第十二節 御使い

 ヨシツグの陽光の剣が敵を纏めて薙ぎ払い、背後から迫る兵士達はトウヤの放った炎で足止めをする。

 要塞内部に侵入したのはエトランゼ達の中でも精鋭中の精鋭。突然の奇襲に浮足立った兵士達に止める術はない。

「ヨシツグ、こっち!」

 先行していたナナエが、敵兵の首筋に短剣を突き立てながら、一行を手招きする。

 約二十名からなる精鋭部隊は、この要塞の構造をディッカーから聞いていたのもあって、楽に歩みを進められた。

 道中の兵も大半が降伏し、向かってくる者達も相手にはならないという有り様だった。

 そうして三階を過ぎて、最上階である四階に辿り付くころには、誰もその行く手を阻む者はいなくなった。

「この部屋か!」

 逸る感情を抑えることもせずに、トウヤが蹴破るようにして部屋の中に飛び込んでいく。

 その片手に炎を纏い、もう片方には剣を構えて、部屋の中を見渡してから一息に叫んだ。

「動くなよ! もう要塞の大半は俺達が抑えてある。無駄な抵抗をすれば殺さなきゃならない」

「き、貴様等……!」

 部屋の中に居たのは、男が一人だけだった。てっきりあのカーステンとかいう奴もいると踏んでいたトウヤは、少しばかり拍子抜けしながらも、注意深く辺りを警戒する。

「エトランゼ風情が!」

「そのエトランゼにあんたは負けたんだよ! 滅多なことしなけりゃ殺しはしないから、早く部下を降伏させてくれ」

 この要塞の主、クレマンは忌々しげに唇を噛むが、今の彼にこの場をどうにかする術はないだろう。

 目配せをすると、ヨシツグの指示で彼の部下がクレマンを縄で拘束する。

「これで戦いは終わりですね。ヨシツグさん、早くこいつを連れて外に行きましょう」

 トウヤは部屋を後にしようとするが、何故かヨシツグは動かない。

 彼だけではなく、この場に居る彼の部下達の誰もが、その場を動こうとしない。

「トウヤ。君はこの戦いについてどう思う?」

「どうって……。早く終わらせなきゃいけないでしょう。そうすれば流れる血だって少なくてすむ」

 時間も、物資も、兵力も、何もかもが足りない状況での戦いだった。

 だからこそ、ヨハンは一人で聖別騎士を抑える役目を買って出た。無茶をすることで少しでも作戦成功率を上げるために。

「あいつもいつまで持つか判らない。早く戻りましょうよ」

 クレマンを引っ張って出ていこうとするトウヤを、ヨシツグは腕を伸ばして明確な意思を持って妨害した。

「このまま戦っても、俺達の勝利じゃない。全部、あいつらに持ってかれてしまう」

「なに言って……!」

「トウヤ。考えてみてくれ。俺達が、エトランゼが幸福に生きるために何が必要なのかを」

「だからさ、今そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」

「今って、チャンスなんじゃない?」

 そう口を挟んだのは、ヨシツグの隣に立っているナナエだった。

「外であのヤバい奴、聖別騎士と戦うだけ戦わせてさ、上手いところ共倒れを狙って、それからアタシ達エトランゼで要塞を占拠すれば……」

「そう。俺達は拠点を手に入れられる。食料も物資も充分にある、この要塞を」

「……何考えてんだよ、あんたら!」

 トウヤの叫びに同意する者はいない。この場に居るエトランゼの精鋭は、つまりはヨシツグと共に戦場を駆けていた。

 誰もが彼の言葉に賛同する。彼と共に、エトランゼの理想郷を目指して戦ってきた者達だった。

「よく考えてくれ、トウヤ。この戦いに勝ってどうなる? オルタリアがあって、あのお姫様がいる限り俺達の理想郷は訪れない。エトランゼのために、一番正しい道を選ぶべきなんだよ」

「……エトランゼのために……?」

「アタシもそう思う。だってこのままじゃ、ヨシツグが上に立てないじゃん? アタシはヨシツグのこと信頼してるから、誰だか知らない奴よりも一番上に立つに相応しいと思うしね。みんなもそうでしょ?」

