第九節 聖別されし者
カナタは今、炊事場にいる。
目の前には火が燃えるかまどと、その上に乗せられた巨大な鍋の中で野菜と肉を煮込んだスープが美味しそうな匂いを立てていた。
くぅと鳴いたお腹に、他に誰もいないと判っていながらも周囲を見渡して、一人安堵する。ここは間違いなく家事最前線。
「カナタさん。お野菜、追加です!」
「はーい! そこにお願いします!」
幾つもの野菜を抱えながら部屋に入って来た女性が大きなテーブルの上にそれを乗せていく。
鍋を掻き混ぜるカナタの横に来ると、一緒になってそれを覗き込んだ。
「よく煮えてますね。これはもう配膳室に運んでしまって、次を作りましょう」
「判りました!」
修道服にも似た、癒し手の装束と呼ばれる白い法衣を纏った女性の名はサアヤ。暁風に協力するエトランゼで、《リザレクション》と呼ばれる傷を癒すギフトの持ち主だった。
彼等の中では非常に重要な役割を果たし、本来ならばこんな雑用を手伝うような立場ではないのだが。
「人手不足ですからね。奴隷から解放した人達には、たくさんご飯を食べてもらって一刻も早く元気を取り戻してもらわないと」
そう言いながら、鍋を持ち上げて運んでいく。
彼女を見送ると、カナタは次なる鍋を用意するべく山盛りに置かれた野菜をまな板の上に乗せて包丁を入れる。
「……なんでボク、こんなことしてるんだっけ?」
懐から取り出した、通信用のイヤリングに問いかけても返事は返ってこない。
「これ不良品じゃん! ヨハンさんの馬鹿! なんでメイド服ばっかりしっかり作ってこっちは駄目駄目なの!? むっつりすけべ!」
今はいない相手を全力で罵倒していると、人の気配がしてカナタは慌てて口を噤む。
「お前、なんで一人で賑やかなんだよ?」
呆れながら入ってきたのはトウヤだった。新品の装備を身に付けた彼は今やヨシツグ達の戦闘隊長の一人だ。
「トウヤくーん。帰ろうよ~。ボクもう炊事飽きた~」
「帰ろうって言っても、ここが何処だか判らないんじゃどうしようもないだろ。ヨシツグさんは俺達を手放したくないみたいだし」
厳密には俺達、ではなくトウヤ一人だ。
あれからカナタ達は拠点を移動した。奴隷から解放されたばかりのエトランゼが動けるようになるまでとの約束だったが、未だ解放される気配はない。
「それに、ここで戦うのも悪くないんじゃないか? ほら、エトランゼのためなら結果的には変わらないわけだしさ」
「それはそうかも知れないけど……。でもボク、ここの生活退屈……」
「それは仕方ないって。お前のギフトを見てヨシツグさんがそう判断したんだから。むしろ前線に駆り出されないでよかったと思えよ」
切った野菜を纏めて皿に乗せながら、カナタは頬を膨らませる。
それが嫌なのだ。
ここは完全実力主義……。そう言ってしまえば聞こえはいいが、要はギフトの強さで役割が決められていた。意味不明なギフトを持つカナタは晴れて炊事係に命じられたというわけだった。
「いいじゃないか。無理に戦わなくていいんだぜ? ここに来て助かったっていう元冒険者だってたくさんいるんだからさ」
エトランゼが進んで荒事に身を置いているわけではない。むしろそれは少数派だと判ってはいるのだが、自分のやるべきことを勝手に決められるのはどうにも居心地が悪い。
「おい、トウヤ!」
床を乱暴に踏み鳴らしながら、また別の男が部屋に入ってくる。
