第11話 氷刃 4

 どこ行ってたんだ? とホームズが訊ねた。

 長ぇ便所だなおい。とトリスタンが言って、モーリンにけたぐられた。

 いくらなんでも三十分もこもりませんよ。とキュイジーは答え、どうにもならない薄笑いを浮かべた。

 何もおかしくないのに、理性が麻痺した時に出て来る笑いだ。

「その辺出歩いて変なもん食ったんと違うか?」

「そんな事しませんよ。一応専門家ですから」

 料理の専門家でなくても拾い食いはしないだろう。

 それはともかく。

「どうなりました?」

 キュイジーは廊下を気にしながら訊ねた。モーリンが大げさに肩をすくめる。

「どーにも。騒音公害の元凶なんかの手助けはできない。だってさ」

「なんですかそれ」

「むちゃくちゃだろ? そりゃ大鉄は確かにうるさいだろうけど、通るのは年に数回程度のことだし、こんだけ離れてりゃ野良犬が吠えるくらいにしか聞こえないって。なんだかんだ言ってよそ者が嫌いなんだよこういう田舎は」

 トリスタンが遠慮のない意見を述べた。これにはモーリンも同意しているのか、蹴りは飛ばなかった。

「修理は絶望的。今日は遅くなったし泊まっていって構わないって言うから、夕食の時にでももう一回お願いって言うか、交渉するつもり。……んで、あんたどこで何してたの? 保安部の仕事には乗員の安全の確保も入ってるんだから、勝手に出歩いて危ない目に遭われると困るんだけど」

「それなんですけど」

 と、キュイジーは廊下に手を振った。遠慮がちに入ってきた緋色の外套を見て、保安部の面々は口をあんぐりとあけた。

「……どして?」

「まあ、……偶然です」

 ついさっき死にそうな目に遭った事は伏せ、キュイジーはそう言った。



「……何かと迷惑をかける」

 洗面器に張った湯に両手を浸して、ナギはそう言った。

「迷惑ってほどの事でもありませんよ。この村に来たのも偶然ですし」

 この村に来たのもナギを見つけたのも偶然だが、キュイジーがナギを探すために、保安部員に同行を申し出たのは事実だ。だが、それを口に出そうとは思わなかった。

 死にそうな目、といったのは、正しくない。もしかしたら死ぬかもしれない、と思わないでもなかったが。

 とにかく恐怖は感じた。

 保安部員たちからナギの武勇伝を聞いたばかりだったし、あの時のナギの目は、間違いなく『人斬り』の目だった。あれが自分に向いていたら、キュイジーは一歩も動けなかっただろう。

 あの男がナギの同郷であることは、一目見てわかった。だからと言って二人の過去までわかるはずもない。興味はあったが、殺意を突き付けなけねばならないような関係は、興味本位で聞けるものではなかった。

 だからキュイジーは、全く関係ない事を言った。

「手袋くらいしましょうよ。しもやけで済んだから良いですけど、凍傷にかかったらどうするんですか」

「手袋をすると感触が変わる。太刀筋が鈍る」

 失敗だった。ここで「何を斬るつもりだ」などと言おうものなら、血の臭いのする話題に逆戻りだ。

 急に温められた指が痛むのか、ナギはわずかに顔をしかめた。いや、痒いのだろう。

 ナギが湯から手を出した。キュイジーがタイミング良くタオルを渡す。手をふき終わると同時に、マグカップを渡す。一口飲んだところに、サンドイッチを出した。

「…………」

「心配しないで下さい。これは僕のお昼の残りなんで、薄味です」

「やはり迷惑をかけている気がするのだが」

「好きなんですよ。あ、変な意味じゃなくです」

 突っ込まれもしないのに弁解して、キュイジーは自分の分のマグをつかんだ。この地方独特の、苦みのきつい茶の色を見る。

「子供の頃。……と言っても五年くらい前なんですけど。戦争、終わりましたよね? あ、戦争の是非が問題なんじゃなくて、ただの話の枕です」

 それほど昔でもない。大陸を統治する連邦政府と、島国の弦都は戦争状態にあった。内乱の収まらない弦都の存在が、付近の海運に深刻な影響を与えていると、連合議会は判断した。同時に派兵を決定。一般的見地――大陸的な立場に立って言えば『治安維持活動』と呼ばれる議決だ。

