第14話 つながりゆくもの 2

 きょうはとってもねぼうしてしまいました。というのも、もしかしたらみーちゃんが一人でかえってきているかもしれないとおもったからです。そうすれば、おじいさんにもめいわくをかけなくてよくなるのでばんばんざいなのです。

 まっくらになってお月さまがでてもずっとまっていたけど、みーちゃんはかえってきませんでした。あさまでまっていようとおもったのに、まどのちかくのゆかでねちゃいました。あさおきたらせなかがいたかったです。でもがまんしてでかけました。おじいさんとのまちあわせはきのうとおんなじこうえんで、わたしはちこくしちゃったけど、おじいさんもちこくしていたのでおあいこです。

 二人で「市役所」にいきました。みーちゃんをさがすはりがみをするためには、市役所の人のきょかをとらないといけないのだといんさつじょのしゃちょうさんがいってましたが、うそでした。

 せいかくにいうと、まちがいでした。がっかりです。市役所の人が「猫ごとき探すのてつだえるわけないだろう」といいました。わたしもおこっていたし、おじいさんはもっとおこっていたので、せいかくじゃないかもしれません。でも「猫ごとき」といわれたのはまちがいないです。

 そのあと、もっとひどいところにもいきました。あんまりかなしかったので、おもいださないようになにもかかないことにします。パパも、これをよんでわたしにたずねたりしないでください。おねがいです。

 ごかいのないようにかいておくと、おじいさんがひどいことをしたのではありません。おじいさんは、「よのなかにはひどい人がいっぱいだ」といっただけです。

 みーちゃん、どこにいるんだろう? おなかすかせてないかなあ。



 朝が早いのは年寄りの証拠だろうか。

 目の高さにある太陽を眺め、ギュスはそんなことを考えた。

 春先から住んでいるアパートの大家は、店子が無職で初老であることについて、かなり抵抗を感じていたようだった。結果として契約を押し切れたのは、ギュスの貯蓄額がものを言ったに過ぎない。

 街は年寄りに厳しい。

 いや、引退した人間に厳しいのだろう。公社が運転士としてのギュスにしか価値を見出さなかったように、社会は、動きつづける人間にしか価値を見出さない。ひとたび身を引いたら、それっきりだ。かと言って再就職を探す気にもなれなかった。幸か不幸か、死ぬまで働かずにすむだけの蓄えがギュスにはあった。

 目覚めから少しして、戸口に朝刊が投げ込まれた。いまだに慣れない台所で、ぎりぎり食い物と呼べる――新米の賄いよりなおひどい――物体を作って、片膝で新聞を広げながら食べた。経済面の一番上に『新型車両、順調な運行』とあった。

 こうやって、世代は変わっていくんだろうな、と思った。

 もう一つ、珍しいものがあった。手紙だ。ごく普通の事務封筒だったが、ここに越して来たことを知る人間はほとんどいないはずだ。裏返すと、『マイル・ヴァイン』とあった。

 名前を思い出すのに、少し時間がかかった。何年も前に人身事故を起こして現場を離れた運転士だ。轢いた相手は列車強盗で、彼の行ないは緊急非難に該当――なおかつ指示したのがギュスだったので、不起訴となってはいるのだが、そのショックで運転席に座れなくなった男である。

 封を切る。湿気で少し歪んだ便箋。

 簡単に言えば仕事の勧誘だった。

「経験者が足りなくて困っている。嘱託でよければこちらにこないか」という内容だった。恩がある相手だから捨てて置けない、上層部の脳無しに使われる必要はない、と行間に書いてあるような、熱っぽい口調だった。だが、乗員ではなく、地上勤務としてだ。

 マイルにしても微妙な所なのだろう。無視できない相手だが、切り捨てるのもしのびない。義理を通そうとしているのは、逆に言えば、義理だけ通せば片付く存在だからでもある。そのうち義理を通す価値もなくなるだろう。

「……でもないか」

 少なくとも今日は。

 約束の時間は正午ちょうど。朝刊を二回読み尽くしても、まだ時間が余った。



「飯食ったか?」

 昨日と同じ公園。昨日と同じベンチの脇で、ギュスはまずそう言った。

 半端に時間が余るのがいけないのだ。ちょっとした時間つぶしのはずの読書が、ギュスに待ち合わせを忘れさせた。暇だからと言ってミステリを読むのはやめよう。城の地下室に忍び込んだトリックがどうしてもわからない。