「なんだ。彼女とお楽しみ中か?」
「こいつはそんなんじゃないって。で、なんだよ?」
大柄な体格の、如何にも粗暴者といった外見の彼もエトランゼで、彼等の中では斬り込み役として名を馳せている。
「またこの辺りにイシュトナルの斥候が現れたらしい。先んじて仕留めるからついてこい!」
「またかよ……。なぁ、やっぱりスパイでもいるんじゃないのか?」
「んなわけないだろって。ここにいるのは全員エトランゼなんだぜ? なんでエトランゼが連中の味方をするんだよ?」
「それは……」
言いにくそうに、トウヤは目を逸らす。
「おい、炊事係! 俺達は今から先頭に出るからよ、戻ってくる前に食事を用意しとけよ! 俺達にはお前みたいなチビをただで食わせる余裕なんかないんだからな!」
言い残して、トウヤと連れだって出ていった。
「……はぁ~あ」
とにかく居心地が悪い。
無心で野菜を刻み皿に乗せる。まだ火が消えてないかまどの上で鍋を煮立たせて野菜を投入。適当に味付け。
つまりここはギフトの適正で、戦闘を行える者とそうでない者達で決定的に階級差ができているのだ。リーダーであるヨシツグはどちらにも公平に接しているが、彼の部下までそうだとは限らない。
結局のところ、なにも変わっていない。少なくともカナタにとっては。
むしろこんなときに愚痴を聞かせられるヨハンがいない分、余計に状況は悪くなっている。
「……ボクだって強いギフトがあれば、今すぐにでも飛んでってみんなの役に立って見せるのに」
ぐるぐると鍋を掻き混ぜる手が、次第に乱暴になっていく。
ここに来て最も嫌なことがこれだ。
彼等の中にいて、あからさまな差別をされるとこんな感情ばかりが湧き上がってくる。
強いギフトを持たなかった劣等感。それどころか、ここに来てからもう二度ほど使い道のないギフトを笑われている。ヨシツグも苦笑いを浮かべたほどだ。
沸騰したお湯が渦を巻く鍋のように、カナタの心もぐるぐる、ふつふつと嫌な何かが沸き上がる。
自分の中にこんな感情が芽生えることが何よりも嫌だったが、それでもとめどなく溢れてくるこの泥は、ちょっとした隙間からでも簡単に漏れ出してしまうのだ。
「……カナタさん?」
「うひゃい!」
背後にサアヤが来ていたことに全く気付かず、高速で鍋を掻きませていたカナタは、突然の声に飛び上がって振り向いた。
「あの、大丈夫ですか? 体調悪そうな顔してましたけど」
「あ、はい。ええ、うん。大丈夫、大丈夫。ボクちょっとお腹空いちゃって……」
「あら、そうですか。なら」
サアヤは小皿を手に取ると、鍋の中をすくって適当に盛り付ける。そこに調味料で少しばかり味を付けて、カナタに差し出した。
「え、あ、いや。別にそういう意味じゃ……」
「いいんですよ。人手不足だからって一人でみんなの分の食事の支度なんて疲れるでしょう? 役得、ということで」
そして示し合わせたかのように、カナタのお腹が再度くぅとなった。どうにもさっき一度音を立てただけでは主張が足りないと判断されたようだ。
「……いただきます」
観念していただくことにする。
「責任はわたしが取りますから。それに、辛い思いをさせてしまっているのも判りますし」
「もぐ……」
今は耐えろと、ヨシツグは言う。
戦って、そしていつかはこの大地をエトランゼのものにすると、その言葉に希望を持つ者は決して少なくはない。
しかし、彼のやり方は本当に正しいのだろうか?
