第十三節 失われたもの

 静かな建物の中にがたがたと何者かが侵入してきた不躾な足音が響き、それに顔を顰めながらも、家の奥にいる部屋の主はそこから動こうとはしない。

 例えそれが危険な、強盗や何かの類であろうとも彼には何も関係のないことだった。

 何が来ようと、彼を害することなどはできはしない。そうまでの絶対的な自信と裏付けを彼はこの世界に来て手に入れてしまっていた。

 エトランゼ、来訪者達が持つギフトと呼ばれる力。

 彼が得ていたそれは、知りうる限りでは最強と呼んでもいい力だった。

 そして、その力は彼から全ての気力を奪い去った。

 人と関わりを持つことで寄せられるのはどうにか自らの駒とせんとする策謀や、元の世界への帰還という希望。

 自ら動こうともしない者達は、強い力を持っているのだからと、それこそが義務であると言わんばかりに彼のことを利用しようとする。

 気が向けば人助けをするのもいいだろう。

 人のために奉仕することとて、容易いのならば苦ではない。

 だが、それ以上ともなれば話は別だ。

 そこから先は彼の善良さと、矮小さを遥かに超える領域となる。

 そして何よりも彼が動いて導かれるであろう未来が良いものであると、保証することはできないのだから。

 だから一人でここに暮らしている。

 蔵書に埋もれ、腹が減れば金を稼ぎ、彼にしか見えない何かを見つめ続けている。

 その静寂が今日は破られた。

 ここに尋ねてくる人物は数えるほどしかいない。その中でこんな騒がしい登場の仕方をする者に心当たりはなかった。

 ばんと、大きな音を立てて彼の部屋の扉が開かれる。

 舞い上がった埃が差し込んだ光を反射して輝いた。

 そして、その傍若無人な登場をした来訪者に、顔を顰めて思いっきり嫌そうな表情を向けてやった。

「はじめまして!」

 強引に部屋に踏み込んできたのは、彼と同じぐらいかそれよりも少しばかり年下の女性だった。あどけない顔立ちは少女と呼んでもいいかも知れない。

「いやー、大変だった! 色々な人に話を聞いて、ようやくここに辿り付いたよ! でもこれだけ苦労したんだから、きっとそれだけの素晴らしい出会いだと信じてる!」

「……何の用だ?」

 怖がらせるのも殺気を発して怯えさせるのも得意ではない。だから、淡々と用件だけを聞きだそうとした。

「あ、えっとねー。わたしはね、冒険者で、あちこち旅したりしてるんだけどさ」

「何の用だ、と俺は聞いたが?」

「あー、あはは。ちょっとあれだね、偏屈な人だって聞いてたから、どういう風に口説き落とそうか悩んでたけど、やっぱそういうのはわたしには合わないや」

 すっと、綺麗な手が差し出される。

 彼女の顔を見上げれば、それは毒気を抜かれるほどに満面の笑みで、

「キミを連れだしに来たよ。わたしと一緒に行こう」

 そんな身勝手にも、不思議と怒りの一つも沸きはしなかった。

「断る」

 ただその提案を受けるかどうかはまた別の話だが。

「えー、なんでさ!」

 勝手に部屋の中に入り込み、少女は窓に掛かったカーテンを開ける。

 数日振りの日の光が瞼を焼き、眉間に寄った皺が更に深まった。

「お前と旅に出るメリットが思い浮かばない」

 金ならば好きに稼げる。

 その気になれば地位も名誉も思うがままだろう。

 そんなつまらない生活を、くだらない生き方を死ぬまでしなければならないのだ。

 視線で彼女を追えば、窓を勝手に開け放ち、入り込んできた風で髪を揺らしながら、柔らかな笑顔を浮かべている。積み上がった埃が舞うのだから、勘弁してもらいたいものなのだが。

