氷刃

第8話 氷刃 1

 空が落ちてきそうな寒さだった。

 降り続く雪は勢いを緩めようとしない。

 灰色の空がどれほどの水量をその内に湛えているのか、地を這う人間の計り知れるものではなかった。太陽は、一週間も前から雲の覆いに隠されている。時折は日も差したが、それはまるで内気な幼子が母親の陰から客人の様子をうかがうような、ごく短い間の事であった。とてもではないが、陽光と言えるものではなかった。

 大陸北方はフェデアン山脈。

 雪の魔神の伝説も残る、峻険たる山脈だ。

 その裾から広がる平原に、細い、黒い筋があった。

 雲の高さから眺めたそれは、線のようにしか見えない。大地が一枚の生地だとすれば、それは細い糸のように見えた。ならば糸の先端にあるものは、針だろうか。

 雪原を縫うように進むその針の名を、アルトラス、と言う。

 大陸鉄道公社が誇る巨大輸送機関の弐号列車だ。合計4編成ある大陸周回列車の中でも、アルトラスはまるでホテルのような乗客サービスで評判が良い。大鉄に乗るなら最新の四号列車ではなく、あえてアルトラスで行く、と言う乗客もいるほどだ。

 しかしながらこの時、アルトラスの乗客は、いくつかの意味で「今回ばかりは別の列車に乗れば良かった」と考えていた。

 さえぎるものなど何もない平原を進むアルトラスは、人間が自分の足で走るのと大差ない速度で――空から見れば停まっているかのような速度での運行を余儀なくされていた。



 初めに気づいたのが誰だったか、最後まではっきりしなかった。

 遠く爆音を聞いた。と客室係の一人は証言している。

 地雷が埋まっていたかと思った。と退役軍人の乗客は語った。

 雪がどかーん、て、びっくりした。あの車かっこいい。と家族旅行で乗り合わせた男の子は言った。

 つまり、はじめは音だった。

 音に気づいた乗員乗客が窓を見た時には、雪原のあちこちで、間欠泉のように雪が吹き上がっていた。そんな自然現象は存在しない。だからそこ退役軍人は地雷と勘違いした。だが、フェデアン地方が戦場になったことはない。鉄道が通る前は本当に何もない原野だったし、鉄道が通った今も、単に通り過ぎるだけの土地だ。地雷の埋まっているはずがなかった。

 それは、強力な原動機が生み出した排気が、柔らかい新雪を吹き飛ばしたことによって生まれた現象だった。

 彼らは、雪の下に潜んでいた。

 それが車である事は、誰の目にも明らかだった。数は二十。いずれも前輪はなく、雪上走行の為の板を取り付けてあった。屋根もなく、妙に上背のあるシートには、揃いの薄灰色の外套をまとった男達が座っていた。あるいは立ち乗りしていた。

 すさまじい原動機の音と、大鉄自身が生み出す蒸気機関の轟音にかき消され、銃声は一つも聞こえなかった。


「敵襲! 山脈側に改造雪上車二十! 突撃銃を持っています!」

 上ずった声で運転士が告げるより早く、ギュスは運転室の出口に向かっていた。

「現状の速度維持! 絶対に停まるな! 動いてる限り簡単には乗り込めねえはずだ! 線路をふさがれたら容赦なく轢け!」

「そんな!」

 それは人殺しではないか。そう言いそうになった運転士に、ギュスは厳しい視線を送った。

「非常時の免責だ。悪党始末するのに躊躇して、客にケガさせるわけにはいかねえだろ」

「鉄道長!」

「根性入れろ! お前が握ってるのはブレーキじゃねえ。乗客の命だ!」

 ギュスは戸口脇の鍵つきの引き出しを開けていた。黒光りする鉄の塊を取りだし、作動を確かめる。ドアを蹴り開けて射線を確保。さりげなく、運転士をかばう位置に構える。

「ここに入ってこようって馬鹿がいるかもしれないだろ。お前は運転に集中しろ」

「……はい」

 列車強盗との白兵戦になった場合、狙われやすい場所は三つある。客室、貨物室、運転室、である。前二つは単純に利益の為、最後の一つは――列車ごと乗っ取るつもりがある場合だ。通報を遅らせる為と言う理由もある。