エトランゼのだけの世界が成立するとは、カナタにはとてもではないが思えない。
もっと頭がよければ一人で答えを出せるのに! そんな苛立ちを誤魔化すように、夢中でスープを口の中に放り込む。
「敵襲ー!」
「あら?」「むぐっ!」
そこに飛び込んできたのは、ヨシツグの恋人であり貴重な戦力の一人であるナナエだった。派手な格好をした女性で、見た目の通り少しばかり過激な言動が目立つ。
「やばいよ! 罠に掛けられた。斥候は陽動だったみたい! 敵の本隊がこっちに向かって真っすぐ来てる!」
「ならまずは戦えない人達の避難をさせないといけませんね。ナナエさん、残っている戦力はどのぐらいですか?」
「戦えそうなのはアタシと、他に数人ぐらい……。まぁ、こっちにはギフトがあるから大丈夫だとは思うけど」
「ボクも行きます!」
カナタがそう宣言すると、ナナエは怪訝そうな顔でこちらを見た。
「アンタが? だって意味不明なギフトしか持ってないじゃん。っていうかメイド服だし」
「これ、機能的だから大丈夫です! 囮ぐらいはできますから!」
「……ま、こっちも人が足りないし。足手まといにならなきゃ別にいいけど」
了承を得られたので、今度はサアヤの方へ振り返る。
「サアヤさん。避難をお願いします」
「……カナタさん。わたしも誘導が終わったら戻りますから、無理は禁物ですよ」
その言葉に力強く頷いてから、ナナエと共にカナタは隠れ家の外へと飛び出していった。
▽
カナタ達が逃げ込んだ場所は、以前のような砦ではなく森の奥地に点在する、かつては人が住んでいた廃墟の一つだった。
それが機能していたころは活躍していたであろう櫓や防壁があるが、今となってはぼろぼろに朽ち果てているためそれらを利用することはできない。
唯一の強みは鬱蒼と生い茂る木々や雑草が相手の進軍を遅らせてくれることだが、同時にこちらの視界も塞がれる。
「ったく。なんでアタシ達が戦えない奴等を護らないといけないのさ! ヨシツグもお人好しすぎるよ。ま、そこがいいんだけど」
横で文句を言うナナエの言葉に聞こえない振りをしながら、残った僅かな戦闘員と共に、カナタは足音に耳を傾ける。
相当数が一方から真っ直ぐにこちらに向かっている。その乱れない足取りに、不安を掻きたてられる。
「先制攻撃を仕掛けるよ! あんたらはどうせついてこれないんだから、全力で走って!」
ナナエが地を蹴り、木々の枝を渡るようにして宙を舞う。
彼女のギフトについて詳細は不明だが、恐らくは身体能力を強化するもので間違いない。それを生かした高速戦闘はこの森の中では相手にとって脅威となる。
カナタ達が走りだすよりも早く、敵陣からは悲鳴と怒声が聞こえてくる。
「ボク達も!」
草に足を取られそうになりながらも、カナタ達が前進すると、やがてナナエによって混乱させられた敵陣が見えてきた。
弓兵は役に立たず、厄介な魔法兵はほぼ壊滅状態。前線を支える歩兵がこちらを発見し、声を上げる。
叫びだしたくなる緊張と不安を抑えながら、カナタは自分を先頭に駆けだす。
服の裾から取り出したスタンソードが敵兵士に接触し、ばちばちと火花を散らして彼を昏倒させた。
そこからは乱戦だった。エトランゼ達は各々のギフトを使い、敵兵を攻撃していく。
接触はエトランゼ達の有利に働いたが、時間の経過と共に少しずつ状況が変わっていった。
ナナエもそれは感じていたことで、いつもと勝手が違う。ヨシツグや出ていった一軍の者達のように堅牢に前線を支えられるわけもなく、結果として遊撃に出ている彼女が何度も後ろに戻り、フォローに回らなければならなかった。
「ったく、ふざけんなっての! ヨシツグ、早く戻って来てよ!」
今すぐに瓦解するわけではないが、決して押し返せるほどではない。
敵の数はまだ多く、背後から後詰部隊が近付いてくる気配もあった。