「まだです」とルカが答えた。黒髪の一房が、豪快に外側にはねている。内に潜んだエネルギーが、そこからあふれ出したような感じだった。

「ねぼうしちゃって、はしってきました」

「実は俺もだ。捜索の基本は体力だと思わねえか?」

「はいです」

 市役所に向かう途中、二人は雑多な印象の喫茶店に入った。文字通りの店ではなく、調理パンやパスタの類も出しており、希望すれば持ち帰りの包装も請け負ってくれる種類の店だ。

 ギュスはサンドウィッチと熱いコーヒーをを、ルカはベーコンのパスタと果肉の生ジュースを頼んだ。

「それと、おしぼりをもう一つ頼めるか? なるべく熱いやつを」

 胸を強調した制服のウェイトレスが去ると、ルカが嫌そうな顔をしていた。子供らしい、性への嫌悪感――ではなかった。

「おじいさん。おしぼりでかおをこするのは、はずかしいのでやめてください」

「違う違う。生活の知恵さ」

 少しして、注文した料理と、おしぼりが運ばれてきた。ギュスはそれを広げ、ルカに渡した。

「寝癖」

「え?」どうやら気づいていなかったようだ。両手で頭をなで、左手が引っかかると驚いていた。

「そのくらいならちょっと湿らせてあっためるとすぐ直る」

「湿らせて、あっため……あ! おじいさん、頭いいですねぇ」

「まあな」

 寝癖をとるには洗ってしまうのが一番確実であるが、程度が軽ければ蒸しタオルを巻くだけで十分対処できる。節水のために大鉄の客室乗務員がよく使う方法だ。

 料理の手間か二人の口の大きさが理由か、食べ終わったのはギュスが先だった。急いで残りを片付けようときばるルカをたしなめて、ギュスはポケットから文庫本を出した。コーヒーを片手にページを繰る。さて、密室はどこまで崩れたっけか。

「むずかしいほんですか?」

「ん? どうなんだろ? 真面目な本じゃねえな」

 少女の問いを、ギュスは「専門的な本なのか」と解釈した。

「探偵が悪いことした奴を捕まえる話」

「そういうの、ママがとくいです」

「ほう?」

「いまも、そういうおしごとででかけてるんです」

 誇らしくは、聞こえなかった。子供特有の寂寥感がそうさせるのだろう。

「お母さんには家にいて欲しいか?」

「はいです。みんないっしょがいいです」

 これが普通の感覚なのだ。船乗りや鉄道乗りなどの特殊な仕事に理解を示し、家を空ける夫――あるいは父親――を受け入れられる人間の方がよほど少ない。してみると家庭を持たなかったのは成功かもしれないな、とギュスは思った。少なくとも、誰かをさびしがらせてはいないのだから。

「でもいいんです。パパはうちにいてくれます。ママだって、おしごとのないときはルカとあそんでくれます」

 その一方で、自身の中にある寂しさに、ギュスは気付いていた。

 家庭を持たない。子供がいない。ということは、誰もあとに続いてくれないことを意味する。

 子供をあやしてやることもない。キャチボールをすることもない。自分の半生を語って聞かせることもない。誇ってももらえない。ただ、消えていくだけだ。

 この子を助けて――いや、手伝ってやっているのは、独り善がりな感傷なのかもしれない。

 まあいいか。かりそめの関係でも、ちいっとは保護者気分を味わったって、ばちは当たらないだろう。



 市役所についたのは、二時過ぎになった。

 始め遺失物係に行こうとしたギュスは、ふと思い直して市民相談係に向かった。法律上、ペットは「物」扱いだが、張り紙の手続きをどこでやるのかわからない。ひとまずは総合的な窓口を使うほうが確実だろう。間違っていればそこで案内してもらえるだろうし「相談」係、なのだから、似たようなケースを扱った経験があるかもしれない。

