第十七節 小休止であるか
弾かれるように、何もない空中からヨハンの身体が現れる。
最早受け身を取る体力も残っておらず、無様に地面に落下して、全身を強く打った。
落ちたのが草の上だったのがせめてもの救いで、多少は衝撃を吸収してくれたものの、疲労もあってか当分は動けそうにもない。
「……やはり、長距離の転移はポータルを開かないと無理があったか」
短距離での転移魔法は、ギフトを使えた状態ならばそれほど難しいものではない。
しかし、それが長距離ともなれば話は代わり、ポータルと呼ばれる門を魔法によって築いて初めて安定した移動が可能になる。
そんなことをしている時間はなかったので、無理矢理に魔法を発動させた結果がこれだった。
身体を転がして、俯せから仰向けに態勢を変える。
「しかし、ここは何処だ?」
幾ら何でも無茶が過ぎたかも知れない。できるだけディッカーの屋敷の傍に転移したつもりだったが、今ここで魔物やウァラゼルのあの異形に襲われたら一巻の終わりだ。
ゆっくりと感覚を確かめるように腕を動かして、左胸に当てると、心臓は間違いなく鼓動を刻んでいる。
その横に埋め込まれたエリクシルの気配は、全く消え去っていた。
もう、ギフトを使うことはできない。あれを作りだすのに数年の歳月と、極めて限定的な状況が必要だった。もし同じことをやれと言われても、それは難しい。
ヨハンが再び森羅万象の力を振るう機会は、永遠ではないにせよ、当分の間失われたことになる。
「あの、大丈夫ですか? ……って、ヨハンさんじゃないですか!」
そんな声がして、首だけを動かして見てみれば、護衛と思しきエトランゼを引き連れたサアヤが驚いた顔でこちらを見ていた。
彼女がやってきた方角を見れば、道の先に幾つかの建物が連なっていて、どうやらディッカーの領地の随分と近くまでは来ていたらしい。恐らくは行き倒れた避難民がいないかどうか、見て回っていたのだろう。
「ここは一人で大丈夫ですから、エレオノーラ様に報告をお願いします」
サアヤの言葉を聞いて、一緒にいたエトランゼ達は街の方へと戻って行った。
「まずは怪我を治しますね」
傍に膝をついて、翳された手から淡い光が照らし、ウァラゼルに付けられた傷がゆっくりと塞がっていく。
それだけではなく、先程地面に叩きつけられた痛みも消えて、体力も少しずつではあるが戻って来た。
「どうしてこんなところに一人で?」
「時間を稼ぐのに、ウァラゼルと戦ってきた。……離脱に失敗してこの様だがな」
「お一人でですか? それじゃあやっぱりヨハンさんのギフトは……」
首を横に振る。
「残念だが、あれはもうない。恥ずかしながら今の俺はギフトを持たないエトランゼだ」
口ではそう言ったが、それほど残念とは思っていない自分がいた。
「全然、恥ずかしくなんかありませんよ」
サアヤのリザレクションの効力は相当なもので、もう傷も痛みも完全に消え去っていた。
起き上がろうとしたヨハンの身体を、そっと伸びてきた手が制する。
「あの、よかったら……。もう少し、休んでいきませんか?」
「……ここでか?」
「は、はい! 草の上ですけど、柔らかいですし……。わたしが辺りの様子は見ていますから、危険はありません」
「いや、別にそこは問題ないんだが……。そっちも仕事があるだろう?」
「今日は今の見回りで最後でしたので。むしろ周りから、少し休んだ方がいいって言われてしまいました」
「……そうか。無理をさせたようだな」
彼女がいなければ、下手をすればエレオノーラの軍はもう駄目になっていたかも知れない。
ここ数日だけで、そのギフトで数え切れないほどの人の命を救ってきたのだろう。
「いいえ。逆にわたしはそれしかできませんから。それに、不謹慎ですけど、少しだけ嬉しいんです」
「嬉しい?」
