二章 魔法使いの追憶

第一節 彼女の追憶と彼の今

 ――どのぐらい昔の話だったか。

 最初は気に入らず、得体の知れぬ男に対して小さな反感を抱いていた記憶がある。もっともそれも昔のことなので、よく覚えてはいないが。

 誰かが連れて来たその男は必要なこと以外はあまり喋らず、常に一定の距離を保ち続けていた。それが自分に対して怯えさせないようにする配慮だと知ったのは、確か本人から聞いて知ったのだったか。

 とにかく、最初は理由もなく忌避していたのを覚えている。

 それが違う感情に変わったことに、何か切っ掛けはあったのだろうか?

 今となってはもう思いだすことはできない。そしてそれは別に、自分にとっては必要のない記憶でもある。

 大切なのは今の自分の気持ちだ。

 害意のない彼に心を許し、気付けばそれ以上に距離を縮めていた。

 同居人から、よく話す人へ。

 それから友人と呼んでもいいほどの間柄になって、その先は。

 家族、と呼ぶのが適当だろう。

 一緒に暮らして、共に過ごす時間は心地よかった。

 だから、それはそう呼んで差し支えないものだ。血の繋がりなどは些細なこと。

 もし、その関係に、自分の感情に異なる呼び名があったのかも知れないと、今になって思うこともあるが、それは考えても栓無きこと。

 その絆はもう消えてしまったものなのだから。

 一緒に見上げた紅い月も。

 お互いの仏頂面を突き合わせた、傍から見てお世辞にも和やかとは呼べない食事の時間も。

 家の外で共に迎えた朝焼けも。

 もう記憶の中にしか存在しない。

 もし、それを取り戻せるとしたらどうするだろうか。

 彼女はその答えを出すことはできない。

 出してはいけないと、自分にひたすらに言い聞かせていた。

 そうして今日も、何度目かの朝日が昇る。

 太陽の輝きに目を細めながら、変わることのない日々が始まった。

 そこに、小さな予感を感じながら――。


 ▽


 戦いの終結から三ヶ月。イシュトナル要塞とその周辺は、今や目覚ましい発展を遂げ、イシュトナル自治区と呼ばれていた。

「遊びに来たよ!」

 イシュトナル要塞の建物自体は兵達の宿舎も兼ねているので、ヨハン達のように普段はそこを仕事場にしている者達でも、兵士でなければ夜は違う場所で明かすことになる。

 そのためにここ数ヶ月ですっかり発展を見せた、イシュトナル自治区の隅に建てられた住宅街が、今のところのヨハンの宿舎となっていた。

 アパートのように幾つもの部屋が連なって建てられた二階建ての木と石で作られた建物は、一応とはいえ立場ある者達が住む場所であるためにそれなりの広さを備えている。とは言っても勿論、キッチンもなければ風呂もない。それらは外の施設を使うか共有スペースとなっている場所で行うことになっている。

 その一室で、一日の疲れを癒すために秘蔵の麦酒、つまりビールの入った小樽を開けようとしたところで、元気な小悪魔の声と共に扉がバンと開かれる。

 入ってきたのは御使い、悪性のウァラゼルとの戦いで最も功労を上げたと言っていいであろう少女、小さな英雄ことカナタだった。

 肩口で揃えられた髪に大きな瞳。あどけないながらも何処か意志の強さを感じさせる少女は、ノックもなしに部屋に飛び込んでくると、これまた勝手にヨハンの木製のベッドにダイブした。

