第二章(2) 彼の正体

 その場で「浮気はしない」宣言をした彼は、仲睦まじく二人で店を後にした。見送りのために外に出ると、今までの緊迫した様子が一変、なんと寄り添って歩いているではないか。


 紅緒は一体なにがなんだか、といった表情のまま、彼らの背中を見つめていた。糸司だけは、「いつものこと」と言わんばかりの飄々とした表情で彼らを見送っている。


「――さて、紅緒さん」


 糸司が紅緒に声をかけた。

 見上げると、彼はどうも複雑な表情を浮かべている。怒っているようにも見えるし、困ったようにも見える。そんな不思議な表情を浮かべたままの彼は、ためらいがちに紅緒に尋ねた。


「あなた、先程……、何を見ました?」

「えっ……?」


 否、怒っても困ってもいない。純粋に、彼は追求しようとしていた。その口調から、紅緒は咄嗟にそう感じ取った。あり得ない、と言わんばかりの反応に、彼女はすっかり困ってしまった。


「さっき、『赤い糸』って呟いたでしょう。もしかして、あなたには視えたんですか?」


 糸司が紅緒の細い両肩を掴む。その力はかなり強い。痛い、と感じる前に、紅緒の脳裏には先程の映像が頭を過っていた。


 赤い色をした、光の糸。


 彼のきつい口調すらもろくに耳に入らず、紅緒はただただ目を剥いている。放心状態と言っても過言でない彼女の様子に、糸司ははっとしながら紅緒の両肩を掴んでいた手を離した。


「ご、ごめんなさい……。つい、」


 気恥ずかしさからつい目を逸らした彼だったが、のろのろと紅緒の黒い瞳へ目線を戻す。未だためらいが見えるその素振りに、震える声。


「……視たのですか」


 糸司の問いに、紅緒はゆっくりと頷いた。


「あの女性の小指に巻きついていたものなら……」


 そう言うと、紅緒は顔を上げた。

 糸司の表情が微妙に変化していることに気がついたからだ。嬉しいのを隠そうと必死に口角を下げようと努力しているけれど、全く隠し切れていない。頬が紅潮し、何故か耳まで真っ赤になっている。


「そうですか、紅緒さんには」


 視えているのか。

 そう呟いた彼は、刹那、今日見た中で一番の微笑みを紅緒に向けた。


(うわぁ)


 紅緒の心臓が跳ねる。


 ――こんな顔、するんだ。


 仏頂面の時はその張り詰めた雰囲気を全面に押し出しているように見えていたが、この笑顔は、そんなものは全て吹き飛んでしまうほどに可愛らしい。優しげなその表情は、紅緒の心臓を高鳴らせるにはうってつけだ。


 外が冷えてきたので、再び店の中に入るよう促された。今度は、糸司は『商い中』の札を下げてしまい、完全に店じまいを決め込んでいる。


 先程と同じように、二人して座敷の縁に腰かけた。ただ違うのは、二人の様子。先程よりもそわそわと落ち着かない様子で、互いに目線を合わせることもままならない。


 無言でいるうちに、右手に見える古い置時計が時間の経過を淡々と告げた。五つの鐘の音。


「……おれはね、」

 糸司がそっと呟く。「自分のもの以外の『赤い糸』が視えるんだ」


 紅緒は黙ったまま、すっかり温んでしまった茶の水面を眺めている。揺れもしない、ぴたりと凪いだままの水面に映る自分の表情はなんとも複雑そうだ。


「これは家系みたいなものでね。兄の総司は視えないが、父は視えたし、どうやら祖母も視える人だったようだ。吉満家を継ぐのは、『赤い糸』が視える直系血族のみ。だから本当はおれが吉満家を継がなくてはならなかったんだけど」


 そこで糸司はぴたりと口を閉ざす。確か、吉満家の跡取りは長男の総司ではなかったか。紅緒は先程の会話を思い出し、頭の中に疑問符を浮かべている。


「どうしても、気持ちに折り合いがつかなくて。結局兄に全部押し付けて、ひとりで家を出た」

 そして糸司はぼんやりと天井を仰いだ。「紅緒さん、おれが言うのもおかしな話だが、あなたはこの縁談をよく思っていないでしょう」


 大きく心臓が跳ねた。彼にはそのようなこと、なにひとつ言っていないはずだった。もしや顔に出ていたか、と冷や汗をかきつつじっと口を閉ざしている。


「別に怒らないから、本当の気持ちを教えてくれないか。そもそもおれには怒る権利なんかない」

「ごめんなさい」


 動揺がうろたえる脳内は先程見た細い糸のようにぐちゃぐちゃに入り乱れている。なにか言わなくちゃ、という気持ちだけが先行しており、頭の中がすっと真っ白になっていくような感覚すら覚えた。


「だって、私、知らない人のところには――」


 そう言いかけて、紅緒ははたと唇を止めた。完全なる失言だった。

 どうしよう、と思わず紅緒に、糸司はひとつの頷きをもって意思を示す。


「その通りだ」

 ことん、と湯のみが丸盆に置かれる微かな音が聞こえた。「ただ『視える』だけじゃ駄目だ。『赤い糸』は、人との関わりの中で生まれるもの。上に立つと、どうしても人との関係が薄くなってしまうだろ。だからおれは『知ろう』とすることを止めたくなかっただけ」


 糸司ははっきりとそう言い放った。


「紅緒さんも、それと同じなんじゃないでしょうか。誰かと関わることとは、その人を知ることだ。おれはそう思う」


 紅緒がふと顔を上げると、糸司は無表情のまま、じっと店の引き戸を見つめていた。だが、その色素の薄い瞳には決して揺るがない『何か』が渦巻いていた。真っすぐに突き進む、白んだ光線のような。


 彼がそっと彼女の名を呼ぶ。


「――申し訳ありませんが、この縁談をなかったことにするのは難しいと思います」

 泰埼が言うからには、と彼は呟いた。「だから、籍だけ入れておけばいい。あとは好きにしていいから」

「どうして?」


 その言葉を聞く前に、紅緒は思わず声を上げてしまった。思いの外鋭く突いて出た己の声に、自分でも驚いてしまったほどだ。もちろん糸司も目を大きく見開いて、真剣な面持ちで見つめてくる紅緒を凝視してしまったが、……すぐに彼は観念した様子でふっと息を吐き出した。


「あなたは、おれにまつわる噂を知っていますか」


 はっと紅緒は肩を震わせた。そうだ、今まですっかり忘れていたけれど、糸司には数々の噂話がつきまとっていた。良く言って神の僕。悪く言って、気味の悪い男。


 そんな、と紅緒が反論しようとしたところで、糸司がその言葉を遮った。


「さすがのおれも、風評からはあなたを守ってやることができないんだ。だから紅緒さん、あの『赤い糸』は是非見なかったことにしていただきたい」


 え、と紅緒は言葉を詰まらせた。


「あなたが厭な思いをする必要はないんだ。今なら偶然で済ませることができる。だから……お願いだから、」


 忘れてくれと、悲痛なまでに彼は訴えていた。


「でも、」


 紅緒が狼狽するも、糸司はしきりに首を横に振る。俯いた彼の目線は、ついに紅緒の瞳へは向けられることがなかった。


「……『赤い糸』が、他の誰かにも視えるものだと分かっただけで嬉しい。おれはそれだけで満足です」

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