 だが、弦都の皇帝が「兄弟ゲンカの仲裁をしてくれ」と大陸に頼むはずがなく、連合に参加しないちっぽけな、それでいて強大な軍事力と技術力を持った島国を併合しようとする議会の目論見には、大陸の住民ですら気付いていた。

 つまりは侵略戦争だったのだ。

 結果として弦都は自治権を失い、弦都人の多くは墓の下に、数少ない生き残りのそのまた少数が大陸に渡った。しかし、その数倍、伝え聞く所によっては十倍以上の連合兵が、海峡の底に沈んだ事はあまり知られていない。

「僕も僕の家族も、直接は戦争に関わってないんですけど、その時港町に住んでまして、復員兵が大勢上陸したんですよ。もうホテルも病院もまともに機能しないくらい。ちっさい町でしたから」

 ナギは何も答えない。

「その時、ボランティアで炊き出しに参加したんです。住民がいきなり二倍になったようなものでしたから、なべの中身は小麦粉練った団子だけって有様で。出汁もろくに取らないで、うちの料理長に見せたらトイレに流しそうなぎりぎりの食い物持って、兵隊さんが寝ている病院や学校をまわったんです」

 そこまで話して、キュイジーはナギの様子をうかがった。うつむいた顔を、長い髪が隠している。弦都生まれの彼女にとっては面白くない話だが、最後まで話した方がいいだろうとキュイジーは判断した。ただし、かなり端折ることにした。

「……それで、ご飯食べただけで、それまで悪夢を見てるみたいな顔してた兵隊さんが元気になるんですよ。生きてて良かった、って感じで」

 ナギの反応はなかった。沈黙が気まずくて、キュイジーは思ったままに続ける。

「コックになろうと思ったのもその時です。食事一つで幸せが買えるなら、安いと思いませんか?」

「…………」

 やはり、ナギの反応はなかった。キュイジーが茶をすする音だけが、しばらく続いた。

 やがて、

「……わしはうつけだ」

 消え入りそうに言った。



 五年間を長いと見るか短いと見るかは人それぞれだ。

 目的あって生きる者には短い。それが期限付きの目的であるなら尚更だ。

 忘れられない過去に苛まれる身としては、長い。

 五年前、ナギは帝室直護衛の末席、三十位の地位にあった。

 これは弦都で三十番目に強いサムライであるのと、同義である。直護衛は政治的財政的人道的見地とは一切無縁に「いかに敵を屠れるか」という基準だけで選ばれる。十七歳の少女がその地位を得たのは、弦都の長い歴史においても初めてのことだった。

 思えば、あの頃からナギの手は血に染まっていた。訓練生同士の殺し合いに始まり、敵を殺し同胞を殺し己を殺し、果ては親類縁者とも斬り合った。

 全ては帝位をめぐる内乱の産物である。

 ナギの使命は帝を守ることであり、帝弟と、その一派を殺すことであった。帝弟派についた従兄弟を切ったときですら、心は動かなかった。

 ひどく『単純な』生活だった。

 そんな殺し合いの日々の中にも、心許せる相手がいた。

「……五年もあったのだ」

『あの人』はナギの剣の師で、刀鍛治で、婚約者だった。内乱を鎮圧したら式を挙げるはずだった。帝が決めた、栄誉ある婚姻だった。「若い嫁さんで恥ずかしい」とあの人は何度か、とてもうれしそうにこぼした。

 それさえあれば何もいらなかった。『あの人』の打ったカタナを持って、帝の為に戦った。

 簒奪者など物の数ではなかったのに、連合軍が全てをぶち壊した。大陸からやってきた有象無象は銃器を持って、数を頼りに弦都を塗りつぶしていった。同胞が死に、帝が死に、多くの弦都人が家を焼かれた。その辺はおあいこだと思えなくもない。ナギが殺した連合兵は、彼女の知人の百倍以上の数だったのだから。

