第10話 氷刃 3
三時間ほど走っただろうか。出発の遅れ――戦闘があった辺りの調査に時間を取られたことと、もしかしたら晴れるかもしれないとぐずっていたのと――が災いして、村が見えたのは昼過ぎになってからだった。
拾い物の雪上車は原動機が駄々をこねる事もなく、五人を村に送り届けた。
保安部員のホームズが、最初に雪上車から降りた。同じく保安部員のトリスタンが続き、キュイジーを目で制する。モーリンはハンドルから手を離していない。余計な用心ではないかと、キュイジーは思った。
民家の軒に干し肉が吊るしてある。短いつらら。誰もいない通り。通行人がいなくても雪かきは欠かさないらしい。固められた雪の道は、車二台が余裕で通れるほど広かった。民家同士の間隔はあまりない。だだっ広い雪原にあるのだから、もっと余裕を持ってもよさそうなものだが、それも「ご近所付き合い」を考えるとうまくないのかもしれない。
キュイジーがそんな事を考えている間に、民家の一つから老人が現れた。茶色い外套に同色の毛皮の帽子。眉毛の端が垂れ、引退した牧羊犬ののどかさがあった。老人を見てようやく、保安部員達は緊張を緩めた。
「すみませんが……」
「おんやあ」
と、老人は言った。
「こんな時期にお客さんとは珍しい。お困りですか」
「ええ。よくわかりますね。ちょっとトラブルで足止めを食らいまして」
「なんのなんの。どうもこの平原は迷いやすいようですからね。困った時はお互い様。必要なのは燃料ですか? それとも食料の方を?」
何もない平原、というのはかえって迷いやすい。目印が何もないこともあるが、人間は実はまっすぐに歩けないのだ。自分では直進しているつもりでも、微妙に左右どちらかに傾いて進んでしまう。気付かなければぐるりと回って同じ所に戻ってしまう事も多々ある。一行がそうして迷い込んできたのだろうと、老人は誤解していた。
「いえ、迷ったのではないのです。故障でして」
言ったのは、機関士のグラハムだ。元々が寡黙な性質で、ここに来るまで一言も発していなかったが、話が専門的になると察したのだろう。
「故障ですか?」
老人は聞き返し、彼らが乗ってきた雪上車を見た。眉毛がぴくりと動く。
「これじゃありません。少し南に線路が走っているのはご存知ですよね?」
老人は一旦うつむき、わずかに眉が上がった顔をグラハムに向けた。
「あんたら、大鉄の乗員か?」
「ええ、まあ、」
「帰れ」
「はい?」
としか答えようがなかった。大鉄の乗員だと言うだけで態度を変えねばならないのか、その理由が全くわからない。五秒前の言葉が嘘のような切り替わりだった。
「あたしらが何か迷惑かけた?」
モーリンが言った。彼女は子供をあやすのが似合いそうな年の女ではあるが、保安部員などやっているだけに血の気が多い。銃を抜くか雪上車で轢き殺すか迷っているような口ぶりだった。トリスタンが彼女の肩を叩く。
「モーリン、よせ。……なあ、話くらい聞いてくれよじいさん。そりゃいきなり訪ねてきて迷惑なんだろうとは思うけど、こっちはあと三日も立ち往生したら乗客の半分が餓死するんだ。さらに三日あれば、」
「さらに半分になるのか?」
老人の合いの手は、これまたケンカ腰だった。
「いや、全員凍死だ」
思いっきり嘘である。備蓄の食糧はあと一週間分はあるだろう。暖房に関して言えば、走行を諦めれば十日分以上残っている。とは言えこのままにしておいたら遅かれ早かれ全滅するのは間違いなかった。
「じいさんが断ったらそうなる。いいのか? 二百人で祟るぜ? 毎晩枕元で呪いのフルコーラスだ」
脅迫に聞こえなかったのは、トリスタンが半分笑っていたからだろう。
老人は気難しげにこめかみをなで、言った。
「少し待て、会議で決める」
会議とやらは結構な時間を要した。
とやら、と言ってしまうのは野ざらしで待たされた事への、ホームズたちの怒りが含まれているからである。ついでに、こんなちっぽけな村に、議会らしきものが存在している事への皮肉も含まれている。
すっかり忘れ去られたに違いないと確信したころ、村の娘が現れ「長引きそうですから」と言って五人を民家の一つへと案内した。
「……遅せぇ」