「……何の用だ?」

「だから、遊びに来たの」

 既に夕日が沈み、夜の暗闇が辺りを包んでいる。二階の窓から見えるのは、遠くにある飲み屋街の灯りぐらいのものだ。

 カナタも同じ建物内に住んではいるのだが、子供が出歩くのに適当な時間とは言い難い。

「だって退屈なんだもん! テレビもないし、電話もないし、メールもできないし」

 ヨハンの無言の抗議に対して、カナタはベッドの上でごろごろしながらそんなことを言ってのけた。

「それは今に始まったことじゃないだろうに」

 つまり昨今までは暇を持て余すほどの余裕もなかったということで、それを感じられることは本来いいことのはずなのだが。

 空のグラスと、秘蔵の麦酒を目の前にしてはカナタを歓迎できるかというとそれはまた別の話だ。

「……まったく」

 麦酒は諦めることにした。

 小さなコンロに火をつけて、お湯を沸かす。ティーポットに茶葉を入れるのだが、それを見たカナタが声をあげた。

「緑茶? 珍しいね」

「この間商人が売っていたのを買い付けてな。苗木もあったから、この辺りでも栽培できればいいんだが」

「日本人が多いから人気でるかもね」

「……俺は緑茶を喜んで飲んでいる日本人はあまり記憶にないがな」

「確かにボクもおばあちゃんの家ぐらいでしか飲まないかも」

 苦笑いを浮かべながらも、久々のその香りが何かを刺激したのか、ベッドから抜け出して傍まで寄ってくる。

 お湯が沸いたのを見計らって二人分の緑茶を入れると、部屋の中心にあるテーブルに向かい合わせに置いた。

 お互いに椅子に座り、まずは両手で湯呑……ではなくカップを持って一口音を立てて啜る。

「……こんな味だっけ?」

「異世界の緑茶だからな。外国産とでも思っておけ」

 カナタの言う通り、細かい味が違う気がした。具体的に何かと問われると答え難いが、少なくともそれは懐かしい味とは程遠い。

「別に不味いわけじゃないからいいだろう」

「まぁね。でも珍しいね。お茶入れるなんて。珈琲は?」

「ここでは豆が手に入らない。本来は南の方からの輸入品だったんだが、あっちの方でごたごたがあったらしくてな」

 詳細は判らないが、商人達が南方の商売からしばらくを手を引き、代わりに命知らずのハーマンが喜んでそちらに向かって行ったところを考えると、何かしらの荒事が起こっていると考えるのが妥当だろう。

「ふーん。……あち」

 それにはあまり興味がないようで、カナタはお茶を冷ましてはゆっくりと飲み続けていた。

「で、本当に用件はないのか?」

「ないよー。遊びに来ただけ」

 さて。確かにカナタとは一緒に暮らしていた時期もあったし、彼女が冒険者として自立してからもお茶や食事をたかりに来たことは何度もあった。

 しかし、果たしてこんな風に用もなく遊びに来たことがあっただろうか?