「お待ち下さい」用件を切り出す前に、番号札を押しつけられた。

「おい、いくらなんでも」

「月末ですので。次の方! 一一七番の番号札をお持ちの方!」

 係員はにべもない。呼びつけた相手がいないと見ると、即座に次の番号を怒鳴る。

 一一八番の夫人がギュスを押しのけ、窓口にどっかと陣取った。

「こんでいるからがまんです」

 今すぐにでも窓口に乗りこみたいだろうに、ルカは辛抱強かった。

 待合室の硬い椅子に座り、一五〇番の札をじっと見ている。

 待っている間に、犯人と目されていた男が死んだ。

 それまで探偵役を務めていた男が容疑者となり、その恋人が、今度は事件を捜査し始めた。

 一五〇番が呼び出されたのは、地下室が城の堀の下にあるとわかった時だった。

 市役所の市民相談係は営利団体でも政治家でもないから、不必要な笑顔は一切見せなかった。

「ご用件は?」

 そう言った係員の眼鏡は、机の引出しの中に向けられていた。わがままな孫と、猫っかわいがりの祖父、とでも思われたのだろう。どうせたいしたことじゃない、真面目に聞かなくてもいいだろう、と脂に汚れたレンズが語っていた。

「おともだちをさがしてます」

 ルカが言った。それでも係員は胡乱げだったが、ギュスがうなずくと表情をわずかに引き締めた。

「いつの話ですか? 警察には?」

「必要ならそうするがね、事件じゃない」とギュスが答え、

「失踪ですか?」

 係員は本気になったようだった。少々お待ち下さい、と言い残して奥に引っ込み、少しして分厚いファイルを抱えて戻ってきた。背表紙に手書きで「家出人ファイル」とある。その中から一枚の書類を抜いて、カウンターに置いた。

「一応説明しておきますと、こちらでは積極的な捜索はしていません。いなくなるのは相応の理由があるでしょうし、一人一人を探し出せるほどの予算も人手もないからです。一応、登録して情報を募ることはできますが。……事件性のない失踪でしたら、新聞に三行広告を出したほうが有効ですよ」

「そりゃそうだろうな。いなくなったのは最近だから、失踪じゃなくて迷子か家出か、そんな所だ。んで、市の掲示板あるだろ? あれにちょっと貼り出してもらいたいんだが」

「費用はそちら持ちですが?」

「それは大丈夫だ。もう印刷も頼んである」

「そうですか。じゃ、こっちの書類ですね。ご記入をお願いします」

 係員が書類を入れ換えた。

 係員はルカを――カウンターの椅子に座ったルカを一切無視して、全てギュスに話しか

けていた。それが不満だったのか、ルカは係員の手からペンを奪い、書類に向かった。

「書けるのか?」

「むずかしくないじなら、かけるです」

「できれば保護者の方に……」

「書きなおしゃいいんだろ? この子だって動転してるし必死なんだ、わかってやれよ」

 小声で言うと、係員は不機嫌そうに鼻を鳴らした。先ほど言った通り、個人の事情には構っていられないのだろう。

「……あの?」

 と、係員が言った。書類の一番上、名前の欄に「みーちゃん」とつたない字で記入されていた。年齢には「にさい」。性別に「おす」。

「みーちゃん?」

「あ、みけ、です」

「みけ?」

「……猫なんだがね」

 ため息混じりに、ギュス。

 係員は極めて典型的な反応をした。ルカに見下すような目線を送り、鼻息をもらす。

「そういうのは遺失物係でやってください」

「やっぱりそうなるのか」

「ええ。ペットは物ですから。殺しても器物破損でしょう?」

「こ! も……!」

 何か言おうとしたルカの口を、ギュスがとっさにふさいだ。

「じゃ、掲示板は?」

「何言ってるんですか? 探し物なんて個人的な理由で使えるわけないでしょう。あ、そうそう。電柱や塀にチラシを貼るのも条例違反ですよ。猫ごときにそこまでする人もあんまり……」

 どだん! と言うか、ばすん! というか。とにかく強烈な打撃音が、市役所の一階を貫いた。一瞬の後、静寂が辺りを染めた。

 市民相談係のカウンターの上、家出人ファイルの黒い表紙に、ギュスが手のひらを乗せている。

「……忙しいのはわかるがよ」

 ギュスはそう言いながら、右手をファイルからどけた。

「無神経にもほどがある。テメエみたいなんが部下だったら、迷わず煙突にくくりつけて安全速度突破するまで加速するところだ」

 黒いファイルが、手のひらの形にへこんでいた。



 コンクリートの階段を踏みぬきそうな勢いで、ギュスは市役所の玄関をくぐった。後に続くルカはいくらか控えめだったが、体重さえあれば、似たような足音を立てていたことだろう。