 そうして、明らかに自分が歓迎されていないことなど何処吹く風で、その言葉を口にした。

「綺麗なものを見ようよ。楽しいことをしようよ」

 彼は何も言わず、黙っていた。

 その反応を見て、どう判断したのかは判らないが、彼女はなおも喋り続ける。

「草原を歩こう、山を登ろう、川を渡ろう。海があったら泳いで、洞窟があったら探検しよう」

 彼女の顔は、いつの間にか彼を見ていない。

 窓の外に広がる世界を見つめていた。誰かが呼んだ、『彼方の大地』を。

 エトランゼにとっては忌まわしいこの世界を、彼女はまるで美しいもののように見ていた。

「困った人がいれば助けてあげよう。時には苦労するのもいいよね。大きな魔物と戦って、それを倒したらみんなでお祝いして、きっとそしたら王様からご褒美が貰えるよ! ゲームとかではよくある話だったけど……あんまりゲームしない人だった?」

 不安そうにのぞき込む瞳に、初めて彼の表情に変化が訪れた。

「……ゲームは好きだった。多分、だが」

 曖昧な記憶ではそれも定かではないが、恐らくは外に出るよりもインドア派だった気がする。

「わたしはあれが見たいな! 地平線に夕日が沈むのを、高いところから見たい! それからね、これはわたしの予想なんだけど、きっと空に浮く島があると思うんだよね。飛空艇とか使って、そこにみんなで行くの!」

 子供の夢想。

 そう切って捨てられるような話の内容でも、彼女が余りにも楽しそうに話すものだからつい耳を傾けてしまう。

 それが彼女の人柄、というやつなのだろう。

「それで、色々なことをして」

 息を吸い込む。

 彼に語り掛けながらも彼女は大地を見続けている。

 彼女が彼から征くであろう、果て無き大地を。

「この世界に来てよかったって、思おうよ」

 その一言が、全てを決定付けた。

 いつの間にか彼は顔を上げて、視線は同じところを。

 ――彼がこれから歩むであろう、限りない大地を見ていた。


 ▽


「御使い、悪性のウァラゼルが率いる異形の軍団はイシュトナル要塞を出発。進行方向にある集落を襲いながら各所へと侵攻しています」

 ディッカーの屋敷、その三階にある会議室に兵士の声が響く。

 それを聞くのはエレオノーラ、ディッカー、トウヤとカナタの四人だった。他の者達は御使いの侵攻によって生まれた難民の救助や防衛部隊の編成に掛かりきりで、手が空いていない。

「ウァラゼル本体はどうしている?」

「今のところ、姿を確認したという話は聞いておりません。恐らくはイシュトナル要塞に残っているものかと思われます」

「……そうか。ご苦労だった。下がってよいぞ」

「はっ!」

 兵士がその場を去り、一度沈黙が訪れる。

「……ウァラゼルがいないのが、せめてもの救いか」

「どうかな。あいつは俺達の考えを遥かに超えた、規格外の化け物だ。その気になればすぐに最前線に来ても不思議じゃない」

 エレオノーラの楽観を、トウヤが否定する。

 イシュトナル要塞での戦いから既に一週間が経過している。

 どうにか逃げ出したエレオノーラ達は、戦力の再編をするためにディッカーの屋敷へと辿り付いた。

 ウァラゼルの放つ異形達は大地を蹂躙し、人工物や人間を容赦なく襲うが、その進行速度はあまり早くない。

 先程話にも出た通り、彼女が前線に現れないこともあってかどうにか防衛線を構築して護れているような状況だった。

「ですが、あれらが無限に増えるようならば、この地が陥落するのも時間の問題でしょうな」

「ディッカー!」

「申し訳ありません、エレオノーラ様。しかし今はそこから目を逸らしていられる場合ではないでしょう。加えて、北上している異形達が防衛線を突破すれば王都が危険に晒される」

