第二章

第二章(1) 百聞は一見に如かず

「ごめんください」


 そこから顔を覗かせたのは、赤毛の女性だった。

 年齢は二〇代前半、といったところだろうか? 肩までの髪に、淡黄色の着物。おおよその外見はこんな感じである。


「あの、こちらは『赤糸屋あかしや』さんで間違いないでしょうか?」

「ええ。こちらへどうぞ」


 糸司が立ち上がり、女性を椅子まで案内する。座りやすいようにさりげなく椅子を引く姿は、――何度も言うが糸司は美青年なので――ただそれだけの動作なのにひどく麗しく見えるのが不思議なところである。


「ありがとう」


 彼女が声をかけると、糸司はぎこちない作り笑顔を浮かべた。

 糸司がもうひとつの椅子に腰かけた。紅緒は座り込んだまま、彼らの様子をじっと見つめている。この様子をしっかりと見ておけば、きっと糸司が何をしている人なのか分かるのではなかろうか。そう考えてのことだった。


「ようこそ、『赤糸屋』へ。私が店主の吉満糸司でございます」


 糸司の凛とした仕草に、女性も思わずほうっと感嘆の息を洩らした。


「き、菊川と申します……」


 動揺を含んだ声色。慣れてしまっているのか、そのあたりに関して糸司は何も言わず、「では」と唐突に口を開いた。


「お悩みは……、離縁したい、ということでしょうか」


 彼の率直な物言いに、彼女―――菊川は、びくりと肩を震わせる。どうやら、彼女には本当にそういう内容を話したかったらしい。瞠目したまま、「まさか」と言わんばかりの口調で尋ねる。


「どうして、それを……?」


 糸司はただじっと、彼女の左手を見つめていた。そして、ふむ、と首を傾げる。


「大分事情が複雑のようですね。もしかして、相手の方になにか問題でも……?」


 図星だったのだろう、この女性は動揺したまま目を白黒させていた。

 一見気味が悪い糸司の言動だが、彼の美貌がそうさせるのか、はたまた前評判で聞いていた噂通りだと思ったのか。それとも、糸司の真摯な態度に心動かされたのか。――おそらく、全部。彼女はふっと息を吐き出したのち、ぽつぽつと事情を説明し始めた。


 なんでも、彼女には親が取り決めた婚約者がいたらしい。出会った当初はとても優しい人だったので、彼女は快諾。そのままトントン拍子に婚姻を結んだのだった。だが、後からその婚約者が大層女好きだということが発覚した。毎日のように遊び歩き、果てには二号まで作ってくる始末。あまりにひどすぎると彼女は何度も訴えたが、彼は一切聞く耳を持たない。そこで困り果てた彼女は糸司の元を訪れたのだった。


 なるほど、と糸司は頷き、再び彼女の左手を見遣る。


「ひとつ、確認させていただきたい」

 菊川さん、と彼女の名を呼んだ。「あなたは、その方が好きですか?」


 彼女は無言だった。


 おそらく、彼女自身も真意を測りかねているところなのだろう。そういうところを責める必要はない。そう言わんばかりに、糸司は溜息をひとつ洩らした。


「……分かりました。それでは、ひとまず相手の浮気癖を直すことにしましょう」


 糸司がそっと彼女の左手に触れた。躊躇いなくひょいと持ち上げると、


「失礼」


 そしてそのまま、何もないはずの空間に己の左手を伸ばした。


(あれ?)


 今、糸司の指先が微かに光って見えたのだ。見間違いだろうかと思いよくよく観察してみるが、確かに赤く光っている。ぼんやりと見えるその光沢は、紅緒の目の前でするりと曲線を描いた。


 あの赤い色は。あのかたちは。


「赤い、糸……?」


 そう。霞んでよく見えないが、今糸司が触れているのは『赤い糸』だ。その末端は彼女の左手の小指にきつく結ばれており、切れそうもないくらいに丈夫に見えた。そしてその糸の行く先は――生憎、紅緒には見えなかった。


 紅緒の呟きが、糸司にも聞こえたのだろうか。はっとした表情で糸司がこちらを見つめたが、すぐに手元へ目線を落とす。

 その光の糸は、実のところ一本ではなかった。太くしっかりと結ばれた一本の糸に、何本もの細い糸が絡み合っているのだ。


 それを見て、紅緒はなんとなく、糸司が「複雑だ」と言った理由が分かった気がした。邪魔するかのように何本も糸が絡み合っていれば、上手く行くはずなんかない。


 糸司はしばらくその縺れた糸を見つめていたが、唐突に細い糸をぶつりと切ってしまった。


「あっ、ああっ」


 思わず声を上げてしまうほどの衝撃映像だ。一番太い糸だけは丁寧に扱っているけれど、それ以外の糸は邪魔だと言わんばかりにぶちぶちと容赦なく断ち切ってゆく。


 一方、彼女は、そんな糸司の行動が視えていないらしい。首を傾げたまま、ただただ怪訝そうな表情を浮かべていた。


 結果、複雑に絡まり合っていた糸は完全に断ち切られ、一本の糸だけが残ることとなった。


「……これで、なにかが変わると思います」


 糸司はそう言うと、己の両手をそっと降ろした。ひどく疲れた様子で、つい眉間に皺を寄せてしまっている。


「本当に……?」


 恐る恐る彼女が尋ねると、糸司はおもむろに首を動かす。


「そろそろ、来る頃ですね」


 その時、軽快な音と共に店の引き戸が勢いよく開け放たれた。

 そこに立っていたのは、この町では珍しい洋装に身を包んだ男性である。背は比較的低い方だが、顔は良い。単純に女の勘という奴だが、紅緒からしてみたら「見るからに遊んでいそうだな」という印象を受けた。


「こんなところにいた! みやこさん……!」


 随分走ってきたのだろう。男の唇からは喘鳴が洩れ、額からは一筋の汗が流れ落ちた。


市郎いちろうさん」

 彼女が呆けた様子で彼の名を呼ぶ。「どうして?」


 彼は紅緒や糸司には目もくれず、彼女の元へ駆け出した。そしてがばりと膝下に縋りつく。


「俺が悪かった……! やっぱり、俺は都さんがいないと駄目なんだ……!」


 男泣き、である。初めて見る奇妙な光景に、紅緒はただただ瞠目するばかりだ。とにかく――彼が突然改心したことだけは分かった。

 そんな紅緒の横で、糸司は無表情のままぼそりと呟く。


「やりすぎた」


 やりすぎ、とは? まさか、先程の『糸』のことだろうか?

 びいびい泣いている彼――市郎を、彼女は初め戸惑った様子で眺めていたが、次第に表情が優しく崩れ始め、ついにはくすくすと笑い始めてしまった。己の手を彼の頭に乗せ、優しく撫でてやる。


「莫迦な人ね」

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