第三章(5) ほんとうの幸い
肩を落としたまま藤原邸を後にすると、ちょうど糸司がひとりで戻ってきたところだった。紅緒を見るなり一瞬嬉しそうな表情を見せるも、当の本人はそれに気が付いていない。ただただ俯いたままのろのろと足を動かしているだけだ。
「すみません、紅緒さん。結局独りで行かせてしまって」
口を閉ざしたまま小さく頷く彼女に、糸司はようやく紅緒の異変に気が付いた。ためらいがちに「どうしたんです?」と声をかけるも、紅緒は首を横に振るばかりだ。
「なんでも、ない……」
「そんな訳ないでしょう。紅緒さ……」
その時、ぼろり、と紅緒の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
さすがの糸司も思わず目を剥いた。自分がいない間に、一体なにがあったのか。どうしていいか分からずただおろおろしていると、紅緒は小さく糸司の羽織の裾を引いた。
「ちょっと、肩、貸して……」
そして、ぽすんと糸司の右肩に額を擦り合わせる。微かに震える細い肩。声を殺し、懸命に涙を止めようとしているが、それは叶わなかった。止めようとするたびに、堰を切ったように涙が溢れ出る。
――一言で言うなら、自己嫌悪、だ。
梓は確かに自分と似たような悩みを持っている。だが、根本的な違いがあることに紅緒は気付いてしまった。あの人は、自分が本当に好きな人と一緒になりたいだけなのだ。それに比べて、自分はただ子供の我儘を通しているようなもので。挙句、梓の話を聞くまで、疑ってしまっていたではないか。
梓が、糸司のことを慕っているのではないか、なんて。
自分で「見合いは厭だ」と言っておきながら、いざ取られると思ったらどうしてこんなに醜い感情が湧き上がるのかが分からなかった。ただ、不安で仕方なかった。梓が本当のことを打ち明けたとき、思わずほっとしてしまったのはそういうことだろう。
結局、自分は自分のことしか考えていなかった。
湧き上がる罪悪感が再び、涙となり頬を流れて行く。
どうしてあんなに良い子を疑ったのか。醜いのは自分だ。どうしたらいいのか、分からない。分からずにただ泣くしかできないなんて。
「っ……んっ、ふ……」
その時、紅緒の頭に、優しい感触があった。糸司の手だ。
はっと目を見開いた紅緒の耳に、囁く声が聞こえる。
「――ちゃんと、涙は止まるから」
それまでは、泣いていていい。
結局、紅緒はしばらく公衆の面前で咽んでしまった。多少落ち着いた今は、無言の糸司に連れられ近くの茶屋を訪れていた。緑茶と、串に刺さった艶やかな三色団子が目の前に並ぶ。
落ち着きましたか、と糸司が尋ねると、紅緒は小さく頷いた。
(恥ずかしいことをしてしまった……)
まさか、あそこで泣くなんて思っていなかった。糸司の姿を見つけたら、なんだか不思議と泣けてきてしまって。気が付いたら、あろうことか糸司の肩に擦り寄っていた。失態。間違いなく、失態だ。
再び自己嫌悪に陥ったところで、そっと糸司が声をかけてきた。
「ところで、紅緒さん。梓さんのことなんだけど」
糸司は糸司なりに、紅緒に何があったのかを推理していたらしい。おそらくあの状況なら、これだろう。そう踏んだらしく、遠回しに状況を聞き出そうとする。
「……糸司さんは、知っていたんですね」
「うん」
短く返事すると、「黙っているのもよくないと思ったんだけど……。一応こちらもお客様の情報を預かっている身だから、何でも話す訳にはいかなかったんだ。なにせ、状況が状況だから。紅緒さんが梓さんに自分を重ねることも充分考えられたし」
それが失敗だったな、と糸司が言う。紅緒は何も言わず、足元に転がっている小石に目を向けている。つま先で蹴飛ばすと、沈みかけの夕陽に照らされながらころんと転がった。
