第一章(3) 『赤糸屋』という屋号

 青年――糸司が紅緒を引きつれて客間へ向かうと、既に泰埼と操は昔話に花を咲かせていた。二人が同時にやってきたものだから、彼ら父親組が気を良くしたのは言うまでもない。


「やや、こうして見ると美男美女で羨ましいですなぁ」


(父様は本当に呑気なんだから……)


 そう思う紅緒だが、確かに糸司は美男子には違いない。


 元々「吉満の兄弟はどちらも破格の美しさだ」と評判であったが、まさかここまでとは考えてもみなかった。どこからどう見ても御曹司と言って差し支えない外見。正直なところ、その美貌に不覚にもときめいてしまっていた紅緒である。


(惑わされちゃだめ。紅緒、恋愛結婚したかったんじゃなかったの!)


 そんなことを考える紅緒をよそに、糸司は深々と操に頭を下げている。


「お久しぶりでございます、操様。お変わりなく……」

「そんな堅苦しい挨拶は勘弁してくれたまえ、糸司君。それに、突然お呼び立てして悪かったね。店が忙しいだろうに」


 いえ、と糸司は首を横に振る。


「うちはいつでも閑古鳥が鳴いているようなものですから、どうかお気になさらず」


 何の話だか分からずきょとんとしている紅緒に、泰埼が優しい口調で教えてくれた。


「糸司の奴は、町の外れに店を構えているんだ。普段はそこで暮らしている」


 ということは、今日はこのためだけにわざわざ実家まで戻ってきたというのか。この、くっだらない顔合わせのために?


 なんだか申し訳なくなり、紅緒が俯いていると、突然糸司が口を開いた。


「……あの、操様。先に店に紅緒さんを案内しておきたいのですが、構わないでしょうか」


 ぎょっと目を丸くしたのは紅緒の方である。この男は一体なにを言い出すのか。というか、ここ数日「一体何を言うんだ!」という状況があまりに多すぎる。皆寄ってたかって私をどうしたいんだ。


 頭の中が良い具合に混乱してきたところで、つん、と紅緒の手を何かが突いた。糸司の指だ。まるで「こちらに合わせろ」とでも言わんばかりの仕草に、はたと紅緒は気が付いた。


 ――もしかして、助け船のつもり?


「ああ、構わないよ」


 と何も疑問を持たない父親組が言うので、「では」と糸司は立ち上がる。そして、戸惑う紅緒の手を優しく引いたのだった。甘く微笑む彼の表情は、先程桜の木の下で見たものとは違う、どこか作ったような表情で。


「御案内いたします。紅緒様」


***


 外に出ると、やはり客間からは愉しげな声が聞こえてくる。もしかしたら顔合わせというのはただの口実で、あの二人は堂々と歓談を楽しみたかったのかもしれない。そう考えると、あのタイミングで糸司が外に連れ出してくれたのは正解だった。


 紅緒は真意を確かめるべく、糸司にそっと声をかけてみた。


「あの、吉満様……」

「糸司」

「はっ?」

「糸司でいい。名字は好きじゃないんだ」

 相変わらずの仏頂面だ。「それに、あのまま親父二人に囲まれていても、退屈でしょう?」

「え、ええ……まぁ、そうですね」


 そのときようやく、糸司に手を引かれたままだということに気がついた紅緒。思わずぼっと顔に火がついた。


 思えば、生まれてこのかた父親以外の男性と手を繋いだことなんかなかった。普通こういう場合はどういう反応をすればいいのだろう。振りほどくのは失礼だし、正直嫌だという気もしない。


 あれこれ悩んでいるうちに、結局紅緒は手を引かれたまま例の店へとやってきてしまったのだった。


 糸司が普段暮らしているというその店は、少し古びた木造平屋の小さな建物だった。軒下には、飾り気のない文字で『赤糸屋』と記された看板が下げられている。


(あかいと……や? ううん、違う。なんて読むのかしら……)


