第十九節 悪性/彼方
無邪気な声が空から降り注ぐ。
眼下に転がる異形達の死骸は、とっくに百を越えている。
人間の力は凄まじい。最後の抵抗には目を見張るものがあった。
彼等はその統率と、武力で見事に数多くの異形達を切り倒し、彼女の元まで戦線を押し上げた。
そしてその先頭に立つのは少女が一人。
重すぎる期待を両肩に乗せて、カナタは目の前に浮かぶ、自分よりももっと幼い少女を見上げた。
「うふふっ」
少女は笑う。
幾千もの死の中心で。
薄紫色の極光をその身に纏いながら。
「ようやく、ようやく会えたわ。ねぇ、ずっとあなたに会いたかったの! 判るでしょう? 判るわよね? 判らない? うーん、不思議。とっても不思議、思わず声を掛けてしまったけど、どうしてなのかしら?」
ウァラゼルの姿が目の前に現れて、その指先がカナタの額をつついた。
「こうして触れてみても、あなたは人間ね。御使いではないわ。ウァラゼルは不思議でならないの。どうして、単なる人間であるあなたが、セレスティアルを使えるの? あれは御使いだけに許された絶対なる執行権限、この世界を制御する鍵の内の一つなのに。あ、そう言えばあなた、名前はなんて言うのかしら? もなかとか、そんな感じだったと思うのだけれど」
「カナタだよ、カナタ!」
「そう。カナタね。覚えたわ。印象が薄かったけど、もう忘れないと思うの」
ウァラゼルの口が、三日月を描く。
「馬鹿野郎! 避けろ!」
「うえぇ?」
来る。
そう思ったときには既に、ヴェスターによってカナタの身体は遥か後方にまで投げ飛ばされていた。
間抜けにも地面を転がるカナタには一瞥もくれず、ヴェスターはウァラゼルの背後から伸びたセレスティアルをその魔剣で叩き落とし、彼女に斬撃を打ち込む。
伸ばした片手でそれを受け止めながら、ウァラゼルは不機嫌そうな顔をしていた。
「その剣、とっても嫌な気配がするわ。あなたは失礼な人、この間もそうだけど、そんなものを御使いに振るうなんて不敬にもほどがあるわ! まったく、ウァラゼルじゃなかったらすぐに殺していたわ!」
「はっ、生憎と神様に払う礼儀は持ってないもんでな!」
何度も何度も叩き込まれるヴェスターの斬撃を、ウァラゼルは極光を纏った腕で弾いていく。
「質の悪い、混ぜ物の金属に気持ち悪くなるぐらいの呪詛。あなた、それに殺された人間の魂がどうなるか判っているのかしら?」
「知らねぇよ、そんなの!」
「ああ、いや。いやいやいや! 汚い、汚らわしい、あなたは悪性ですらないわ、単なる獣よ、ウァラゼルが一番嫌いな獣ね!」
「うるせぇ、死ね!」
ヴェスターの剣がウァラゼルの両腕を跳ね上げる。
そのまま首筋に、何の迷いもなく振りきられた魔剣は、小さな手ごたえを残して、彼女の極光を切り裂くことはできない。
「死ぬのはあなた。あなたはお人形ですらないわ! ウァラゼルの嫌いな、獣よ! 汚いし、ヨハンを連れていってしまうし、本当に、どうしようもないわ!」
ウァラゼルの周囲からセレスティアルが伸びる。
最初はそれを剣で打ち払っていたヴェスターだが、その数はやがて十から二十に、二十から後は、数え切れないほどの数へと増えていく。
「うおおぉ!?」
一本が身体に突き刺さり、残るセレスティアルがその全身を討ち抜く。遠くに飛ばされたヴェスターの身体は、更なる追撃を受けてあっという間に見えなくなっていった。
「ヴェスターさん!」
「あんなのはいいの、いいのよ、カナタ! それよりもウァラゼルはあなたと遊びたい! ずっとずっと待っていたのだもの、ウァラゼルと遊んでも壊れない人形を!」
無数の薄紫の極光が、翼のように彼女の背から伸びる。
「セレスティアル、壁に!」
全方位に壁を張るような形でカナタが展開したセレスティアルがそれを遮断する。
「あはっ、凄い!」
左右から来る!
