つながりゆくもの

第13話 つながりゆくもの 1

 きょうは、たいへんでした。なにがたいへんだったかというと、みーちゃんがいなくなったのです。みーちゃんというのはわたしのお友だちで、白くて黒とちゃいろのぶちもようをしていて、ふわふわしてて、いつもねむそうにしている猫です。まだ赤ちゃんだからねむいのではないです。猫は一にちじゅうねているものなんだと、ママがいっていました。みーちゃんがどうしてうちにやってきたかは、きょねんのにっきにかいてあります。おなじことをなんべんもかくと、そうやってもじすうをふやすな、とパパがおこるのでしょうりゃくです。しょうじきにこくはくすると、にっきをかくのもめんどうくさいと思うのですが、かかないとやっぱりパパがおこるのでかきます。なつやすみのしゅくだいみたいでいやです。

 きょう、わたしは、みーちゃんとこうえんにおさんぽに行きました。みーちゃんはやっぱりねてばっかりだったので、こうえんまではわたしがはこんであげました。

 とてもあつかったけど、日かげのベンチはすずしくて気もちよかったです。それで、わたしもみーちゃんといっしょにねてしまいました。目がさめたらごごになっていて、おひるごはんをたべわすれてしまいました。おやつをたべればいいや、とおもいました。たべられなかったけど。

 目がさめたら、みーちゃんがいなくなっていました。みーちゃんはいつもねてばっかりのぼんやりさんだから、ときどきじぶんがどこにいるかわからなくなってかってにあるきます。ずっとまえにもまい子になって、そのときは、おとなりさんのやねの上からおりられなくなってないてました。たすけにいったママの手をひっかいたりしてたいへんでした。だから、こんども木の上にいるとおもってさがしました。いませんでした。ベンチの下にもすべりだいの下にもいませんでした。すなばにうまってもいませんでした。おトイレにいきたくなったのかもしれないとおもいました。でもわたしは女の子で、みーちゃんは男の子です。こうえんのおトイレはおうちのとちがって男の人ようと女の人ようがわかれているので、わたしはさがしにいけません。

 ベンチにおじいさんがすわっていたので、みーちゃんをさがしてください、とたのんでみました。

 これにはあとでパパが「しらない人についていっちゃだめだぞ」とおこりました。

 でもそのときのわたしには、わらにもすがりたい、きぶんだったので、わかっていたのにわたしのこころにうそつきました。

 パパのいうことは正しいとおもいます。ごめんなさいもうしません。

 でも、ほんとうにみーちゃんがしんぱいだったのです。

 おじいさんはいい人でした。わたしといっしょに、みーちゃんをさがしてくれるそうです。



 日曜日の公園で空を見上げる日が来るなど、考えもしなかった。

 自分がまるっきりのボケ老人になってしまったような気がして、暗い笑みが浮かんでしまう。自嘲できるうちは、ボケてもいないのだろうが。

 住宅地のど真ん中にある公園は、昼食後の時間に相応しく、子供を連れた母親と、周囲の迷惑顧みずに走りまわる子供たちの歓声にあふれていた。

 平和、という題名の絵画を見ているようだった。

 自分が、絵の具のしみのような異分子であると、ギュスは思った。ここに描き手が存在するなら、彼の姿を極彩色で塗りつぶしたことだろう。そのぐらいに、彼の姿は浮いている。

「船乗りや――」歌うように、呟く。

 船乗りや、われらは陸では生きられぬ。

 アルペイン地方に伝わる民謡の歌い出しだ。ギュスは船乗りではないが、その気持ちは十分に理解できた。

 鉄道乗りだって、線路がなければただの人だ。

 義務教育を終えるなり、ギュスは公社に就職した。職工として雇われていたのだが、人手不足その他の理由で運転士になった。これが意外に面白かった。適正もあったのだろう。大陸周回鉄道に配属され、気付けば車長にまで昇進していた。その時になってようやく、自分は運転士に向いていた、と悟った。生涯鉄道乗りがいい、と思った。誇りを持てる仕事と地位を得たことで、彼は満足していた。