「紅緒さん。本当の幸せってなんだろう」
糸司は一口茶を口に含み、喉の渇きを潤す。そして、少々の間の後、ゆっくりと話し始めた。
「おれが出来ることは、『赤い糸』を結ぶことと切り離すことだけ。その気になれば、本人の意思を無視して行動に移すことだってできる。依頼人がそう望めば、そうするしかない」
「でも、糸司さんはそうしたくないんでしょう?」
彼は短く頷いた。
「与えられた物には意味があると思って今までやってきたけれど――悩むな、こりゃあ」
そう言いながら、糸司は苦笑する。「どちらが幸せかなんて、当事者以外には分からない、か」
自嘲めいた声色。今までの彼はどんな仕事にぶち当たっても、自分自身できちんと考えてきた。結果、『赤い糸』をぶつ切りにしなければならないことも出てきたが、自分で納得できるように考えてきたつもりだ。短い間だが、間近で彼を見ていた紅緒はそのことに気が付いていた。この人は優しいから、心を痛めながらそれでも『赤い糸』――人の運命を最善へ結び付けようとしているのだ。そんな彼が今、大きく迷い始めている。
ふっと短く息を吐き出すと、糸司は真剣な面持ちで言い放った。
「……さっき、周吉さんと話はつけてきた。率直にどうしたいかと尋ねたら、あの人はなんて言ったと思う?」
「え?」
「はっきりと『梓さんは貞文様と幸せになってくれ』って言った。自分では不釣り合いだから。彼女は身分の高い人のところに嫁げば、幸せになれるはずだ、そうすれば、いつでも質のいい薬も手に入る。病気も治るかもしれない」
だから彼は、この戀から手を引くと言ったのだ。全ては、彼女がこれからも元気で暮らすため。彼女の身を案じてのことだった。
紅緒はさっと血の気が引く感覚を覚えた。
「そんな……!」
「そういうことだ。世の中、金で回ることもある。幸い、貞文様はおれとも面識がある。あのひとはとても優しい方だ。きっと幸せにしてくれるよ」
「莫迦!」
突然紅緒が声を上げて怒鳴った。周りの客も一様に二人を見つめ、一体どうしたものかと囁いていたが、そんなことは紅緒にとってどうでもいい。少なくとも、いつもの仏頂面のままで平然としている糸司にはこれくらいの仕打ちが当然だと紅緒は思った。
「梓さんは、あなたが『赤い糸』を結びつけてくれることを待ってるのよ! 周吉さんだって、それが本心な訳ないでしょっ!」
「それくらい分かってる」
「分かってない! 全っ然、女心なんか分かってないでしょ! 私はそもそも恋愛結婚派よ、この考えは一生曲げない!」
「でも、自分だって……」
「あなただって同じよ! 他に好きな人がいるならそっちに行ったって全然構わないんだから! 私、悔しくなんかないんだからねっ」
また、目から大粒の涙がこぼれ落ちた。ああ、これは自分に嘘をついているからだ。
本当は、めちゃくちゃ悔しいくせに。できることなら、このひとの側にいたいと思っているくせに。どうして肝心なところで素直になれないのだろう。
ああ、私は莫迦だ。どうしようもない莫迦者だ。
「あなたがそんなひとだなんて思わなかった! がっかりよ!」
力任せに怒鳴り付け、紅緒は店を飛び出した。糸司がそれを追いかけるも、紅緒の足は意外と速い。重たい着物を着ているとは思えないほどに、下駄を履いているとは思えないほどに、それはそれは速い。おかげで、糸司はすぐに彼女を見失ってしまった。
「まったく、」
喘鳴混じりに彼は言葉を吐き捨てた。
一度足を止め、大きく息を吸う。脳裏を掠めていくのは、紅緒の泣き顔。あの人を泣かせてばかりだ、と糸司は密かに思う。
「――おれだって、悔しいに決まってるだろ!」
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