伸びてきたセレスティアルを同じく極光の刃で斬り払い、接近するべく前進する。
しかし、ウァラゼルの攻撃は全く留まるところを知らず、今度は上から、それが捌かれれば再び左右からとカナタを差し貫くために何度でも伸びてくる。
「こ、の……! 無尽蔵ってわけじゃないだろうけど」
「そうね、そうよ、そうなの! ずっとセレスティアルを使っているのはとっても疲れるわ! 遊び過ぎれば眠くなってしまうもの、でもね、でも!」
正面からレーザーとなって光が伸び、カナタは極光の盾でそれを防ぐ。
カナタを飲み込まんとする光の奔流を、全力で盾を押し付けることでどうにか相殺した。
安堵する暇もなく、今度は上空から弾丸のような大きさの極光が、絨毯爆撃の如く地面に降り注ぐ。
壁で防ぐには威力があり過ぎる。だからといって狭い盾でどうにかできるものではない。
全力で走り、時には転がって直撃を避けるも、数発はカナタの身体を掠め、鉄の塊をぶつけられるような苦痛に顔を顰めた。
「カナタと遊ぶだけの体力は残しているの! ううん、それだけじゃないわ。カナタの後はヨハンとも遊びたいもの! 遊びの続きをするの、それで、今度はウァラゼルの勝ちって言って、オイタのお仕置きをしなくちゃ!」
怖気が走るほどに無邪気で、残酷な笑みを彼女は浮かべる。
ウァラゼルにとっては人の命などその程度のもの。少し苛立ったから、人形に八つ当たりをするぐらいの感覚で彼女は人の命を奪う。
恐ろしいが、同時に怒りも沸き上がる。
そんなことはさせてなるものかと、カナタはその感情で自らを奮い立たせる。
「でも今はカナタと遊んであげる! とっても楽しいもの!」
「ボクは……全っ然楽しくないけどね!」
「そうなの? 残念。でももうちょっとすれば楽しくなるんじゃないかな? ほら、少しずつだけどセレスティアルを上手に使えるようになって来てるでしょ?」
ウァラゼルの攻撃を避けるために盾に。かと思えば今度は二刀流の剣に一瞬変化させ、広範囲を覆う拡散するレーザーには壁にして対処する。
彼女の言葉の通り、戦いながらカナタはセレスティアルの使い方が上達していった。ヴェスターと戦っていた時よりも遥かに早く。
まるで、お互いのセレスティアル同士が共鳴し、もっと力を引きださせようとしているかのように。
「……今なら!」
目には目を、遠距離には遠距離を。
意識を集中し、掌に極光を集める。
そしてそれを光線状して撃ち出す姿を想像し、気合いと共に手を前に突きだした。
「はああぁぁぁぁ!」
「……なにしてるの?」
何も起こらなかった。
ウァラゼルも余りに意味のない動きに呆気に取られたのか、目を丸くしている。
掌に極光は集まっているが、それがそこから伸びる気配は全くない。むしろ最初の頃のように掌サイズの塊になって、ぽとりと地面に落ちてから霧散した。
「い、今のなし!」
「変なの! でも面白かったからいいわ!」
これ見よがしに拡散するレーザーを放ち、カナタを攻撃しながら周囲の兵達が近付けないように、戦いの領域を作りだすウァラゼル。
「……ちょっと格好いいからやってみたかったのに」
小声で、誰にも聞こえないように呟きながら壁を張ってそれを防ぐ。
細いレーザーがまるでカッターのように地面を、周囲の異形諸共に切り裂いていく。
「カナタ、もっと遊びましょう! 逃げてばかりじゃつまらないわ!」
「だったらもうちょっと弾幕を弱めてよ! ボクは近付かないと攻撃できないのにズルい!」
「そんなの未熟な、弱いカナタが悪いんじゃない」
「いや、それはそうだけど。ボクはまだ初心者だもん!」
「あはっ、やっぱりカナタって面白い!」