トリスタンが低く呟く。暖を取っても苛立ちは収まらない。しかしこちらが頼み事をする立場なのは理解しているので、声は隣のモーリンにようやく届く程度に抑えられていた。そのモーリンは、出された焼き菓子をわしづかみにして咀嚼するのに夢中になっている。毒は入っていないようだが、それほどうまそうでもない。さらに隣にグラハム。腕を組み、瞑想しているようにも見える。実の所、彼の頭には機械の動かし方と直し方しか入っておらず、今も必要な資材が手に入った後の修理手順をシミュレートしていた。グラハムの対面は保安部員の最後の一人、レノ。これまた沈黙を好む男で、隣のキュイジーは居心地が悪そうだった。
茶ぁ出したっきり放っておくとはどういう了見だ。と、キュイジーは思わない。
職業的見地に立てば確かに、最低部類に属するもてなしをされているのだと思う。しかし先の老人の態度を思い返すに、自分達が歓迎されていない事は承知している。追い出されないだけマシだ。それでも居心地の悪さから、キュイジーは席を立った。
「どうした?」
「……トイレです」
つい言ってしまった都合で、キュイジーは部屋を出た。当然だが、トイレの位置など知らない。案内してくれた娘が都合良く待機しているはずもなかった。廊下はほんのりと温かい。見れば、壁と床の隙間に温水パイプが這っていた。パイプは極端に古い部分と新しい部分が混在していて、修理費もままならないのかもしれないとキュイジーは思った。
特にトイレを探す必要はなかったので、キュイジーは散歩がてらにパイプに沿って歩いた。
角を二つ曲がったところで、女に会った。
(この家の人……?)
ではないようだった。女は不安そうに周囲を見まわし、キュイジーの存在に気付くと短い悲鳴をあげた。泥棒かとも思ったが、それも違った。
「あの、大陸周回鉄道の方……ですよね?」
「ええ」
女は周囲を見まわし、キュイジーを見て、自分の手を見て、ここには存在しない何かを見て、
いきなり言った。
「お願いします!」答える間もなく続けた。
「! ごめんなさい私ったら。……ここでは話せないので、外へ。いえ、私の家へ」
結局自分はお人好しなのだろうと、雪道を歩きながらキュイジーは思った。学生時代に「あなたっていい人だけど」と言われ続けたのも、先輩コックに「技術は悪くないのだけど」と言われるのも、見ず知らずの女に腕を引かれて雪道を歩くのも全て、押しの弱い自分が原因なんだろうとキュイジーは理解している。
「ちょっと待った!」
だから、女を怒鳴りつけたのも、力任せに引き倒したのも初めてだった。不意を突かれた女がひっくり返る。日頃馬鹿でかい鍋を上げ下げしていた自分の腕力を、キュイジーは今日初めて知った。
「あ。……大丈夫?」
「……はい」
転倒のショックを受けて、女は焦り――というか混乱した様子だった。固まった雪にぶつけた背中ではなく、腹をかばうように手を当てて起き上がった。
「すいません。ちゃんと話しますね」
聞くからにはついていかなくてはならないだろう。女のペースに飲まれつつある事を、キュイジーは嫌と言うほど実感していた。
(やっぱり、僕はお人好しだ)
女はキュイジーの様子をかえりみることなく、先に立って歩き出した。強引な性格らしい。
「私、フィーと言います。ここよりずっと東の、鉱山の町で育ちました」
これは長くなりそうだな、とキュイジーは思った。実際、フィーの話は彼女の家に着くまで続いた。それが長いか短いかと問われれば、村の規模もあって、判断に迷う。
「色々あって十歳の時からここの人たちと住んでいるんですけど、話したいのは私のことじゃないんです。いえ、私のことでもあるんですけど」
村の名前をキュイジーは訊ね、フィーは「ない」と答えた。続けて何か言いかけ、
「まだ一年も住んでいない土地ですし、定住する気はないみたいですから」
その言い方に引っかかるものがあったが、フィーが他の村民と違い、生まれた時から一緒でないことによって、軽い疎外感を味わっているのだろうとキュイジーは判断する。
村の人達――その言い方も妙ではあった――と暮らして、生活にも慣れて、少しばかりそれがいやになった頃だったそうだ。
「行き倒れ?」
「はい。どこからきたのかはよくわかりませんけど」
男が村の入り口に倒れていたのだそうだ。犯罪者のようには見えなかったが、足をケガしていた。荷物はなく、名前以外の記憶もなかった。