 ナナエが同意を求めると、その場のほぼ全員が頷き返す。

 それを後押しにして、ヨシツグは更に弁舌を披露する。

「俺達は同じエトランゼの仲間だろ? 一緒に協力して理想郷を目指そうじゃないか!」

「……あいつはどうなる?」

「ああ、ヨハンか。確かに彼は姫との関係も深そうだし、説得するには骨が折れるだろう。でも、カナタが俺達の味方になればどうかな?」

 見上げるヨシツグの瞳の中に、小さな狂気を見つけて、トウヤは一度押し黙る。

 この男は、カナタを説得して、それができなければ人質にでもするつもりなのだろう。

「アタシ的には別にあんなのいなくてもいーんだけどねー。ヨシツグ一人で充分っしょ?」

「そう言うなよ、ナナエ。信頼してくれるのは嬉しいけど、俺にだってできないことはある。だからみんなの力が必要なんだ」

 そう言って、ヨシツグは手を差し出す。

「あんたもさー、この世界来て、差別とか色々受けてきたでしょ? すっごい悔しくて、ムカついたと思うんだよね? ……少なくともアタシはそうだったし。それで、アンタはそんな奴等を信じられんの? この先何年も一緒に暮らしてけんの?」

 ナナエの疑問に、トウヤは即答することはできない。

 彼女の言うことは正しい。何度も苦汁を舐めさせられた、何度も悔しい思いをした。

 その状況を改善できるならと、ヨハンに手を貸すことにした。そして彼の行いが本当にトウヤの信じた道へと進むのか、今はまだ判らない。

「それにね、この作戦の要になったあの商人。あいつはエトランゼでありながら、エトランゼを奴隷として売り買いしていた。ヨハンはそんな彼と繋がりを持ったんだ。この意味が判るね?」

「本当にアタシらのことを考えてたら、そんな奴と手を組めないよね?」

 ヨシツグの手は、今も変わらず伸ばされ続けている。

 今ここで選べと、暗に告げている。重要なことを語らず、エトランゼだけでなく、元々のこの世界の住民とも共に生きようとするヨハン。

 エトランゼのために、虐げられてきた者達の為の理想郷を作ろうとするヨシツグ。

 ヨハンはヨシツグの思想を否定しなかった。それはつまり、彼の考え方にも一理あるということ。

 トウヤにとっても、それは間違いない。エトランゼだけの世界は、今でもまだ帰りたいあの世界に最も近しい。

「さあ、行こうトウヤ」

 優しく微笑む笑顔は、多くの仲間達の信頼を得るに足る。

 その実力は折り紙付きで、仲間を大切にする高潔な意思に支えられている。

 そんな彼が作る理想郷は、この世界に訪れて疲弊しているエトランゼにとっては最高の居場所となるだろう。

「ごめんなさい」

 すっと、ヨシツグから表情が消えた。

「ヨシツグさんの誘いはありがいです。でも、俺は……」

「……ああ、それならもう喋る必要はない」

 突として振るわれた剣が、トウヤの眼前を掠める。

 咄嗟にそれを避けられたのは、心の何処かでヨシツグの狂気に対する警戒があったからだった。

「……あんた……!」

「オルタリアに対抗するためにはエトランゼは一つでなければならない。だから、俺以外にエトランゼに影響を与える勢力は必要ないんだ。エトランゼの在り方は一つ、この世界の住民に反抗し、この世界を手に入れようと戦う者達でなければ!」