「最低だぜ。なんでこう世の中には規則だとか効率だとしか考えられないバカが大勢いるんだか」

 短い階段を下り終え、これ以上むかつくものは見たくないとでも言うように、ギュスは空を見上げた。まだ高い真夏の太陽が瞳を貫く。余計むかついた。

 どいつもこいつもバカばっかりだ。たかが猫? 冗談じゃない。たかが視力? 目だけで運転できるものかよ。

 それ以上考えると個人的な不満だけになりそうに思えて、ギュスは思考をたち切った。世の中――というよりその「仕組み」に腹を立てたところで、状況は改善されない。維持もできない。憤りはなによりも、それを感じた本人の心を低所に押し流す。

 ギュスにしてこの気分だったのだから、ルカのほうは暴れ出してもおかしくないはずだった。「たった一人の友達」も、社会の仕組みにかかれば、「器物」であり「落し物」の扱いなのだ。

 ところが、少女は階段をおりたところで神妙にしていた。こたえすぎてへこんでいるのではない証拠に、大きな目で、掲示板を睨んでいた。

 掲示板は市からの連絡事項が貼り出される場所であり、市内のあちこちに立っている。そして当然、市役所の前にもあるのだ。

 公営住宅展示場のご案内。

 この顔にピンときたら当局まで。

 市議補選立候補者一覧。

 料理教室開催のお知らせ。

 最後の一つはどうみても個人的――営利的な催しにしか思えなかった。主催が市議の妻である。それだけの理由で貼り出されているように感じられた。

 どうにもならないことだが、怒ったっていいと思えた。

 ルカは料理教室の張り紙の隣、ずいぶんくたびれてきて内容が判然としない告知を睨んでいた。

「おじいさん。ここ、「犬」と「猫」ってあります」

「……ああ」

「ほかはむずかしくてよめません」

 読んで欲しいのだろう。読むべきではないような気がした。

 雨に流れ消えかけた文字。

『野良犬、野良猫の一斉駆除のお知らせ』。その下にいくつも日付が並んでいた。どれもはっきりとは読めなかったが、一番下の列に九月とあった。

 世の中はどうしてこう、と思った。

「……みーちゃんは、首輪してたか?」

「してないです。みーちゃんがいやがるから」

「そうか」

 言わなければならなかった。

「……みーちゃんな、捕まったかもしれない」


「いってきます」とルカは言った。

 強い子だ。そして、この子は「正しい」育て方をされている。

『大切なのは軍部の命令でも公社の立場でもないでしょう! 復員列車を一本出すくらい、どうしてできないんですか。あそこには、帰りたくても帰れないでいる人たちがたくさんいるんですよ! その人たちを乗せないで、何の為の大陸周回鉄道なんですか!』

 そう言った男がいた。

 戦争が終わった頃の話だ。弦都の内乱をどうにか平定した連合軍は――実際には、どちらの軍もこれ以上の墓穴を確保できなくなっただけだと言われているが――大量の傷病兵を抱えていた。軍部は彼らを本国に輸送するだけの資金も移動力も確保できず、鉄道公社に協力を要請してきた。実質「政府命令」に近かったそれを、当時の公社上層部は「政治力による介入」だとして拒否した。

 それに反抗した本社の幹部が一人、職を失った。ギュスに運転士の基礎を叩きこんだ男だった。

 その上司と同じように、ルカは、目的を見失うことなく、その先に苦難しかないかもしれないと理解した上で、前に進んでいる。

 二人の前には、アルペイン市保健所の、薬臭いケージがいくつも並んでいた。

 ルカは意外にしっかりした足取りで、一つ一つのケージをのぞく。落胆も期待も安堵も見せず――そうすることで理性を保って、しっかりと奥へと進んでいく。

「やり切れませんよ」

 保健所の所員が、立ったりしゃがんだりしながら奥に進む小さな背中を見て呟いた。

「わたしらだって殺したくはないんですよ。ここの職員には獣医の免許を持つ者も少なくはないんです。何故だかわかりますか?」

 適切な毒薬の配分を知るため。真っ先にそう思った。

「ケガしたペットがつれてこられる場合があるから、か?」

「それもあります。職務上必要だから。でもね、保健所勤務の為に獣医の勉強をした人間は一人もいないんです。たまたまそういう資格があって、でも、希望の職業につけなかったから、ここにいるんです」