「都合の良い記憶喪失」
思わず言ってしまった。キュイジーは後悔したが、女は怒りも嘆きもしなかった。
「私もそう思います。ううん。最初のうちは彼の言う事を信じていました。何てかわいそうなんだ、って」
怪我をした余所者をどうするかで、村は少しもめた。結局、フィーが彼の手当てをし、素性を調べるということで話はついた。彼が記憶喪失だと判明したのは、その後である。記憶がなければ背後関係もない。余所者の処遇は一時棚上げとなった。
ほどなくして男は元気になり、そのまま村に居着いた。
「え……と、つまり、君はその人と一緒に?」
「はい」
男の記憶喪失が嘘なのではないかとフィーが思ったのは、最初の冬だった。
男は雪を見て、突然泣き出した。号泣するのではなく、ただ静かに。
「この人には何かあるのだろうって、思いました。嘘をつかれたからと言って責める気にはなれませんでした。忘れた事にしてしまいたい何かがあるのなら、私も知らないことにしてしまおうと思ったんです」
「彼のこと、好きなんですね」
ぶしつけな質問ができたのは、知らない相手だったからだろう。多少でも気心が知れてしまえば、かえって本音を聞きづらくなる。
「はい」
フィーは照れもせず、答えた。静かな強さをたたえた声音だった。
それきり話題は途絶えた。二人は無言で――しかし、気まずさはなく――十メートルほど進んだ。とある民家に裏手から入る。キュイジーはここかと思ったが、フィーは民家の庭を抜け、その奥の小さな小屋を指した。
「あそこです」
「それで、頼みと言うのは?」
「…………逃がして欲しいんです」
「は? 何をしろって?」
何を言われたのかよくわからなかったので、そう言った。
「……すいません。後は夫に聞いてください」
フィーはそう言って、小屋の表へと回った。
「あなた? ……お客さんですか?」
呼びかける声を発して、フィーは足を止めた。その横顔が青ざめ、奥歯ががちがち鳴っている。何か言おうとして舌を噛み、無意識に顔をしかめる。それでも震えは止まらない。
尋常ではないフィーの様子に、キュイジーは列車強盗の存在を思い出した。襲撃現場とこことは、それほど距離が離れているわけではない。線路脇に散らばっていた死体が全てだったとも思えない。負傷した生き残りが村に忍び込み、フィーの夫に銃口を突き付けているのかもしれない。列車強盗はフィーに気付き、いやらしい笑みを浮かべて銃口をこちらに――。
そこまでを一瞬で考え、キュイジーはフィーの襟首を引っ張った。不意を突かれたフィーが盛大にすっ転ぶ。
何をしようと思ったのか、キュイジー自身にもよくわかっていなかった。
強盗がいるなら今すぐに逃げるべきだった。敵が銃を持っているならそれも無駄だっただろうが。もしかしたらフィーをかばうつもりだったのかもしれないが、自己犠牲の精神は強くないはずでもあった。
つまりは何も考えず、反射的に飛び出したのだ。
そして、キュイジーは二人の異人を見た。
一人は雪の上に座り、両足を投げ出した姿勢の男。これがフィーの夫だろう。右足が脛半ばから失われ、ズボンの先は結ばれていた。
男から一メートルほど離れたところに、緋色の外套をまとった女が立っていた。
(……ナギさん?)
その名が疑問形で浮かんだのは、人違いかと思ってしまったからだ。外套とブーツに見覚えがなければ、名前を思い出すのにも手間取ったかもしれない。
そのくらい、ナギの表情は普段と違っていた。物憂げで退屈そうな無表情ではなかった。
ナギは右手をまっすぐに伸ばしている。この寒いのに手袋をしていない。
「…………」
ナギはキュイジーに気付いていない。顎の筋肉が浮き立つほどに奥歯を噛み締め、長い髪を風になぶられるままにして、寒さに真っ赤になった手でカタナを支えていた。切っ先はまったくぶれない。
簡潔に言えば、殺意に満ちていた。
何がどうなっているのか、キュイジーにわかるはずがなかった。
「ナギさん!」
呼びかけるのとほぼ同時に、ナギの右手に血管が浮いた。フィーの夫が目を閉じる。
雪の上に赤いものが広がった。
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