 ぽうっとした表情で紅緒がそれを眺めていると、糸司が引き戸をそっと引いた。からから、と乾いた音が心地良い。


「何もないけれど、どうぞ」


 櫻井の御令嬢に見せるようなものではないけれど、と糸司が申し訳なさそうに言うので、紅緒は必死で首を横に振った。


「御令嬢だなんて。それにあなただって……」

「おれ? 総司がいるでしょう。御子息なんて大層なもの、ひとりいれば充分」


 やはり、彼は他とは違う。


 紅緒は今までに、何度か父に連れられ――顧客から招かれるのである――社交界とやらに顔見せしたこともあった。だが紅緒の元へやってくる「子息」とやらは、決まってその権力に縋りつき、自分の手柄でもない癖にいばりちらす輩ばかりだった。それが紅緒の「見合いは嫌」理論に拍車をかける要因のひとつとなったのだが、どうもこの糸司といると悉くその理論を打ち砕かれてしまう。とにかく、彼は今までに出会った人とは根本的に性質が異なるのだ。


 糸司は紅緒を中に通すと、すぐに茶を淹れに奥へと入って行ってしまった。


 店の中は、俗に言う問屋のような作りをしていた。奥の一段高いところに四畳ほどの和室があり、奥まった部分に桐で出来た大層立派な箪笥が納められている。引き出しを開けることはさすがに躊躇われたけれど、おそらく商いに関係するものが収納されているのではなかろうか。


 紅緒は畳の縁に腰かけ、店内を見渡してみた。


 その手前には、いくつか大きな家具を置いても充分な広さが確保できる空間が広がっている。そこには西洋風の机と揃いの椅子が二脚。机の中心には一輪挿しが置かれ、白色の可憐な花が挿してある。その他にも、背の高い振り子時計や机に合わせ、西洋風のものが数多く見受けられた。例えば、洒落た本棚。中には紅緒にはよく分からない題名の本がぎっしりと詰まっている。その他に、電話台。赤黒色で小さな引き出しの付いたそれに鎮座するは、この町に数えるほどしか存在しない電話機。


 もしかしたら、糸司は西洋のものが好きなのかもしれない。


「お待たせしました」

 そのとき、糸司が戻ってきた。「お口に合うか分からないけれど」


 漆塗りの盆に載せられた二つの湯呑。一旦それを畳に置いてから、紅緒にそっと差し出す。


「あ、ありがとう」


 糸司もそっと紅緒の隣に座りこみ、今自分で淹れてきた茶に口をつけた。


 振り子時計が揺れる音のみが聞こえる、とても穏やかな空間。心地良さは天下一品だが、紅緒の頭にはひとつの疑問が浮かんだままとなっている。


 結局のところ、この店はなにを扱っているのか。


「……糸司さん。聞いてもいいかしら?」

「おれに答えられることでしたら、なんなりと」

「このお店、……一体、何をやっているの?」


 未だに読めない『赤糸屋』の屋号に、営業しているのかよく分からない店構え。そもそも商いを行っているにしては物がなさすぎる。

 糸司はゆっくりと湯呑を降ろし、少々困った様子で息を吐き出した。


「強いて言うなら、縁結び」

「縁結び? って、あの?」


 要するに、縁組のことだろうか。そのときふと、紅緒の脳裏に例の噂が過った。


 ――吉満糸司に恋に関する願い事を告げると、必ず叶う。


 まさかあの噂は本当なのだろうか。今までの糸司に対する印象が前評判とかけ離れていたので、紅緒は勝手にこちらも嘘だと思っていたのだ。


 だが、糸司はそれを否定しない。ただ首を縦に動かすだけだ。


「……紅緒さんは、桜花町に伝わる『赤い糸伝説』をご存知ですか」


 ええ、と紅緒は首を縦に振った。


「運命の相手との間には、目には見えない赤い糸で結ばれている……っていう、あの伝説ですね」

「そして、桜花町には『運命の赤い糸』を切断・あるいは結びつけることができる神の僕がいる――」


 そのとき、玄関の引き戸がゆっくりと開く音がした。

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