第九節 裸の付き合い

 エーリヒの屋敷に世話になって色々と助かっているが、中でも特にヨハンが気に入っていることが一つある。

 それは、広い風呂に入れることだった。

 イシュトナル自治区には共同の浴場しかないため、精々男女が分かれているぐらいで、一人でゆっくりと湯につかるということはあまりない。

 特別な時でもない限りは一人で風呂に入る生活を続けてきた人にとってはこれはかなりのストレスだ。

 エーリヒの屋敷の風呂場は一度に十人以上が入れる大きな浴場で、普段はここに勤めているメイドも利用しているらしい。男女の区別はないが、そこは時間帯によって分ければ済むだけの話で、一度に利用する人数が少ないので、本来ならばゆっくりと一人を満喫できる。

 石造りの高い天井の浴場は、天窓から星の光が覗いている。時間はもうすっかり夜になっていた。

円形の大きな浴槽には透明な湯と、その温かさを現す湯気が大量に浮かんでいた。

 ヨハンは今、中央にある柱型のオブジェに背中を預けている。

「ふー」「ふへー」

 じんわりと湯の温かさが身に染みて、今ばかりは間の抜けた声が出てしまう。

 それは向こうも同様のようで、柱の反対側からは気の抜けた声が反響してきた。

 そう。

 ヨハンは今、風呂に入っている。

 カナタと二人で。

「……で、説教の続きだが」

「もう聞き飽きた」

 不貞腐れたような声と、ぱしゃりと水が跳ねる音が響く。

 何も二人は一緒に示し合わせて風呂に入ってきたわけではない。幾ら一緒に住んでいた時期があったとしてもこれまでそんなことはなかったし、お互いに裸を堂々と見せ合うほどに深い仲ではない。