「ふざけんな!」

 炎を纏った剣が光を纏った盾に激突する。

 感情のままにトウヤが振るった刃は、辺りに紅蓮を撒き散らしながらも、ヨシツグの堅牢な防御を突破することはない。

「今はこんなことやってる場合じゃないだろ!」

「何度も言わせないでくれ、トウヤ。全てはこの世界に来て、理不尽に奪われ続けるエトランゼのためだ!」

「だったら……! 自分達がやられたら他の誰かにその理不尽を返してもいいのかよ!」

 少なくとも、トウヤの知る少女は違う。

 トウヤと同じように理不尽な扱いを受けながらも、決してそれを返そうとはせずに。

 それどころかその中心である王族を、命を賭けてまで助けようとする大馬鹿だった。

「あ、おい!」

 二人が本格的な争いに入ろうとしたところで、ヨシツグの部下が発したその一声がそこに水を差す。

 彼等が拘束していたクレマンが、結びが完璧でなかったのか、緩んだ縄を解いて、拘束を抜けて走りだしていた。

 向かう先は部屋の中央のテーブル。無我夢中で、少しでも抵抗できるものを探した結果だった。

 その手が、そこにある一振りの剣に伸びる。

 白銀の刃、美しい装飾、拭えぬ赤い血。

 その場の誰もが存在を無視していた剣。聖別武器、ウァラゼルに。

「た、助けてくれださい! エイス・イーリーネ、御使いよ!」

 自らの危機になって初めて彼は祈った。

 そうして剣を持ち、御使いの守護に縋った。

「ちっ!」

 ヨシツグがすぐにそれに対応する。

 聖別武器の威力は先の戦いでよく知っている。あれを振るわれれば余計な犠牲が出ることになるだろう。

 クレマンは剣を縦に構えて攻撃を防ごうとするが、ヨシツグの陽光を纏った斬撃はそんなことはお構いなしだった。

「がっ……!」

 その剣ごと、クレマンの身体が横に両断される。

 カナタの着ていたメイド服ごと彼女と貫いた切れ味を誇る剣は、意外なほどにあっさりとその刀身を二つに別たれた。

 クレマンの身体が床に落ちて、血だまりが広がっていく。

 返り血を浴びながら、ヨシツグは一切の情けもなく、今度はトウヤをそうするべくそちらを見た。

『うふ』

 ぞわりと、嫌なものが体内を撫でた。

『うふふっ』

 響くその声は、幼い少女のように甲高い。

 耳に届いているのではなく、直接頭の中に反響する歓声。

『ようやく出られる! ようやく出られたわ! ずっとでたかったの、ずっとよ、ずーっと! あなた達に判るかしら? もう百年? 五百年? 千年かしら? ううん、もうでもいいわよね。やっと、こうして出られるのだから!』

 それは一瞬のことで、誰も反応することができなかった。

 床に落ちたウァラゼルが一瞬輝いたかと思うと、倒れたクレマンを足蹴にして、一人の少女がそこに立っていた。

 全身を黒いドレスに包んだ銀色の髪に、紫色の目をした少女。この場には似つかわしくないほどの美しさと無邪気と、それを直視することが躊躇われるほどの不気味な悍ましさ。

 理屈ではなく、生物としての本能が彼女を忌避していた。

「君、は?」

「ええ、ええ! 自己紹介するわね! ウァラゼルの名前はウァラゼル! 御使いが一柱、『悪性』の御使い、ウァラゼルよ! よろしくね!」

 そう言ってスカートの橋をつまんで、小さくお辞儀をする。

 優雅で可愛らしいその仕草も、彼女の放つ威圧感の前では威嚇行動にすら思てくる。

「あの中であなた達の声を聞いていたわ! ねぇ、あなたとっても素敵よ。自分の理想のために色々なものを裏切って、同じ命をたくさん、たくさん踏み躙るのよね?」

 ふわりと少女の身体が舞うように浮かび、ヨシツグの前に行って彼の手を取った。

「たくさん、遊べるわ。たくさんのお人形さん達で遊べるの。とっても素敵よ、とってもね!」

「……君は、なんだ?」

 無意識に、同じ言葉をヨシツグは繰り返す。

「だから、ウァラゼルは御使い。『悪性』のウァラゼルよ! 人間ってこんなにお馬鹿さんだったかしら? 長年あの中に入れられてたから、ちょっと覚えていないけれど。

 そうそう。酷いのよ、ウァラゼルが人間を殺し過ぎたからって力を奪って、四肢を千切ってあの中に放り込まれたの! それから千年以上もそのままで! ……誰だったかしら? えぇっと、よく覚えていないわ……ああ、そう! 『黙示』の奴よ! 今度あったらびっくりするような悪戯してあげないと」

 口調こそ怒っているようだったが、ウァラゼルの表情は笑顔そのもので、本当に悪戯を考えているだけのようだ。

「あなた、素敵よ。人間さん。お話を聞いていたけど、この場で裏切って、この国を目茶目茶にするんでしょう? それってとっても悪いことよね! あなたも立派な悪性ね。仲間ができちゃった、嬉しい!」

 両手を頬に当てて笑うウァラゼル。

「ヨシツグは悪じゃない! アタシ達のことを考えてくれてるんだから。だいたい、あんたは何なのよ!」

「悪性じゃないの? ……まあどっちでもいいわ。それよりもウァラゼルは遊びたいわ。この場に集まってくれたお人形さん達と、ちょっと身体を動かしたいの。それからどうしようかしら? うーん、悩むわ。他の御使いに仕返し? 今一つ面白そうじゃないわ」

