの言葉は正しくはないが、そこに関しては今目の前にある結果が全てとしか言えなかった。

「魔物と動物って何が違うんだ?」

「知らん。魔物と呼ばれている奴は魔物だし、そうでないものは動物だ」

 最初は魔力を持ち、魔法のような物理的にはありえない力を使う動物を魔物と呼ぶものだと思っていたが、ただ異常に巨大なだけの獣も魔物と呼ばれていることもあり、その辺りの仮説は否定された。

 つまるところ、その二つにこの世界で大きな違いはない。もしエトランゼの生物学者でもいるのなら、この世界の住人と協力してちゃんとして線引きを作るべきだとは思うのだが……。

「魔物って何なんだろうな」

「……最初は、エイスナハルの教典に載っていた神に仇なす獣の子孫だと言われていたな」

 それはエイスナハルだけの話ではない。

 異国の地で伝わる、ヨハンが知っているどの宗教の教えの中にも、それらは登場した。

「神による光り輝く世界を良しとしない、堕神の末裔。そいつらは魔物達を操り、また時には人間の形をした悪魔を使役して神に……御使いに戦いを挑んだという」

「人間の姿の悪魔……。俺、一人覚えがあるけど」

「悪魔と言えば打算的なものだ。あそこまで本能のままに生きてもいないだろう」

「確かに」

 うんうんとトウヤが頷く。

「で、どうなったんだ、その堕神は?」

「見事に封印されて、この大地には平和が戻ったとされている。その中で悪魔が持ちいた武器がオブシディアンであり、エレクトラム。神を殺す二つの金属だ」

「へぇ……」

 トウヤの反応は薄いが、まぁ異国の教典を語られてもそんなものだろう。

「そこに記されていた獣の子孫が魔物と言われていたが……どうやら今はそんなことは関係なく、厄介な動物はだいたい魔物扱いのようだな」

 勿論魔物の中にはゴブリンなどを初めとした、人間のような生活を営む種もある。彼等も時には人に害をなすが、同時に特有の文化も持っている。

 それを本能のままに動く、魔力を持っただけ、または大きいだけの動物と一緒くたに魔物と呼んでしまうのは、些か乱暴にも思える。

 ちょうど二人の会話が途切れたところで、風とは違う、不自然な草木の揺れる音が聳え立つ木々の間から耳に届く。

 ヨハンとトウヤは同時に身を固め、素早く武器を手に掛けた。

「魔物の話してたからかな?」

「だったら次は益になるものの話をするぞ」

 犬の唸りのような声があちこちから響く。こちらを包囲して、それをじりじりと狭めているようだ。

 既にこの森にはディオウルから逃げおおせた兵が入り込んでいる。その中には負傷して、下手をすればもう助からない者もいただろう。

 その死肉を漁ろうとする何かがいたところで、何ら不思議はない。

 犬のような声は、こちらを威嚇するような唸りから、次第に互いに連絡を取りあっているかのような短い鳴き声へと変わっている。

 尚更厄介なことだった。単なる獣なら追い払えば済むだけの話だが、知能を持っている魔物が相手だと面倒なことになる。

「逃げるか?」

「逃げられる状況じゃないな。囲まれている」

 口には出さなかったが、ヨハンの体調も相当に悪い。平地ならともかく、森の中を走ればあっという間に足を取られて転んでしまうだろう。

 実際、ここまで歩いてくるだけでも息が上がるほどに体力を消耗していた。

 ヘヴィバレルの弾倉を開き、中に弾薬を放り込む。収納性を拡張したローブの中を探っても、残った弾薬はこれとあと一つのみ。

「敵の姿が見えたら遊撃を任せる。俺はこの場に留まって注意を引きながら、近付いてきた奴を仕留める」

「判った……。炎は使わない方がいいか? 下手したらオルタリアの兵士に気付かれるかも」

「できればそうしたいが……。数が数だ。それを使わないで抑えられるか?」

「……無理だな。俺はあいつらみたいに強くないから」

 自嘲するトウヤの背中を軽く叩く。

「どちらにせよ同じだ。俺が撃てば銃声でばれる。それに、あいつらよりは弱いかも知れないが、俺よりは強い、安心しろ」

「……全然慰めになってないよ」

 口ではそう言うが、気分は多少上向きになってくれたようだった。

「信頼してるぞ」

「……判ったよ」

 がさがさと茂みを掻き分け、歪な人影が幾つも包囲を狭める。

「コボルトか。トウヤ、連中とやりあったことはあるか?」

「そりゃあるけど……」

 人のような身体に犬の顔。ワーウルフと呼ばれる獣人よりも背が小さく背は丸まっている。

 群れを作って生活する魔物で、何処にでも生息していて、時折人里に降りてきた者達を討伐するのは冒険者の中でも初歩的な仕事の一つでもある。

 知能は決して低くはない、今のように連携を取ることもあるし、手先はそれなりに器用で武器も使う。

 決して手強い相手ではない……が、それは人間の領域での話。

 連中の縄張りで数を揃えられた場合、それなりに厄介な相手となる。ましてやこちらは手負いだ。