「もういいじゃん。こうやって一緒にお風呂に入ってあげてるんだしさー」

「これは事故だ。事故」

「……そっちが後から入ってきたんだから、言い訳は聞かないよ」

 カナタの言った通り、これはヨハンの落ち度だ。

 あれから事後処理を終えてエーリヒの屋敷に戻り、エレオノーラに事を報告を終えた。

 そして臭いがきついと言われたので、カナタに説教することは後回しにして風呂に入ることして……こうなった。

「てっきり説教が嫌で雲隠れしているものかと思っていたが」

「そんなわけないじゃん。あんな臭いは流石のボクでもちょっとね。すぐにお風呂入って全力で身体を洗ったよ」

「まったく思いもつかなかったな」

「本当はちょっと期待してたとか?」

「もしそうだと言ったら、少しは身の危険を感じた方がいいぞ」

「……えっち」

 ちゃぷんと、カナタが沈む音がする。

 今この場においては、どんな罵倒も甘んじて受けるしかない。カナタが一声あげるだけで、ヨハンの社会生命は失われるのだから。

「別に一度出て入りなおしてもいいんだぞ」

「いいよ、別に。見られなければ気にしないし。それにちゃんと温まらないと風邪引くよ」

 限定的な条件ながらお許しが出たので、ゆっくりと肩まで浸かることにする。

「でもびっくりしたよ。あんなに堂々と入ってくるんだもん」

 身体を洗って、湯船に浸かり、先程のように息を吐き、そこでようやく柱の後ろ側に居たカナタが気がついた。

 それから二人は特に慌てもせず、初々しいやり取りもなく、まるで家族風呂に入るかの如くこうして同じ時間を過ごしていた。

「たまにはゆっくり。こういうのもいいよねー。でもボクがいるのに気が付かないって、疲れてるんじゃないの?」

「考え事をしていたからな。お前こそ、扉が開いた時点で誰が入って来たのか確認しようとは思わなかったのか?」

 基本的に浴場はメイド達やエレオノーラと使う時間を分けているので、本来ならば入浴中に誰が入ってくることはないはずだった。

 今日のような例外を除けば。

「いやー。ボクも考え事してたからさ」

「そうか」

 それ以上は問わない。

 何についての考えごとかを聞けば、きっと墓穴を掘る羽目になる。

 問題は、カナタがそこに対する遠慮をするような性格ではないことなのだが。

「で、アーデルハイトの話なんだけど」

「あの怪物の話をするぞ。あれは恐らくキメラといって異なる生き物を繋ぎ合わせた……」

「そんなことどうでもいいよ!」

 どうでもいいということはないだろう。柱の後ろ側で、勢いよく水面を叩く音がした。

「アーデルハイト、すっごい怒ってたよ。そもそも二人ってどういう関係なの?」

「アーデルハイト・クルルはヨハン・ヘルツォークの孫娘だ。だからそこで世話になっていたときに、一緒に暮らしていた」

「ふーん。で、なんで怒ってるの?」

「それは知らん。俺が北に旅立ってからずっと連絡も取っていないし、帰ってきてから初めて会ったんだぞ? むしろ忘れられてると思っていたから、あまり会いたくもなかったんだが」

「……北に」

 その一部分が気になったのか、カナタは小さな声でそれを繰り返した。

 しばらくの沈黙が流れ、それから意を決したように、彼女はできるだけ優しくその話題に触れようとする。

「イブキさんってエトランゼの人だよね。英雄って呼ばれてるって聞いた」

 冒険者を続けていれば、何度かその名を聞いたことがある。

 それでももう随分昔のことなので、詳細は判らず、当時を生きてきた者達が僅かに語るのみのことだが。

「もう昔の話だ」

「……北に旅立ったんだよね。エトランゼを元の世界に戻すために」

「さて、どうだったか」

 答えを誤魔化しながら、湯の中に身体を沈めていく。肩までしっかりと浸かって、顔は天井を見上げた。

 いつからそうなっていったのかは定かではない。

 最初は、好奇心に任せた旅立った。

 彼女達は世界中を巡って、様々な人と出会い、助け、時には戦ってきた。

 やがて彼女達の名が伝わり、英雄と呼ばれて期待をかけられるようになったのはある意味では必然のようなものだ。

「つまらん期待を寄せられて、それに答えようとしたんだ。それが如何に馬鹿なことかも知らずに」

 思い込んだら止まれない。苦しむ人を見捨てることができない。

 彼女がエトランゼの帰還方法を求めて北に行こうと提案したとき、ヨハンは特に何も考えることなくそれを了承した。

 それが、彼等の永き別れを意味することも判らずに。

「でも、ボクはその気持ち、判るよ」

 カナタの声が嫌に反響する。

「誰かに助けを求められたら、例え力が及ばなくっても全力で助けてあげたいって思うから」

「……そうか」

 ヨハンにできたのは、そう声を絞り出すことだけだった。

 その危うさを注意する言葉を持っていない。それは本来ならば決して失われてはならない、人として至上の善性であるとヨハンは知っているから。

 裁かれるべきはその心ではなく、無尽蔵に期待を掛ける人々と、それを護りきれなかった者だ。

「――まずは。アーデルハイトと仲直りしないとね。それからあの怪物……えっと、なんだっけ?」

「キメラだ」

「そう。キメラのことも調べないと! あんなのが街中に出て来たら、安心して眠れないもんね!」

 キメラはエトランゼ街に現れた。被害者の大半はエトランゼで、警備隊や駐留軍の到着も不自然に遅かった。

 確証が持てたわけではないが、エトランゼ街を狙ってあの怪物達が放たれた可能性は高い。

 だとすれば誰が、何のために?