 そして、それだけで済むなら運が良い場合もある。

 最悪のシナリオは『乗員乗客皆殺し』。

 そこまで徹底する事により、生き残りの通報をなくしてしまえる。いくら警察が優秀でも、通報がなければ事件に気付きようがない。列車が到着せず、異変に気付いた駅職員が通報するころには、強盗団はアジトごと姿を消すという寸法だ。たびたび出来る方法ではないが、全ての貨物と乗客が持ち込んだ貴金属を奪えるのだから、儲けは決して少なくない。まして、大鉄は大陸最大の輸送機関である。乗客のほとんどは金持ちか、必死に貯めた旅費を抱えた人間かのどちらかである。一度襲撃を成功させれば、一生遊んで暮らせるのは間違いない。


 客車は混乱を極めていた。

 銃声は聞こえなくとも、車体を叩く銃弾の音は聞こえてくる。強盗団は既に、銃の射程に大鉄を捉えているのだ。鈍重な鉄道が、軽量高機動な雪上車に追いつかれるのは時間の問題だった。

「落ちついてください! これは皆さんを恐がらせる為に撃ってきているだけです! 軽火器では大鉄の外板を抜けません! 大丈夫です! 大丈夫ですから指示にしたがって――きゃあっ!」

 金切り声を上げて乗客の誘導にかかっていた客室係が、恰幅の良い紳士に突き飛ばされた。客室係もよく知った顔だった。普段は礼儀正しい紳士なのだが、非常時とあって混乱しているようだ。いや、これが彼の本性かもしれない。紳士は親子連れを押しのけて前方の車両へと走っていった。逃げ場などどこにも無いのに、それでも逃げようとあがく。

 壁に背中をぶつけた子供が泣き出した。それが呼び水となって、あちこちから悲鳴があがる。誰かが神の名を呼んで、別の誰かがそれを罵った。

「食堂車へ! 食堂車なら安全です!」

 叫びながら客室係――セレナは走る。

「客車にいたら襲われます! 食堂車へ!」

 この台詞は本当で、先の台詞は嘘だ。

 食堂車は大きいだけで、特別頑丈な訳ではない。厨房がしつられられた車両なら、火災も考慮しているので比較的丈夫だが、そちらは三百人もの乗客を収容するようには出来ていない。

 それでも乗客を一ヶ所に集める必要があった。一人でも人質を取られたら、かなり苦しい選択を迫られてしまう。最悪の場合は貨物車両と客室を切り離し、機関車から食堂車までの前部のみで逃げるようにと、鉄道公社の危機管理マニュアルにある。

「お客様!」

 客室の隅に隠れていた婦人を引っ張り出し、セレナは怒鳴った。婦人はうわごとのように誰かを呼ぶだけで、まともな反応を返そうとしない。

 考えず、セレナは婦人の頬を張った。

「死にたくなければとにかく前に!」

 廊下に押し出し、背中を突いて走らせる。家畜に対するような扱いだが、抗議は生き残ってから聞けばいい。婦人がよろよろと進むのを見届けてから、セレナは次の客室に飛び込んだ。誰もいない。次。