 答えは否だ。勿論、なんだかんだ言って一ヶ月に二、三度は会ってはいたのだが。

 加えて、質問されたときにほんの少しだけ、カナタは視線を逸らした。

 それをじっと見つめていると、やがて耐えられなくなったのか、カップから唇を放して、目を伏せながらカナタは喋りだした。

「ん、と。……本当に何でもないんだけど、別に用事とかじゃないし……。ヨハンさんに言っても解決できるわけでもないし」

「何でもいいから話してみろ。解決できるわけじゃないが、糸口は掴めるかも知れないだろう。ここは元居た世界とは違う。悩みを抱えたまま生きるのは、ずっと苦しいぞ」

「……夢を見たんだ」

 振りはじめの雨のようにぽつりと零れた声は、普段の彼女からは想像できないほどにか細い。

「ウァラゼルと戦ってさ、ボク、三日ぐらい寝込んだでしょ?」

 ウァラゼルに勝利してから、そのまま倒れたカナタは長い眠りについた。

 身体の疲れか、それともセレスティアルを長時間行使した代償か、サアヤのリザレクションを受けても起き上がることはなかった。

 本人には決して言わないが、もうこのまま目覚めないのではないかと心配したものだ。

「その時さ、昔の夢を見たの」

「……家族のか?」

「ううん。友達の夢。学校に行ってた頃に遊んでた、親友って呼んでもいいぐらいに仲良かった友達」

「……そうか」

 家族であれ友人であれ、元の世界にあったものを思い出してしまえば、それは郷愁の念を思い起こさせる。

「別にだからなにってわけじゃないんだよ。今更帰りたいって泣いても無理なことぐらい判ってるし。……でも、やっぱりちょっと、寂しいなって」

 空になっていたカップに、ティーポットから少し冷めた緑茶を注ぐ。

 カナタは「ありがと」と礼を言うと、今の言葉を飲み込むようにそれを一気に飲み干した。

「再び、どーん!」

 カップを置いて、無理矢理その空気をぶち壊すように、再度ヨハンのベッドにダイブする。

 卑怯なもので、あんな話を聞かされた後では、それを咎めることもできないではないか。

「親友が二人いてね。一人は生徒会とかやってて、明るくてノリがいいんだけど真面目でさ、みんなから頼りにされてた。もう一人はハーフの子で、すっごい綺麗な子だったんだ。よく三人で遊んでたんだよ。周りが流行りとか、恋とかの話で盛り上がってても全く気にしないで、別の世界のことみたいに思って」

 うつ伏せになった彼女の表情は見えない。

 当時を思い返して、懐かしさを滲ませた声にも聞こえるが、少しだけその声は震えている。

「また、会いたいな」

 カナタのその呟きに、答えてやれる言葉はない。

 それからしばらく、お互いに無言の時が流れた。

 突然の訪問は、やがて聞こえてきたカナタの寝息によるり終わりを告げる。

 そっとその身体を抱きかかえて、カナタの部屋に戻しに行く。

 その際に、閉じられた目尻に涙が浮かんでいたのは、見ない振りをした。

 多分、彼女は明日にはいつも通りのカナタに戻っているだろう。

 底抜けの明るさで人を励まし、後先考えずに行動してた周りを困らせて、そして何故かそれが勇気を与える。

 小さな英雄、その名に相応しい少女に。

 それがカナタにとって幸せなことかどうかは、ヨハンにもまだ判らないが。


 ▽


 事が起こったのはその翌日。今日の夜こそ麦酒を楽しもうと、それを心の支えにして大量に積まれた書類を片付け終えたヨハンの元に彼女等は訪れた。

「ヨハンさん、大変だよ!」「ヨハン殿、大変だ!」

 同時に声を上げ、イシュトナルの要塞内にある、ヨハンの執務室の扉が開かれて二人の少女が飛び込んでくる。

 片や先日ヨハンの部屋を訪れた小さな英雄カナタ。

 片やこのイシュトナル自治区の主にしてオルタリアの王女であるエレオノーラ。

 年齢の平均からしても小柄な部類に入り、活発そうな印象のカナタと、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ、艶やかな長い黒髪のエレオノーラ。

 対照的な二人は見た目とは別にぴったりと息があった様子で飛び込んできた。

 そしてそれは、ヨハンにとってはこの上なく嫌な予感を彷彿とさせる。

「オルタリアからボク宛に手紙が!」「オルタリアから妾宛に書状が!」

 二人は同時に喋り、それから一度顔を見合わせて、

「小さな英雄、カナタ。貴殿はその力により多くの民や兵を救い、まさに英雄と呼ばれるに相応しい活躍をした。今後ともその力を互いのためにより大きく役立てるべく、一度王都へとお越しいただきたい。ヘルフリート」「我が妹エレオノーラ。王である我の許可なくイシュトナルに勝手な都市を築くなど許されることではない。もし弁明があるのならばその機会を与えよう。オルタリア王都で行われる貴族招集へと参席せよ。ヘルフリート」