 橋を突破され、ソーズウェルが戦火に包まれれば、犠牲になる人の数は今の比ではない。

 そうなる前にどうにかウァラゼルを倒し、異形達の侵攻を食い止めなければならないのだが。

「ないんだよな、あいつを倒す方法」

 トウヤの呟きが全てだった。

 悪性のウァラゼル。ありとあらゆる攻撃を遮断するセレスティアルを持つ彼女を倒す手段は存在しない。

 例え異形の群れを駆逐したところで、彼女を倒すことができなければ意味がない。

「で、伝令!」

 荒々しい足音と共に飛び込んできたのは、全身傷だらけになり、最早壊れかけで役目の殆どを失った鎧を身に纏った兵士だった。

 エレオノーラがその無事を心配する暇もなく、彼は己の役割を果たすためにその場に膝を折り、口を開く。

「モルコの集落が突破され、これにより北上する異形達を押し留める拠点はすべて失われました!」

「……なんだと! 早すぎる! モルコの集落には避難誘導も兼ねて、充分な数の兵士を派遣したはずだ!」

「イシュトナルから引き上げた兵の中には負傷しながら参戦した者も多く、彼等も奮闘したのですが……力及ばず」

「……そうか」

「エレオノーラ様! お願いです、エトランゼの力をお貸しください! ギフトを持つ彼等ならばあの異形達に対抗できるはず!」

 そう請われ、エレオノーラの表情が強張る。

「……判った。妾から彼等に打診してみよう。おぬしはゆっくりと傷を癒せ」

「はっ! ですが、傷が治り次第すぐに前線に戻るつもりです!」

 そんな頼りがいのある言葉を残して、伝令は去っていく。

 後に残されたエレオノーラの、固く唇を噛んだ表情を見ることはなく。

「トウヤ。エトランゼ達の様子はどうか?」

「どうもこうも、みんな完全に心を折られてるよ」

 元暁風のメンバーは、リーダーであるヨシツグをが裏切った衝撃と、彼でも敵わなかった敵がいるという事実に、すっかり戦意を喪失していた。

「一先ずは、フィノイ河周辺の防備を固めるべきでしょうな。エレオノーラ様。このディッカーにその任をお与えください」

「何を言うディッカー! 今北部に向かうことの意味が判らぬわけではあるまい!」

「だからといって、そちらの防備を手薄にしておくこともできないでしょう」

「しかし……!」

 エレオノーラの言いたいことは、ディッカーには伝わっていた。

 どうしてソーズウェルを、そしてオルタリア本国を護るための兵を、彼等に追われていたはずのエレオノーラ達が派遣しなければならないのか。

 本来ならば自分達の身には自分達で護らせるのが道理であると。

 そう思いながらも、頭では判っている。

 犠牲になるのはエレオノーラの兄のヘルフリートでも、五大貴族でもない。

 真っ先に命を落とすのは、その途中に住む集落の民だ。

 本来ならば貴族や兵士、そして王族達が命を賭けて守らなければならない人達だ。

「俺も行きます」

 トウヤが手を上げながらそう言った。

「トウヤ君、といったかな? フィノイ河周辺は死地となるぞ。エトランゼである君が来る理由には……」

「このままここにいても状況は悪化するだけでしょう。だったら一人でも多くの人を助けられた方がいい」

 半分は本当で、半分は嘘だ。

 これ以上ここにいて、日に日に悪くなっていく現状を憂うのならば、いっそ最前線で戦っていた方が気持ちも楽になる。

「ふ、二人とも……。妾から、離れていってしまうのか?」