「音でこっちに引きつける。側面から仕掛けろ」

「大丈夫なのかよ?」

「……ああ」

 ダン、とヘヴィバレルの砲身から弾丸が発射される。

 装填されていた散弾はそれを阻む木を砕き、ヨハンの正面にいたコボルト数匹に突き刺さる。

 その悲鳴が、戦いの合図となった。

 トウヤはその場から駆けだし、慌てふためくコボルトを、数の少ない集団から攻撃していく。

 連中は二、三匹で一つのグループを作ってこちらを包囲している。纏めて戦えば厄介だが、ばらばらならそれほど大した相手ではない。

「くっ……。動け……!」

 思わず自分の身体を叱咤する。

 毒に蝕まれた身体は力が入らず、疲れもあってかヘヴィバレルの銃身を向けることすらも困難とだった。

 膝で蹴り上げるようにして無理矢理正面に向けると、引き金を引いた。

 散弾は一度に二、三匹を纏めて薙ぎ払う。敵が近ければ近いほど効果もあるが、それは相手の攻撃が掠める危険性も上昇する。

 ヨハンの放つ音を脅威と感じて、真っ先に排除すべくコボルト達が集まってくる。

 彼等にとっては今は危険よりも、目の前に転がってきたご馳走に目がくらんでいる。既にこの森に迷い込んだイシュトナル兵とも戦っているのだろう。

 餌として味を覚え、またある者達は逆に屠られる。人間に対して強い敵対心を抱いているのだ、その唸り声から伝わってくる。

「餌になってやるわけにはな……!」

 散弾が一度に数匹を薙ぎ払う。

 ヨハンに注意を引かれた数匹のまとまりを、トウヤが側面から奇襲する。そしてトウヤに目を向ければ炎が一気にコボルト達を焦がし尽くした。

 見た目も派手な戦いに、コボルトはたまらず咆哮を上げる。それは撤退の合図ではなく、更なる増援を呼ぶためのもの。

「派手にやり過ぎたか?」

「仕方ないだろ! それしかできないんだから!」

 がしゃりと、空になった弾倉が排出される。

 最後の一つは散弾ではない。一発一発を慎重に当てていく必要がある。

 リロードし、砲身を無理に構えて発射。

 毒によって霞み始めた目だが、どうにか最初の一発はコボルトに命中し、その頭を吹き飛ばした。

「もっと近づけ……! 射撃は下手なんだ」

「なんでそんな武器使ってんだよ!」

「他に取り柄もなかったからだ……!」

 言いながら、トウヤは炎で三匹を纏めて焼き払う。

 森に火が付かないのは先日の雨で湿っていたからで、そうでなければとっくに火事が起こっていただろう。

「数が多い!」

 そう言いながらも、二人の奮戦は確実に敵の数を減らしていた。

 多少知能があるとはいえ獣。相手が強いと判断すれば無理にこちらに襲い掛かることはしないだろう。少なくとも、他の群れとの合流を待つはずだ。

「後少し……!」

 よく狙いを付ける。こちらに向かって短剣を持って走ってくる二匹を、順に打ち倒す。

「ヨハン! 馬鹿、後ろの奴を狙わないと……!」

 トウヤが叫び、ヨハンは咄嗟に反応する。

 彼の言葉通り、今しがた倒した二匹の後ろで矢を構える姿があった。

 最後に残った弾丸を放ち、その右胸を吹き飛ばす。コボルトは絶命したが、奴は死ぬ間際に最後の一矢を放っていた。

 既に戦いを経て、ヨハンのローブの防御性能はそれほどではない。

 そこを、コボルトの膂力で放たれたその一矢は貫いて、ヨハンの脇腹に突き刺さった。

 痛みに呻き声を上げながら崩れ落ちるヨハン。

「トウヤ、こいつを……!」

 懐から放り投げたのは、いつもの炸裂する魔法薬だ。

 トウヤはそれを受け取って、半ば本能的に炎で点火した上でコボルトの集まっている場所に放り投げる。

 強烈な炎に炙られたその粉末は、木々の間で容赦のない爆裂を幾つも巻き起こす。

 それによってコボルト達は十匹以上が纏めて吹き飛んで、ここに集まった群れは壊滅状態に陥る。

 生き残った一匹が遠吠えを放つと、それが戦いの終わりの合図となった。

 獲物にするには厄介すぎると、そう判断したのか、コボルト達は一斉に背を向けて引き返していった。


 ▽


「こいつを」

 そう言って、埃臭い部屋の中で老人が差し出したのは、一冊の分厚い本だった。

 枯れ木のように痩せ細った手にそれをいつまでも握らせておくのも忍びなく、青年はすぐに受け取る。

 そしてそれをぱらぱらと捲ろうとして、

「やめとけ。……いや、お前さんにはもう関係ないかも知れんが、下手をすりゃ人間に戻れなくなるかも知れんぞ」

 その老人の、大魔導師と呼ばれたヨハンの言葉に止められた。

「んな不満そうな顔すんなよ。……餞別だ、持って行け」

 明日は旅立ちの日。エトランゼ達と共に、長い旅をする。

 最後の別れにと、老人の家を尋ねたときにそれを渡された。

「アーデルハイトはオル・フェーズの魔法学院に通わせることにした。なんでか急にな、魔法を学びたくなったんだと。俺が死んだ後のあいつのことは全部やっとくから、そこは安心しとけ」