 だから、何度かあった本社勤務の話を蹴った。現場にこだわった。

 それがこういう形で響いてくるとは思わなかった。

 彼は今、無職である。定年まではまだ少しある。少しといっても、十年近い年数が残っていた。クビになったわけではないのだが、それに近いものだと、ギュスは考えている。

 理由は極めて単純なものだった。春に行なわれた健康診断の結果が、基準値に外れていたのだ。これが老いからくるものであったなら、ギュスも納得して身を引き、本社脇の資料館の事務員でも案内係でも何でもやっただろう。だが、規定のほうがいきなり厳しくなったのとあっては、納得するわけにはいかなかった。

 厳しくなった項目は、視力、である。

 基準が厳しくなったのは、新型車両導入によるものだ。以前から公社が開発を続けていた新型機関が実用化され、それを用いた新しい車両が運行を始めた。その平均速度は従来型の二倍強を誇る。新型のメリットはさらにある。構造の簡素化によって信頼性が向上し、整備の手間がぐんと減った。これによって、これまで各駅で行なわれていた、点検・整備の時間が短縮され、各駅での点検も、ほぼ不要になっている。大きな整備は年四回に集約されることとなった。

 これらのことがあいまって、新型は約三ヶ月で大陸を一周できるようにまでなったのだ。旧型の四倍の性能である。

 旅の概念は根底から変わった。「ちょっと東海岸へ出張」が普通にできるようになった。

 その一方で、ギュスは職を失った。

 旧型の倍の速さで走る列車は、その分、走行中の判断も速さを求められる。異常をより速く、より遠くにあるうちに発見できなければいけない。で、運転士の視力基準が大幅に厳しくなったのだ。

 健康診断の結果が出た直後も、本社勤務の話がなかったわけではない。だが、公社も企業である。社内には意見の対立もあるし、派閥らしきものも存在する。この時主勢力となっていた人物と、ギュスはどうしてもそりが合わなかった。

 ギュスが提出した早期退職願は、あっさりと受理されてしまった。

 あとに残ったのは、安っぽいメッキの懐中時計――勤続年数による記念品だけ。

 退職金もけっこうな額になったはずだが、そちらはチェックしていない。買い物をする機会もなければ、家を買う意味もない鉄道勤務を続けていたおかげで、蓄えは十分だった。

(このままのんびりしおれていくのも悪かねえかも知れねえな)

 かつてのギュスを知る者なら、この言葉に戦慄しただろう。仕事を失った男はただただ、哀しい。

 ふと気付くと、公園の人影はなくなっていた。懐を探り、時間を確認する。退職時にもらった時計ではなく、現役時代から愛用しているごっつい時計――安メッキの粗悪品など信用できない――によると、まだ二時を半分ほど回ったばかりだ。

「雨……じゃねえよな」

 この辺りの主婦のタイムテーブルなど知らないから、ギュスは、彼女らが子供たちのおやつがてらに近所の主婦宅に移動したなど想像もできない。自分の姿が変質者かなにかに見えて、みんな逃げてしまったのかもしれない、などと自虐的に考えてしまった。

 警察が来て尋問される前に引き上げよう――そう考えたのは、ただの冗談のつもりだった。

 立ち上がろうとした時、袖を引っ張られた。

「……む?」

 座り直し、振り返る。小さな手の持ち主は警察官ではなく、子供特有のさらさらした黒髪と、黒目がちの大きな瞳をした女の子だった。その瞳が潤んでいることに、ギュスは気付いた。

「お嬢ちゃん、迷子か?」

 さっきまで公園にいた主婦のひとりが、自分の娘を忘れていったのだろうか。そう思っての質問だったが、女の子は首を激しく振った。

「ルカはまいごじゃないです。おじいさんにおねがいがあるです」

 女の子はルカと言うらしい。

「お願い?」と訊ねると、女の子は右手でギュスの袖をつかんだまま、左手で公園の隅の、コンクリートの箱を指差した。

「あん?」公衆トイレだった。

「お嬢ちゃん、いくつだ?」

「むっつです」

「その歳なら、トイレは一人でいかにゃならんよ」

「ちがうです」と女の子は答えた。「男の子のトイレにみーちゃんがいるかどうかみてほしいです。ルカは女の子だからはいっちゃいけないです」

「みーちゃん?」

「ともだちです」

「かくれんぼか? 男子トイレに隠れるってのは、ずるだよなぁ」

「ちがうです」

「起きたらみーちゃんがいなくなってたです。みーちゃんはぼんやりしてるけどあたまのいい猫だから、一人でトイレにいったかもしれないです。でもルカは」

「わかったわかった」ルカの言葉をさえぎり「女の子は男子トイレに入っちゃいけないんだろ? おんなじことを何度も繰り返すと、頭悪いと思われるからやめた方がいいぞ」 

「そうなのですか?」

「そうなのです」と言ってやると、ルカは頬をぷうっと膨らませた。分かりやすい。単純だが、それは子供だからであって、バカではないようだ。ルカはギュスの袖をまだつかんでいた。大人にものを頼む方法を心得ている。