「なんでメイドがここに……がっ!」
彼方の姿に驚いている敵兵を気絶させる。
「……ボクも聞きたいよ、それ」
「子供だからと言って!」
突きだされた槍が、カナタの脇腹を掠める。
「あっぶな!」
伊達に魔装兵と同じ原理でできてはいない。それは幾重にも防護が施されたメイド服を傷つけることもできなかった。
その一瞬の隙に相手に接近し倒すと、もう一方からこちらに迫ってきた敵兵の首もとに、上空から飛んできた短剣が突き刺さる。
「アンタ、やるじゃん」
「この服が凄いんです。……でも」
こちらの被害も少なくはない。相手は数に任せて包囲し、じりじりとその輪を狭めてくる。
「燃えろおおぉぉぉぉ!」
叫び声と共に、そこに光明が一閃した。
真っ直ぐに放たれた炎は森の木々と共に、敵兵を巻き込んで焼き焦がす。
「新手か!」「くそっ、囮に気付いた連中が戻ってきた!」
また別方向では、浮足立った敵兵達が次々と光の剣で打ち取られていく。
そして崩れた包囲の中から、ヨシツグを先頭としたメンバーが顔を出した。
「ナナエ、無事か!」
「ヨシツグ!」
飛びつかんばかりにヨシツグの傍に行くナナエ。
「ったく。あんまり無茶するなよ」
「あはは。次から気を付ける」
トウヤにそう言われて、苦笑いで返すカナタ。
「形勢逆転だ! 一気に押し返すぞ!」
ヨシツグの号令に従い、エトランゼ達は一気に攻勢に出る。
逃げ惑う敵兵達を狩るようにして屠るその最中に、カナタに聞き覚えのあるヒステリックな男の声が響いた。
「役立たずめ! 所詮は神の威光を得られぬ者達か! ええい、こうなれば私自らがあの異端者共に鉄槌を与えよう!」
何か重い物が、草を踏む音がする。
それらはゆっくりと、逃げていく敵兵の流れに逆らうようにして姿を現した。
頭部から爪先まで、全身に鎧を纏った兵士が三人。一見すれば以前の魔装兵のようだが、白銀の鎧に白と青の意匠はこの上なく冷たい美しさがあった。
それらの一騎が大剣を一振りすれば、血飛沫が舞い、勇み過ぎたエトランゼが一度に二人血祭りに上がった。
「……みんな、あれには近付くな! 俺が仕留める!」
ヨシツグの光を纏った剣が一騎に襲い掛かる。
他の兵達と同じく一刀両断されるであろうと期待されたそれは、その鎧を小さく傷つけるだけで容易く弾かれてしまった。
「なんだと!?」
無機質に、機械がそうするように鎧の騎士が反撃に出る。
ヨシツグは盾でそれを防いでから更なる追撃を加えた。
それでも、その騎士は倒れない。
太陽の光を集めた剣も、その鎧に両断することはできなかった。
「こいつ、強い……!」
どうにか打ち合えているだけ、それは間違いなくヨシツグの強さだった。
「ヨシツグ! 他はどうすんのさ!」
悲鳴のようなナナエの叫び。
「そっちで何とかしろ!」
投げ槍に叫ばれて、今がどれほど緊迫した状況であるかを、その場の全員が瞬時に悟った。
「一騎は俺が!」
トウヤの手から地面を伝うように炎が走る。
触れたもの全てを焦がす炎熱も、その鎧の前ではさしたる効果も与えることはない。
「くそっ、こうなったら直接!」
炎を纏った剣で斬りつけるが、ヨシツグの太陽の剣でもろくなダメージを与えることができなかったその鎧にはまともに通じない。
そうしてトウヤが引きつけたとしても、一騎が残っている。
ナナエと、それから先程とトウヤと一緒に出ていったエトランゼが一緒になって足止めをしているが、全く相手になっていない。
それに勢いを付けたのか、撤退していた兵達が反転し、こちらに襲い掛かってくる。
例えギフトを持ち、個々の能力で勝っていたとしても、士気を挫かれて命令系統を失ったエトランゼ達にそれを防ぎきる力は残されていない。
「……ボクも、手伝わないと!」
せめて、囮でもいいから役に立てれば。
