第十七節 彼と彼女のこれから
アーデルハイトが目覚めると、そこは見覚えのない広い部屋だった。
いつもの学生寮ではなく、石造りの広い部屋。
完全に眠る前に感じたあの熱を思い返して、小さく頬が緩んだ。
「……ヨハン、カナタ」
ベッドから起き上がり、そのまま床に立つ。
何時間ぶりかに立ち上がったことで身体が付いていかずふらつくが、どうにか力を込めて倒れることは阻止した。
「アーデルハイト」
ノックの音と、低い声が聞こえるが、それは彼女が望んでいたものではない。
「はい。……エーリヒおじ様」
扉が開いて現れたのは、髭を生やした、祖父の旧知にしてアーデルハイトの後見人を務める五大貴族の筆頭。
大柄なその身体に、豪快な笑顔を浮かべたエーリヒは、体格に相応しい大きな声で喋りはじめた。
「おお! もう立って大丈夫か? 心配したぞぉ、ヨハン爺様から預かった大事な忘れ形見だからな」
大股で近付いて来て、大きな手がぽんと頭の上に乗せられる。
「あのエトランゼの英雄に乗せられたか、随分と無茶をしたようだな。俺も若くない。あんまり冷や冷やさせんでくれ」
「あの、おじ様」
上機嫌なエーリヒを見上げる。
アーデルハイトが聞きたいことはもう判っているのだろう。先程までと一転して、エーリヒは難しい表情を作る。
「エレオノーラ姫達ならもう行ったぞ。小さな英雄の護衛と監視の件、ご苦労だったな」
「そう、ですか」
震える声を誤魔化すことはできなかった。
やっぱりまた置いていかれてしまったのだと、その事実が胸を打つ。
「……どうした? いい友達になれたのか、英雄とは?」
「はい。……それから、家族とももう一度会えました」
「うん。それはよかったじゃないか。はははっ。俺もそろそろ自分の領地に戻って、嫁と子供の顔が見たくなってきた頃だ!」
ぐしゃぐしゃとアーデルハイトの頭を撫でつけるエーリヒ。
頭が揺らされ、目に溜まっていた雫が堪えられず、頬を伝う。
それには特に何も言わず、エーリヒは手を放して窓の外辺りを見る。
今頃エレオノーラ達はオル・フェーズを出ているだろう。
次に会う時は、恐らく敵同士になる。
それは王立である魔法学院に所属するアーデルハイトにとっても同じことだ。
「アーデルハイト。お前、ヨハン爺様に我が儘を言ったことはあるか?」
「……それはまぁ、何度か」
「そうか。だがな、俺は爺様と飲んだときに愚痴られたことがある。孫が我が儘の一つも言ってくれないとな」
「認識の違いです。わたしは祖父にはよくしてもらっていました」
「ふははっ。そう突っぱねるな。……代わりと言うわけではないが、望みの一つでも言ってみたらどうだ? 俺ができることであれば叶えてやるぞ?」
エーリヒの真意が判らず、その顔を覗き込むが、いつも通りの豪快な笑顔を見せるだけで、アーデルハイトには何も読み取ることはできない。
開け放たれた窓から流れてきた風が、髪を揺らす。
それに乗じて、覚えのある匂いがアーデルハイトに届けられた。
魔法に使う薬草や薬品と、それからいつも締め切った部屋にいるから染みついてしまった少しだけ埃っぽい匂い。
アーデルハイトはそれが嫌いではない。魔法学院にいたころは何度も嗅いだその香りは、記憶の中にある彼のものとは少し違ったが。
「……彼等と一緒に行きたいと言ったら、おじ様はどうしますか?」
「駄目だ。駄目に決まっている。奴等は敵だぞ。お前は、爺様の孫を俺に討てと言うのか?」
「……でしょうね」
諦めたような声で、アーデルハイトは呟いた。
ならばそれ以外の望みなどは要らない。
さっさと寮に戻って寝てしまおうと、エーリヒの横をすり抜けていこうとする。
「そうだろう? ヨハン君」
その名前に、足が止まる。
いつも通りのむっつりとした顔で、彼は廊下から顔を出した。
「ええ。ですが、エーリヒ卿もお忙しいのではないのですか?」
「そうなんだよ。困ったことに、何処かの誰かが、魔法学院の研究棟にあった王宮と学院の癒着、そしてその指示の元に行われた非人道的な実験の数々を洗いざらいぶちまけたらしくてなぁ」
口調はわざとらしく、しかしその目は鋭くヨハンを睨む。
「優秀な犬を飼っているな」
バンと、強く肩を叩かれ、ヨハンは小さくよろける。
「それからエトランゼ街の方ではあの超銀河なんとか団が魔法学院の不正を暴き、それによるヘルフリート陛下への糾弾活動まで始めやがった」
果たして本当に困っているのかいないのか、それが本当ならばエーリヒはこんなところで油を売っていていい立場ではない。
「おかげでアーデルハイトに護衛を付けることもできない有り様だ。ひょっとしたら不埒者に攫われてしまうかも知れんな。何せ魔法学院が誇る天才児だ。捕虜にするには充分な価値がある」
「かも知れませんね」
「さて、それでは俺は多忙だから行くぞ。……後は若い二人に任せた!」
ヨハンと入れ替わるように、エーリヒは部屋を出ていこうとする。
ちょうど二人の肩が触れるか触れないかのところで、ヨハンは小声でエーリヒに尋ねた。
「エーリヒ卿。魔法学院の不正の件で、他に何か判ったことはありませんか?」
「他に? 例えばどんな話だ?」
「何処からか技術提供を受けていたとか」