 くるくると楽しそうに回るウァラゼル。

 その圧力に耐えられなくなったのか、ヨシツグの仲間の一人が背負っていた槍を構えた。

「ヨシツグさん! このイカれ女をやっちまいましょう!」

 ヨシツグの返事も待たずに突きだされた槍は、無防備なウァラゼルの顔面に吸い込まれていく。

「なっ……!」

 傍目には、やはり少女を傷つけられないその男が咄嗟に手を止めたようにも見えただろう。

 事実トウヤも、驚愕に歪むその表情がなければそう思っていた。

 よく見れば槍は何かにぶつかって止まっている。

 少女の眉間のほんの少し手前、彼女が薄く纏う紫色の極光に阻まれていた。

 トウヤはその光に覚えがある。

「……カナタの、極光に似てる」

 色こそ違うが、それは彼女が扱っている光そのものだった。

「うふ」

 可愛らしく少女が笑う。

 手を振り上げて、指先から伸びた光が、槍を持った男の腹を容赦なく貫いた。

「うごっ……!」

「うふふっ、あははっ。弱い弱い! もう死んじゃうの? 駄目よ、それじゃあつまらないわ! だからお人形さんにしてもっと楽しんで……」

 ふっと、楽しげなウァラゼルから表情が消えた。

「あげない。よく見ればあなた、可愛くないもの」

 紫の極光はその体内で膨らみ、内部から破裂させられたかのように部屋中に血と臓物をぶちまけて、その肉体は完膚なきまでに破壊された。

「お人形に変えるなら女の子がいいな」

 そう言って彼女の瞳が捉えたのは、この場で唯一の女性兵士であるナナエだった。

「ナナエ、逃げろ!」

 ヨシツグがその前に立ちはだかり、陽光を剣に集める。

 極限にまで圧縮された太陽の光が、ウァラゼルに振り下ろされた。

 それは巨大な閃光となって、ヨシツグの前面をレーザーのように焼き払う。

 轟音と破壊の閃光が過ぎると、要塞の壁は吹き飛び、その先の空へと光が伸びていく跡が覗いていた。

 それだけの威力を持った、強力なギフト。

 トウヤでは真似できないそれを持ってしても、その光が過ぎ去った後に立つウァラゼルは、傷一つ負うことはなかった。

「なに……!」

「うふふっ、今のは眩しくて綺麗だったわ。そう言えば、あなた達は「そう」なのよね。贈り物を持っているんだったわね。でも可哀想、そんな弱い力しか持っていないなんて。きっと運が悪かったんだわ。そうよね、もっと強い力があれば、ウァラゼルと楽しく遊べたのに!」

 紫の極光が伸びる。

 ヨシツグは陽光を盾に纏わせてそれを防御しようとするが、そんなことはお構いなしに極光は彼の全身を包みこんだ。

「ヨシツグ!」

「ねぇ」

 ウァラゼルが背伸びをして、動けないヨシツグに顔を寄せる。

「やっぱりあなたは悪性よ。ウァラゼルには判るわ。悪性のセレスティアルが言っているもの、あなたは同じものだって。ううん、別に怒っているわけではないわ、むしろ喜んでいるの。ウァラゼルは嬉しいの、とっても素敵なことだもの!」

 ヨシツグの拘束が解かれ、彼は勢いあまってその場に尻餅を付く。

「ねぇ、来訪者さん、お人形さん。わたし、たくさん、遊びたいの? この意味が判るかしら? 遊ぶのは大勢でした方が楽しいのよ。だから提案」

 ウァラゼルの手がヨシツグの眼前に伸びた。

「一緒に壊しましょう、この大地を。あなた、気に入らないのでしょう? この世界で繁栄する人間が、外から来た来訪者であるあなた達を苦しめるのが嫌なのでしょう? だったらそれを全部、全部、ぜーんぶ壊してしまえば、その心の痛みは消えるわ」

 誰かが唾を飲む音が聞こえる。

 トウヤは止めようとするが、ウァラゼルの恐怖に足が竦んでいた。

 まさか、そんな決断をするはずがない。

 彼女は見た目こそ幼い少女だが、目の前で一人を斬殺して見せた化け物だ。

 ヨシツグは誇りを持って、エトランゼとしての生き方を全うするために、その提案を拒否するだろう。

「君に従えばいいのか?」

 その場の誰もが息を呑む。

 あれだけの強さを持ったヨシツグが、全く敵わない相手を目の前にして、屈しようとしていた。

「ううん。従う必要なんてないわ。あなたはウァラゼルのお友達として、一緒に遊んでいればいいの。そうすればいつの間にかこの大地から人が消えるわ。以前もそうだったもの」

「……その果てに、エトランゼの世界がやってくるのか?」

「さあ、ウァラゼルは知らないわ。でも来訪者さん達は放っておいてもこの世界に来てしまうもの。うん、そうね、そうよね。すっごく強い来訪者さんが来れば、ウァラゼルとも遊べる。そうすればきっと楽しいわよ。そう、そうしましょう!」