ウァラゼルはカナタを苛立たせるためか、いたぶるように遠距離からのレーザー攻撃に切り替えた。
一発一発は細く防ぐのは容易いが、その弾幕の厚さから何処に動いても避けることはできない。勿論、セレスティアルを解いて受ければ一発でその身体を貫くだけの威力はある。
「このっ……! 羨ましくないし……! じゃなくて、今チャンスかも」
壁を展開したまま、一歩を踏み込む。
そのままじりじりと距離を詰めるが、それを許すウァラゼルではない。
「駄目よ。カナタはそこでウァラゼルに嬲られるのがお似合い!」
セレスティアルの柱が正面から、カナタを突き刺すために伸びてくる。
壁を解き、極光の形を変化させる。
防ぐための盾ではなく、剣へ。
「逸らした……!」
受け止めるのではなく、弾くことで軌道を逸らす。幾らかの反動はあったが、それでも防御するよりは隙を晒さず、すぐに次の動作へと移行することに成功した。
小さなセレスティアルを短剣状にして投擲する。
カナタの未熟な技術でも、どうにか真っ直ぐに飛んでいったそれは、ウァラゼルが自らの周囲に張る障壁に突き刺さり、干渉していく。
「とっても素敵! でも、でもそれは駄目よカナタ!」
「たあああぁぁぁぁぁぁ!」
左右から襲いくるセレスティアルの刃を半ば無意識で斬り払う。例え二方向からでも、ヴェスターの斬撃よりも遥かに遅い。
「これで……!」
まず、一太刀目がその身体に纏う極光へと干渉して、風に吹かれた煙のように吹き散らす。
「ウァラゼルのセレスティアルを……引き裂いた?」
驚愕に歪むウァラゼルへと、もう一撃を叩き込む。
振り抜いた右手の剣を消して、今度は左手に。
身体を今とは逆の方向に回転させるように、横に薙ぎ払う。
その光の刃は、ウァラゼルが咄嗟に回避行動を取ったことで浅い当たりとなったが、確実に何かを斬った手応えが残った。
「あはっ」
頬から血を流しながら、悪性が笑う。
果たして傷を受けたのなど、何年ぶりのことだろうかと。
「もう一撃……!」
「遊びましょう、カナタ。これは遊びなのよ、彼も誤解していたわ。人間というのは愚かなものなのよね。少しでも力を得れば、勘違いしてしまうの。ウァラゼル達がしているのは、遊びなのよ」
これまでの彼女よりも低い声。
そこに込められた怒りの感情に晒されるだけで、カナタは怯え、竦み上がってしまいそうなほどに恐怖した。
「オイタは駄目よ、カナタ」
「なっ……!」
ウァラゼルが回転する。
その背中から生えた一本の極光が、大地を薙ぎ払うほどの長さとなって、カナタの身体を横殴りにする。
辛うじて展開したセレスティアルの盾は一撃で半分が叩き割られ、そこに更なる追撃の極光が数十本単位で殺到する。
身体を射抜かれ、地面に叩きつけられ、そこから降り注がれる。
泣き叫びたいほどの痛みが続き、次第にそれすらも判らなくなってくる。
無様に、哀れに地面転がって、ようやく身体の動きが止まる頃には、カナタの全身は血塗れになってそこにあった。
「ウァラゼルはずっと言っているわ。遊びましょうってね。だから、オイタをしては駄目なのよ、カナタ?」
ふわりと、ウァラゼルの身体が目の前に着地する。
「ねえ、カナタ? 痛くて、怖いでしょう? 辛くて、苦しいわよね? ウァラゼル、気になることがあるの。どうして頑張ったの? ウァラゼル、知っているのよ。あなた、ウァラゼルを倒そうとしたのでしょう?」
彼女の言葉一つ一つが、杭となってカナタの身体を縫い止める。
全身が痛い。
息をする度に、壊れた身体の内部が無理を訴えてきて、ありえないほどに苦しい。
そして何よりも、目の前の少女が怖い。
なんで自分がこんな目に合わなければならないのか。エトランゼとしてこの世界にやってきた中で、どうして自分だけが。
