第十六節 小さな英雄
シノによって破壊された魔法学院を囲う壁を乗り越えて外に出ると、そこは酷い惨状だった。
あの大型のキメラは本能的に人を襲い、その命を喰らおうとしているのだろうか。剛腕を振るい、建物を壁を破壊して、その中にいる人を無差別に口の中に放り込む。
身体中から生えた口は常に咀嚼を繰り返し、その度に悲鳴が聞こえ、消えていく。
夜中だというのに光る非常灯の灯りの中で繰り広げられる光景はまさに悪夢だった。
ヨハンに背を向けていたその怪物は一度多く震えると、身体に生えた獣や虫を切り離す。
それが地面に落ちれば、別の生き物と化してヨハンに向けて襲い掛かってきた。
「……どんな怪物を生み出したんだ」
ショートバレルに込められた散弾を断続的に発射する。
致命傷ではないが、それは生み出されたキメラの動きを鈍らせる。
そこに上空から降り注いだアーデルハイトの魔法が、次々ととどめを刺していった。
その一瞬の隙を突いて、ヨハンは駆けだす。
見上げるほどに巨大に膨れ上がったキメラ、シノは建物の窓ガラスを破壊して、そこに腕を突っ込んで人を掴んでいる。
撃ち切った散弾の弾倉を取り出して、次の弾丸を装填。
反動を抑えるために両手で武器を構えるが、それでもヨハンの両腕は一瞬、弾かれたように持ちあがった。
銃口から発射された弾丸、固い魔物の身体すらも貫き内部で炸裂し破壊する、徹甲榴弾が真っ直ぐにシノへと向かって飛んでいく。
徹甲榴弾は肩から生える腕の二の腕辺りに着弾すると、それを内側から爆発によって吹き飛ばす。
腕が千切れ、掴まれていた人は建物の奥へと無造作に吹き飛ばされた。
無事かどうかは祈るしかない。
そんなことをしている間に、建物からは多くの人々が、我先に逃げ出そうと、駆けだしてくる。
それは、最悪のタイミングだった。
シノからすれば、餌が大量にやって来てくれたようなものだ。
無差別に駆け回り、腕を振るい、衝撃波を放つだけで次々と命が消えてそれがキメラの身体に吸い込まれていく。
「……化け物!」
ヨハンはできるだけ自分に注目を集めるようにと声を張り上げ、重力弾を装填する。
その状況に覚えがあったからだろうか。
シノは食事を中断して、黒い甲殻に包まれた表情のない貌をこちらに向けた。
獣の下半身がこちらに向けて跳躍する。
上半身の、残った方の腕はその辺りの適当な建物の瓦礫を掴み取って、それをヨハンへと放り投げた。
空中で散ったそれは、拡散してヨハンへと飛来する。
重力弾を放ち、それがシノに直撃するのと、無数の石の弾丸がヨハンの身体を傷つけるのはほぼ同時だった。
片方は重力を受けて沈み込み、ヨハンは全身を打たれて地面を転がる。
尖った瓦礫は身体に穴を穿ち、そこから広がった出血が身体を伝って足元へと垂れていく。
「く、そ……。洒落にならんぞ」
シノが全力で、口を広げて咆哮する。
その音の衝撃波は周囲の建物を纏めて吹き飛ばし、そこにいた人々を一瞬にして単なる肉片へと変えた。
ヨハンの目前に迫る衝撃波を、空から落ちてきた魔力の塊が弾けて相殺する。
重力を受けながらなおも瓦礫を掴み、ヨハンに対して攻撃を続けようとするシノの周囲を、箒に乗ったままのアーデルハイトが旋回して攪乱する。
すれ違い様の雷撃。
仰向けに倒れながら、ヨハンは取り出した弾丸を装填する。
二発目の重力弾が直撃し、更にシノの動きを止めた。
その間にアーデルハイトは容赦なく魔力を打ち込む。
炎、雷、彼女が得意とする破壊を目的とした攻撃魔法が次々とシノの身体に直撃し、その光が辺りを眩く照らす。
それでも、シノは動きを止めない。
相当な痛手を負っているにも関わらず、いや、だからこそ手当たり次第に人を殺してその命を吸い取っていく。
ぼろぼろになったキメラの身体を排除し、それらはまた命を持って動きだす。
双頭の犬、尾が蛇となった獅子。魔物の肉体を持たされた人間。
ありとあらゆる異形が、シノの中に溜め込まれた命を与えられ、また彼の手足として動き始めた。
死者の生命力をエネルギーとして変換し、それを肉体へと注ぎ込む。それが彼の持つギフト。
シノの攻撃を上手く回避しながら旋回し、ありったけの魔法を叩き込むアーデルハイトだが、破壊された肉体は即座に分離し、新たな命となる。そしてそれを倒せばその命はシノに還っていくだけだ。