 やっぱり同時に言いだした。

「……もし俺に嫌がらせをしているんじゃなければ別々に話せ」

 ヨハンの低い声を聞いて二人とも多少は落ち着きを取り戻したのか、互いに深呼吸をしてから内容を再度説明した。

 それを聞き終えてから、ヨハンはしばし思考する。厳密には思考しようとしたが、この二人の前でそんなことができるはずもない。

「ヨハン殿ぉ! どうすればいい? 恐らく兄は妾の行いを貴族達の間でで取り上げ、イシュトナルに何かしらの制裁を下すつもりだ!」

「ヨハンさん、どうしよう! 王都の人ってエレオノーラ様の敵でしょ? ボク行きたくないけど、これって断ったらどうなっちゃうの!?」

 テーブルの向かい側から、二人して左右の袖をぐいぐいと引っ張る。

 ヨハンからすれば遂に来たか、といったところである。予想していた時期とも合致しているし、それほど慌てるような事態ではない。

 しかしまぁ、確かにそうならば二人に話しておくべきだったと、目の前の惨状を見て軽く後悔はした。

「まずカナタ。別にお前を害しようというわけじゃない。向こうからすれば、得体の知れない敵の正体を知りたいだけだ」

「正体が知れたら?」

「場合によっては殺されるかもな」

「そんなのやだよ!」

 ぎゅうと、腕を掴む手に力が籠る。

「大丈夫だ。普段のお前を見せておけば殺されはしない。度を超えて間抜けな姿をな」

「……それはそれで複雑なんだけど」

 一先ずはそれで安心したらしい。

「次にエレオノーラ様。そもそも、俺達はイシュトナルを勝手に占拠している状態なのですから、それが来るのは当然でしょう」

「そ、それは判るが……」

「大方こちらの手で再建と南方を纏めさせておいて、頃合いが来たから一気に収穫しようと、そんな考えです」

「それは卑怯ではないか! そなたや妾が苦労して開拓したこの地を掠め取ろうなど……」

「許可を取っていないのだから仕方ありませんね」

「ヨハン殿はどっちの味方なのだ!?」

 ぶんぶんと腕を振られるのを無視して、話を続ける。

「もっとも国がそう決定していても、民衆達の考えが異なれば話は別です。何しろ、こちらには大量の難民と呼んでも過言ではないエトランゼを養っている」

「……うむ、つまり?」

「それらを盾に、保護を名目として正式にイシュトナル自治区を認めさせる機会と言うわけです。幸いにして姫様は王族。別にここを統治していようとそれほど不自然はありませんからね」

「う、む……。しかし、そう上手く行くのだろうか?」

「難しい話ではありますが、不可能ではないでしょう。詳しくは今は割愛しますが」

「ふむ。ヨハン殿がそう言うのならそうなのだろうな。しかしな」

 ようやく両腕が自由になったが、今度はエレオノーラは顎に指を当てて何か考え込み、カナタは二人の話を理解しようとして頭から湯気を出していた。

「妾はヘルフリート兄様が苦手なのだ。それはどうすればいい?」

「そんなことは知りません。我慢してください」

「そんな薄情な! 頼むヨハン殿、王都まで一緒に付いて来てくれ!」

「嫌です。こちらで仕事もありますし」

「少しは部下に投げても平気だろう?」

「俺は貴方の保護者ではありません」

「……え、違ったのか?」「違ったの?」

 両者の瞳がヨハンを上目使いに見つめる。

「違うに決まっているでしょう。護衛ならカナタもいますし、俺が行く理由は……」

「それは無理! だって向こうは敵の本拠地だし、王都って広いんでしょ? 絶対迷子になって護衛なんかできないもん。自信ある!」

 平らな胸を張るカナタの頭を小突きたい衝動に駆られたのだが、彼女の言っていることはもっともで、反論もできない。

「……仕方ないか」

 確かに、そろそろヨハン抜きでもイシュトナルが動かなくてはいけない時期でもある。最悪王都ならば数日で行き来できるので、不慮の事態にも対応できるだろう。

 何より、ヨハン自身も王都の人の多さ、そこで手に入る物資の数々は魅力的だった。いずれ向こうでやらなければと考えていた仕事も幾つかある。

 そんな事情の重りが片側の天秤に乗せられた結果、ヨハンは王都行きを決意した。

「判りました。俺も行きましょう」

「やったー!」「うむ! それでこそ妾の第一の家臣だ!」

 手放しで喜ぶポンコツ二人を背に、ヨハンは部屋を出ていく。

 もう一つ、あくまでも個人的な理由ではあるが、王都に行きたくない事情があるのだが、それに関しては目を瞑ることにした。

「……あれだけ広くて人の行き来も盛んなら、万に一つも会うこともないだろう」

 その呟きは誰の耳にも入らないまま、イシュトナルの重厚な意志の廊下に響いて消えていく。

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