サアヤの口元は小さく綻び、まるで幼き日の思い出を語るかのように、その口調は普段より増して柔らかい。
「憧れていた貴方のお役に立てましたから」
「……その憧れは、」
「判っています。貴方にとってはそれは数ある、それこそ数え切れないぐらいの挿話の一つでしかないことも」
多くの人を救った。
その過程で、命を奪ったこともある。
悩みもしたし、迷いもあった。だから、その中の小さな過程、救われた命のことなどは顧みたこともない。命が助かればそれでいい、それ以上は自分が干渉することではないと。
「でも、貴方の在り方はわたしを変えてくれました。この世界に来て迷い続けていたわたしが、自分の意思で立って歩もうとする力を貰いました」
「……なら、よかった」
結果としてヨシツグは裏切り、彼女が属していた暁風は壊滅状態となってしまったが。
それでもここでこうして、名実ともにヨハン達を支えてくれる理由になったのだとしたら、それでいい。
「あの……!」
「ヨハン殿!」
意を決したように、サアヤが何か言おうとするのと、離れたところから、よく通る声が響いてきたのはほぼ同時だった。
「無事であったか! 心配したのだぞ。……まだ何処か不調があるのか?」
「いえ。さっきまではぼろぼろでしたが、今はサアヤのおかげでだいぶ楽になりました」
上体を起こし、そのまま立ち上がる。
そんなヨハンを見て、サアヤが少しだけ面白くなさそうな表情に変わったのだが、残念ながらそれに気が付くことはなかった。
「あと二日もすればディッカー卿とトウヤ達も戻ってくるでしょう。それから、モーリッツ卿との共闘戦線を張る形になりました」
「おお、そうか! 妾の命を狙った男と共に戦うのは思うところはあるのだが……」
エレオノーラがちらりとディッカーの屋敷を見る。そこにヴェスターがいるとすれば、今更という話だ。
「しかし、今は非常時だ。敵味方の区別なく、あのウァラゼルを撃破せねばならぬ。それに、ヨハン殿が傍にいてくれれば奴等も滅多なことはできぬだろうよ」
「あまり期待されても困りますがね」
「そういう時は、胸を張って任せろと言うものだぞ? それよりも、ウァラゼルを倒す手段は何かあるのか?」
エレオノーラの質問に、何故かサアヤが悲壮な顔をして俯く。彼女なりに、ヨハンのギフトが失われたことを心配してくれているのだろう。
「あります。先程ウァラゼルと交戦して、確証を得ました」
「交戦!? 無茶をする! 身体は何ともないのか?」
「ですから、サアヤのおかげで問題ありません」
「そ、そうか。……サアヤ、そなたには何度も助けられたな。本当に、幾ら感謝してもしきれん」
「いえ、そんな……」
エレオノーラに深々と頭を下げられて、サアヤは少しばかり気まずそうに顔を背ける。
「しかし、うむ。そうだな、うん。ヨハン殿、今後のことの話しあいと、ウァラゼルと戦った件をしっかり聞かねばならぬ。どうだ、これから妾と会議を」
ヨハンの手を引っ張り連れていこうとすると、反対側からそれに反発するように、重りが加わる。
「駄目です。ヨハンさんは今非常にお疲れですから、身体を休めることが先決です」
「なんだと? ふむ、それは確かに問題だな。ならば会議は取りやめにして、一先ずは二人でのんびりとお茶でもいただこうではないか。知っているか? エトランゼが入れてくれるあの甘い、牛乳を混ぜた紅茶は非常に美味で、疲れなど一気に吹き飛ぶだろう。なぁに、話などはそれを飲みながらすればいい」
「ですから! エレオノーラ様と一緒では気が休まらないのではと言っているんです! 仮にもお姫様なんですから!」
「か、仮とは何だ仮とは! ……いや、今は兄上と敵対しているから間違ってはいないが……。とにかく、ヨハン殿は妾と一緒に行くのだ」
ぐいと、エレオノーラが自分の方にヨハンの腕を引っ張る。
それに対抗するように、サアヤも余った方の腕を自分の方へと引いた。