「エレオノーラ様。心苦しいですが、ここにいて私がこれ以上できることはないでしょう」

「……俺も、一緒っす」

 エレオノーラが答えに詰まっていると、がたりと音が立つほどの勢いで、先程まで黙っていたカナタが椅子から立ち上がった。

「……大丈夫! 大丈夫です。こっちの守りはボクが頑張るから。姫様も安心してください」

「……カナタ殿。もしもの時はエレオノーラ様をお願いできますかな? 最悪ここを放棄して、何処か他の地に逃れてでも」

「もしも、なんてないです! 絶対に無事に戻ってくれますから! ……戻って、来ますから」

 誰が見ても一目で判るような無理な笑顔を張り付かせて、絞り出すような陽気な声で、カナタはそう言った。

 不安を押し込めるようなその表情は余りにも痛々しく、エレオノーラは彼女の顔を直視することもままならない。

 ――もし、自分があの場に居なければ、カナタがこのような表情をすることもなかったかも知れないのに。

「取り敢えず、色々準備があるから。俺、失礼します」

「それでは私も一度失礼しましょう」

 耐えられなかったのは二人も同様だった。トウヤとディッカーが立ち上がり、部屋を後にする。

 扉が閉まる音が消えたころに、エレオノーラは立ち上がったままぼうっとしているカナタへと改めて視線を向けた。

「妾は、どうすればいい? 妾にこの状況で何ができるというのだ?」

「ごめんなさい。ボク、判りません。……馬鹿だから」

「……すまぬ」

 もう我慢ができなかった。

 彼を犠牲にしてしまったその罪を、誰かに裁いてほしかった。罵倒の言葉が聞ければそれで自分を責めて、少しでも楽になろうとしてした。

 それが、過ちであることにも気付かずに。

「謝らないで、ください。ボクに謝られても何も言えない、何も言ってあげられません!」

 これまで彼女からは聞いたことのないほどに悲痛な声。

 ハッとしてその顔を見れば、大きな眼には涙を溜めて、泣きだすのを必死にこらえている彼女がそこにいた。

「カ、カナタ……。その、妾は……」

 口元を抑えて、カナタは部屋から駈け出して行く。

 本当はエレオノーラに対して言いたいこともあっただろう。それでも彼女はそれを堪えた。一度決壊してしまえばもう止められないと判っているから。

 開け放たれたままの扉を見て、エレオノーラは顔を伏せる。

「……何が馬鹿だからか……。妾の方が余程の大馬鹿者ではないか……!」


 ▽


 丸二日の行軍の末に辿り付いたフィノイ河の畔は、既に油断を許さない状況になっていた。

 道を歩くのは列を成す避難民。そしてディッカーの部下達がその周囲を囲むように護衛して橋を渡らせている。

 目を凝らして平原の先を見てみれば、道の上には夥しい数の死体や荷物が転がり、こちらに向けて進行してくる異形の群れがゆらゆらと不気味に揺れている。

「状況は最悪ですね」

「そうだな。加えて、河を背負わねばならぬから逃げることもできぬ」

「逃げる人達を守らなきゃいけないんだから、どっちにしても俺達が逃げるわけにはいかないでしょ」

 隊列の先頭にトウヤとディッカーは並んで立っている。

 領地の防衛部隊も残さなければならないので、連れて来れた兵の数はディッカーのもともとの部下と、イシュトナルから合流した兵士、合わせて約百五十人。そこに既に陥落した各地の防衛隊が合流し、大凡二百人程度。