「無理よ。無理無理、不可能。だってウァラゼルは御使いだもの。人の力の及ぶものではないの。その意味を理解できないわけではないでしょう? あなた、山が崩せる? 海を消せる? 星を動かせる? できないでしょう? そう言うものよ。御使いは倒せない。だってあなた達は、人間だもの」
「――ああ、そうかい――!」
黒い剣が唸りを上げる。
咄嗟に伸ばした腕に受け止められながらも、全身傷だらけのヴェスターは勝負を諦めてはいなかった。
「獣。生きていたの? ウァラゼルを不機嫌にするためだけにいるのかしら?」
「んなわけねえだろ。いいことも悪いことも、何一つてめぇのためになんざ生きちゃいねえよ!」
ヴェスターの猛攻が、ウァラゼルに防御姿勢を取らせる。
しかし、それでも彼女のセレスティアルは万能だった。防ぎながら、攻撃に転じることも不可能ではない。
先程と同じように背中から伸ばされたその刃がヴェスターへと襲い掛かる。
「ぬかるんじゃねえぞ、小僧!」
「言われなくても……!」
飛んできた炎と、続いて振るわれた斬撃が、それを叩き落とした。
トウヤの手に持つそれは、最早剣ですらない。黒曜石を削り上げて、辛うじて棒状になっているだけの単なる塊だ。
ウァラゼルは、黒曜石、琥珀金など、エイス・ナハルの教典に置いて穢れた金属とされているものに対してのみ、防御行動をとる。
ヴェスターの魔剣にも、恐らくはそれが混ぜられた金属が使われているのだろう。
例えセレスティアルによって護られていたとしても、恐らくは身体にとって何かしらそれが害になることを知っている。だから、本能的に防御してしまう。
「この距離なら、どうだあぁ!」
灼熱を纏った黒曜石の棒が、ウァラゼルを突き差し、
「人間様の底力、受けてみなぁ!」
そこにヴェスターの斬撃が楔を打ち込む。
「ウァラゼルの邪魔をしないで。邪魔をするな、邪魔なのよ、つまらない、面白くない。こんなのウァラゼルは望んでない!」
「カナタ!」
ウァラゼルのセレスティアルに薙ぎ払われ、遠くに弾き飛ばされながら、トウヤはその名を呼んだ。
それが引き金となる。
自分でももう、何をどうしたか判らない。
気付けばカナタは立ち上がっていた。
そしてその手には極光の剣を持ち、ウァラゼルの眼前へと躍り出る。
「カナタ! 怖くないの? 痛くないの? 人間の癖に、どうしてそこまで頑張れるの? ウァラゼルはあなたが嫌いよ、嫌いになったわ! 面白いお人形だと思っていたけど、あなたはウァラゼルの嫌がることばかりをするんだもの!」
「怖いし、痛いのも嫌に決まってるじゃん! ボクだって逃げたいよ、もう帰りたい! ……でも!」
カナタの放つセレスティアルが増大する。
剣はより力強く、両手で持つに相応しいほどの大きさへ。
そしてその余剰エネルギーは、一対の翼となって、カナタの背後からその勢いを後押しした。
「ここで逃げたら、大切なものがなくなっちゃう。この世界で見つけた、ボクの大事なものが!」
「このぉ……! 人間の、分際でぇ!」
「人間で悪い!? いいじゃん別に、こう見えても一生懸命生きてるんだからぁ!」
二つのセレスティアルがぶつかりあう。
カナタの背中から伸びた光の翼は、彼女自身を後押しする役割となり、両手で持った光の剣は徐々にウァラゼルのセレスティアルを浸蝕し、断ち切ろうとする。
対するウァラゼルも苦痛と、恐怖と、そして何よりも怒りに満ちた表情でカナタを睨みつけながら、両手でセレスティアルの壁を厚く、より強固なものへと作り上げていく。
交差する輝きは大きな火花を散らして戦場を染め上げる。炎のように明るく、稲妻のように恐ろしく。