 獣医になりたかったのだから、本来は動物好きのスタッフがそろっている。所員はそう言いたいのだ。

「殺されるペットも、捨てられるペットも、捨てるしかなかった飼い主も。誰が悪いとは言えません」

「間違ってつれてこられたら?」

「それが一番辛いですね。前にもあったんですよ。男の子でしたけど」

 愛されるはずのペットが、害獣として「処分」されていると知ったときの飼い主は、いかような気分だったのだろう。家族を殺されたに等しいはずだ。

「結局は賠償金で片付きましたけど。笑っちゃいますよ。私達の一月の給料の、三分の一もなかったんですから」

「笑えねえよ」

 どちらも笑っていなかった。所員は寂しげに目を伏せた。ギュスの言葉の刺は彼にではなく、どうしようもない社会の仕組みに向けられている。いや、仕組みを作った人間に。その中には、ギュスも所員も含まれてはいるのだが。

「大人がしっかりしないから、ああいう子供が泣かされるんだろうな」

「まったくです」

 ここにあるたくさんのケージは、誤認駆除が発生してから設置されたものなのだそうだ。それまで、駆除したら即薬殺していたところを、一定の期間は保護し続け、飼い主が名乗り出てくるのを待っている。

「うちも公営住宅でなければ、少し引き取りたいと思って……と言うのは言い訳なんでしょうね」

「違いない。が、悪いことじゃないだろ」

 社会は無神経で満ちている。心を持っている人間は、それが故に苦しんでいる。

 まったくどうなっちまってるんだか。

「なあ、飼い主じゃなくても引き取れるのか?」

「ええ。とくに問題はありません」

「じゃ、そのうち来る。俺には女房もガキもいなくてな、部屋が余ってる」

「……ありがとう、ございます」

「気にすんな。ただの偽善だ」

 ルカが戻ってきた。安堵と落胆が半分ずつ。見つからなかったが、それは、まだみーちゃんが生きている可能性につながる。しかし、見つけられると決まったわけではないのだ。

 保護したら必ず連絡すると約束して、二人は保健所を出た。珍しい模様だから絶対見落としませんよ、と所員は請け負ってくれた。



 ダーナ印刷の玄関に、スーツ姿の男が二人立っていた。どちらもやたらに殺気立っていた。しかし、立ち居振舞いに「専門家」の臭いはない。チンピラがうろうろしているのだろうか。

 男達は印刷所の内部を気にしている様子だった。そういえば、ダーナは借金があるような話をしていた。むしゃくしゃしていたこともあって、ギュスはルカをその場に留まらせ、忍び足で二人に近付いた。

「ここで何してんだテメエら?」

「はわあっ!」

 何組もの列車強盗を黙らせてきた、必殺の声音だった。言葉と同時に首筋を指で突ついただけで、男の一人が恐怖と驚きで飛び上がった。

「な、な……」

 さらなる脅しをかけようとしたところでギュスは、彼らが本当の「素人」であると気づいた。取り立て屋やその手の男達なら、几帳面にネクタイなどしない。取り立て屋の上に立つ人間なら身なりをきっちりさせている場合もあるが、その場合は、暑さでうだってネクタイをゆるめたりはしない。

 ちょうどその時、印刷所のドアが開いた。

「なんだい今の悲鳴は! ディルさん、だいじょうぶかい!」

 怒鳴りながら飛び出してきたのはもちろんダーナだが、フライパンの二刀流で武装しているのはいかがなものか。

「あれ? あんた昨日の?」

「おう」ギュスは答え、まだひっくり返っていた男を起こしてやった。


「借金取り? はっ。この人達にそんな物騒な仕事できるもんかい」

 事情を聞いて、ダーナはまた笑う。印刷所の中にも知らない男が二人いて、彼らは苦笑でとどめていた。

「まったくですよ。僕はしがない原稿取りですから」

 と言ったのは、先ほどギュスに驚かされた男で、名前をディルと言った。ダーナ印刷と契約している出版社の、準社員であるらしい。残りの二人の男は正社員だそうだ。二人は、事務所の隣の小部屋を見張っていた。

「問題の作家先生をとっ捕まえて、あそこで原稿書かせてんのさ。なんとしても今日中に印刷にかからないと、製本所が困るんだとさ。逃げないように窓の外まで見張って、ご苦労なことでしょ?」