「対する異形の数は……。数えるだけ無駄そうだな」

 地平線に見える影は時間と共に数を増し、逃げる民達に恐怖を与え続ける。

「好きにはさせんよ。我々は避難民の最後尾の防衛に回る! これ以上一人たりとも犠牲者を出させるな!」

 ディッカーの号令が響き、地鳴りを響かせて兵達は駆けた。

 トウヤもその中に交じり、調達してきた剣を構えて最前線に躍り出る。

「まずは槍兵で敵の進軍を抑える! トウヤ君、君は防備が手薄になった場所の補強頼んだ!」

「了解!」

 この戦場でディッカーと交わした言葉はそれが最後だった。

 彼は指揮を執る役目があるし、トウヤはこれから誰かと喋る余裕もないほどの戦いを強いられる。

 異形達の突進は凄まじく、一瞬にして槍でできた壁の一部が突き崩され、そこから逃げていく民達に異形が迫る。

 それを横合いから、トウヤの放った炎が纏めて三匹焼き焦がした。

「た、助けてくれ!」

 叫び声と共に、既に戦意を失った兵士二人が、重傷を負った仲間を背負いながらこちらに走ってくる。

 トウヤはそこに飛び込み、炎を纏った剣で異形の一匹を切り裂く。そして更に群がってきた二匹を、左手から放つ炎の壁で焼き尽くした。

「ここは俺が! あんた達は負傷者を!」

「き、君はエトランゼか? エトランゼがどうしてここに……?」

「そんなことを話してる場合じゃないだろ」

「わ、判った!」

 後退する兵達を見送ると、先行しすぎたトウヤの周りをいつの間にか異形の群れが取り囲んでいた。

 人間と同じぐらいの大きさのが三匹に、虫や魚のような形の小型の個体は最早数えるのが馬鹿らしいほどの数に上っている。

 その醜悪さに泡立つ肌を抑えながら、トウヤは自身の炎で半ば溶けかけた剣を構える。

 迫りくる異形を斬り払い、炎によって集団戦にならないように器用に距離を取りながら戦う。

 その間に味方の兵達がトウヤの元に集まり、誰が言うまでもなく炎を操るエトランゼを中心に戦線を構築し始めた。

「大型の奴は俺が!」

「すまない!」

 正面に立つ、皮膚が剥がれ、目玉が飛び出した人型の異形へと、炎を纏った剣を突き入れる。

 心臓にあたる個所へと突き刺さったが、それの息の根を止めることはできず、唸り声ともつかない異音を発しながら、だらりと垂れさがっていた腕が、鞭のように撓りトウヤの身体を打った。