 戦争に関して言えば、終わった事だと思える。

 五年と言うのは、それだけの時間である。

 五年たっても風化しなかったのは『あの人』への想いである。

 決死の脱出行の後、『あの人』は行方不明になった。生き残りは散り散りになって大陸に渡ったのだから、『あの人』から見ればナギも行方不明ではあっただろう。

 探そうと思うに、時間は要らなかった。

 探し出すには、五年かかった。髪も伸びた。腕は鈍っていない、と思う。

 五年もあれば人は変わる。

 そんな事、考えもしなかった。『あの人』だって自分を探すに違いないと、勝手に思い込んでいた。

 だからなのだろう。『あの人』を「あなた」と呼ぶ女を見た瞬間、刀を抜いた。

 裏切られたと思った。キュイジーが飛び込んでこなかったら、きっと、心中を図っていた。

 そんな確信が、ナギにはあった。

「……わしは、うつけだ」

 もう一度呟くと、涙が出そうになった。タイミング良くハンカチが差し出され、ナギは反射的に受け取ってしまった。

 ふと思う。

 この男は何なのだ?

 まずい飯を作る、心配性の、人斬りを恐がらず、妙に気の付くコック。

 大陸中の料理を極める。いつだったか、そんな事を言っていた。

 彼にとって五年と言う時間は、思いつきに過ぎなかった夢を『人生の目標』として現実にする時間だったはずだ。

 国を捨てた『あの人』は、過去を過去とし、所帯を持った。その選択を責める気にはなれない。

 ただただ、自分が馬鹿だったのだと思う。

「……刀を取ってくれぬか」

「ダメです。何するかわかりません」

 即答された。

「正直だな。ぬしを斬ったりはせんよ」

 少しは落ちついて見えたのだろう。キュイジーは渋々ながらも、壁にかけてあったカタナを取ってくれた。身の丈を越える長刀。鍛えも立派なものだが、一番の特徴は鞘にある。背に当たる部分が、切り欠かれているのだ。抜く時は切り欠き部分から、刀身全てを一度に引き出す。鞘というよりは、カバーと呼んだ方が正確か。

 カタナを背負い、胸の前で紐を結わえる。 

「……六……もう七年もこれを使っておる。背中の一部だな」

 抜いた。目の前に水平に構える。キュイジーは一歩も下がらなかった。

「寝るときは?」

「抱いて寝る」

「それはぞっとしないなぁ」

 冗談ではなくそうしているのは、賞金稼ぎをしているうちに身についた習性だ。かの職業は逆恨みされやすい。

「逸刀・風祭。……弦都の門外不出の技で鍛えた業物でな、絶対に折れない。使い手次第で何を斬っても刃こぼれしない。身上は肉切りだが、鎧通しに使えなくもない」

「すごい剣なんですね。そういう包丁もあったらいいのに」

 本心から感心したように、キュイジーは言った。

「わしに似ていると思わんか? 何があっても変わらず、折れず、一つの事しか出来ない不器用な、ひどく単純で――」

「……嫌なんですか?」

「今日、初めてそう思うた。五年もあれば何かできただろうに、あいも変わらず人斬りだ。嫌になっても他にどうしたらよいかわからん。同じところをぐるぐると回るのみだ」

 風祭を鞘に戻し、ナギは目を閉じた。

 何か答えを期待したわけではない。話すことで楽になりたかったわけでもない。よくわからないが、知っておいてもらいたいと思った。

 そして、意外な答えが返ってきた。

「いいんじゃないですか?」



 キュイジーは思う。

 それでいいんですよ、と。

 あなたの過去に何があったか、興味はあるけど訊きません。

 今のあなたは、弦都から引き上げた来た兵隊さんと同じ顔をしています。人生は泥沼で、どうしようもないくらい残酷で冷酷で圧倒的で、刃を抱かないと安心して眠れないくらいに、他人は敵意に満ちているように見えるのでしょう。

 わかります。わかりますけど、僕には何も言えません。

 それはあなたの人生です。あなたが決めないといけない人生です。

 血と肉で作った泥沼で、あなたはさぞかし苦しんだ事でしょう。殺したくはなかったのだと思います。

 知ってますか? あなたが食堂車で車窓を眺めているとき、そこにどれほどの、平穏への憧れが染み出していたか。あなたがそれに気付くだけで、世界はあなたを受け入れます。でもあなたは、あまりにも『純粋』過ぎたんです。殺し方しか教えてもらえなかったから、新しい世界を知ってもいいんだと、世界は広いんだと教えてもらえなかったから、だからそんなに苦しいんです。辛いんです。