 楽しい、最高の遊びを思い付いたとでも言わんばかりに、ウァラゼルはヨシツグの手を握って上下に振っていた。

 ヨシツグは熱に浮かされたような顔で、周囲の者達は恐怖に引きつった表情で、それを見ていた。

 彼の判断が全てを左右する。

 やがて、長い葛藤の後、決断の時は来た。

「君の力になろう」

「うふふっ。とっても素敵」

「ヨシツグ!」

「アンタ正気かよ!」

 立ち上がったヨシツグは、トウヤに容赦なく剣の切っ先を向ける。

「正気だよ、俺は。エトランゼの未来のことを考えて、今は雌伏の時を選ぶんだ」

「そんなの、ただ死にたくないだけじゃないか!」

「死ぬわけにはいかないんだよ。エトランゼは俺が導いていかないといけないんだから!」

 陽光の剣が振るわれ、咄嗟に避けたトウヤの頬を掠めて、その後ろにある壁を切り裂く。

 その目は本気で、ヨシツグの太刀筋に一片の曇りもない。

「ナナエ。お前は助けてやる。こっちに来い。ウァラゼル、この娘も」

「ええ、いいわ。いいわよ。お友達だものね、ウァラゼルは優しいから、我が儘を聞いてあげる。うん、遊ぶのは大勢の方が楽しいもの!」

 怯えながらも、ヨシツグの元に歩み寄るナナエ。

 その腰を抱くようにヨシツグは支えると、ウァラゼルへと視線を向けた。

「みんな逃げろ!」

 トウヤは反射的にそう叫んでいた。

 無我夢中で放った炎は、やはりウァラゼルの極光に阻まれて彼女を焦がすことはない。

「あははっ、追いかけっこ! いいわ、ウァラゼルそれ得意よ! でも三人じゃ疲れちゃうから、ちょっとだけずるしてもいいわよね? だったそうでしょう、あなた達の方が数が多いもの!」

 ぽたりと、血が滴るように、紫の極光が降ろされた指先から床に落ちる。

 ウァラゼルの身体から、彼女の周囲の空間から、無数に落ちたそれは液体のように広がり、次第に個体へと形を変えていく。

「なんだよ、あれ……!」

 赤黒い剥き出しの肉、飛び出したような歯茎に鋭い牙。

 丸い目玉は眼球がそのまま外についているようで、それぞれが異なる形を持っている。

 その全てに共通しているのは誰も見たことがないような醜悪な異形であること。

 蟲のように、陸を這いずる魚のように、下半身をもがれた人のように。

 ずるずると、その口を広げて動き始めた。

「久しぶりね、ウァラゼルの『悪性』達。随分と久しぶりだからお腹が空いたでしょう? 本当は食べる必要はないのだけど、あなた達はそれが好きだものね。それ、食べてもいいわよ」

