第四章(3) わたしが望んだ『戀』のかたち

 あとは彼らに任せて大丈夫だと糸司が言うので、二人で帰路についた。


 一連の出来事ですっかり忘れていたが、数刻前に紅緒は糸司をひどい言葉で怒鳴りつけていた。それを唐突に思い出し、気まずさから紅緒はさりげなく糸司と距離をとろうとする。だが、それを糸司が拒んだ。突然乱暴に彼女の左手を掴んだかと思うと、そのままずんずんと先へ進んでいく。握りしめた掌には、絶対に離してやるもんか、という意思が見え隠れしている。


「あの、糸司さん」


 痛いです、とおずおずと声をかけると、糸司は怒っているような低い声色でぼそりと呟いた。


「――紅緒さん。あなたは、ひとつ勘違いをしている」


 え? と顔を上げると、糸司は顔を真正面に向けたまま、やたら早口でまくし立てるように言う。


「あなたは、おれがあなたのことを嫌っているとお思いでしょうが、そんなことはない。あなたの出し巻き卵を食べない日にはなんだか物足りなくなったし、あなたの姿が見えないと心配になるし。おれのことを嫌っているのかと思ったら、おれに、し、嫉妬……しているみたいだし。もう愛しくてしょうがない。一体どうしてくれるんですか」


 紅緒が呆けていると、糸司はそれ以上何も言わなかった。掴んだ手だけは離さずに、ただ前へ進んでいくのみだ。


(これって……)


 ――告白?


 気づいてしまったらもう遅い。紅緒の心臓はとたんに跳ねあがった。今が夜間で本当によかった。真っ昼間なら、きっとこんなに赤い顔をしているのもしっかりと見られてしまう。


 紅緒は思う。


 先程から「そうなのではないか」と考えていたことがあった。見合いは嫌だと散々言い続けてきたが、「見合い」なんてものは、そもそもただのきっかけではなかろうか。


 そう、恋愛結婚にしろ、お見合い結婚にしろ、結局のところはただの『きっかけ』。そんな小さいことに拘っていた自分が、なんだか無性に恥ずかしくて。


 そして、おそらく目の前で同じように顔を赤くしている彼がどうしようもなく愛しく感じて。


 ――ああ、これが、『戀』だ。自分が望んでいた『戀』のかたちなのだ。


「ねぇ、糸司さん」


 呼びかけると、糸司はそっと肩越しに紅緒を見返した。


「私ね、気付いたことがあるんだ」

「なに?」

「『戀』って、『糸し糸しと言う心』って書くでしょう?」

「まぁ……そうですね」


 それがなにか? と問われたので、紅緒は敢えてはっきりと言った。


「私の心、ずっと糸司さんの名前ばかり呼んでる。これって、『戀』なのかなぁ……?」


 なんちゃって、と照れ笑いを浮かべたところで、糸司の足が止まった。あまりの突然さに咄嗟の対応ができず、紅緒はその背中に勢いよく衝突する。ぶッ、と女の子としてはあるまじき悲鳴を上げたが、糸司としてはそんなことはどうでもよかった。


 くるりと振り返ったと思ったら、次の瞬間、紅緒は前が見えなくなった。――糸司に抱きしめられているのだ。息苦しさの中、微かに聞こえるは彼の拍動。やや速い音は、不思議と心地良く感じる。きっと、自分の心臓の音もこんな風に彼には筒抜けだ。


「紅緒さん……おれは、あなたのことを好きになってもいいんですか……?」


 今度は宥める行為としてではなく、好きだという気持ちを伝えるために、紅緒をその胸に掻き抱く。一番近くて遠いひとが、こんなにも近くに。

 紅緒はそっと糸司の背中に手を回し、頬を彼の胸に当てた。


 聞こえる。トクン、トクン。心臓の音。

 彼の匂いに包まれて、紅緒はそっと瞳を閉じた。

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