第一章(2) 私は絶対に恋愛結婚したいの!
――本当に『神の僕』なら、自分の運命の人くらいちゃんと操作しておきなさいよ。
はぁ、と溜息をつき、紅緒はよそ行きの紅い着物に袖を通した。
裾に桜の花が大きく描かれた、お気に入りの着物である。元々は母が若い頃に着ていたものなのだが、紅緒はこの桜の花が大好きだった。幼い頃、一度見せてもらって以来「大きくなったらあれを着せてもらうんだ」と両親に声高らかに宣言していたことをふと思い出し、つい嘆息を洩らしてしまった。
……まさか、こんな日に着ていく羽目になるとは。
腰まで伸びた真っすぐな黒髪を、両側だけを上げて桜色の帯で結ぶ。
こんなにめかしこんで、一体自分はなにをやっているのだろう。今から父と共に吉満家に御挨拶しに行かなくてはならなくなったからって。上手い具合に流されたのが腑に落ちないし、なによりこの着物だって、きっとこんな気持ちの私に着られたくなんかないだろう。思わず紅緒はがっくりと肩を落とした。
準備はできたか、と戸の外から声をかけてくる操に、紅緒は実に無愛想な返事をする。
この際父親の体裁など無視してしまえ。嫌なものは嫌だとはっきり言ってしまえばいいのだ!
女は強くあれ、が座右の銘である紅緒は、部屋でひとり気合いの拳を握ったのだった。
(そう、私はお見合い結婚である両親とは違うのよ)
もっと素敵に、劇的に。そんな恋に憧れて何が悪いのだ。一度きりの人生、紅緒は絶対に後悔したくなかった。
私は絶対に恋愛結婚したいの!
***
件の吉満邸は、一刻ほど歩いた場所にある。
操と泰埼氏が旧友だということもあり、どうやら幼い頃に一度だけ連れて行ってもらったことがあるらしいのだが、あいにく紅緒の記憶にはさっぱり残っていなかった。せめて少しだけでも覚えていたならば、かの「吉満糸司」に対してこんなにも思い悩むことはなかったのかもしれない。なぜ見ず知らずのところにいきなり行って結婚しなければならないのか。全くもって理解不能である。
しかし、だ。
(……そんなに評判が分かれている吉満糸司を、直接見てみるのもいいかもしれない)
紅緒はふと、女学生時代のことを思い出した。
友人たちが、卒業後次々と顔も知らぬ許嫁の元へ嫁いでゆく。親が決めたことで、彼女らに拒否権などない。
「顔も知らない人のところに嫁ぎたくなんかない!」
そう言って紅緒に泣きつく友人もいた。
「お伽噺のように、素敵な恋がしてみたかった」
でも無理ね、と悲しそうに空を仰ぐ友人もいた。
初めから決まっていたことなのだから、と彼女らは口を揃えて言う。そして『赤い糸』がその許嫁との間に結ばれていることだけを信じながら、彼女たちは嫁いでいった。そんな彼女らの表情を思い出し、紅緒は胸が締め付けられる思いがした。
己の両親も、そういう「決められた」世界で生きてきた人間なのだ。幸い夫婦仲はすこぶる良いが、それは稀に見る例外なのかもしれない。
だから、紅緒は自分が好きになった人と結婚したかった。好きになる相手くらい、ちゃんと自分の目で見て判断したい。
(……前向きに考えてみよう)
そう、これはチャンスだ。少なくとも自分には婚前に許嫁とやらに会って話すという絶好の機会を与えられた。これを逃したら、おそらく当事者の意思に関係なく結納までまっしぐら。紅緒が口を挟む余地などない。
チャンスはものにするためにある。まさしく今がその時だ!
自分の考えに納得できたところで、吉満邸に到着した。操が使用人に用件を告げると、使用人もある程度事情を聞かされていたようで、破顔したのちすぐにふたりを屋敷へと案内してくれた。
吉満邸は瓦屋根の平屋だ。左手によく手入れされた庭園が見渡せ、右手には大きな蔵が鎮座している。蔵の扉は遠目から見ても分かるくらいに大きく頑丈な錠が施されていた。これだけ大きな家となると、やはり守も強固にしておかなければならないのだろう。
父の後ろを歩いていると、ふと、紅緒は庭園に咲き誇る桜の花に目を奪われた。
「きれい……」
思わず立ち止まり、その薄桃色の花弁を目で追ってしまう。近所にこれほどまでに見事な桜があるとは知らなかった。
(近づいてみても、いいかしら?)
操はもう大分先に進んで行ってしまったけれど、紅緒はまだこの桜を眺めていたかった。そうっと近づくと、ああ、やはり。八重桜だ。丸みのある花が風に揺れると、薄い花弁がふわりと舞う。きらきらと太陽の光を纏う桜吹雪は、この世のものとは思えないほど美しい。
そのまま紅緒は、飽きもせず桜を仰ぎ続けていた。
――誰かに呼び止められるまでは。
「きれいでしょう」
男性の声だ。
振り返ると、そこには墨色の着物に同色の羽織を身に纏った青年がいた。
甘く整った顔に、引き締まった唇。栗色の髪は羨ましいほどにさらさらと風になびいている。表情は仏頂面であるけれど、決して嫌味な感じではなかった。
「樹齢二〇〇年を誇る八重桜。やはりこの時期が一番美しい」
「二〇〇年も……」
自分が生まれるずっとずっと前から見守り続けるこの桜は、桜花町をどのように見つめていたのだろう。それを聞いたら、なんだか紅緒はこの桜がもっと好きになったような気がした。
今も桜を仰いだままその目を輝かせている紅緒に、彼がそっと尋ねた。
「もしや、あなたが櫻井紅緒さんですか」
そうですが、と不思議そうに首を傾げる紅緒に、青年はなるほど、と一人納得している。「この人が」と呟いたのと同時に、屋敷の方から使用人が声をかけてきた。
「糸司様! 櫻井様がお見えになりましたよ!」
いとし、様?
ぽかんとする紅緒には目もくれず、青年は「ああ、今行く」とやんわりと返答する。
「あの、もしかして……あなたは、」
おずおずと尋ねると、青年はゆっくりと目を細めた。
「初めまして。おれが吉満糸司です」
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