「トイレ、な?」

 猫の頭脳に優劣があるのか知らないが、人間のトイレには入らない気がした。

 女の子は「わかってるです」と答えた。「でも、ほかにさがすばしょがないです」。

 そう言われて、ギュスは、女の子が遊びの輪に加わらず、一人で木登りをしたり、遊具の下にもぐり込んだりしていたのを思い出した。正確には、視界の隅でちょろちょろしていた影を思い出した。他の可能性を全て潰した結果として、男子トイレが残ったのだろう。

「じゃ、ちょっくら行ってくるからここで待ってな」

 そう言ったのに、ルカはトイレの入り口までついてきた。一歩進むたびに、表情に深刻な影がさしていく。

 トイレの中は空っぽだった。元々、緊急用の意味合いで作られているので、大小兼用の個室が一つ。汚物入れすら備えられていないのだから、探す手間もない。一瞥して、ギュスは表に出た。

 残念がるだろうな、と思いながら、結果を告げた。ルカの表情に、深刻さが増す。

「どこにも?」

「ああ、どこにも」

 泣き出すかと思ったが、ルカは気丈に耐えた。刃物を隠し持っているような声で、こう言った。

「……落ちてなかったですか?」

 ギュスははっとした。

 たかががきんちょの頼み、と甘く見ていたと気付かされた。ルカは探せる場所は全部探したのだ。きちんと順番に、警察が殺人事件の遺留品を捜すような細やかさで。最悪の結果も、当然考えたはずだ。

 再びトイレに駆け込んだギュスは、鼻をつまんで穴倉をのぞき込んだ。窓からの細い灯りが、わずかな面積を照らしていた。見える範囲に猫の姿はない。押しつぶされた鼻の隙間から、どうしようもない臭いが忍び込んでくる。それにも耐えて、耳を澄ませた。鳴き声の類は聞こえない。

「なあ、いなくなったのはいつ頃だ?」

「……三じかんくらいまえだとおもうです」

 穴倉をのぞいたまま、ギュスは考える。猫がふらふら歩いて、このトイレに入り込む可能性はどれくらいあるだろう。便器のふちを歩き、足を滑らせて落ちたとしたら――。

 表に出て、いったんきれいな空気を吸い込んでから、ギュスは女の子の頭に手を置いた。

「大丈夫だ」

「ぜったいですか?」

「おう。落ちた跡がなかった」

 これを聞いて、ルカはようやく表情を緩めた。歳相応の――親でなくても「天使のような」と形容したくなる笑顔だった。

「よかったです。おちちゃったかとおもってました」

「みーちゃんは頭がいいんだろ?」

「そうですけど、ついうっかりするかもしれないです」

「友達だったら信用してやれよ」

「『あいつならだいじょうぶだろう。……っておもった人からしぬのだ』って、ママがいってました」

 どういう親だ。

「ルカちゃん、だったか? ママはどこだ?」

 別に説教してやろうとおもったわけではなく、単純に保護者の所在を確認するつもりで、ギュスは訊ねた。

「どうしてルカのなまえしってるですか?」

「さっきから自分で言ってる。それも」

「子どもっぽいですか? 『ちゃん』も子どもっぽいですよ?」

 どうやら本当にこの子は頭が良いようだ。多少、小生意気だが。

「じゃあ『ルカ』って呼ぶぞ。……んで、ママはどこだ?」

「ママはおしごとでしゅっちょうです。パパのかせぎがすくないから、いつまでたってもおしごとやめられなくて……」

「……わかった、もういい」

 高速鉄道網も、良いことばかりではないようだ。ルカの家庭の事情にはまた別の問題が絡んではくるのだろうが、効率的な商業活動ができなければ、ルカの母親はすんなり家庭に入ったことだろう。そうすれば、ルカが一人で猫を探す羽目にも、見知らぬじいさんに頼る必要もなかったのだから。