「疑似的な永久機関か……。エトランゼのギフトを使ったとしてもそれだけの技術が魔法学院にあるのか……?」
頭の中に浮かんだ疑問を、すぐに捨て去る。
今はそんなことを考察している場合ではない。考えるべきは、どうやってあれを倒すかだけでいい。
だが、相手もヨハンにそんな時間をくれるほど甘くはない。
既に周囲には、シノから分離したキメラ達が集まり、ヨハンを血祭りに上げるべく少しずつ距離を詰めている。
「……万事休すか……!」
先頭の一匹が飛びかかる。
アーデルハイトはシノの攻撃を引き寄せることに手一杯で、こちらにまで手が回る状況ではない。
双頭の獣が地面を駆けて、ヨハンの喉首を狙い、その牙を闇夜に閃かせる。
「間一髪! 格好良く助けに来たでござるよ!」
それがヨハンへと突き立てられることはなかった。
筋骨隆々の、オーガの上半身を持ったアツキが、両腕で大きく開かれたその口を受け止める。
もう片方の首がアツキへと噛み付く前に、その獣の頭上から光の剣が脳天を貫くように突き立てられる。
「ヨハンさん、大丈夫?」
「ああ、無事だ。……あいつを倒すために力を貸してもらえるか?」
ヨハンの質問に、カナタは一瞬だけ表情を強張らせる。
「大丈夫。ボクは何をすればいいの?」
元より選択肢が多いわけではない。
永久機関と呼んだものの、決して本来の意味でのそれには遠く及ぶものではない。
単純に、異常にエネルギー効率がいいだけの話だ。
ならばそれを超える速度で破壊すればいい。
空を見上げれば、アーデルハイトがこちらを見下ろしている。
「大火力で一気に殲滅する。アーデルハイトが上空から魔法を放つから、それまで時間を稼いで、それから全力で付近から離脱すればいい」
カナタは頷いて、シノの方へと顔を向けた。
「シノ君」
そう呟く声は、最後の懺悔だったのだろうか。
何かを振り払うように頭を振ると、カナタは極光の剣を握って、シノに向けて一直線に駆けていく。
「で、小生は何をすればいいでござるか?」
「カナタの援護と……」
周囲には、シノから分離したキメラが、二人の獲物を仕留めるべく集まってきていた。
「こいつらの掃討でござるな! これは骨が折れそうでござる!」
「そうだな。……ここは任せた」
「えぇ!?」
ヨハンが懐から取り出して放り投げた球体は地面を転がり、数拍の間を置いて炸裂し、不可視の一撃を辺りに撒き散らす。
竜の咆哮。
滅多なことでは人の前に姿を現さず、魔物達の頂点とまで言われるドラゴンの声は、例え子供のものであってもあらゆる生き物を恐怖させる。
アツキも目を白黒させているが、立ち直るのは彼の方が早いだろう。竜の咆哮は人間よりも魔物への影響の方が大きい。ましてや子供のものならば、人への影響は大きな音がする程度のものしかない。
繋ぎ合わされたとはいえ魔物の集合体であるキメラにも相当な効果をもたらす。
魂を打ち砕くほどの声を不意打ちで聞かせられたキメラ達は、軽いパニック状態に陥って、その動きを鈍らせた。
駆けだしながら、こちらの様子を伺うアーデルハイトを見やる。
視線で合図を送ると、言葉を交わさずとも彼女は頷いて、上空へと急上昇する。
『我が手に紡がれよ光よ。
我が言葉により具現せよ、掃滅の輝き』
歌うような声が空から降り注ぐ。
彼女の唇から紡がれるのは、魔法詠唱。
意識を集中し、肉体を静め、魂を世界と同調させる。
それほどまでの準備を必要とする、大魔法の先触れ。
何が起こるか判らなくとも、只事ではないと察したのか、シノは咆哮を上げて空を睨む。
そして空中を飛び回るアーデルハイトを迎撃すべく、瓦礫を巨大な手で一掴み握り込んだ。
それが発射される前に、ヨハンの放った鉄鋼榴弾がその腕を撃ち抜いて破壊する。
そこにカナタが飛びかかり、シノの下半身となっている獅子の顔へと極光の刃が斬りつけた。
『大気よ震え、
世界よ震え、
その怒りを形となって示せ』
空に幾つもの魔方陣が浮かぶ。
それらが生み出すエネルギーによる光。魔力光と呼ばれる光の圧倒的な輝きが、夜であるにも関わらず地上を照らしていく。
『流れる力よここに集え、
溢れる力よわたしの言葉に従え、
汝らが向かう先はただ一つ』
それは世界で最も美しい、破壊の歌。