そう思い駆けだそうとしたカナタの背後から、またも聞き覚えのある声がした。
「ようやく見つけたぞ、あの時のエトランゼ」
「えっ……?」
ずぶりと。
振り返る間もなく、身体の中に何かが差し込まれる。
白銀に光る美しい刃は、カナタのメイド服の防御など問題にしない。
その凄まじい威力は一息にそれを貫通し、カナタの腹部を貫いていた。
「カナタ!」
「ええい黙れ! 貴様の処刑はそこの聖別騎士がやってくれよう!」
トウヤが叫ぶも、聖別騎士の猛攻でこちらに近付くこともできはしない。
視界が歪み、ゆっくりと落ちていく。
痛みからから、恐怖からか、目には涙が溜まる。
歩き出そうとする足が崩れて、膝が地面を叩いた。
「感謝してもらおうか。貴様のような穢れた者が、この法王より直絶賜った聖別武器であるウァラゼルによって浄化されるのだからな」
身体が蹴られ、何の抵抗をすることもなく地面を転がる。
仰向けになった、今にも消えそうな視界に移るのは、限界までの憎しみを募らせたカーステンだった。
「……い、やだ……」
涙が滲む。
刺された個所から流れる生暖かい赤色が服に染み込んでいき、吸収しきれなくなって地面に広がっていく。
「や、だ」
唇から漏れる声は無意識なものだ。
何か意味のある言葉ではない。
目の前で苦しみ、悲鳴を上げるエトランゼを見て、カーステンは恍惚としていた。一撃で心臓を貫かなかったのも、カナタを見せしめにするためだったのかも知れない。
「怖い、よ。死にたくない……」
ごぼりと、嫌な音を立てて喉奥から血の塊が吐き出された。
薄れゆく意識の中で、愚かな自分の行いを呪う。
弱いのに、力がないのに、まともなギフトを持っていないのに。
どうしてこんなところに来た? 何も考えずに突っ走って、いつかこういうことになるとは考えなかったのか?
自らの無鉄砲の、愚かさの報いを今、受けたのだ。
死という最悪の形で。
「助け、て。……ヨハン…さ……」
血の混じった声はもう誰にも届かない。
戦場は混迷が支配し、今カナタを救える者はこの場には誰もいなかった。
▽
世界がゆっくりと溶けていく。
何処か遠くから、トウヤの声がカナタを呼んでいた。
伸ばされたその手は余りにも遠くて、自分で動くことのできないカナタでは掴むことも叶わない。
仰向け倒れたまま、首を動かしたその目に映るのは聖別騎士に蹂躙されるエトランゼ達。
真っ赤な絨毯はその身体の下にある草木を濡らし、カナタの着ているメイド服を赤黒く染め上げる。
最早薄れて消え去りそうな思考の底で、「ヨハンさんに怒られるなぁ」などと、栓無き言葉が現れては消えた。
もう痛いのも嫌だ。怖いのも嫌だ。
目を閉じて楽になろう。そうすれば、トウヤも自分を無視して逃げられるかも知れない。
そんな都合のいい言葉で自分を騙して、何もかもを手放そうと決意したとき。
身体の中を撫であげられるような悪寒を感じて、閉じようとしていた目がありえないほどに大きく見開かれた。
『うふふ。ようやく繋がれた、ようやく声を伝えることができた! ねぇ、あなた死にたくないの? 怖いの? 不思議な気持ちね。でもとっても心地よいわ! ウァラゼルはそういうの大好きだから!』
頭に響く音量で、それは聞こえてきた。
無邪気な、幼子のような少女の笑い声。
喜びとも狂気とも取れない熱を孕んだその声は、早く目を閉じたいカナタの奥底で遠慮なしに暴れまわる。
『ねぇ? あなた、死んじゃうの? 死にたくないでしょう? 違う? 人間は死ぬのが嫌な生き物だって、ウァラゼルは思っているのだけれど、あなたは違うのかしら?』
「な…に…?」
『ねぇねぇ。ウァラゼルはウァラゼルよ。今、あなたの身体の中にいる。ううん。厳密にはちょっと違ってね、あなたの身体の中にある剣の中にいるの! 意地悪な奴にこの中に入れられたのだけど、驚いちゃった! ウァラゼルの声が聞こえる人間がいるんですもの! そう! あなたよ、あなた! お人形さんの中でもとびっきりに素敵なあなた!』