 出版業界の事情はよくわからないので、適当に流す。

「それで、昨日頼んだ……」

「ああ、できてるよ」

 テーブルにどかんと積まれたのは、まだ温かいチラシの束だった。出版社の社員の一人がため息をついた。自分の所の印刷が無事にできるかどうか、瀬戸際なのだ。

「いくらだ?」

 提示された金額は、料金表のそれよりずっと安かった。

「そのかわり宣伝してちょうだいな。みーちゃんが見つかったら「親切で美人な印刷所の社長のおかげです」ってね。隣近所どころか親戚一同にも……? どうしたんだい?」

 ギュスが苦そうな顔をしていたのに気付いたのだろう。ダーナは真顔になった。

「ごめんなさいです」

「なんだい? お嬢ちゃん?」

「せっかくつくってもらったんですけど、それ、つかっちゃだめっていわれたんです」

 ギュスが市役所でのいきさつを説明すると、気の良い印刷所の女社長は、分かりやすいリアクションを起こした。たっぷりした腹の上に腕を組み、片方の鼻から勢いよく息を吹き出す。

「んったく、そんなことだから税金泥棒とか無駄飯食らいとか言われんのがわかってないのよね。……ディルさん。あんたんとこで市政の不手際、記事にする気ない?」

「うちは文学誌なんですけど……」

「あんたも市役所の味方かい」と、また鼻息。「だったらせめて、会社のロビーにこれ貼ってあげなよ。表に貼らなきゃ役所も文句言わないだろ?」

「お」とギュスが声をあげた。

「その手があったな。食堂や喫茶店、市場通りなんかに協力してもらえば、掲示板よりずっと大勢が見てくれるか。ルカ」

「はい! じゃあさっそくいきましょう! さくせんはじんそくをもってがきちです」

 これも母親の教えなのだろう。どうにも物騒ではあるが、今回はそれが正解だ。

 今にも駆け出しそうな勢いのルカを捕まえたのは、ディルだった。

「ルカはいそいでるです」

 またも興奮している。無理もなかったが。

「……この猫、見たよ」

「え?」

 ルカは何を言われたのか、まったく理解できていない様子だった。

「ぶち模様はオレンジと黒とこげ茶?」

「そうです。おじさん。ルカはいそいでます」

「目は緑っぽい?」

「そう……です」

 ルカの瞳に、見る見る理解の色が広がっていく。頬に歓喜の色が。両足は感動と幸運とで震え出した。

「みたんですね!」

「ああ。珍しい模様だから間違いないと思う」

「どこですか! おじさんいつですかみーちゃんはどうしてました! おなかすかせてませんでしたか!」

「おいおい、落ちつけよ」

「あはははは! おじさんすごいですかっこいいです!」

 もう誰の言葉も耳に入っていない。ルカは狭い事務所でくるくると回りながら嬌声を上げる。隣の部屋から「書け――ん!」と叫ぶ声が聞こえた。



『フォトラ先生が――あ、フォトラ先生ってのは、隣の部屋で密室作ってる作家先生なんだけどね。締切りが来ると旅に出たくなる病気を持ってるんだ。今回もどうやらそれみたいだって予想がついてたから、編集部の人間で交代で先生の仕事場を見張ってたんだ。

 それでも逃げられちゃって、ま、それもよくあることだから対応は完璧――市内の四つの駅全部に張り番をたてるんだ。顔を隠してでっかいトランクもった怪しい女を見つけたら、有無を言わさず連行。

 で、僕の担当はアルペイン中央駅だったんだけど、ついでに輸送の手配も押しつけられちゃって、貨物通用口に行ったんだ。貨物通用口と言うのは……』

『貨物列車に積載するために設けた入り口で、業者しか出入りしない場所だろ? 中央駅だと東口参番か』

『お詳しいですね。そっち方面の方?』

『おれの話はいいんだよ』

『そうですね。で、馴染みの運輸会社の営業と話をしているときに、貨物車の屋根に緑色の光が見えたんです。幽霊じゃないかって話している間に「にゃあ」って聞こえて笑いましたからよく覚えてます。その後、その猫は屋根から飛び降りてホームのほうに走っていきました。模様を見たのはその時です。その後旅客窓口の陰に隠れて先生を捕まえたと』

 市場巡りは当然棚上げ。三人――ルカとギュスにくわえ、唯一の目撃者であるディル氏も捜索に狩り出された。ダーナもきたがったが、残りの社員の猛反対にあって断念した。印刷機を動かす人間がいなくなると困るのだ。