彼女によって紡がれるそれは、彼女の成果。求め、学び、研鑽し続けた彼女の数年間。
シノは野太い片腕で、間近にいるカナタを握り潰そうとそれを振り下ろす。
しかし、カナタに迷いはない。
避けることもせずに、再び獅子の顔面を斬りつける。
痛みに悶える獅子の顔を踏みつけて、シノから生える無数の顔や鉤爪の付いた細腕を、容赦なく斬り飛ばしていく。
最後の徹甲榴弾を装填。
両手で構え、狙いを付けて放つ。
目論見通り、それはシノの残った片腕に直撃して、それを内部から破壊して吹き飛ばす。
攻撃用の両腕がなくなったシノは叫び、咆哮によって生まれた衝撃波がカナタとヨハンへと襲い掛かる。
それを予想していたのか、カナタはすぐさまセレスティアルの壁を展開して、後ろに立つヨハンまでも護りきって見せた。
――今までのカナタとは違う。
動きに迷いがない。まるで何か、他の力によって突き動かされているかのように、縦横無尽にその力を、ギフトを振るってシノを攻撃する。
『天を見上げるものよ、
愚かにも天に手を伸ばすものよ、
わたしが操るはそれを打ち砕く裁き、不遜なる者達を断罪する光の刃』
空に浮かび上がる魔方陣から浮かび上がった無数の雷が弾け、アーデルハイトの言葉に従って一つに収束していく。
それらは全て彼女の元に。
彼女が操る力へと変換されていく。
それを止めるために、シノは上を向いて咆哮を放とうと息を吸い込む。
「カナタ!」
エリクシルをカナタへと投げ渡す。
未完成品とはいえ、それは万能の霊薬。
最早ヨハンのギフトを取り戻すほどの力はないにしても、その赤色の石はカナタの手の中に収まると、溶けるように消えていく。
「……やらせない!」
エリクシルの力を体力へと変換し吸収したカナタは、その両手に光の刃を握る。
美しく輝く極光の剣は、シノの甲殻に護られた本体に、十字の傷を刻んだ。
その痛みに耐えきれず、シノが泣き声にも似た悲鳴を上げる。
その哀しい、悲痛な叫びはまるで母を求める嘆きの声にも聞こえた。
そしてそれを打ち消すように、美しくも残酷な審判が、天空より下されようとしていた。
『舞い降りよ、
蹂躙せよ、
力あるもの、力なきもの、全てに等しく、滅びを与えん』
時間稼ぎは充分。
アーデルハイトは短槍を取り出して、それを天に掲げる。
『――圧縮』
その一言で、膨大な魔力がその槍へと集っていく。
『天の声による粛清を、
掃滅の光による静寂を、
ディヴァイン・パージ!』
彼女が投げた光の槍が、一筋の光となって空からシノを撃ち抜く。
慌てて飛び退いたカナタはヨハンを庇うようにセレスティアルの壁を生み出す。
その威力の余りの大きさに、シノだけを狙って力を一点に圧縮したにも関わらず、溢れ出る余波が周囲に襲い掛かった。
カナタは両手を前に突きだしてヨハンと自信を護る。
目の前全てが真っ白になるほどの巨大な閃光が広がり、まるで夜明けのように世界を染め上げていく。
その雷はありとあらゆる生命を蹂躙し、灰と化し、破壊の光の中へと葬り去っていく。
キメラ達の悲鳴が聞こえて、数秒もせずに次々と消えていく。
徐々に光が収まっていくその最中にヨハンは見た。
箒に乗っていたアーデルハイトの身体がぐらりと揺れるのを。
全ての魔力を使い果たし、霊薬の副作用が身体に出たのだ。
「ヨハンさん!」
カナタがそう呼ぶのにも関わらず、彼女の後ろを抜け出して、ヨハンは走る。
未だ地上を蹂躙する雷は、外に出た瞬間にヨハンに対して容赦なく襲い掛かり、その全身を焼き尽くそうと絡み付いてくる。
「ぐっ……」
歯を食いしばり、それを耐える。
無数の術式が編み込まれ、様々な防御強化が施されたローブが焼け焦げる。
だが、知ったことではない。
彼女はヨハンを信じた。そして全てを託した。――自分の命ですらも。
ならばそれに答えるまでの話だ。
箒から投げ出されたアーデルハイトが、落下態勢に入る。
ローブを貫通した雷がヨハンの身体を焼く。アーデルハイトが気絶したことで魔法自体は消えかかり、威力が収まりかけているが救いだった。
白んだ視界の中で瓦礫を乗り越え、落下予測地点へ。
気絶しているのだから当然だが、空中で全く視線を変えることなく彼女は落ちてくる。
それはまるで、ヨハンならば絶対に受け止めてくれると、そう信じてもらえていると感じるのは、自惚れだろうか。