「知らぬな。いや、知っていても敵であるお前には教えんよ」
愉快そうに再度笑い、エーリヒは今度こそ部屋を出ていく。
足音が遠ざかり、やがて窓の外から聞こえてくる風の音だけがその場に残った。
「なんであんな面倒な演技をする必要があるんだか」
屋敷を出ていこうとしたところを、ヨハンはエーリヒに掴まり、アーデルハイトを連れていってくれと提案された。
彼の真意は判らないが、ブルーノ教授の実験材料にされそうになったことを考えれば、確かに魔法学院に置いておくのは危険と考えても不思議ではない。
だから、アーデルハイトの意思次第ではヨハンは受け入れるつもりだった。
そして何故か、エーリヒの主導の元に妙な小芝居を打つ羽目になった。
「捕虜、ね」
「ああ。捕虜だ。あんな魔法を使う奴を敵に回したくはないからな」
「嫉妬? 自分はもう使えなくなったからって」
「二日で二度も捕まるようなポンコツは放っては置けん。それこそ、先代に申し訳が立たん」
お互いに軽口を叩きあう。
それはあまりにも久しぶりで、アーデルハイトが望んでいたことで、勝手に持ちあがる唇を抑えられそうにない。
「行くか、アデル」
「ええ」
そうして再会を果たした二人は、共にイシュトナルへと帰還するのだった。
▽
「お話しはおすみですかな?」
廊下を歩くエーリヒの元に、横合いから声が掛かる。
「お前、そこは空き部屋だぞ。何をしていた?」
ここは普段は使っていない別荘なのだから、大半が空き部屋ではあるのだが。
「暇なのでスイーツをいただきつつ、これからの展開に頭を巡らせておりました。手前があの場にいるわけにもいかないでしょうから」
「だろうな。お前は怪しすぎる」
「はっはっは」と豪快に笑うが、当のルー・シンはあまり面白くはなさそうだった。
エーリヒに合流し、ルー・シンはその歩みに合わせて横に並ぶ。
「今頃王宮は大混乱でしょうな。魔法学院には自分の子供を通わせている貴族もいますから、彼等の不満は間違いなくヘルフリートに向けられるでしょう」
「ああ。ルー・シン。ヘルフリート陛下はこの件をどう処理すると思う?」
「簡単なことです」
ルー・シンが立ち止る。
少し前に行き過ぎたエーリヒは立ち止まり、振り返って彼の方を見た。
その顔には酷薄な笑みが浮かんでいる。
「殺戮でしょう。異を唱える者全てを消せば、自分の意思だけで全てが決定されるのですから」
「それは正しいやり方か?」
「いいえ、全く。ですが無知なる王には相応しいかと。
ヘルフリートもしばらくは真面目に事を治めようとするでしょう。しかし、それができないと判るや彼は剣を取って事を鎮める。不思議なことは何もありません。王とはそれができる立場なのですから」
「その後にどうなる?」
楽しげに語るルー・シンの言葉を聞いても、エーリヒは冷静だった。彼の望みは、本当に聞きたいことはその先にある。
「一度感情が爆発すればそれは抑えられません。勢いのままに、イシュトナルを責めるでしょうな」
「勝敗はどう見る?」
「残念ながら手前は預言者ではないので、そこまでは。
戦力ではこちらが圧倒的。しかし、向こうには予測不可能なエトランゼと何よりも……。今回の件で姫と英雄は民衆を味方に付けました。それがどう転ぶか、今はまだ判りません」
敢えて言うならば、これから先どれだけヘルフリートが愚行を犯すかどうかにかかっているのだが、そればかりはルー・シンにも予想ができない。
そこで言葉を切ってから、「ただし」と怜悧なエトランゼは続ける。
「我々も準備はしておいた方がいいでしょうな」
「それは何の準備だ?」
「戦ですよ。イシュトナルとの」
わざわざそれを尋ねたエーリヒの真意を気付かない振りをして、そう言ってのけた。
「なるほど。では今日は適当にヘルフリート陛下の機嫌を取って、さっさと引き返すとしよう。俺も愛する妻と子供に会いたいしな!」
「手前はもうしばらくこの地の甘味を堪能したかったのですが」
「それは諦めろ。……それからもう一つ」
再び二人は歩き出し、その道中にエーリヒは先程の会話で気になったことを尋ねる。
「ヨハン君に聞かれたのだが、魔法学院に技術提供をしている者がいると思うか?」
教えぬとは答えたが、その事実はエーリヒも知ることはない。
当然それはルー・シンも同様のはずなのだが、帰ってきた答えは意外なものだった。
「いるでしょうな、何者かが」
「……ほう?」
「キメラについての報告を聞きましたが、あんなものが既存の技術で作れるわけがない。ましてや第二世代エトランゼのギフトの発現方法など」
「では誰がその裏にいる? ヘルフリート陛下でなければ他の五大貴族か? それとも他国の……」
「そこまではまだ」
ルー・シンは漠然と考えていた。
無論、これは単なる勘であって、そこに至る筋道の立った理屈があるわけではない。
しかし、なんとなく、エトランゼである彼には感じられた。
それを突きとめたその時が、この世界の真理のその一端が明かされるであろうと。
第二章 魔法使いの追憶 了
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