 でも、あなたのその単純で愚直なまでの純粋さは、誰もが持っているものではないのです――。


 もっと色々思うことはあったが、言葉になったのは一つだけだった。


「いいんじゃないですか?」

 まずは「受け入れること」。

「同じところをぐるぐるたって、たいしたことないですよ。僕なんかもう大陸を五周もしてます。鉄道長なんか二十周ですよ?」

「…………ぬしは、ふざけておるのか?」

「ええ。まあ」キュイジーは悪びれもせずに答えた。「……もしかして、僕、斬られちゃいます?」

 ようやくナギを笑わせることに成功した。頬がちょっとくぼんだだけだったが、間違いなく、本心からの笑みだった。

 真面目な励ましもできなくはなかったが、所詮自分たちは客とコックに過ぎない。知ったふりして語って相手の心に踏み込むよりも、「心配している事」だけを伝えた方が効くだろうと思ってのことだ。それも、言葉ではなく、態度で。

「……す、」

 ナギが何かを言いかけた。

 それを止めたのは、折り重なった銃声だった。


 いきなり過ぎて反応できなかった。

 事件はいつでも唐突に発生するとは言え、それはひどい不意打ちだった。

 銃声は屋内から聞こえた。

「……ナギさん!」

「隠れておれ!」

 怒鳴って、ナギは廊下に飛び出していった。キュイジーは少しだけ迷った。銃声は続いている。その音から銃器の種類が判別できるほど、キュイジーは武器に詳しくない。それでも、何種類かあるのは聞き分けられた。撃ち合っている? 

(……と言う事は、敵味方にわかれているって事か)

 そんな事を考えられたのは少しの間だけだった。キュイジーの脳裏に、うつむくナギの姿が甦った。捨て鉢になってやしないだろうな。そう考えると同時に、キュイジーは廊下に出た。音を頼りに進むと、廊下の角にナギがいた。

「静かに」

 ナギが言った。出て来たことを咎められはしなかった。

「村人が保安部員と撃ち合っている」

「……冗談でしょう」

 言うと、ナギは親指で角の向こうを指した。そっとのぞき込むと、確かにそのように見えた。村人は六人。廊下の奥で、壁を遮蔽物に食堂に散弾を撃ち込んでいた。作業着やスラックスに混じって、スカートも一つ混じっている。さっき案内してくれた村の娘だ。

「……」

 食堂から、大口径の拳銃の音がして、同時に廊下の壁が一部崩れた。散弾銃を構えていた作業着は、射撃が終わると同時に身を引いている。訓練された――とまではいかないが――慣れた動きだった。

「どうなってるんです?」

「来たばかりのわしが知るか。直接あやつらに訊けばよかろう」

「それは確かに」

「一人残せば十分だな」

 ナギがカタナの柄を握った。かちん、と軽い音がして、刀身が抜かれる。不利だ、とキュイジーは思った。ナギのカタナは長大すぎて、廊下で振り回すには向いていない。

「……ナギさん」

 呼びかけ、それを言うには勇気が要った。

「自棄になってないですよね?」

「当然だ。……少し手伝ってもらえるか? 十数えたら怒鳴れ」

「え?」

「説明は後だ」

 ナギはすぐ側にあった部屋に向かう。回り込んで後ろから襲いかかるつもりか。ナギが、ふと思いついたように顔だけを戻した。

「わしを信じろ。ぬしを守ると約束する」

 ひょいっと、ナギは消えた。何かとんでもない事を言われたような気がしたが、続く銃声は思考時間を与えてくれなかった。十数える、をすっかり忘れていて、何秒たったか分からないので、高速で十数えて叫んだ。

「わあああああ―――っ!」

 銃声が止んだ。六人の村人がこっちを見ている気配がある。まずい、絶対にまずい。こんなところにじっとしていたらあっという間に蜂の巣にされて埋められて野犬に掘り返されておしまいだ。野ざらしで鳥のえさかもしれないが、どっちもごめんだ。

(ぬしを守る)