 そう思うと、同情心が表に出て来た。この子も俺と似たようなものかも知れない。

「これからどうする?」

「わかんないです」

 即答したのは、本当にあてがないからだろう。いくら賢くても子供は子供。ペットの上手な探し方など、経験がなければわかりっこない。

「手伝ってやろうか?」



 ギュスはまず、「みーちゃん」とやらの写真がないか確認した。猫というだけではあまりにも漠然としすぎていて探せない。子供のことだから期待はしていなかったが、ここでもギュスは裏切られた。

「かわいくとれてます」

 持ってやがったのである。写真は結構な贅沢品である。普通の人なら卒業式や結婚式でしか写真を撮れないものなのだが、ルカはしっかりと、みーちゃんの写真を持ち歩いていた。とは言えピントが合っているのはみーちゃんではなく、みーちゃんを抱えたルカの笑顔であった。背景に海が映っているところからすると、どこかに旅行に行った記念のようだ。

 写真で見る「みーちゃん」は、たいそう目つきが悪い、ドラ猫であった。三色のぶち模様が、珍しいといえば、珍しい。ペットショップに並んでいる種類の猫ではないから、雑種の微妙な交配が現れているのだろう。尻尾の先にリボンを結わえていた。旅先までつれていくとはかなりの愛猫家かとも思ったが、それはギュスの勘違いだった。

「まえにすんでいたところでとったしゃしんです」

「引っ越して来たのか?」

「はいです。だから、みーちゃんはル……わたしのたった一人のともだちです」

 一匹だろ、と指摘するような野暮は犯さなかった。ルカが一人称を言い直したことにだけ、軽く笑みを返す。

「しゃしんをみせてききこみですか? じまわりがだいじなんですよね?」

「それも手なんだけどな。効率が悪い。……つうか、どこでそんな言葉覚えてくるんだ?」

「?」

 聞き込みだの地回りだの、一般市民の使う言葉ではない。

「お父さんは警察の人か?」

「ちがいます」

 すぐに答えて、ルカは写真を裏から見上げた。ギュスが写真を持っているので、そうするしかなかったのだ。とりあえず写真をルカに返し、ギュスは公園の出口に向かった。

「ちょっと厳しいこと言うとな、いなくなったペットってのはなかなか見つからないもんだ。いなくなってすぐならともかく、二時間三時間とあると、人間が思ってるよりずっと遠くにいけるもんなんだ」

「はい」少し考え、「おじいさんも猫がいなくなったことあるですか?」

「俺? 俺は飼ったことないけどな」

 いなくなったのは人間だ。といったら、この少女はどんな顔をするだろうか。

 ――陸の女房は記憶の彼方――

 また、船乗りの民謡を思い出した。

 結婚していたわけではない。一歩手前までは行ったが。

 社内恋愛だった。

 鉄道乗りには元々出会いが少ない。乗客には女性も少なからずいたが、大鉄に乗る人間は、大なり小なりの事情と、はっきりした目的地がある。そういう関係が成立する可能性は、列車事故の確率よりなお低い。いや、今ならそうとも言えないのかもしれない。ちょっと隣の街までなら、一昼夜あれば行けるのだから。

 だがまあ、ギュスの若かりし頃は、あり得ないことだった。鉄道乗りは、警察官に次いで、職場結婚率の高い職種である。

 若い女の密航騒ぎで大変な目に遭った翌年、ギュスは地上勤務の女性と、知り合いのとりなしで会った。お互いに悪い気はしなかった。その時は休暇時期に当たっていたので、丸々四ヶ月も、いつでも会える状態だった。しかし、いざ結婚となると、二人には距離がありすぎた。物理的にも、時間的にも。年に四ヶ月もの連続休暇があるにしろ、大鉄の乗員は一度鉄道に乗ったら、一年間帰ってこない。船乗りだって季節ごとには帰ってくるのだから、鉄道乗りの仕事を受け入れられない人間では、妻になるなど不可能なのだ。そして、ギュスが結婚するはずだった相手は、仕事よりも家庭を重視してくれる人間を選んだ。一連の変化は、大鉄が一周する間に終わった。

