第四章
第四章(1) 本当は、全部、嘘だった
走っているうちに、涙は枯れた。
唇から喘鳴が洩れ、どくどくと心臓が大きく跳ねあがっている。
後から湧き上がってきたのは、後悔だ。自分が短気を起こさなければ、もっといい方向に話が進んだかもしれないのに。
そうだ、今も紅緒は恋愛結婚に憧れている。だからこそ、それが手に届くところにある梓を心底羨ましくも思うのだ。簡単に諦めないでほしかった。だって彼は、彼女が命を賭して愛した人なのだから。こんなに素敵なことは他にない。
ふと脳裏に糸司の姿がよぎった。
――そうだ。あのひとは初めからそんな自分を受け入れてくれた。自分が好かれていないと分かりつつ、いつも優しく接してくれたではないか。自分の作った料理を美味しそうに食べてくれ、仕事の手伝いをするとちょっとだけはにかむ。自分が泣けば肩を貸してくれたし、涙の止め方も教えてくれた。
ごめんなさい、糸司さん。
本当は、全部、嘘だった。
紅緒の足がぴたりと止まる。辺りは夕暮れから、夜に差し掛かる時間。行燈の明かりがぽつぽつと見えるけれど、それ以外はすべて暗闇。黒く塗り潰された町が、紅緒を包囲している。
本当は、そんな糸司のことが好きだった。
莫迦で我儘でどうしようもないくらいに幼い自分を否定しない、優しいあのひとが好きだった。そんな優しい人に、自分はなんてひどい言葉をつきつけてしまったのだろう。もう、嫌われても仕方ない。
自分の手から離れても、しょうがない。
――そう思うからこそ、今は走るしかない。紅緒はそう思った。自分が今できることは、梓のために動くこと。それだけだ。
自分はこんなに駄目な人間だけれど、梓は、梓にだけは幸せになってもらいたかった。自分と重ね合わせているからか。嫉妬の矛先を向けた罪悪感がまだ残っているからか。
否、もっと単純な気持ちだ。ただ、周吉との『戀』を叶えてほしかった。
余計なお世話かもしれない。ただの自己満足かもしれない。でも、梓が周吉を想う気持ちは。周吉が梓を想う気持ちは本物だ。
(一緒に戀した人が、すぐ手の届くところにいるじゃない!)
紅緒がようやく藤原邸に辿り着くと、門の前には一人の男性が立っていた。――間違いない、周吉だ。提灯の柔らかな橙色の光に照らされ、ぼうっとした表情のみが暗闇に浮かび上がっている。
すっかり上がってしまった息をなんとか呑みこむと、紅緒はそっと彼に近づいた。
「……周吉さん、ですか」
尋ねると、彼はびくりと肩を震わせた。そしてのろのろと、こちらを見つめてくるのだった。身に覚えのない顔に、彼が戸惑っているのは目に見えて分かる。
「あなたは……?」
怪訝そうに尋ねられたので、紅緒は彼に深々と頭を下げた。そういった所作だけはしっかり叩きこまれた紅緒だったので、櫻井家に生まれてよかったと初めて思った。
「お初にお目にかかります。私、櫻井紅緒と申します」
「櫻井……? ああ、梓さんのお友達ですね」
きょとんとして紅緒が周吉の瞳を見つめ返すと、彼は嬉しそうにはにかんだ。
「あの方の手紙に、いつも書かれています。とても素敵な方だとお聞きしていました。自分にはないものをたくさん持っていると。あの方は、自分の部屋以外の世界を知りません。――色々と良くしてくださり、本当にありがとうございます」
周吉が頭を下げたので、紅緒は慌てて顔を上げるように言った。別に自分はこれといって特別なことをした覚えなんかないのだ。
「それで……どうしてここに、櫻井さんが。女の子がひとりで出歩くような時間ではありませんよ」
紅緒は一度口を閉ざした。実に言いにくい話だ。まさか、彼を説得するためにやってきただなんて。
(でも、ここで引き下がったら)
もう、彼らは面と向かって会うことが出来なくなる。おそらく、一生引き離されたままになるだろう。そんなこと、哀しすぎる。
思わず拳を握り、己を鼓舞した。
「あの、……その、梓さんのことで」
お話が、とようやく切り出した。「周吉さんは、本当に、それでいいのですか」
「梓の縁談の話ですか?」
紅緒は首を縦に動かした。「いいはずがないじゃないですか」
「それなら、どうして……」
「俺は、あの方の側にいたい。でも、それよりももっと重要なことがある。梓の病気が治ることです。そのためには、俺よりも桐蔭様の方がずっといい」
俺は、と周吉が言った。はっきりとした口調で。暗がりに浮かび上がる彼の瞳には、迷いなどなかった。あるとすれば、それは希望だ。
「あの方がずっと笑顔でいてくれるなら、それが一番の幸せだと思ってる」
梓の病気が治り、ずっと元気に生き長らえてくれるなら。そんな希望が今、彼を突き動かしているのだ。
紅緒はそんな彼を見ていたら、なんだか自分の行いがひどく愚劣で野暮で、考えなしだったように思えてきた。先程の糸司の言葉を思い出す。
――本当の幸せってなんだろう。
周吉は、己にとっての本当の幸いに気付いていた。互いにとって辛い選択でも、少しでも明るい未来に賭すことを選んだ。そんな彼らに口を出すこと自体、間違っていたのかもしれない。
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