「つっ……!」

 力など入っていないように見えた一撃は思いのほか重く、トウヤの身体は吹き飛んで地面を転がる。

 それでも鎧を付けていたおかげで致命傷ではないと、すぐさま態勢を立て直した。

「魔法が来るぞ! 一度距離を取れ!」

 号令と共に、なけなしの数の魔法兵が炎の槍を一斉に放つ。

 着弾し、辺りに炎を撒き散らした炎の槍だがその威力はトウヤのものとは比べ物にならず、相手の進軍をほんの少しばかり抑えることしかできない。

 かといって連射が効くわけでもなく、続く攻撃までの時間を稼ぐために再び兵達は戦線を維持する必要があった。

「来いよ!」

 そう叫び、剣が胸に刺さったままの異形の正面に飛び出す。

 一匹だけならばまだよかったが、トウヤの声はもう一匹の人型も呼び寄せてしまったようだった。

「まあいいや。どっちにしても、お前等を抑えられるのは俺だけみたいだし……!」

 横目に見れば兵士達は複数で取り囲み、小型の異形を攻撃するだけで精一杯で、大型の個体相手には時間稼ぎ程度のことしかできていない。

 槍を投げ、弓を射って、相手が怯んだ隙に剣で斬りかかる。しかし、痛覚があるかも判らない化け物相手では、その反撃として伸ばされた手で何人かが殺される。

 既にトウヤの足元には兵士達の死体が折り重なっており、中にはそれに対して牙を突き立てる異形もいた。

 炎を放ちそれらを追い払うと、死体が握っていた剣を借りて、正面の異形へと斬りかかる。

「っらぁ!」

 撓る腕を弾き、正面に接近。

 横合いから迫るもう一匹に対しては炎を纏った剣を振り回して牽制し、左手を突き刺さったままの剣へと伸ばした。

「燃えろおおぉぉぉぉぉ!」

 金属の剣を伝わり、トウヤの左手から発された熱が、異形の体内を蹂躙する。

 流石にそれは効いたようで、黒煙を吐きながら異形は一度動きを止めた。

 だが、脅威は去ったわけではない。

 牽制が緩んだ隙に、鞭のような腕が伸びて、トウヤの身体に巻きついた。

「こいつっ……!」

 隙ができれば、正面の異形も動きだす。

 動きを止めたのは一瞬だけで、まるで何のダメージもないかのように素早く動き、両腕を振り回してトウヤを攻撃する。

「エトランゼの少年を死なせるな!」

 万事休すのトウヤを救ったのは、オルタリアの兵達だった。

 トウヤが前線を引きつけたおかげで態勢を整えることに成功した彼等は、三人一組を組むと、二人が同時に槍を突きだし、一匹の異形へと攻撃する。

 喉と、胸に槍が突き刺さり異形は怯むが、それでもまだ動きは止まらない。

 反撃に伸ばされた腕は、残った一人が盾で受け止める。

 そうしている間に槍を捨てた二人の兵士が、今度はより接近して剣で持ってその身体を左右から斬りつけた。

『キシイイィイィイイイ!』

 口の位置にある器官から、不気味な音ともに涎のような液体が漏れた。

 それが毒液の類でないことを祈りながら、トウヤは肉薄し、左腕で異形の腹部に掌底を叩き込む。

「燃えろおおぉぉぉぉぉぉ!」

 至近距離で打ち出された火球が異形を吹き飛ばし、そのまま全身を炎で包み込む。

 倒れた異形は最初こそ立ち上がろうともがいていたが、やがて体力が尽きたのか、炎に巻かれたまま動きを鈍らせ、次第に動かなくなった。

「後、一匹!」

 大振りで振るわれた剣が、肩口から心臓の辺りまで一気に食い込む。

 トウヤの炎を纏った剣は一気にその強度を落とし、異形の肉繊維の固さに耐えられず、中央から折れ飛んだ。

「だああぁぁぁぁぁぁぁ!」

 反撃の腕を避ける。

 読んでいた、などと言うつもりはない。単純に運がよかっただけだ。

 身体を回転させ、後ろ回し蹴りでその身体を一気に放した。可能なら踵に炎を纏わせるべきだったのかも知れないが、そこまで達者ではない。

「エトランゼ殿!」

 ひゅんと風を切る音ともに、後方から投げられた一本の槍が、丁度トウヤの足元に突き刺さる。

「気持ちはありがたいけどさ……!」

 それを引き抜きぐっと構え、態勢を立て直した異形へと狙いを込める。

 狙うは何処か。

 心臓ではない。身体の末端を狙っても無駄。

「俺にはトウヤって名前があんだよ!」

 半ば閃いたように、トウヤはその顔面へと槍を伸ばしていた。

 牙のようなものを砕き、槍が顔面に突き刺さる。

 あの生き物に脳があるのかは判らないが、そのまま頭部を破壊された異形はぴたりと動きを止めて、崩れ落ちていった。

「見ろ! 奴等が撤退していくぞ!」

 歓声に顔を上げると、残る一匹の人型も、他の異形達もこちらに背を向けて逃げだしていく。

「くっ……はぁ……!」

 大きく息を吐く。同時に内臓までも零れ落ちてしまいそうなほどに濃い疲労感がトウヤを襲っていた。

 そのまま膝を突き、地面に倒れ込んでしまいたいが、そんなことをすればもう立ち上がれなくなるだろう。何よりも敵味方の死体だらけの地面に顔を近づけたくはない。

「……勝った、のか?」

 横で、名も知らない兵士が誰に問うでもなく呟いた。

「全然、勝ってないよ」

 トウヤの答えに対してそれ以上の言葉はない。お互いにこれから先のことを話せば、恐怖で押しつぶされてしまいそうだったから口を噤んだ。

 ウァラゼルが生み出した異形の数はこんなものじゃない。地を埋めるほどの数がそこにあったはずだ。

 異形達にどんな生態があるかは判らないが、今は撤退した。もしかしたら、ウァラゼルが気紛れて退かせただけの可能性だってある。

 明日には今よりも多い数が来る。明後日にはそれ以上が来るかも知れない。

 そして何より、ウァラゼル本人が動けばここの戦線は崩壊する。一日も持たないだろう。

 トウヤがこの戦場に来てから、いったい何分間戦っただろうか。行軍の疲れがあるにせよ、この疲労は尋常ではない。

 こんな戦いが明日も明後日も続き、しかも勝てる展望が今のところないと思えば、全身に圧し掛かる倦怠は更に増していく。

「ほんと、誰かなんとかしてくれよ」

 トウヤの呟きを聞く者はいない。

 兵士達はもう、次の戦いに備えた防衛線の構築のために動きだしていた。

 明日の見えない戦いをするのが一人ではないことは、せめてもの救いなのだろうか。

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