「若さは錯覚であるということだよギュスターブ君」と、あの時の、格言が大好きな密航者なら言うだろう。

「……知り合いに犬を飼ってた奴がいてな。結局、見つからなかった」

 彼女の家には今も犬がいるだろうか、と思った。

「かわいそうです」

 ルカがどちらのことを言っているのか、ギュスにはわからなかった。

「だからよ、今度は絶対見つけてやろう」

「はいです! でも、どうするですか?」

「そこで写真だ」

 ルカがしかめっ面を作った。不快ではなく、悩んでいるようだ。

「写真一枚で聞き込みをしてもたかが知れている。では、写真がたくさんあったら?」

「あ!  たくさんの人にきけます!」

「惜しい。写真がたくさんあっても、俺たちは二人しかいない」

「え?」再び、ルカの顔に影がさす。よく表情の動く子供だ。話し方からも、素直さがうかがえる。親御さんは物騒な職種かもしれないが、子供の育て方は正統派のようだ。

「……だれかにたすけてもらうですか?」

 不安そうに訊ねてきた。引っ越してきてから間もなく、まだ「人間の」友達がいないから、協力してくれるあてが考えられないのだろう。ギュスは構わず説明することにした。

「それも惜しい。えっとな、なにも写真を持ってあちこち回らなくてもいいんだよ。大事なのは、みーちゃんがどんな猫で、どこでいなくなったかをみんなに知らせればいいんだ。そうすれば、どこかでみーちゃんを見かけた人が、向こうから教えに来てくれる。もちろん、それを待ってるだけじゃ効率が悪いから、俺たちは俺たちで、みーちゃんのいそうな場所を探すんだ。写真はあちこちの告知板に張るのさ」

「すごいです。おじいさん、頭いいです」

「そりゃどうも」

 知能ではなく知識の問題ではあるが、素直にお褒めをちょうだいしておくことにした。

「んじゃ、これからどこに行くか当ててみな?」

「はりがみやさん」

「惜しい」

 正解は、印刷所。



 幸い、たいして歩くこともなく、印刷所は見つかった。新聞を扱うような大きなものではなく、ちょっと大きめの町内会の会報や、狭い地域の特売チラシを主に取り扱いしてそうな規模の印刷所だ。目的を考えればその方がいい。大手はいつだって忙しいのだから、個人の、しかも飛び込みの依頼など受けてくれないだろう。

 ギュスの考えはぴたりと当たって、応対に出てくれたリーフ印刷の社員は、その場で話を引きうけてくれた。

 ところが。

「機械が空いてますから、明後日にはできますよ」

「明後日? 機械空いてるんだろ?」

「あさってはこまるです」

 ルカにまで文句を言われて、印刷所の社員はにきびだらけのこめかみをかいた。

「印刷のための版を作るのに時間がかかるんですよ」

「それだって何時間かありゃ足りるだろ? 新聞なんかは夜中に原稿入れて朝には刷り上がってんだから」

「大手と一緒にされてもなあ」爪の隙間に入ったにきびの脂をズボンの尻にこすりながら、その社員は呟いた。

「印刷速度はおっしゃる通りですけどね、写真から版をとるのは結構な手間なんですよ。ネガからならそれなりに速く上がりますけど、無いんでしょ?」

 ルカがうなずく。「ひっこしのときになくしました」。

「そうすると、まず写真から、ネガの代わりになるものを作らなきゃいけないんです。マスクって呼んでますけど。それが定着したらまた印刷用のマスクを作って……」

「どこ行っても同じようなもんか?」

 専門的な話になりそうだったので、ギュスは社員の話に割り込んだ。

「ええまあ。機械の性能じゃなくて、印刷の方法の問題ですから」

「どうする?」これは、ルカへの質問だ。

「すいません。ちょっとかんがえます」

 ルカは印刷所の社員に頭を下げ、さっさと出て行ってしまった。ギュスが慌ててその後を追う。

「あの人じゃダメです」

 ルカがいきなりそう言った。

「なにが? どこに行っても時間がかかるのは嘘じゃないだろうよ」

「でもダメです。ルカはあの人いやです」

 なにが少女の機嫌を損ねたのか。一人称も元に戻っている。

「みーちゃんのしゃしんにきたない手でさわってほしくないです。べつのおみせでたのむのがいいとおもうです」

「……納得」

 印刷所はその性質上、水場か輸送拠点の近くに集中している。アルペインの場合は、観光名所でもあるアルペイン湖のほとり、製紙工場の集中している地域に、印刷所も多数あった。その中から、ルカの直感によって一つを選び、伺いを立てる。