「いいえ。ヨハンさん疲れていますし、これからも激務が待っているのですから、今だけはゆっくりと身体を休めなければなりません! その間のお世話はわたしがさせていただきます!」
「そなたの言うことは判るが、事は一刻を争うのだ。妾達だけでも今後の方針を立てることにはちゃんとした意味があるだろう!」
「それで肝心なときに倒れてしまっては本末転倒です!」
「ほん……? エトランゼの言葉で妾を惑わすでない!」
「そっちこそ、権力とか仕事を使ってヨハンさんを独占するのをやめてください!」
ぐいぐいと腕を引っ張りあう二人。エレオノーラに至っては胸に抱え込むような有り様で、柔らかいものが当たっていることもお構いなしだった。
果たしてこの状況を治めるにはどうしたらいいものか。それ以前にヨハンはヨハンで別にやることがあるのだが、今言いだしたところで火に油というか、言葉一つで解決する事態とは思えない。
いよいよもって第三者の助けが必要というところで現れたのは、金髪で長身の自称旧友だった。
「おう、戻ってたか、ヨハン!」
片手を上げて軽く挨拶してから、ヴェスターは二人を見て眉を顰める。
「人を働かせて遊んでんじゃねえよ」
「……そんなつもりはなかったんだが」
「そうです! ヨハンさんはいつもわたし達の為に……」「そうだ。そなたのような荒くれ者には判らぬだろうが、ヨハン殿はいつでも妾のために……」
「誰だってそうだろうが。だったらあっちで荷物運びしてる兵隊は、お前とか、他の奴等のために働いてねえってのか?」
「う、」「そ、それは……」
「避難してきた連中も手伝って、あのウァラゼルを押し留めるために必死だってのに、なんで頭の方にいる奴等が働かねえんだよ」
意外な人物から飛び出した、ぐうの音も出ないほどの正論に言い負かされて、二人は言葉を失うばかりが、ずっと掴んでいたヨハンの手も手放してしまった。
「おう。そんで、お前のチビ弟子と遊んでやってたんだけどよあの、あれだ……あれ。セレスティアルって奴の攻略方法が掴めそうだぞ」
「本当か? それは助かる。一応、当たりはつけてはあったが」
「俺が判ったことは、百回ぐらいぶっ叩けば罅が入るってことだな。ただ、嬢ちゃんが意識して防御に回そうとしたり、光自体を分厚くするとその限りじゃねえ」
「やはりか。そうなると物理攻撃による突破は現実的ではないか……」
「ただよ、至近距離でぶっ叩けば衝撃はちょっとだが伝わるっぽいぜ。頭がんがん殴ったら痛がってやがった」
「……絵面は虐待だな」
「仕方ねえだろ。だいたい、あんなのの相手させられる方の身にもなってみろよ。ギフトもくそもあったもんじゃねえ、自分自身を全否定された気分だっての」
他にも聞きたいことがあったので、カナタの元に向かいながら続きを話すことにして、ヨハンとヴェスターは連れだって歩き出していった。
本当はハーマンが残していった物資から、ウァラゼルとの戦いに使うための魔法道具を作成するつもりだったのだが、それは後回しでもいいだろう。
何にせよ、モーリッツの部下がヨハンの家から目的の物を持って来てからが本番になる。それからはウァラゼルが再び動きだすまでの間、寝る間もないだろう。
去っていった二人を見送ってから、エレオノーラとサアヤは顔を見合わせて、お互いに溜息を吐くのだった。
▽
「てりゃあああぁぁぁぁぁぁ!」
掛け声と共に気合いを込めた一撃が振り下ろされ、その手に握った光の剣が美しい軌跡を描く。
それに対するには極光とは対をなすような、漆黒の輝きを放つ剣がそれを受け止める。
極光を持つ少女、カナタはすぐに光を一度消して、巻き込まれないようにしてから今度は右手の甲に光を集中。
容赦なく振り抜かれた剣がカナタの光にぶつかり、それを貫きこそはしなかったものの、伝わってくる衝撃はその小さな身体を吹き飛ばすには充分すぎるものだった。