ばちばちとお互いの光が干渉し、弾けあう音を聞きながら、ウァラゼルは内心で自分が酷く焦っていることに気が付いた。
嫌だ。
こんなものは楽しくない。
あってはならないことだ。エイス・イーリーネの使いである御使いが、人間に敗れることなど。
カナタの剣が、浸蝕を深める。
「あああぁぁぁぁぁぁ!」
気合いの叫びと共に光は増大し、ついにはウァラゼルの纏うセレスティアルの守護を突破し始めた。
縦に一閃。
続いて横に、十字を描くように極光の剣が踊る。
それによりウァラゼルを護るセレスティアルは完全に消滅した。
「後は、もう一撃!」
「させないんだから!」
背中から、指先から伸びたセレスティアルが糸のようにカナタを縛り付ける。
それでもなお攻撃を加えようとするが、全身に細い糸が食い込み、鋸のように肌に赤を散らしていく。
「勝ちだよ、ウァラゼルの勝ち! カナタの負け! 負けなんだから、結局人間が御使いに勝つことなんて、できないんだから!」
キンキンと頭に響く歓喜の声と共に、カナタを真似るように、ウァラゼルの手に極光の剣が握られた。
「でも一つだけ。あなたの翼、とっても綺麗。ウァラゼル、それだけは気に入っちゃった! それじゃあ、サヨナ……!」
その剣がカナタに触れる直前。
ウァラゼルが、別れの言葉を終える前に。
その身体に突き刺さるものがあった。
心臓を貫く漆黒の杭。
黒曜石で作られた杭状の弾丸が、悪性の御使いの胸に深々と突き立てられた。
「う、そ……? こんなもの、で?」
その視界は捉える。
ウァラゼル達の戦いの外側にいる、一人の男を。
過剰なまでに長い、二つ折りの砲身を一本に伸ばしたその銃は、真っ直ぐにその先端をウァラゼルへと向けていた。
対御使いのために作り上げた切り札。遠距離からの、オブシディアンの弾丸による超高速の狙撃を可能とした、魔法式リニアライフル。魔法技術により生み出された電磁力で加速された弾丸は、ウァラゼルの認識の外から彼女に防がれるよりも早く、弾丸をその身体に届かせた。
「ヨ、ハン……? 空っぽの、エトランゼの……くせに………凄い」
嗚呼、忌まわしい。忌まわしい。
嫌いだ、本当に嫌いだ。人形の癖にこうして抵抗して、オイタをして、反省一つせずにまた立ち向かってくる。
その意味を理解していない。お馬鹿な生き物だ。人間なんて、人間なんて。
それでも、不思議と彼女は笑っていた。
最後にいいものが見れたから、それでいいと。長い時を越えてこの地に現れた御使いは、そう思った。
「あは……。カナ……タの………翼、も。……とって…も、綺麗……だし。うん……。ウァラ、ゼル。楽しみ……。あなた、達が………この大地を……変えてしまうの……」
ウァラゼルを空に浮かばせていた力が消えて、小さな身体が地面に落ちた。
倒れたまま、空を見上げてウァラゼルは手を伸ばす。
その行動に何の意味があるのか、それはこの場の誰にも、ウァラゼル自身にすらも判らない。
その肉体は残らず、まるで空に還るかのように光になって消えていった。
同時に、彼女が生み出した異形達も動きを止めて、セレスティアルへと戻り、やがては消滅していく。
静寂が辺りを包み込む。
果たして何がどうなったのか、自分達が勝ったのか、未だ誰もその真偽を図りかねていた。
誰かが何かを言わねばならない。そしてその期待は、立役者である一人の少女に向けらられるのは当然だった。
「あー……。勝った、の?」
何とも、間抜けな言葉。
カナタのその一言に答えたのは、大地を断ち割るような鬨の声だった。
「なら、よかった。……じゃあ、ボクも……ちょっと寝るね」
ぐらりと、その身体が倒れる。