「……命に、悔いはないのですか?」

 どうしてその質問をしたのか、青年は自分でも判らない。

 ただ、目の前の老人は彼の知っている限りでは自分以上に活力に満ちていたし、何よりも……。

「長年自分で培ってきた力を、そんなことで手放すのは惜しくないのですか?」

 青年が突然持っていた力ではない。

 目の前の老人は、それこそ血の滲むような努力と長い年月の末に、大魔導師と呼ばれるほどの人物へと至ったのだ。

 そして、魔法はあらゆる事象を操る万能の力。

 だとすれば、

「寿命を延ばすことも……。不死の身体を手に入れることでさえ」

 青年は知っていた。

 魔導を学ばぬ、例え少しばかり齧ったとしても決して知りえぬことを。

 ギフトによって魔導の全てを理解していた青年はそれができることも知っている。

「つまらんよ、それじゃあ」

 老人はそう言って捨てた。

 乾いた唇にはいつもの不敵な笑みを浮かべながら。

「そんなもんに価値は見出さねえ。少なくとも俺はな。必要ならそれをやるのも悪くはねえかも知れんが……。まぁ、要らんだろ」

「……アデルのことは?」

「お前がいる。……それにな、お前にだけ教えてやるが、俺は大魔導師じゃない」

 老人の言葉は意外なものだった。

 当の本人は、悪戯がばれた子供のように笑っている。本当に小さな、ここだけの秘密を語るように。

 ギフトを持つ青年には及ばないものの、この老人の持つ力は人間のそれを遥かに超えている。

 並のギフトを持ったエトランゼでは太刀打ちできないだろう。

「理由はもう忘れたが、がむしゃらに魔導を極めようとした時期があった。んで、詳しくは省くがその魔導書に辿り付いた。……その魔導書を持ってた女が言うんだよ、そいつを全て読めば大魔導師となれる。悠久に連なり、無限の力を手に入れられるってな。だが」

 老人の顔は穏やかで、当時を懐かしむようでもあった。

「全てを読み、身体に行き渡らせ血肉とする。その方法は判ってるが、それを終わらせたとき、俺は人間じゃなくなる」

 無数の魔法を使いこなし、不死の肉体を持つ、果たしてそれが人間と呼べるのだろうか。

 それは、青年自身にも投げかけられた問いだ。

「結局怖くてできなかった。笑っちまうだろ? もうすぐ死ぬのは怖くねえが、人間じゃなくなるのは怖いんだとよ」

「……いえ」

「そっか。そうだよなぁ。お前さんは生まれながらこの魔導書に触れてるようなもんだもんな」

 他者とは明らかに一線を画したギフト。果たしてそれを持つ青年は、自分を人間と呼べるのだろうか。

「まぁ、持ってけよ。餞別だ。悪用されないように保管しといてくれってのもあるが」

「ですが、俺には……」

 必要ないと口にするのは憚られた。それはこの老人の、恩人である彼の人生を否定するような気がしてしまったから。

「選択肢は必要だろ? いつかお前がただの人間に戻る日が来るかも知れない。その時に、力が必要になったとしたら、そいつを紐解け」

 そんな日が本当に来るのかどうか、今の二人には全く想像もつかない。

 だからその時の言葉は老人が適当なことを言ったに過ぎなかった。

「……判りました」

 心の中ではそんな日は来ないだろうと思い、それでも恩人の好意を無下にはできず、預かるという形でその魔導書を受け取った。

「全部読まんでも、そこには珍しい魔法道具の作り方とかも載ってる。それもお前さんは自分の法則で生み出しちまうんだろうが……参考にはなるだろ」

 偶発的な場合を除いて、知らないものを作ることはできない。知識として持っていても邪魔にはならないだろう。

「お世話になりました」

 頭を下げる。

 老人は、その枯れ木のようになった身体をベッドに横たえたまま、蔵書と埃の中で手を上げる。

 それが二人の最期の言葉となった。

 青年は背を向け、部屋を後にする。

 そうして彼の姿が消えて、足音が遠ざかってから、老人はそれまで我慢していたものを解放するように深く咳き込んだ。

 口から血が飛び散り、ベッドを赤く濡らす。最早それを拭き取る力もない。

 最後の魔法の影響は、思いの外身体に強く出ていたようだ。

「……すまんな。少しばかり気になって、未来を見ちまった」

 その生涯の中でも数回しか使わなかった魔法。それを持ちいて老人は彼の未来を少しばかり覗いた。

 彼は仲間と力を失う。

 その代わりに、心を手に入れる。

 人としてこの大地に生きることができるようになるが、その本当の意味に気が付くかどうかまでは老人には視えなかった。

 ただ願わくば、彼がそう決断しその時に。

 今しがた与えた一冊の形見がその力にならんことを。

 信じてもいない神に、いや。

 この魔導書を与えてくれた『誰か』に祈るのだった。

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