「まだまだぁ!」
その隙を逃さずに、一気に距離を詰めてきたヴェスターの剣が、唸りを上げて襲い掛かってくる。
極光の盾でそれを防御。
ヴェスターはすぐさま一歩下がって、今度は足元を狙ってきた。
腕を動かしている時間はない。光の範囲を広げて、盾から壁へと変えることで防御範囲を増大させるが、引き伸ばしたことによって強度自体は薄れてヴェスターの剣が食い込み、突き破ろうと浸蝕する。
「やっぱ異常に固いだけで、それ以上の力を加えりゃぶっ壊せるみたいだな!」
「うううぅ!」
唸り声を上げながらその場で踏ん張って、どうにかヴェスターを押し返す。例え彼ほどの膂力があったとしても、セレスティアルの強度は一気に破壊できるほど脆くはない。
大方二歩分の距離を話したところで光を解除して、そのままヴェスターの剣の間合いの外へと一度逃げる。
「そら!」
魔剣士ヴェスター。そう呼ばれる剣士は一切の情け容赦もなく、腰に差していた短剣を真っ直ぐに放り投げた。
カナタの極光の盾はそれを弾き飛ばし、その隙を突いて一気に距離を詰める。
盾を解除して、今度は剣へ。
カナタの極光が生み出せる剣の長さは決して長くはない。以前からよく使っていたショートソードほどの長さしかなく、リーチの上ではヴェスターの方が圧倒的に有利だった。
「うらぁ! まだ行くぜ!」
加えて実力も上手ではあるがヴェスターとてカナタの極光、セレスティアルを正面から攻略するのは容易ではない。
一気に懐に飛び込み、発生した光の刃で上から下に切り上げる。
「いい飛び込みだがな!」
速い。
ヴェスターの反応速度はカナタのそれを遥かに超えている。
一見すれば隙を突いたように思えたとしても、彼にとってはそれは大したことではない。
例え無駄な動作を挟もうと、次の動きをそれより早くする。口で言うのは簡単だが、実行するとなれば最早人間離れした能力を要求されることを、こなしてしまう相手なのだ。
迎撃に斬り下ろされた魔剣を、紙一重で回避する。殺気は本物で、カナタが反応を誤れば容赦なくその頭を両断していた。
「そこまでだ」
そのまま側面に回り込もうとしたところを、先んじて大剣がルートを塞ぐ。あわやぶつかりそうになって急停止をしたところで、伸びてきた手がカナタの頭を抑え込んだ。
「むぎゅ」
「はい。今ので死んだぜ?」
「えー、嘘だぁ! 判定に疑惑があるよ!」
「ねえよ。その気になりゃ首と胴体がおさらばだ」
がくりと肩を落とし、ついでに襲ってきた疲労感に耐えきれずに、地面に座り込む。
ヴェスターを見上げるように、納得いかないと頬を膨らませるカナタを見て、当の本人は大人げなく勝利の余韻を感じていた。
「いやしっかし、これを使い物になるようにしろってのはまぁ、なかなか無茶振りだぜ」
「そ、そんなことないよ、多分!」
「いやいや、むしろお前さんどうやって生き残ってたんだよ? 最初にやりあったときにもちょっと思ったが、剣の振り方も間合いの詰め方も滅茶苦茶じゃねえか」
ここ数日の、カナタ本人としては認めたくはないが、自称、暫定的な剣の師匠の厳しいお言葉が降り注ぐ。
ヨハンの帰還から数日。エレオノーラ達は連日の会議の末に、ウァラゼルを攻略する計画を打ち立てた。
その中心となるのがやはりヴェスターであり、何よりもウァラゼルと同じセレスティアルを持つカナタだった。
そのために必要不可欠であるのが、カナタの戦闘力の増強である。ウァラゼルの相手をするのに、現状のカナタでは周りのサポートがあったとしても返り討ちにあうであろうというのがヨハンの予想で、哀しきかなそれに対して反論するものは誰もいなかった。
そのため、カナタ自身の強くなりたいという願いもあってこうしてヴェスターに稽古を付けてもらってはいるのだが。