 風が、吹いた。

 厳重に閉め切った豪雪地帯の民家の廊下に。吹くはずのない風が吹いた。

 それは、剣風だ。

 何かが崩れ落ちる轟音がして、土埃が足元に漂ってきた。

「終わったぞ」

 ナギの声がした。彼女はなぜか廊下から現れた。四つん這いになってのぞき込むと、折り重なって倒れた村人六人と、バラバラになった壁の残骸があった。

 ナギが、ぶった切った壁を叩きつけ、彼らを気絶させたのだと、この目で見てもすぐには理解できなかった。

 いちおうはナギに協力したキュイジーですらそうだったのだから、保安部員たちには何がなんだかわからなかっただろう。

「……あんた、今……」

 困惑したホームズに、ナギは説明せずに言った。

「縄。縛った方がよかろう」

「あ? ああ。どこかにある。……と思う」

 ホームズとトリスタンが走りだすのを見届けて、ナギは作業着の村人に活を入れた。目を覚ました村人の鼻先に、モーリンが銃口を突き付ける。何の段取りもつけていないのに動けるのは、職業的なものなのだろうか。

「なんであたしたちを襲ったの? 話して。……床下に埋まるのが趣味なら、あたしはそれでもいいけど」

 村人が反抗的な目をした。ナギが無言で、村人の額に切っ先を触れさせた。

(女って、恐い)

 とキュイジーは思った。

「ぬしら、雪兎団だな?」

 ナギが言った。モーリンが訝しげに眉をよせる。

「……大鉄を襲った列車強盗?」

「だからなんだってんだ」

 男は言って、わずかに右手を動かした。刹那、右腕が肩からなくなった。剣閃は誰にも見えなかったにも関わらず、カタナの切っ先は元の位置に。カタナの先からしずくが一滴だけ落ちた。腕が落ちる音は、その後で聞こえた。

「まだ五人も残っておる。……この意味は分かるな?」

 脅迫の見本として飾りたくなる鮮やかさだった。

 残念ながら、ナギの技は脅しとしては強烈過ぎた。村人は雄たけびのような悲鳴をあげ、のたうち回る。

「殺せよ畜生! こんな事したって意味ねえぞコラ!」

「……あの、何が、どうなって、こう……」

 状況を理解しようと務めたキュイジーの言葉に答えたのは、意外にも沈黙の人、グラハムだった。

「わかった。村などなかったのだ」

「僕にはさっぱりですけど」

「あたしもわかった」と、モーリン。「つまり、ここに村なんて最初からなくて、当然だけど村人なんて一人もいなかった。ここは廃村かなにかだったのを、たまたま見つけた強盗――雪兎団だっけ? が、再利用していたのよ。あたしらはのこのこ、犯罪者の本拠地に助けを求めにやってきたって訳。会議とか言ってあたしらを足止めして、再襲撃の為に情報を引き出そうとでも思ってたんじゃないかな」

「……あ」

 キュイジーの中でもいくつかの出来事がようやくつながった。

 大鉄の乗員だと知った途端、態度を変えた老人。やけに古臭い建物に不釣合いな真新しい修理箇所。軒下に吊るしてあった乾し肉――ここが本当に農村なら、穀物の備蓄の方が冬を乗り切りやすいはずだ。長年住んでいたのであれば、修理にも年代があってしかるべきだ。ダイヤが乱れていた大鉄を襲撃できたのも、近くに補給可能な施設を持っていたからだろう。そうでなければ、彼らは雪の中に一週間も潜んでいた計算になる。

 そして、フィーの言った「逃がして欲しいんです」。彼女は多分、雪兎団に拉致された身の上なのだ。

「……風基と言う男も、ぬしらの仲間か?」

 ナギが村人――いや、雪兎団の団員に訊ねた。

「……へっ。異人だからもしやと思ったらやっぱりか」

 手当てしても死ぬ出血だと、団員は気付いていた。口の端を引きつらせて、呪うように言った。

「やっぱりあいつは見つけた日に殺しとけばよかったんだよ。そうすりゃ、二度とサムライなんぞにあわなくてもよかったのによ。……へっ。しかしあんたもご苦労だな。……あいつなら今ごろ死んでるぜ。馬鹿女ごと蜂の、」