「うる…さい……なぁ」
戦いは激化し、カナタの唇から漏れる声は誰の耳にも届かない。
ウァラゼルと名乗るその声も、他の誰にも聞こえている様子はなかった。
『違っていたらごめんなさい。でもね、あなたは力の使い方を知らないの? どうしてとっても素敵なセレスティアルを持っているのに、お人形さん達と同じようなことをしているの?』
「セレ…? 知ら……ない、よ」
『ふぅん。そうなんだ。知らないのね。かわいそう! あなたとってもかわいそうよ! そうだ、いいことを思いついたわ! わたしがセレスティアルの使い方を教えてあげる! ううん、いいの! 久しぶりに誰かとお話しできたから楽しくて、嬉しいから!』
カナタの言葉など全く無視して、ウァラゼルを名乗る声は話を進めていく。
『ええそうね。カナタ、貴方のことは死なせないわ』
頭の奥に声が響く。
心の中に、何かが注がれる。
まるで泥のように不愉快で、かきだしたい衝動に駆られるが、心の中にあるものをどうしていいかなど、カナタには判らない。
どうせ身体も動かないのだからと耐えていると、少しもしない間にその泥は透き通る水のようなものに変わった。
その感触が、カナタは嫌いではない。
むしろ最初からずっと触れていたようによく馴染む。
多分、これが触れているのは身体ではない。
魂とか、形のない何かがそれで満たされていくのだ。
それはとても怖いことだが、今のカナタには受け入れるしかなかった。
『さあ、立ち上がって、お人形さん? あなたは生きて、わたしに出会うの。そしてたくさん遊びましょう? たくさん、たくさん、たくさん遊びましょう。あなたにはそれができるわ。だから今、ウァラゼルに少しだけ見せて。あなたのセレスティアルを』
その声を最後に、ウァラゼルの声が消える。
ウァラゼルを引き抜いて、とどめを刺そうとしていたカーステンの身体が、反射的に動きを止める。
まず一度、身動ぎするように。
それから確実に、意思を持ってカナタの身体が立ち上がる。
「き、貴様……!」
上擦った悲鳴のような声が、カーステンの中から零れた。
もう痛みはない。
流れる血も、他人事のようにしか思えなかった。
「死にたくない」
その呟きが全て。
判っていた。彼女の提案を蹴ることもできたことぐらい。
あのまま自分の運命を享受することだって不可能ではなかった。
でも、そんなのは嫌だ。
「こんなところで……。訳も判らず死にたくない。ボクは生きる。絶対に生きてやる」
「神に逆らう不届き者めが!」
「セレスティアル!」
――知らないはずの言葉があった。
――知らないはずの力があった。
――何処かで、カナタはそれを知っていた。
極光が、これまで小さな玉を作る程度の光しかなかったその力が手の中に生まれ、広がっていく。
カーステンが真っ直ぐにカナタに振り下ろした聖別武器、ウァラゼルの刃をその手の中に生まれた極光の剣が受け止める。
「な、」
それは剣というには余りにも細く、頼りない輝きだったが、極光はウァラゼルに打ち負けず、それどころかカーステンの腕ごと上に弾いた。
「やはりエトランゼは化け物だ! 神々の理を乱す、この世界に在ってはならぬもの!」
カーステンが後退する。
その際に放った声が、カナタを押し留める枷を破壊する。
何故、こんなに誰もが傷ついているのか。
やりたくもない戦いを強いられているのは誰の所為か。
責任の所在を求めるなど愚かなことだと、ヨハンならば言うだろう。
「貴方達みたいな人がいるから……!」
カナタは踏み込んで、彼を逃がすまいと極光の剣を振りかぶる。
振り下ろされた極光は、カーステンが咄嗟に地面を転がって避けたため、本来の狙いを大きく外れる。