「落ち込むなよ。最初の駄目駄目なときに比べりゃ明らかによくなってるじゃねえか。現に俺の懐に飛び込むことは成功してるわけだしよ」
「……懐に飛び込むだけじゃん。それもギフトがあってのことだし」
ぽんぽんと頭を撫でられるが、それを頭を横に振って拒否する。
「別にいいじゃねえか。ギフトを含めてお前なわけだしよ。……俺個人としてはギフトに依存しないその考え方は褒めてやってもいいけどな」
「別に褒められても嬉しくないし」
「おいおい、嫌われたもんだぜ。いい加減に認めろよ、俺はお前の剣の師匠なんだからよ」
「師匠って言っても何にも教えてくれないじゃん! こう、型とか、奥義とか!」
「奥義ぃ? ……漫画の読み過ぎだろ」
「なんでそこだけ素になるのさ!」
「真面目な話、俺の剣も我流だからなぁ。教えてやれることはねえぞ。実践あるのみだ」
「……はぁ。だよねぇ。役に立たないねぇ」
「ほんとお前、俺にだけは厳しいな」
呆れるヴェスターだが、カナタからすれば命を奪われかけた相手なのだから当然だ。それでもここまで許しているだけ、周りから見れば驚くべきことではあるが。
「馬鹿共はエトランゼって名前に縛られ過ぎてやがる。どいつもこいつも、ギフトに頼り過ぎなんだよ、いい意味でも悪い意味でもな」
漆黒の剣、魔剣と呼ばれる禍々しい刀身を地面に突き刺して、ヴェスターはそう話を始める。
「だって、ボク達はこの世界に来て、ギフトって力を貰ったから……」
「貰ったからなんだってんだよ。お前って人間がなんか変わったか?」
「えっと……。それは、多分変わってない……。と、思うけど」
そんなことはカナタに判ることではないが。
少なくとも自分がどういう人間だったか、ギフトがあろうがなかろうがこれまでにやってきた行いが変わったかと問われれば、恐らくは変わらない。
そもそもにしてカナタのギフトはつい最近までは役立たずだったのだから、当然ではあるのだが。
「俺だってそうだ。たまたま人より強い力持ってただけさ。別に俺って人間が何か変わったわけじゃねえ。例えこのギフトを持ってなくても俺は俺だぜ。……多分、あいつもな」
ヴェスターの言葉が誰を指しているのかは聞くまでもないことだ。
戻ってきたトウヤから、ヨハンのギフトについての話を聞いた。それを使って、ウァラゼル相手に互角に立ち回った上に、今日まで時間を稼いでくれたと。
カナタの知らない、その力の万全に振るえたときのヨハンのことは想像するしかないが、やはり今と何も変わらなかったのだろう。
だが、それは強力な力を持っている者の言い分に過ぎない。仮にヨハンやヴェスターが強い力を持っていなかったときにどういった行動をとるかは、カナタには判らない。
そんな「もしも」の話をたところで、栓無きことではあるのだが。
「俺の理屈だ。殺されりゃ死ぬ、それはエトランゼもそうでなくても変わらねえ。人間だからな」
「……人間、だから」
「ああそうだ。エトランゼにも悪人は幾らでもいるしな。全員が善人ってことはありえねえだろ。事実、差別にあったときにこっちの人間も恨む奴もいれば、それでもどうにか生きる道を探る奴もいる」
カナタの頭の中に過ぎったのは、ヨシツグとそれから以前農村で出会った老婦人だった。
エトランゼもオルタリア国民も関係ないと言ってくれた老婦人と、エトランゼの国を創るという遠大な目的のためにウァラゼルに従うヨシツグ。
カナタの考えが深まろうとしたところで、上から伸びてきた手がぐしゃぐしゃと髪の毛を掻き混ぜる。
「俺としたことが柄にもなく語っちまったぜ」
「やーめーてーよー!」
「おら立て。修行の続きだ」
「修行じゃなくてしごきだよこれ」
「どっちも違わねえだろ」
それに反論もできないまま、口では文句を言いながらもヴェスターと距離を取ってセレスティアルを出せるように構える。