 口笛のような音。

「巣」

 離れた首がそう言った。

「だぜ」

 床に落ちた首がそう言った。

 己の死を理解していない、嘲笑に満ちた死に顔だった。

「ナギさん!」

 呼びかけた時には、傍らには緋色と黒の残像しか残っていなかった。

「キュイジー!」

 モーリンが叫ぶ。ナギを追って走り出したキュイジーを追いたいのだが、残る四人が息を吹き返さないとも限らない。非戦闘員のグラハムを残していなくなるわけにもいかない。

「……いっか」

 ナギを殺せる人間がいるとは思えなかった。そのナギが、惚れた男を死なせるはずがない、と噂を信じていたモーリンは無責任に決めつけた。


 本気になったナギの足は速く、キュイジーは民家を出た所でナギを見失っていた。しかし、迷う必要はなかった。行き先はわかっている。

 フィーの家だ。

 銃声の一つもないのが不気味だった。キュイジーはできるだけ急いだが、何度も雪に足を取られた。

 銃声がいくつも、幾重もこだました。ろくでもない光景が脳裏をよぎった。

 今の一発がナギの体のどこかを掠めたんじゃないか。彼女に限ってそんなことはないかもしれない。でも、いくら腕が立っても人間には限界がある。百発の銃弾のうち一発が、運悪く彼女の胸を貫く可能性はまったく否定できない。

 銃声が続いている間は生きて戦っているのだと信じたい一方で、身動き取れなくなったナギが、鉛の雨を浴びている想像を振り払えなかった。雪が足にまとわりつく。急ぐほどにつま先が埋まる。かかとが揺れる。不安が足を揺らしている。雪の固め方が均一ではないだけだと、冷静に考えることはできなかった。

 不意に、一切の音が消えた。

 フィーの家に着いたときには、何もかも終わっていた。

 細かい結晶が大気とこすれる音だけが。存在しないささやきが響く。

 キュイジーは見た。

 ナギの頬に、一筋の赤が流れていた。刃物傷ではなかった。銃弾が生み出した擦り傷だ。出血は多くないが、後一歩で骨に達する危険性があったはずだ。

 超絶的な戦闘能力を有した剣士が負傷した理由を、キュイジーはすぐに理解した。

 敵の数が多すぎた――のではない。踏み散らされた雪の上には、雪兎団と思しき男女が倒れていたが、七人だけだった。その程度、ナギにとっては物の数でもなかったはずだ。

 負傷の理由は二つあった。

 強盗の誰も血を流していない。ただ倒れているだけだ。殺さないように気をつけたのだろう。もう一つの理由は、少し観察しないと分からなかった。

(……足跡が)

 ほぼ一ヶ所に固まっていた。

 それぞれの踏み込みがどういった意図で行なわれたものなのか、キュイジーにはわからない。ただ、何かを背にして半円状に動いたことは、わかった。

 何か、ではなく、誰か、であった。

 ナギが向きを変える。その先に、フィーとその夫がいた。

 彼らを――恐らくは、フィーの夫を守ったのだ。黒い髪と、金色の目の男だった。

 こうしてみると、フィーの夫とナギはよく似ていた。家族のそれではない。同一の民族としての特徴が目立つのだ。

 彼がナギの尋ね人であることは明白だった。

 カタナを背負い、頬に触れ、わずかに顔をしかめた。

彼女が泣いているように――泣き方を思い出そうとしているように見えた。

「……凪か」

 黒い髪の男が言った。

「髪、伸びたな。誰だかわからなかったよ」

 きれいな大陸公用語だった。

 五年とはそういう時間だ。髪も伸びるし言葉も変わる。

 気持ちも変わる。

「綺麗になったね」

「……わしは……」

 雪はまだ、降り続いている。

 この世の中に、変わらないものがいくつあるだろう。

 毎年同じように降る雪ですら、一つ一つの結晶は違う。溶けて消えてなくなって、だからそれは美しいのだろうか。

 記憶のように、雪は積もる。

 昔のそれは美しく、今のそれはただ、迷惑なものでしかないのだろうか。

「……」

 ナギは無言でカタナを納めた。

 ナギの視線はフィーの膨れた腹を向いている。

「裏切り者の始末に来たんじゃないのか?」

「……」

 子供がいる。そうと分かった途端、斬れなくなった。この子を親なしにして、自分と同じ報復の旅に走らせるわけにはいかない。

 血煙に彩られた自分の人生を思い、ナギは、「もう止めよう」と思った。

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