 床に落ちた、クレマンとエトランゼの戦士だったものを指さす。

 異形の内の一匹が、すぐさまそれに齧り付き、二度三度口の中で味わってから飲み込んでしまった。

「お、俺達も助けてくれ!」

 ヨシツグの部下達が、逃げようとするトウヤとは反対方向に駆けだして、ウァラゼルに跪く。

「ヨシツグさん! 俺達も助けてくれ、頼む。一緒にこの世界を手に入れたいんだ!」

 それを見下ろすヨシツグの目は余りにも冷たくて、トウヤはそこから先の惨劇を容易に予想できてしまった。

「ウァラゼル。弱いお人形さんは要らないわ。えっと、この……ヨシツグ?と、そっちの子は可愛いからいいけれど、他のは要らないの」

 駆けだしたトウヤの背中越しに、悲鳴と肉が裂け、骨が砕ける音が響く。

 人が死ぬ音を背中にぶつけられながら、トウヤは目を閉じてイシュトナル要塞を駆け抜けた。

 ここで死ぬわけにはいかない。まだ生きて、やらなければならないことがある。


 ▽


「ヨハン殿!」

「来るな!」

 背後からの心配そうな声に、半ば反射的に叫び返す。

 目の前に立つのは三騎の聖別騎士。ヨハンの持つあらゆる武器を試しても、彼等に傷を付けることは叶わなかった。

 その代わりというわけではないが、時間は充分に稼いだだろう。

 辺りには幾つものクレーターが出来上がり、使い終わった魔法道具により発生した魔方陣に、火や雷、氷の残滓が残っていた。

 既にこの場以外の大半は制圧済みで、敵兵も殆どが投降している。元よりここの指揮官に人望は殆どなく、彼等とて迷っていたのもこちらには追い風だった。

 ショートバレルを構えて、表情のない兜を睨む。

 あの中に入っているのが正常な人間ならば、この状況でまだ戦おうとは思わないはずだ。

 既に周囲を制圧されている。投降か、もしくは逃走を選ばなければ犠牲者の数が増えたところで、彼等は死を選ぶことになる。

 鎧の具足が地面を踏み鳴らし、砂埃が舞い上がる。

 剣を構えたその姿に、降参の意はない。

「お前達、もうよせ! これ以上戦っても命を捨てるだけだというのが判らぬか!」

 エレオノーラがヨハンの横に駆け寄り、そう叫んだ。

「危険です、姫様!」

 その声は届かない。

 三つの鎧はまるで意志なき機械のようにただ動き、殺すだけ。

 エレオノーラを庇い、ショートバレルの引き金に手を掛けたところで、奇妙な現象が起こった。

 投降するつもりはないだろう。彼等は剣を構え、まだ戦うつもりでいた。

 しかし、奇妙なことに、まるで電池が切れたかのように彼等の動きが止まったのだ。

「……止まったぞ? 妾達は勝ったのか?」

「それにしては様子がおかしい。まるで……」

 まるで、中の人間が突然死んでしまったかのような、急激な停止だった。

 痛みにも見たざわめきが心に広がる。

「なっ……!」

 エレオノーラの身体が不意によろめき、彼女は手を伸ばしてヨハンの二の腕の辺りを掴む。

 まるで幼子が、夜道で両親にそうするように。

 そうしなければ、闇の中に呑まれてしまいそうなほどの恐怖に耐えうるために。

 要塞の窓から何かが垂れる。

 肉色をした粘着質な何かは、地面に落ちるともがくように形を変え、やがて異形へと変化する。

 それらは一目見て、危険な代物だった。

「全軍を下がらせてください!」

 異形が動きだす。

 理性もなく、理由もなく、一番手近な命へとその牙を剥く。

 人間の形をしたもの全てに、情け容赦なく、何の区別もなくそれらは襲い掛かった。

 たちまちに混乱の坩堝と化したイシュトナル要塞に、もう一つの絶望が舞い降りる。

 要塞の四階部分の壁が溶けるように消えて、何者かが姿を現した。

 陽光を照り返す銀色の髪、この場にはまるで似つかわしくないほどに美しい少女。

 彼女を見れば心が騒めく。

 それは美しさに心を奪われたからではない。

 言い知れぬ恐怖に、未知なるものに対する畏れに、人の本能が叫ぶのだ。

 逃走せよ、恭順せよ、彼の者は絶対者であると。

「ヨハン、殿……。あれは」

 ヨハンは答えない。

 厳密には答えられない。

 それは、あれが何か判らないからではなかった。

 ――あれがなんであるかは知っている。

 以前も出会ったことがある。あれと同じ威圧感を持つ存在に。

 そして、それはヨハンから全てを奪った。

 かつて至上のギフトを持ち、人の頂より世界へと挑んだ愚か者。

 それを、単なる残骸へと貶めた正真正銘の怪物。

 エイスナハルの教典にその名は何度も登場する。信徒の言葉として、人々を戒める。

 父神であるエイス・イーリーネの忠実なる僕にして、世界を見通す者。

 彼の者達の名は御使い。決して人の届かぬ場所より見下ろす者達。

 彼女が要塞から顔を出すのと、正面の扉が荒々しく開かれて、トウヤが現れたのはほぼ同時だった。

 そして彼を追うように要塞の内部から這寄るのは、無数の異形達。

 その牙を、爪を、見ただけで吐き気が込み上げてくるような不気味な器官の数々を、人を屠るために振るおうと前進する。

 炎を撒き散らし、多数の異形を焼き払いながら、トウヤはヨハンのいる位置まで走ってくる。

「トウヤ、中で何があった? ヨシツグは……」

「ヨシツグさんは……俺達を裏切った」

「……なんだと?」

 トウヤの言葉は嘘ではない。

 少女の傍に控えるのは、鎧を纏った青年騎士とその恋人。

「御使いだ」

「御使い、だと……」

 驚愕に目を見開き、口を押えながらエレオノーラが呆けたような声を出す。

 それも無理もない。この国に住まい、エイスナハルを信仰するならばそれは絶対なる畏怖の対象であるからだ。

 幾度も教典に登場し、人を戒め時には導く神の使徒。

 その御使いが降臨した。その事実がどれだけ衝撃的なものか、エトランゼには判らないだろう。

 ふわりと、御使いの身体が浮かぶ。

 彼女はまるで風船のようなゆったりした動きで、ヨハンの前まで来ると、その身体を地面に下ろす。

「もう。無粋ね。ウァラゼル達御使いの力を使わないと動けないくせに、それを自分の力と勘違いしているのだもの。ウァラゼルはそういうのは嫌い! それに、これからはウァラゼルが遊ぶ番だから、不格好な人形は要らないの!」