ウァラゼルとの決戦がいつになるかは判らないが、決して遠い日の話ではない。
カナタにできることは、その日まで少しでも実力を高めることだけだった。
大切な人達を護るために。理不尽による死を少しでも減らして見せるために。
その細い両肩に掛けられた期待は、余りにも重い。
▽
ヨハンが戻り、ディッカーとトウヤが帰還してから一週間。
モーリッツが各所に放った斥候により、異形達の大規模な行動開始が観測された。
仲間達の大半を失いながらも、無事に生還した斥候の一人が語るには、確かにその中心にドレス姿の少女と、鎧姿の男と女の姿を見たという。
そして恐らく本隊と思われるそれらは、王都ではなくディッカーの治める領地を目指していた。
「ついにこの時が来ましたな」
現在ディッカーの屋敷にある会議室では、エレオノーラを中心として、ヨハン、ディッカー、モーリッツと、それからエトランゼの暫定代表としてトウヤが席を共にしている。
「作戦は以前から伝えていた通りだ。可能ならば王都に向かうウァラゼルの背後を突きたかったが」
「奴等の目的がこちらにあるのならば仕方あるまい。随分と怒らせたようだが、エトランゼ、ヨハンよ」
「戦術的には不利になりましたが、幸いにしてウァラゼルと戦った地点からここまでの住民の避難はほぼ完了しています。余計な犠牲が出なかったことは、エレオノーラ様の望むところであるかと」
その言い分を聞いて、モーリッツは「ふん」と鼻を鳴らした。
「最終確認をするぞ。本当に可能なのだな? 全軍を持って正面からあの御使いに当たり、それを倒すことが」
作戦、というほど大層なものがあるわけではない。早い話が全軍突撃だ。
両軍がぶつかり、ウァラゼルまでの道を拓く。その隙にカナタを中心とした精鋭が彼女を倒す。言ってしまえばそれだけの話だ。
「まさかここに来て力押しとはな。それも力で言えば人間を遥かに超える御使いを相手に」
「人知を超えた相手に、人間の策が通用するとは思えません。仮にそれができたとしても、俺達はウァラゼルに対する情報が少なすぎる」
そしてそこで下手を打てば、最早全軍は瓦解し今度こそ立て直すことは不可能になるだろう。
今でさえ、モーリッツの援軍があるとはいえ軍の形を保っているられるのが奇跡のようなものだ。
「まあいいだろう。今更話しあうこともあるまい。ここに来たのは意思確認のようなものだ。背中を刺されるのも、逃げられるのも御免だからな」
「……後から来たくせに偉そうに。いてっ」
そう呟くトウヤだが、ヨハンに背中を抓られて再び押し黙る。
「我々は前座なのだろう? せいぜい戦力を減らしてやるとするさ、そちらの今後のためにもな」
そう言って、モーリッツは部屋を出ていこうとする。
会議室の扉に手を掛け、少しだけ開いた状態で、彼は何かを思い出したかのようにヨハンの方を首を回して振り返る。
「そうだ、ヨハン。どうせ勝っても負けても当分は会うこともないだろうから、一つ聞いておきたいことがある」
「なんでしょうか?」
「あの御使い、悪性のウァラゼルが真っ直ぐに王都に向かわずにこちらに来たこと、お前はどう思う?」
「モーリッツ! そんな言い方はないだろう。ヨハン殿は最善を尽くした結果、ウァラゼルがこちらを脅威と判断した。その活躍なくしてそなた達の帰還は……」
エレオノーラが身を乗り出して庇うが、それを手で制する。
モーリッツの真意はそこにはない。
もっと別の、こちらの心の奥を見透かそうとする魂胆がそこにあった。
「先程の通りです。余計な犠牲が出なかったことは、喜ばしいことでしょう」
「……ふん、ならいいが」
扉を開けてモーリッツが出ていく。
一時の共闘とはいえ、本来ならば敵対者である彼が出ていったことで、会議室の空気が少しではあるが和らいだ。
「トウヤ。確認になるがお前の仕事はエトランゼを率いての遊撃だ。よく打ち合わせをしておけ」