綺麗な切断面を持つカーステンの左腕が、宙を舞って地面に落ちた。
「いっ……!」
こうまで直接的に人を傷つけたのは、カナタにとって初めてのことだった。
それでも、後悔はない。いつかはやらなければならないと覚悟はしていたことだ。
――そして、誰かの命を奪うことも。
「いぎゃあああぁぁぁぁぁぁぁあああ!」
大声を上げて、無様に悲鳴を上げるカーステン。
本来ならばそれだけでもう剣を収めていただろう。カナタはそういう少女だった。
今は違う。
死にたくないという意思が暴走しているのか、それとも先程の声、ウァラゼルが何か影響を与えているのか。
自分でも理由は判らないが、カーステンの命を奪うことに躊躇いはなかった。
剣を振り下ろそうとする刹那、目の前に巨大な壁が聳え立つ。
草木を薙ぎ倒しながら、その全身を鎧に包まれた巨体とは思えないほどの速度で目の前に立ちはだかったのは、先程までトウヤと交戦していた聖別騎士だった。
彼等の持つ聖別武器が、カナタの極光の剣を受け止める。
カナタは即座に剣を引き、なにも持っていない左手に光を出現させる。
呆気にとられた聖別騎士の鎧を、カナタが左手に持った剣が掠めた。
両手で構えていなかったため力が入りきらなかったその斬撃は、他の誰もが傷つけることのできなかった聖別騎士の鎧を削り取る。
まさかその鎧が傷つけらるとは思っていなかったのだろう。
一瞬の動揺を付いて、聖別騎士を爆炎が吹き飛ばした。
「トウヤ、君……?」
そこまでが、カナタの限界だった。
持ち直したはずの意識が薄れる。
視界が揺らぎ、熱いぐらいだった全身が血を失ったことによる寒さに襲われる。
まるで地面に吸い寄せられるように、その身体が倒れる。
「て、撤退だ! 一度イシュトナルに戻り、態勢を立て直すのだ!」
聖別騎士に引きずられながら叫ぶその声が、カナタに聞こえた最後の言葉だった。
カナタの意識は今度こそ、一切の抗いを許さずに深い深い深奥へと落ちていった。
▽
かつて、彼等は誰も到達したことない場所に辿り付いたことがある。
幾多の苦難を乗り越え、多くの敵と戦って打ち倒し。
エトランゼとは、ギフトとは、そしてこの世界はいったい何なのか。
その真理に触れかけた者達がいた。
だが、それも全ては過去のものだ。
忌まわしい記憶。
忘れえぬそれへの追憶は終わることはない。
朽ち逝く身体。
聞こえてくる怨嗟の声。
「どうしてこうなったのか?」
「お前は判っていたんじゃないのか?」
「何故止めなかった?」
「知りたかっただけだろう。そこに何があるのかを。これまでに苦楽を共にした全てを犠牲にしてまで」
幾つもの声から耳を塞ぎ、目を背けて走る。
たった一人残された誰かの熱だけを免罪符にして。それを護るために仕方がないことだと自分に言い聞かせて。
真っ白な世界をひた走った。
何度も足を取られて、転びながらもその度に立ち上がり。
その時のことはよく覚えていない。果たしてどうして諦めてしまわなかったのか。
理由は簡単だ。
死にたくなかったのだ。
死が怖かっただけの話だ。
結局のところ、何と呼ばれていようが、人知を遥かに超越した力を持っていたとしても。
心は人間だ。
弱くて脆い。一皮むければ軽蔑の視線を向けていた幾人と代わりはしない。
生きたいと、ただそれだけを願う矮小な存在が一つ。
その後のことはよく覚えていない。
ただ今でもこうして夢に見るのだから、きっと鮮烈な思い出として心に刻み込まれているのだろう。
例え記憶の奥底に何度封印したとしても、こうして蘇ってきてしまうぐらいには。
そうして何年。
残された希望の残骸は、目を背け続けて、同じ過ちを繰り返す。
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