 ウァラゼルが両手を翳す。

 その行動に嫌な予感がしたのか、三騎の聖別騎士の中からそれぞれ、くぐもった悲鳴のような声が響く。

 だが、彼女は一切の容赦をしない。掌から放たれた紫色の光は三つに分かれ、容赦なく聖別騎士達を貫いていった。

 その巨体がぐらりと揺れて、地面に倒れる。鎧の隙間から流れる夥しい量の血が、中にいるであろう誰かがもう助からないことを物語っていた。

「はじめまして、ウァラゼルはウァラゼル。御使いの一柱で、銘は悪性よ。面白そうなものを見つけたから、つい来ちゃった。あなた、変わった気配がする。不思議ね、あなたも外から来た人なのに、贈り物の気配がないの。どうしてかしら?」

 無邪気な少女の声でウァラゼルは喋り続ける。

 ゆっくりとヨハンに近付き、その胸に指を突きつける。

「ここにあるはずの贈り物がないの? いいえ、少し違うわね。あなたのそこには確かにそれはあって、でも空っぽなの。不思議ね! うーん……そうね、誰にそれをされたの? 可哀想! そんなことをするのはきっと『水月』か『残夢』とかよね? ウァラゼルもあの二人が嫌い! あの二人、弱いくせに意地悪ばっかりするんだもの!」

 彼女の、ウァラゼルの言葉は半分も理解できない。

 それでも彼女に浮かんだ酷薄な笑顔が、次に取るであろう行動を用意に予測させた。

「辛いでしょう? 悔しいでしょう? ウァラゼルが楽にしてあげる。ウァラゼルがあなたを殺してあげる」

 即座に放たれたショートバレルの弾丸が、ウァラゼルの身体に突き刺さる。

 炸裂する榴弾を装填したためそれは派手に弾け、その幼い少女を吹き飛ばした。

 そこに間髪入れず、トウヤの放った炎がウァラゼルを包み込んだ。

 情け容赦ない勢いの炎と、それが消えてからの斬撃。

 しかしそれは、皮肉にも自分達が彼女の前で如何に無力かを知らしめることとなってしまった。

 その攻撃はまるで硬質の金属を叩いたかのような感触がした。

 僅かに後ろに下がったウァラゼルだが、その肉体には一切の傷はない。

 それどころか、今の攻撃など全く通じていないかのように、平然とした顔をしてそこに立っていた。

 真っ二つに折れ飛んだトウヤの剣が、その絶望を端的に表している。

「うふふっ。そう、そうなの。遊びたいのね? それじゃあ、追いかけっこをしましょう、お人形遊びをしましょう! 今までずっと眠らされていたんだもの、今までずっとずーっと退屈に耐えていたんだもの。遊びたいわ、たくさんたくさんたくさんたくさん、遊びたいわ!」

 未知なる力の籠った声が、内側から身体を撫であげる。

 無邪気な少女の声は、それだけで聞く者の精神に侵入し、ぐちゃぐちゃに搔き回してしまいそうなほどに恐ろしい。

 それが、彼女が悪性たる由縁。

 そこに在る、それだけであらゆるものを冒して壊してしまう。

「……撤退だ。全軍、撤退だ!」

 ヨハンの声に反応して、エレオノーラが各所に指示を飛ばす。

 彼女の声を聞いた兵達は、ある者は動けない敵味方をお構いなしに助け起こして、迫りくる異形から逃げ出した。

「追いかけっこね! いいわ、わたし追いかけっこ大好き! でもね、一つだけ、一つだけ心配なの? 千年も前のことだったかしら? あのね、えっとね、わたし追いかけっことっても得意だから」