とてもではないが支えきれないほどの期待をかけられ、見事にそれに答えて見せたのは、一人の少女、小さな英雄。
彼女は今、ようやくその肩の荷を下ろして、深い眠りについた。
▽
「御使いとの戦いは以上を持ってエレオノーラ率いる兵達と、我が方との臨時の連合軍が勝利。しかしてその間に奪取されたイシュトナル要塞を奪還するだけの戦力は残されてはおらず、遺憾ながらその場を放棄。以後の動向については五大貴族全体で話しあう必要がありと判断」
さらさらと紙の上を羽ペンが走り、モーリッツは自分で口に出した言葉をそのまま記していく。
「こんなものでいいだろう」
慣れ親しんだ自室の執務室。果物の果汁を濃く絞ったジュースを飲みながら、モーリッツは出来上がった手紙を副官に手渡す。
それを受け取った副官は、改めてその内容を確認してから、わざとらしく溜息を吐いた。
「手紙だからと好き放題を書き過ぎではないのですか? これでは次回の五大貴族会議で槍玉に挙げられますよ」
「そうは言っても、これが事実なのだから仕方がないだろう。あの時点でディッカー卿をイシュトナルに向かわせているとは夢にも思わなんだ」
「本当は気付いていたのでしょう? 共闘の褒美にしてもやり過ぎだとは思いますが」
「あの状況で仲間割れは起こせんよ。ウァラゼルを倒すための手段が向こう側にあった以上な。つまるところ、最初から主導権はあちら側にあったということだ」
忌々しい、と言わんばかりに鼻を鳴らすモーリッツだが、その表情にはそれほど苦渋の色はない。
「御使い、ですか。このようにはっきりと書いてしまってよろしいのですか?」
「いいも何も、本人がそう名乗ったのだ。書くしかあるまい」
「御使いが人を襲い、それをエトランゼが倒した。果たしてこの事実を教会はどう釈明するのでしょうか?」
「……教会の権力は絶大だ。どうとでも理由を付けるだろう。それに姿を消したカーステン卿のこともある」
「それでは、エレオノーラ様は教会とオルタリアの両方を敵に回すことになりますね」
「それはそうだろうな」
身体を解すためにモーリッツが両腕を伸ばし、軽く肩を回しながら続ける。
「……何もかもが、これまでと違う」
父王の死から始まったエレオノーラの逃亡劇は、誰も予想だにしない形で収まった。
果たして何処までが人に手によって運ばれ、何処からが運命によって形作られたのか、神ならぬモーリッツには判るはずもない。
ただ、小さな予感が一つ。
「変革はまだ終わらぬ。そもそもがおかしかったのだ。我等にない力を持った異邦人、エトランゼがこの世界にやって来て十年以上、よくも変わらずに過ごせていたものだ」
「正しいかどうかは別として、それにはやはりエイスナハルの影響力が大きかったからでしょう」
「そう。そしてそれは変わってしまった」
エトランゼに討たれた御使い。
それらは容赦なく、人の命を刈り取る神の使いどころか、悪魔にも等しい存在だった。
それが意味するところ。そしてその事実を目の当たりにした人々がどう変わっていくか、今なお王宮で自らの地盤固めをしているヘルフリートには理解できていないだろう。
「楽しそうですな」
「そうか?」
顔に出ていた不用心さを反省し、厳めしい表情を作って見せる。
それを見た長年の付き合いである副官は、小さな笑いを零した。
「これから変わっていくぞ、この大地は」
その声色には、モーリッツ自身がそうあって欲しいという希望が含まれているようにも聞こえたが、長い付き合いからそれを指摘しても否定されると判っていた副官は何も言わず、ただ頷くだけだった。
彼方の大地で綴る 第一章 完
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