もっとも、例えそれの答えがどうであろうと、死力を尽くす以外の選択肢などは存在しないのだが。
両腕を伸ばす。
寸分違わず、彼女はそこに降りてきた。
身体を打つ衝撃は思いのほか小さく、その身体は羽毛のように軽い。
だが、それでもヨハンも体力の限界が来ていたのだろう。
足がふらつき、瓦礫の上から転がるように落ちていく。
それでも姿勢を変えなかったのは、ヨハンの意地だ。
アーデルハイトを胸に抱えたまま、頭を打ち、背中を派手に擦り、それでもどうにか彼女だけは無傷で護り通すことに成功した。
――いつの間にか雷は収まり、辺りの景色がよく見える。
作戦の開始から何時間経ったのだろう。光が消えても、夜明けによって空は少しずつ白んできていた。
仰向けに倒れたヨハンの視界に、怒り顔のカナタが映り込む。
それでも、安らかに眠るようなアーデルハイトの顔を見て何も言えなくなったのか、黙って微笑んでくれた。
逃げていた人々も、あの光によって全てが終わったことを察したのだろう、様子を伺うために少しずつ戻って来ていた。
それは魔法学院の方で戦っていたグレン達も同様のようで、姿はぼろぼろながらも健在な姿を見せてくれた。
一先ずは、安堵の息を吐く。
――そのタイミングを狙っていたわけではないだろうが。
「まだ終わってないでござる!」
アツキが叫ぶ。
同時に目にも止まらぬ速度で、アツキがヨハン達の目の前に立った。
ディヴァイン・パージの直撃により地面すらも崩れたその跡から、甲高い泣き声が轟く。
それはびりびりと、質量を持って人々の動きをその場に繋ぎ止めた。
そして続いて放たれた衝撃波が、ヨハン達を襲う。
アツキは魔物の肉を齧り、全身を固い皮膚で包み、その前に立ちはだかる。
「ぬおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおお! これはちょっと小生、格好いいでござらんかぁ!? ムネキュンしちゃいませんかあぁぁぁぁぁぁ! ってあんた男ですやん!?」
アツキの身体が後方に吹き飛ぶ。
動機はどうあれ、彼がいなければ間違いなくヨハンとアーデルハイトは死んでいただろう。
甲殻に包まれた身体が、辺りにある殆どが灰と化したキメラの死体を無造作にかき集め、再び起動した。
だが、それは既に生き物の形を保っていない。
肉塊に手足が生えて、そこら中についた顔から聞こえるのは呪詛の声。
ブルーノ教授の実験により命を奪われたエトランゼの怨嗟の叫びと、生命を喰らおうとする魔獣の意識が混濁し、シノはずるずるとその身体で人々に這い寄る。
シノは泣き叫ぶ。
母を失った子は、母に捨てられた哀れな少年は、理性を失い、本能のままに哀しげな声を上げ、そして道連れを求めるだけ。
腕が建物の破片を掴み、無差別にそこら中へと投げまくる。
「……シノ君。ゴメン」
その悲壮な声が聞こえたのは、ヨハンだけだった。
カナタは走る。
シノが放つ衝撃波をセレスティアルの盾で弾き、その目の前にまで距離を詰めた。
一人でも殺させるわけにはいかない。そうすればシノはそのギフトで再び力を蓄えて再生してしまう。
カナタ以外の誰も動くことができなかった。
避難していた住民も、魔法学院の教授と生徒も、グレン達超銀河伝説紅蓮無敵団も。
ヨハンですら、体力を使い果たしてアーデルハイトを抱えているのが精一杯という有り様だった。
その中で彼女だけが、何か見えない力に突き動かされている。
「……ボクが、みんなを護らなくちゃ」
呪いのような言葉に、ヨハンは全身が総毛だった。
振り回された腕を避けて、極光の剣が返す刃でそれを斬り捨てる。
肉の塊となった胴体を削るように、削ぎ落すように小さく刻む。
その度にシノは悲鳴を上げる。
助けを求めるような声。
それは斬られれば斬られるほどに甲高く、子供の声のように変化する。
そして同時に、小さく、か細く、弱々しくなっていく。
大半の力を失ったシノの攻撃は、カナタへの致命傷にはなりはしない。
極光の剣は容赦をしない。
今ここに集まった人々を護るために。
何かを護りたくて、それでも力及ばずに成すことのできない者達のため。
それらを背負った、小さな英雄の振るう剣は止まらない。
「嬢ちゃん、やっちまえ!」