 そもそもそれは外部からの破壊工作なのか、それとも内部の誰かが行ったことなのか。

 考証すべき事柄は幾つもあり、確たる証拠も足りていない。

 一際大きな水音がした。

「ボク、もう上がるから。目ぇ閉じててね! 絶対開けないでよ!」

「判ってる判ってる。別に喜んで見るようなものでもないだろうに」

「あるよ! 多分!」

 ヨハンが目を閉じたまま、顔を上に向けていると、じゃぶじゃぶと水の中を歩く音が鳴り響き、人の気配がゆっくりと移動していく。

 それは何故か、ヨハンのすぐ傍で停止した。

「なんだ。見られたいのか?」

「違うよ。……ヨハンさん、何か心配事でもあるの?」

「強いて言うならいつまで目を閉じていればいいのか判らないことが心配だな」

「そうじゃなくて! ……疲れた顔してるよ」

「なぁ。そういうのは風呂を出てからじゃ駄目のか?」

「いや、だって……!」

 手が伸びてきて、ヨハンの額に触れる。

 目の前の少女は本物の馬鹿だ。こちらが目を閉じていると信じて、いやそうだとしても幾ら何でも無防備過ぎる。

 ヨハンに彼女を如何こうするつもりがないとはいえ、その行動は咎めるべきだろう。

「お前」

「困ったときは、ボクを頼ってね。まだ力になれないかも知れないけど、精一杯頑張るから」

 その、今まで聞いたことない声音に言葉を奪われた。

 至近距離で、彼女は裸で立っている。もしヨハンが目を開ければ全てが見えてしまうだろう。

 その状況すら忘れてしまうような優しく、切ない声。

「頑張ってヨハンさんの役に立てるようになるから。エレオノーラさんも一緒に助けられるようになるし……。そしたら、昔の話、してくれる? ヨハンさんの考えてることの少しでも話してくれれば嬉しいな」

 水の中を進む足音が遠ざかり、やがては濡れた足が石床を歩む音へと変わる。

 程なくして扉が開かれ、すぐに閉じる音が浴槽内に大きく響いて、そこまで来てようやくヨハンは目を開けた。

 ぼやけた視界の中、幾つものランプの灯りが見える。

 その先にある天窓からは星々。

 それを見ながら小さく息を吐いた。

 彼女に語る言葉などはない。

 例えそれが危ういものであっても、自らの意思で飛ぼうとしている鳥を、つまらない人の言葉で押し留めていいはずがない。


 ▽


 オル・フェーズ第七、第八居住区。通称エトランゼ街。

 先日謎の怪物、改めキメラとの戦いの結果、そこには無残な破壊の跡が残されていた。

 昨晩のうちに人の死体は片付けられ、キメラの死体は魔法学院が証拠の解明として回収していったらしい。

 崩れた建物の瓦礫が痛々しい傷跡を語るが、そこにはテントが並べられどうにか人々が生活できるだけの形は作られていた。

「どうしてわたしがここでご飯を作らなくてはならないの?」

「人手不足だからだね」

 離れたところではグレンが、彼の仲間の超銀河なんとか団を引き連れて力仕事に精を出している。カナタはその方面ではあまり役に立てそうにもないので、こうして食事の炊き出しに参加していた。

 人々が列を成し、椀を持って今日の献立であるスープを受け取るために待機している。

「それは理由になってないと思うのだけど?」

「でも、あれ壊したのアーデルハイトだよ? あれと、あの建物もそうだよね?」

「……非常事態だったのだから仕方ないでしょう」

 カナタの言い分は大概卑怯なものだが、アーデルハイトにもそれは申し訳ないという自覚はあるのか、特にそれ以上文句を言うこともなかった。

「ちょっと塩味が濃すぎるわね。もうちょっと食材を足しましょう」

 並べられたテーブルの上にまな板を引き、手際よく材料を切りそろえてから鍋に放り込む。

「これは使っていいものなの?」

「え、うん。ここにあるのは使い切って大丈夫って聞いてたけど」

「そう」

 余っていた野菜を見る見るうちに切り刻み、大皿にサラダを盛り付ける。

「林檎もあるわね。でもこれだけじゃ全員には行き渡らないし」

 少し思案してから、それを兎の形に綺麗にカットする。

「これは子供と病人だけに上げるようにしましょう」

「包丁上手いねー」

「……家族は誰も料理なんかしなかったから。自然と家事全廃をやる羽目になっていたの」

 苦々しい、しかし何処か懐かしむような表情でそう語る。

 そして料理の準備ができると、鍋の下にあるコンロの火を消して、大きな声でカナタが人々に呼びかける。

 家を失った人には予め番号札を配ってあり、それと引き換えに料理を渡すだけなので、二人で分担してやれば滞りなくそれは進んでいった。

「あんた、昨日ここで戦ってくれたお嬢ちゃんだろ? 助かったよ、おかげで死ぬところを何とか生き伸びられた」

「い、いえ……。ボクなんて……」

「いやいや、本当に助かった。おかげで明日からも何とか生きていけるよ。……って言っても、ここで生きるのも大変なんだけどね。どうにか金を溜めて、噂のイシュトナル自治区に引っ越せるように頑張ってみるよ」