「あんた、詳しいか?」

「荷揚げ用のレールまでしか入ったことないんですよね」

「じゃ、そこまで頼む。俺らは小屋の方を探してみる。屋根があるから、ここにいるならあそこの確率が高い」

「小屋?」

「車庫のことだよ。すきまっ風ぴゅーぴゅーで貧相な作りだからそう言ってる。……関係者にしか通じないか。とにかく頼むわ」

「ああ、はい」

 ディルは貨物置き場の方へ、ルカとギュスはその反対方向へ歩き出した。「なんで僕が猫捜しなんか……」と呟く声が聞こえてきたが、どちらかと言えば面白がっている声だった。

「こっちもふたてにわかれたほうがいいとおもうです」

「お前さんまで迷子になるのは勘弁だ」

「むぅー、です」

 自覚はあったのだろう。ルカはそれきり黙り込んだ。しかし目はらんらんと輝いていた。どんな些細な動きも見逃さず、どんな些細な物音も聞き逃すまいとしてのことだ。

 中央駅の小屋は合計二十本。そのうち五本が整備工場の機能も持っており、かなり広い。確かに、二手にわかれた方が効率的ではある。とは言えギュスは既に退職した身であり、現在のこの行為は不法侵入以外のなにものでもない。できるだけ見つかりたくなかった。身内でもない女の子を連れまわしているだけあって、余計な疑惑はかぶりたくなかった。

 見回りの足音に息を殺し、暗がりに「みーちゃん?」と呼びかける。猫は基本的に夜行性の生き物だ。寝ていて聞き逃すはずはないだろう。何しろ「たった一人の友達」の呼びかけなのだから。

 三本ばかりの小屋を調べ終わった頃から、急に巡回警備の数が増えたように思えた。

 七本の小屋を調べ終えた所で、ルカが地べたに座り込んだ。

「どうした? まだ半分も捜してないぞ。残りにきっといるはずだ」

「…………」

「がんばれ。みーちゃんはおまえを待ってる」

 部下をこんな風に励ましたことなど一度もなかったな、と不意に思った。

「……もん」

「ん?」

「みつからないんだもん! もうみーちゃんはどっかいっちゃったにきまってるんだもん!」

 いきなり、弦が切れたようにルカは叫んだ。これまでの出来事で散々裏切られ、嫌な思いをしてきたのが、一度に噴出したのだ。

「お前がそんなことでどうする? ほら、もう一がんばりだ」

 激励するが、ルカは動こうとしない。

「みーちゃんは、あたまのいい猫なんです」

「聞いたよ。だから、ルカが呼んだら必ず出て来るぞ」

「みーちゃんは、ママがつれてきたんです。ママの生まれたところは海のむこうにあって、おはかまいりのとき、ママがひろってきたんです」

 みーちゃんは頭がいいんです、とルカは繰り返した。

「みーちゃんは、じぶんがどこからきたのかとか、じぶんのままがどこにいるかとかぜんぶしってるんです。だって、いつもうみのほうみてるです。かえるばしょもしってたです。みーちゃんはルカのともだちだけど、みーちゃんはそうおもってなかったのかもしれないです。だれだって、うまれたところでママといっしょにすみたいです。みーちゃんはママにあいにいったです。だからもういないんです」