「化け物を倒して!」
人々から歓声が上がる。
そこにいる誰もが、突然街に現れた怪物を倒そうとする英雄に酔いしれようとしていた。
「……ヨハン殿」
いつの間にか、少し後ろからエレオノーラの声が聞こえてきた。
彼女もこの騒ぎを聞いて駆けつけてくれたのだろう。
だが、その視線はヨハンと同じものだ。
言い知れぬ不安を湛えて、カナタへと注がれている。
あちこちから生えた腕にもなりきれないような身体のパーツが全て斬りおとされた。
声援が、英雄を後押しする。
男も、女も、大人も、子供も。
この場にいる者達は皆、カナタの勝利を望み、確信していた。
「う」
その声は、カナタにしか聞こえなかった。
キメラの咆哮ではない。
悲壮な呪詛でもない。
シノの声だ。
「あ、う」
それはもう言葉にならない。
それだけが、カナタに取って幸いだった。
もう、聞こえているかいないかも判らないが。
だから多分、これは自分自身に対しての言葉だと、カナタは思う。
「ごめんね」
「う、ん」
返事などではない。
単なる呻き声だ。
そう言い聞かせる。楽にしてあげたなどと、勘違いしてしまわないように。
今から奪う命に対して、決して言い訳をしないように。
極光が輝きを増す。
両手に握り込まれたセレスティアルは、普段よりも大きく広がっていく。
そしてその光の剣は、シノの身体を上から下に、真っ二つに切り裂いた。
悲鳴を上げることもなく、静かにそのキメラは動きを停止する。
今度は肉片ではなく、まるで砂のように全身が渇いて地面へと溶けるように消えていった。
それは、完全なる彼の消滅を意味していた。
シノの死によって、戦いは終わった。
あれだけ暴れていたキメラ達は殲滅され、人々は朝焼けの中に混乱の終結を確信する。
その中で、人々の視線を一身に受け止める少女が一人。
小さな英雄は、ただ黙って、俯いたまま人々の元へと歩いていく。
その背に声を掛けることもできない。
ヨハンはただ、眠っているアーデルハイトを抱えたまま、黙って彼女を見続けることしかできなかった。
今ここで、果たしてどんな言葉を掛けることができようか。
彼女にその全てを背負わせた自分が、どんな言葉を用いたところでそれは薄っぺらな虚構に過ぎない。
短く、断続的に足音が鳴る。
カナタは崩れた建物に足を掛けて昇ると、未だに戸惑う民衆達に見守られながら、彼等の方へと顔を向け、
「もう、大丈夫です」
――笑って見せた。
「……カナ、タ」
口の中が乾く。
血と泥にまみれた少女は、人々を安心させるように、彼等に対して微笑みかけたのだ。
シノを殺してしまったことを嘆くわけでもなく。
辛い戦いに涙を流すこともなく。
声が上がる。
怪物を倒した少女を、小さな英雄を湛える叫びが、夜明けと共にオル・フェーズの一角を支配する。
「エレオノーラ様。カナタのところへ行ってください」
「し、しかし……」
「あいつを、支えてやってください」
そんなものは詭弁だ。
壮絶な戦いを、カナタの決意を穢すような愚行を、ヨハンは行おうとしている。
エレオノーラは従うままに、カナタの元へと歩み寄っていく。
ふらついたカナタを彼女が支えると、そこに更に大きな声が上がる。
王国を追放され、それでも己の信念のために生きようとする姫と、彼女を支える小さな英雄に、民衆は大きな感情の波を寄せる。
彼女達は自分達が読む物語の主役になりうるかも知れないと。
自分勝手な期待と、願いを込める。
力なき者のために、少女は戦った。
その結果として、彼女は英雄となった。
エトランゼだけではなく、多くの人を救った正真正銘の、英雄。
それを褒め称える声が、辺りに木霊する。
夜明けだというのに、その熱狂が醒めることはない。
ただ一人、胸の内に冷たいものを落とされたような感触が消えない、ヨハンを除いては。
――彼女は人のために戦い、英雄になった。
――英雄になってしまった。
いつか聞いた言葉が蘇る。
『行こうよ。そうすればみんな喜んでくれるよ。だって、わたし達にしかできないもんね』
彼女はそう言った。
そしてその言葉に誰もが従った。
その果てにあったのは、余りにもつまらない結末だ。
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