「それはいいけど……。俺でいいのかよ? ヨシツグの仲間の方が上手くできる奴はいると思うぜ?」
「そのヨシツグが敵として立ちはだかったとき、冷静な判断を求められるだろうな。お前が冷静かどうかはともかく、少なくとも彼が敵か味方かで混乱はしないだろう」
ヨシツグと一緒にいた時間が長ければ長いほど、彼と相対したときに迷いは深まる。想像したくないが、もしヨシツグが甘言を用いてこちらを混乱させようとしたときに、彼の元仲間ではそれに流される危険性がある。
「ヴェスターはどうなんだよ?」
「奴はカナタの護衛だ」
「マジで? ……相性最悪じゃん」
トウヤの言うことはもっともなのだが、今現在の戦力で、最強の個人戦闘力を誇るのがヴェスターだ。逆に言えば彼を除いてカナタの前に立ちはだかる大量の異形を突破してウァラゼルの元に辿り付ける人材は存在しない。
「俺じゃ実力不足ってことか」
「……そうなるな」
「別にいいさ。むしろ、分不相応なことやらされないで気が楽だ……っていっても、今でも充分プレッシャーだけどさ」
以外にも、軽やかな口調でそう語ってくれた。
「じゃあ、俺は最終打ち合わせをしてくるよ。俺も未熟だし、どうしていいかなんか判らないから結局は現場で判断することになるんだけどさ」
モーリッツに続き、トウヤも部屋を後にした。
「いいものですな、若さとは」
その場にいるのが三人だけになったとき、唐突にディッカーがそう言った。
「気に入りましたか、トウヤが?」
「ええ。あれほど真っ直ぐな若者は珍しい。姫の片腕たるヨハン殿が入れ込むのも、よく判りますよ」
にこやかにそう返される。
そんなつもりはなかったのだが、ディッカーにはそう映ったのだろうか。
「ディッカー。すまぬな、こんなことに巻き込んで」
殊勝にも、エレオノーラは沈んだ声でそう語りかける。
「本来ならばそなたには関係のないこと。しかし、そなたが妾達を救ってくれなければ何もかもが終わっていた」
「……私は、元々王宮で暮らすことが耐えられない質でしてな」
席を立ち、会議室の窓へとディッカーが移動する。
「腹の探り合い、味方を作り敵を貶める。同じ国の民でありながらそうして生きることがどうにも苦手で、気付けばイシュトナルという辺境へと配置されていました。もう妻と子とも、一年も会っていません」
「……ディッカー……」
王宮の暮らしはヨハンには想像しかねるが、恐らくは五大貴族を初めとする権力者達の水面下の闘争が絶え間なく繰り返されていることだろう。
彼は王と旧知であり、先代のヨハンとも結びつきを持ちながら、それを放棄した。
「あの場所で、イシュトナルで静かな余生を過ごすつもりでしたが、姫様がこの地に逃げ込んで……いいえ、モーリッツ卿の手から逃れたとの噂が流れてきたときに一つ、年甲斐もなく高揚する自分がいたのです。
果たして姫様は、この大地をどのように変えてくれるのかと」
若く、無謀な姫はエトランゼとの共存を唱えて城を追われた。
しかしそれは、今は誰にも理解されなかったとしても、決して捨ててはならない主張。
「現にエトランゼはこの世界にやってきているのです。彼等の望む望まないに関わらず。そんな彼等を排斥せずに共に生きようとする考え、それはきっとこの国を変えるでしょう。ですがまぁ、もう少し利口なやり方があったのではないかと思われますが。ヨハン殿も」
「……いや、まったく。返す言葉もない」
「うむ……。妾ももう少し思慮深くあるべきであったか」
「それは、そうでしょう」
「……ヨハン殿。やっぱり妾に厳しくないか?」
それを聞いたディッカーは、やはりエレオノーラはよい家臣を持ったと、控えめに笑うのだった。
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