 今度はダーナ印刷。出てきたのは、でっぷり太ったおばさんだった。社名を縫い取った作業服の胸元に、社名と同じ名札をつけていた。

「しゃちょうさん、なんですか?」

「ええそうよ。ちっさいところだけど」

 ダーナがにっこりと微笑む。インクの臭いを漂わせていなければ、パン屋のおかみさんの方が似合いそうではある。

 ルカはダーナを気に入ったようで、写真を渡して熱っぽく説明した。

「なるほどねえ。うん。時間は確かにかかるけど、明日の夕方にはなんとかできるかな?」

「いいのかい? 忙しそうだが……」

「気にしちゃ行けないよ。ちゃんとお金はもらうんだから。それにあんた、こんなかわいい孫をがっかりさせることもないでしょ?」

 孫ではないのだが、今日あったばかりの赤の他人だと説明しても面倒――誘拐犯と間違われたら最悪――なので、そちらは流す。

「前の所じゃ明後日って言われてるんでな」

「ああ。そりゃ普通にやったらそんなもんだけど、今、締切り破った作家さんの原稿待ってるところでね、どうせ今夜は入稿待ちで徹夜なのさ。待ち時間を有効に使わにゃ、社員の残業代で足が出ちまう」

「そりゃ助かる」

「原稿の遅い先生に感謝だわね」

 ダーナが笑い、ギュスもつられて笑った。ルカがまたもや深刻な表情をしていた。

「しゃちょうさん」

「なんだい?」

「ごめんなさい。やっぱりいいです」

「どうしたのさ?」

「……そこの『料金表』にあるすうじって、いんさつするのにかかるおかねですよね? わたしにははらえません」

 子供のうちから聡明なのも考え物だな、とギュスは感じた。ルカの頭の回転が速いのは、母親の庇護を十分に受けていないせいもあるのかもしれない。それでいて、子供なので経験が足りない。半端に知恵が回るので、金銭的に大人に頼るのはよくないと気付いてしまうのだ。

 ギュスは公園でそうしたように、ルカの頭に手を置いた。

「おいおい。何しに俺がついてきたと思ってんだ?」

「え?」

「俺様は小金持ちなんだよ」

 二人の関係を誤解したままのダーナが、不思議そうにルカを眺めていた。

「……ところでメッセージは?」

「ああ。頼む。下半分かな?」

「妥当だね。へんにひねっても意味ないもの」

「じゃ、まず。猫ちゃんの名前は?」

「みーちゃん。じゃなくて、みけ、ゆいしょただしいなまえなんだって」

「何歳?」

「えっと、にさい、ぐらい」

「いなくなったのはいつ? 人懐っこい?」

 ダーナとギュスのやり取りを理解していなかったルカも、ペンを取ったダーナが質問を繰り返すうちに理解したようだ。

 でき上がった文面は、以下のようなものだった。

『探しています。

 みけと言います。雄、二歳前後。雑種のぶち猫で、目付きは悪いけれど悪い猫ではありません。人懐っこく、エサをあげると見境なくついていきます。

 見かけた方は以下の住所に連絡を』

 ルカの家の住所が記載され、最後に、

『ルカの大事なお友達です。見かけた方はよろしくお願いします』

 この一文だけは、つづりを教わりながらルカが自分で書いた。

「写植は使わずにやろうと思って。版を作る手間は一緒だし、直筆だと訴えるものがあるでしょ? 料金はサービスしちゃおう」

「ありがとうございます」

 リーフ印刷の時と違って、心からの感謝だった。

「いいってこと。あたしの息子も帰ってきて後を継いでくれないかねえ」ダーナは白い歯を見せて笑った。「ま、こんな借金まみれのちっちゃい印刷所じゃ期待もできないけど」

 再度礼を言って――料金は印刷が終わってからという話になって――去りかけたとき、ダーナが二人を呼びとめた。

「確か、こういうものって勝手に貼りだしちゃいけないんじゃなかったかな?」

「そうなのですか?」

「うーん、ちょっと自信ないけど、市役所の許可がないと掲示板はつかえなかったと思う。ま、許可もらえば貼れるのは間違いないから、明日にでも朝のうちに行っておいでよ。その方が手間が少なくて済むっしょ」

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