 話しながら、ルカは泣き出していた。子供特有の、体全体で泣くやり方で。

 みーちゃんがルカを捨てて、故郷に帰ろうとしていた。

 その疑念は、いなくなったときから感じていたのだろう。それが、「駅」と言う別れの象徴たる場所で結晶化してしまったのだ。

 ルカがわあわあ泣く。

 その声が、警備員を呼び寄せた。

「そこで何をしている!」

 まばゆい照明が二人を照らした。まずい、これでは誰がどう見ても幼女誘拐犯だ。

 ルカを担いで逃げ出すか。陸の警備連中が相手なら、三人までは素手でぶっ飛ばせる。

 瞬間的にそこまで考えたものの、出てきたのは別の言葉だった。

「猫捜した! 文句あっか!」

 警備員が絶句する気配が伝わってきた。手持ち式の照明が駆け足で近付いてくる。

「ああやっぱり。ギュスターブ鉄道長だ」

「元、だよ」

 顔見知りではなかったが、警備員なら関係者の容貌を覚えているのは自然なことである。

「そちらのお子さんは?」

「俺の友達、……かね?」

 ルカはまだ泣いている。が、しゃくりあげながらも警備員を見上げていた。小さくうなずく。警備員はあっさりと警戒を解いた。

「職質しないのか?」

「ギュスターブさんに? 冗談やめてください。そんなことしたら笑い者ですよ」

 現場連中への評判は悪くなかったのだな、とギュスはいまさら気付いた。徹頭徹尾「鉄道乗り」だった彼は、周囲の目をほとんど意識していなかったのである。

 言ってみた。

「ちょいと頼まれちゃくれねえか?」

「なんです? 密航は勘弁ですよ」

「……そんなこっちゃねえよ」

 ルカの頭をぽんぽんと叩きながら、ギュスは警備員に宣言した。

「手が空いてる奴をありったけよこしてくれ」


 捜索は組織的かつ大規模なものへと様変わりした。整備工場の投光機に灯が入れられ、構内に無数の足音がこだました。この騒ぎで逃げ出さないように、フェンス脇には一メートル感覚で歩哨が立つ念の入れ様だった。

 仮設本部となった貨物車の脇には、伝令の駅員がひっきりなしに出入りする。

「遺留品発見であります!」

 駅員の手に、十センチほどの動物の毛。

 ルカが首を振った。

「みーちゃんのけはみじかいです」

「八番車庫に糞を発見したとの報告がありました」

「それでどうしろって?」

「猫の糞はくっさいのだそうです」

 これにルカはうなずいたが、それが捜索のヒントにはならなかった。

 捜索ははかどらなかったが、ルカの気持ちは上向きになっていた。

 そんな時だった。

 そいつはみるからに高級な仕立てのスーツを着ていた。

 新型車両の運営責任者、アレス常務だった。取り巻きが二名に秘書が一名。いずれも、乗員経験もなければ機械知識もない。アレスが個人的に採用した人間だ。

 こういう無駄な「オプション」が、ギュスは大っ嫌いであった。向こうも似たような気持ちだろう。

 頭でっかちの帳簿バカめ。

 脳味噌まで燃石でできた時代遅れが。

「こいつは何の騒ぎだね?」

「見てわかんねえのか? それでよく重役が務まるな」

「勝手に備品を使っているように見える」

「書類は後から揃えてやるよ。おっと、そう言うのはあんたの得意技だったな。いや、そっちのケツのでかい秘書さんの得意技か? あんたも若いのにたいへんだろ? ジジイはねちっこいからな」

 アレスがわずかに頬を引きつらせた。秘書本人は涼しげ。こちらの方がよほどのやり手に見える。とりあえず、社内の噂の一つは嘘だったようだ。

「規則違反と開き直りが君の十八番だったね。そうそう、ここは関係者以外立ち入り禁止だよ? 注意書きもあったと思うが?」

「そうかい。歳とって目が悪くなったんでな」

「くっ……」

 この程度でやり込められるようじゃ、あんたまだまだだよ。

 暗い優越感を覚えながら、ギュスは息を吸った。

「さあ、夜中になる前に終わらせてくれ!」

 周囲にいた駅員・警備員が迷う素振りを見せる。人望はあるが元社員のギュスと、嫌な奴だが社内の権力者であるアレス。ここでの動きは、己の立場を危うくするものだと誰もが理解していた。最初っからおろおろしている取り巻き二人は問題外である。彼らは場の流れについて行けないだけだ。

「お前たち何をしている! 本来の業務に戻れ!」

 アレスが怒鳴り、駅員が少し動いた。

「さっき言ったこと忘れたのか?」

 ギュスが言った。アレスと違って、穏やかな声だった。秘書が足を踏み変えた。

「……休憩中の駅員を動員して猫を探しているそうですね?」

「エリウ君!」アレスが怒鳴る。主導権が離れつつあるのはわかるのだろう。

「おうよ」

「それがどういう行為かわかっていてやっているのですか?」

「おうよ。お前らはなんにもわかっちゃいねえ。鉄道は速けりゃいいのかいいか、社会は効率が高ければいいのか? そんなのは全部勘違いだ。みんなしてありもしない夢見てんだよ。効率がよくなれば人生に余裕が生まれる、ってな。よく聞け、これから言うのは基本中の基本だ」

 ここが運命の転轍機だった、と後にギュスは何度も思い出すことになる。

「俺達は客商売をしている」

 しがみついてくるルカの腕の重みを、暖かさを、確かに感じた。

「未来のお客さんが困ってるんだ。助けてやるのは当然のことじゃねえか」

 捜索が再開された。


 余談だが、エリウが重役会議に提出した報告書には「美談を演出することによる宣伝効果を期待して容認した」という理由と共に、ギュスの台詞がそのまま記載されていた。

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