 そう言い残して、椀を持って去っていく。

 楽なことではないだろうが、それでもエレオノーラとヨハンが拓いたイシュトナルがエトランゼの心支えになっていることが、カナタには嬉しかった。

 見れば、隣で鍋を掻き混ぜているアーデルハイトも小さな笑みを浮かべている。

 そうして滞りなく大半を配り終え、鍋の中のスープも残りわずかになると、退いていった人波に取り残されるように一人の女性と、その横で杖を突きながら歩いてくる男の子の姿があった。

「どうぞ」

 頭を下げて、女性はその男の子と一緒にこちらに近付いてくる。

 長い黒髪をした彼女は年齢は三十を少し越えたところだろうか。何処か疲れが見えながらも、優しげな、困ったような顔でカナタ達と少年を見ている。

「ごめんなさい。この子がどうしても貴方達にお礼が言いたいって聞かなくて……」

 だから、わざわざ他の人の邪魔にならないように最後まで残っていたのだろう。

 二人分のお椀にスープをよそい、サラダを渡して、おまけの林檎をその上に置いて手渡す。

「そんな……。わざわざお礼なんて」

「姉ちゃん達、ありがとう! 街が壊されて母さんが死んじゃうかもしれなかったところを助けてもらって」

 大きく、振るように頭を下げる少年。

 その姿がおかしくて、また嬉しさもあってカナタも笑顔でそれに答えた。

「おれ、あいつらが来てすぐに気絶しちゃったんだけど、なんかちょっと目を開けたときに姉ちゃん達が戦ってるの見て……すっげぇって思った!」

「あはは……。ありがと。そう言って貰えると頑張った甲斐があったよ」

 目線を合わせて、少年に語り掛ける。

「そっちの姉ちゃんも凄かった! あの雷がばしーんってやつ! あれっておれにもできるかな? おれはエトランゼなんだけど、ギフトがないからさ」

 エレオノーラもそうだが、エトランゼが子供を産んでもギフトを持つわけではない。それは混血だからという理由ではなく、エトランゼ同士の子供でも同様らしかった。

「難しいわね。でも魔法学院でちゃんと授業を受ければそれもできるようになるかも知れないわ」

「魔法学院かぁ……。入学するのって大変なんでしょ?」

「それはまぁ……そうね」

 学力もそうだが、学費も相応に取られる。それをどう説明したものかとアーデルハイトが悩んでいると、母親が口を開いた。

「ほら、シノ。お姉さん達は忙しいんだから、あんまり困らせちゃ駄目よ。本当に、ありがとうございました」

「姉ちゃん達、また来れる? そっちの姉ちゃんのぴかって光るギフト、今度見せてよ!」

「シノ!」

「あはは、大丈夫ですよ。うん、今度また来るから。その時にね!」

 カナタの言葉を聞いて、シノは嬉しさのあまり手に持った杖ごと両手を振って、それを母親に窘められながら戻って行く。

「人気者ね」

 見ればシノの声に誘われたのか、多くのエトランゼ達がカナタを遠巻きに見つめている。

 それは決して悪意のある視線ではなく、むしろカナタに対して希望を見出しているようにすら見えた。

「あはは……。嬉しい、かな?」

 照れくさいのもあって、誤魔化すようにそそくさと片づけを始める。

「さ、今の子で最後だし。片付けて次に行こう」

「……次ってなに?」

「炊き出しは終わったから、今日の次の予定をこなさないと」

「一応聞いておくけど、次は何をするの?」

「情報収集! キメラについてのね」

「一応聞いておくけど、それは貴方な一人でやるのよね?」

「ううん。アーデルハイトも一緒だよ? だって箒があった方が移動もしやすいし」

「一応聞いておくけど……」

「はいはい。早くしようよ」

 無理矢理に背中を押されて、アーデルハイトは深く溜息をついた。

 彼女がこれ以上反論したいことを、勝手に認めたということにしてカナタは上機嫌に片付けを終えるのだった。

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