 ウァラゼルの掌に、薄紫色の極光が集まっていく。

 それはカナタのギフトと同質に見えるが、それが持つ色と相まってか、比べ物にならないほどに禍々しい。

「……不味い……!」

 彼女がその力を解き放とうとするだけで、大地は悲鳴を上げ、地面には幾つもの亀裂が走る。。

 柔らかいケーキ生地に無数のナイフを突き立てたように、ひび割れた大地はその姿を無残なものへと変えていった。

「悪性のセレスティアル」

 掌に生まれた光は、無数の閃光となって放たれた。

 無造作に、無差別に拡散するそれは、たちまちに百を越えて、逃げようとする者達の背中に容赦なく突き刺さる。

 各所から悲鳴と、絶望の声が響く。

 そして、その光はすぐ傍にいるヨハン達にも容赦なく襲い掛かった。

 トウヤは折れた剣で弾き、ヨハンもショートバレルを盾にしてそれを防ぐ。

 だが、エレオノーラだけは、それに対する対応が遅れた。

「姫様!」

 紫色の極光が、ウァラゼルの放つセレスティアルがヨハンの身体に突き刺さる。

 それは刃と同じ切れ味で内臓を破壊する。

 それは炎と同じ熱で身体を焼き焦がす。

 それは闇と同じ虚無で身体を削り取る。

「ヨハン殿!」

「トウヤ、姫様を連れて逃げろ……!」

「あんたはどうすんだよ!?」

「時間を稼ぐ」

 血の滴る腹部を抑えながら、ヨハンは対聖別騎士に使おうとしていた切り札を取りだす。

「こいつで時間を稼いで逃げる。大丈夫だ、威力は相当なものだかあら、安心しろ。むしろ巻き込まれないためにも離れてろ」

 平べったい紐のような光る何かが、地面に付けたヨハンの手から伸びて、ウァラゼルとヨシツグ、ナナエを包囲する。

 それは無数に絡まり合い、結界を作って彼女の身体を包み込むように縛り上げた。

「ぐっ、これは……!」

「ちょっと、ヨシツグ!」

 悲鳴を上げる二人とは裏腹に、ウァラゼルはその結界に締め上げられても苦悶の表情一つ見せることはない。

「これはなあに? 新しい玩具? 凄いわ、凄い! ウァラゼルはこんなの知らないわ! これってあなたが作ったの? 贈り物をなくしてしまったあなたが!」

「多重結界……!」

 これに包まれれば恐らくは聖別騎士とてまともに動けない。とはいえ効果範囲はそれほど広くはないため、三騎に使うことはできなかったが。

「トウヤ、行け!」

「わ、判ったよ! ほら、姫様も!」

「し、しかしヨハン殿……!」

 なおも行くのを躊躇うエレオノーラに、トウヤはその肩を強く掴み、彼女が痛みに顔を顰めるのもお構いなしに無理矢理引っ張った。

「俺達が残って何の役に立つんだよ! あんたは姫だろ? だったらヨハンだけに構ってる暇なんかないはずだ! 逃げて、逃げた奴等を纏めて、それからどうするかを考えないといけない立場だろ!」

 その一言は容赦なくエレオノーラの心を揺さぶり、彼女は生気が抜けたかのような顔でこの惨状を見渡すと、黙ってトウヤに引っ張られるままにその場を後にした。

 トウヤの誘導で二人が異形を退けながら要塞から退避したのを見届けて、ようやくヨハンは一息を吐く。

「これで、あの時とは違う。……状況だけで言えばもっと悪くなっているかも知れんが」

 少なくともヨハン一人だけが生きながられるようなことはなくなった。

 彼が最も恐れていた光景を見ずにはすんだ。

「ねぇ、あなたのお名前が知りたいわ。わたし、驚いちゃった。この結界凄いのね! 出ようとしてもちょっと力を入れたぐらいじゃビクともしない!」

 結界の重圧は強まり、本来ならばもう中にあるものは拉げて形も残らないほどの圧力を与えているはずだが、ウァラゼルの表情には苦痛の気配はない。

「――そう、ヨハン! 彼等が呼んでいたものね! ねぇ、ヨハン! あなた凄いわ、頑張っているわ! 早くこの結界を解いてくれたら、わたしが褒めてあげる! 頭を撫でてあげるわ!」

 答えないヨハンに、ウァラゼルは焦れたのか、初めて不愉快そうに表情を変えた。

「ウァラゼルの言うことを聞かないお人形は嫌いよ」

「なにっ……!」

 たったその一言。

 それだけで、結界に一気に罅が入った。

 今のところのヨハンの最大の武器を持ってしても、彼女の気まぐれなしでは足止めをすることすらままならなかった。

「だから、ちょっとだけ、おしおき」

 結界が砕ける。

 ウァラゼルから伸びた悪性のセレスティアルが、無数の刃となってヨハンに襲い掛かった。

 一度上空に伸びて、それから断罪するかのように落ちてきた数百の刃が地面ごとヨハンを打ちのめし、舞い上がった砂埃が視界を塞ぐ。

 突き刺さったままのセレスティアルを見て、ウァラゼルは満足そうに笑った。

「死んじゃったのかしら? でも、どっちでもいいわ。だって遊び相手はまだまだたくさんいるんだもの!」

 彼女が両手を振るうと、異形の群れが行進を止める。

「遊びましょう。お人形さん達。ずっと、ずーっと昔と同じように、たくさん、たくさん遊びましょう。ウァラゼルを楽しませてね」

 花が咲くような笑顔で、誰に言うわけでもなく、彼女は呟いた。

 当然、それに答える者はない。

 ただ、この世界を統べる主の帰還に歓迎したのか、それとも全てを屠り滅ぼす怪物に戦慄したのか。

 彼方の大地と呼ばれる世界は、鳴動を続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る