第四章(2) 最後の抵抗

 その時だった。紅緒の背後から、細かい砂利の音が聞こえた。


「――あ、あなたは」


 周吉が提灯で照らすことにより、ようやく気が付いた。

 色素の薄い髪に、同色の瞳。暗闇の中現れたのは、吉満糸司、その人だった。


「糸司さん……」


 どうして、と動揺しながら呟くと、彼は紅緒の目を見て、小さく頷いた。その表情は、いつもの仏頂面なんかではなく、どこか優しいもので。


 大丈夫。


 すれ違いざまにそっと囁いた声が、紅緒の耳をくすぐる。


「やはり、おれには出来ません。あなたの運命を変えることなんて」


 それだけを伝えに来ました、と糸司はきっぱりと言い放った。


(どういうこと?)


 紅緒がその言葉に驚いたまま固まっていると、その言葉の言わんとすることがすぐに理解できた。

 糸司がそっと周吉の左手をとり、小指の付け根に触れる。その瞬間、紅緒にはきらりと瞬く赤い曲線が視えた。


 ――淡い光が紡ぎ出すのは、運命の『赤い糸』。


 その糸は真っすぐに、藤原邸の門を通り、奥へと続いている。あの方向には、梓の寝室があるはずだ。


(まさか)


「なんですか、一体」


 周吉がその手を振り払おうとした。だが、糸司は彼の手をしっかりと掴んだまま離さない。その仏頂面をさらに際立たせる、提灯のぼんやりとした明かり。照らし出された彼の姿には、不思議な鋭利さが宿っている。


「おれの噂を御存じありませんか。『赤糸屋』の吉満糸司」


 はっと、瞬時に周吉の目の色が変わった。それを確認すると、糸司はわざとらしく口角を吊り上げる。

 うろたえる周吉は、どういうことだ、と肩を震わせている。彼はどちらかというと、糸司の悪い噂の方を信じていたらしい。突然現れた件の気味悪い男に、周吉はただただ声を荒げるばかりだ。


「さっき、そんなことは一切」

「言わなかった」

 その必要がなかったからだ、と糸司は続けた。「最初から、貴方と藤原梓様は切っても切れないほど頑丈な『糸』で結ばれていたのです。――この意味がお分かりですか」


 周吉はまるで彫像にでもなったかのようにぴったりと固まり、そのまま動けなくなった。


「糸、が……?」


 その言葉に、誰もが知る『赤い糸伝説』が頭を過ってゆく。


 将来結ばれるべき男女は、その小指を運命の赤い糸で結ばれている。そして、神保町には、『運命の赤い糸』を切断・あるいは結びつけることができる神の僕がいる――


 まさか、と周吉が呟いた。


「あなたが、神の僕――?」


 その時、突然藤原邸の門がゆっくりと開け放たれた。古い木製の扉がぎしぎしと軋み、徐々に松明の光を放ちながらその全貌を明らかにしてゆく。


「お嬢様、外に出てはなりません!」

「谷木、黙って」


 この声には覚えがある。

 使用人の谷木に支えられながら、小さな影がこちらに近づいてくる。色素の薄い髪は、庭で焚いている松明の炎の色に照らされ、一層艶やかに見える。


「梓……」


 ぽつりと呟く周吉の声が梓の耳に届く前に、彼女は行動に起こした。谷木の手を離れ、ふらつく足取りで周吉へ手を伸ばす。その手が掴んだのは、紛れもなく周吉の汚れた着物で。軽い身体の全てを周吉に預け、梓はそっと瞳を閉じた。


 慌てて周吉が彼女の細い両肩を掴み、優しく引き離そうとする。


「梓。駄目だ、戻ってください」

「嫌です」

「谷木さんを困らせてはいけない。それに、……桐蔭様という婚約者がいるあなたは、俺なんかに抱きついてはいけないんだ」


 それが、彼の最後の抵抗だった。


 密やかに揺れる胸の内で、二つの思考が葛藤を繰り広げていた。糸司が言うことが本当だとしても、自分は彼女のために諦めなくてはならない。そもそも、身分が違う。彼女は華族の出だが、己はしがない商人の息子だ。彼女には釣り合わない。

 梓が周吉の顔を見上げる。上目遣いの大きな瞳が、松明の炎に照らされて少し潤んで見えた。


「……周吉さん。私のこと、嫌いですか……?」

「そんなことは! そんなことはない、絶対に!」

「私、どうしても自分で決めたかったの。ねぇ、聞いて」

 彼の鎖骨に額を擦りながら、梓は声を絞り出した。「私、あなたが好き」


 発狂しかけた谷木のことは、糸司が何とか取り押さえた。そりゃあ、自分が仕えているお嬢様がそんなことを言い出したら驚くだろう。彼からしたら、周吉は大事なお嬢様をかっさらっていく悪党。たとえ彼らが幼馴染同士だとしても、だ。だが、もうちょっと待ってくれ。糸司はそんな思いから、必死になって食い止める。紅緒もそれを手伝い、何度も谷木に頼み込んだ。せめて、彼らの中で話がつくまでは。


 周吉は困惑した表情で、彼女を見つめ返している。やっとの思いで名を呼ぶと、梓は彼の袂にしがみつきながら必死に首を横に振る。


「梓、」

「ずっとずっと、お慕いしておりました……! あなたがいい。あなたじゃなきゃ嫌。どうしても、側にいてくれませんか……?」

 そして、泣きそうな顔で周吉の顔を仰ぐ。「私、頑張ってお料理もお裁縫も覚えます! 病気も、……頑張って治します。あなたとずっと一緒にいられるように。だから、」


 梓の言葉が途切れた。周吉が、彼女の身体を強く抱きしめたのだ。驚き目を丸くしている梓の耳元に、周吉はそっと囁く。


「……薬も満足に買えないほど、俺の稼ぎは少ないぞ」

「お仕事のお手伝いもするわ」

「そう簡単に言えることじゃないの、分かってるだろ……」

「でも、私はあなたがいい」


 そのとき、紅緒は気が付いた。

 幸せそうに抱き合っている二人の指には、幾重にも重なる『赤い糸』が結ばれている。しっかりと結ばれた光の糸は、風に揺れ美しい曲線を描いている。糸司なしに見たのは、これが初めてだ。


 そんな彼らに、思わずくすりと微笑んだ。


 ――ああ、この二人には。

 身分の違いなど、本当に、些細なことでしかないのかもしれない――

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