 三つ目の客室に入った直後、窓の外でロープが飛ぶのが見えた。強盗に取りつかれたのだ。

「……っ」

 もうダメだ。時間がない。

「セレナ!」

 誰かの呼び声に振り返る。防弾ベストと散弾銃を装備した男が三人。公社の保安部員だ。

「これ以上は無理だ! 後ろの車両には我々が行く! 君も避難しろ!」

「気をつけてね!」

 それだけ言って、セレナも食堂車へと向かった。

 保安部員はロープを見て舌打ちした。鉄格子のはまった窓からの突入は不可能だが、屋根の上には点検ハッチがいくつもある。

「窓からの迎撃は中止! 各班に白兵戦用意を伝達!」


 食堂車もまた、普段とは違う雰囲気に包まれていた。

 窓にはテーブルが立てかけられ、乗客は通勤時の乗り合い馬車の如き寿司詰め状態。

 誰もが無言だった。原動機の音が近付くたび、暗い圧力が増していく。

 隣の厨房では、コックたちが包丁を握り締めて震えていた。オーブンの煙突からの突入も、絶対にないとは言い切れない。

「……人間だけは捌きたくないな」

 料理長のジョークに、笑えた者はいなかった。

 ふと、キュイジーは顔を上げた。

「どうした?」

「いえ、上から何か聞こえたような……」



 雪が降っていた。

 風はなく、本来は柔らかな雪なのだろう。極寒が生み出した結晶は、溶けることなく緋色の外套の上を滑り、黒い車体に落ちた。

「……雪は、嫌いだ」

 独白。

 車両の端に鉤付きのロープが引っかけられた。張力を確かめるような引きが三度。

 少し遅れて、突撃銃をぶら下げた男がそれを伝ってきた。それは数度となく続いた。最終的に十五人が、屋根に登った。

 大鉄の屋根に登った強盗団は、そこに異様なものを見た。

 車内のあらゆる現象より行動より、それは奇妙で、あり得ない取り合わせで――

 ――異質だった。

 腰までの長い髪をした、雪より白い肌の、

 緋色の外套を羽織り、背中に身の丈より長い得物を担いだ、

 異人の女だった。

「なんだお前? 用心棒か?」

「……雪は嫌いだ」

 女が言って、片手を肩に回した。

 奇妙と言えばこれほど奇妙な事はない。女は刀を背負っていた。それは彼女の身長より長かった。つまり、背負ったままではどうやっても抜けない。それ以前に、刃物一つで十人以上もの相手をするつもりなのだろうか。

「……たかが女が。多少の心得があると思ってでしゃばると――痛い目を見るぞ」

 そう言った男は、己の言葉がどうして一瞬途切れたのか、理解できなかっただろう。

 女が遠くなった。仲間達も遠くなった。

 抜けないはずの刀身が、雪を散らしてひるがえった。

 腸を触手のようにたらした下半身が見えた。

「あ?」

 それが自分の下半身だと理解したときには、男は線路脇の雪に埋もれていた。

「雪は嫌いだ。郷里を思い出す」

 そう言って、女は足元の雪をブーツで払った。黒い屋根を踏みしめ、間合いを測るように、金に近い色の双眸を細める。

「何者だ!」

「ぬしら、雪兎団、だな?」

 強盗の問いに、女は問いで返した。

「結成一年に届かず、起こした事件もわずかに三つ。大陸警察もまだ目をつけておらんが、今、最も勢いのある強盗団の一つ。得意は待ち伏せと押し込み。……間違いないか?」

「だったらどうした。入団希望か?」

 誉められたから、でもないのだろうが、強盗の一人が、そう言った。

 女が短い息を吐いた。

 嘲ったのだと、理解できた者はいない。

「見逃してやると言っておるのだ。まだ賞金もかかっていない連中を斬ったところで、わしに利はないしの」

 女の物言いは単純だったが、強盗団は一瞬、何を言われたか理解できずにいた。その意味が染み渡るにしたがって、覆面の下の彼らの顔が、赤く染まっていく。

「ざけやがって。ヤッパ一つで何が出来る」

「今、一人始末した。後……」女は強盗に向けて指を回した。「十四回、繰り返せば終わる」

「出来るモンならやってみやがれ!」

 合図もなく、十四人は一斉に動いた。雪兎団が世間に知られていないのは、徹底して目撃者の少ない状況を選び、関係者を殲滅してきた実績による。その犯行は明るみに出ても、『誰が、いつ、どうやって』はほとんど伝わっていない。知られていないだけで、実力はかなり高い。

 残った十四人は三列に並び、銃口を女に向けて揃えた。大陸一の鉄道と言えど、屋根の上では足場も限られる。避ける場所などどこにもない。

 重なり合った銃声が、甲高いこだまを生んだ。

 それだけだった。

 雪兎団の面々は、何故女が立っているのか、理解できなかった。銃の作動不良を疑った一人の首が飛んだ。鞠のようにはねた首は、赤いしずくを撒き散らして屋根から消えた。あっけに取られたもう一人が、返しの刃で膝から下を失って崩れた。

 司令塔を失った体がバランスを崩し、屋根から落ちた。足を失って、しかしまだ息のあった男が、それに続く。

「残り十二……七」

 一挙に五人減ったのは、死んだからではない。不利を悟った男達が、斬られるよりはマシだと判断して飛び降りたのだ。線路脇の雪は深く、大鉄がのろのろ運転をしていたことも、彼らの決断に味方した。

「おい!」

 しかしそれは、残った七人に隙を作らせた。逃げ出した仲間に怒鳴りかけていた男が、口腔に刃を突っ込まれて悶絶する。死に顔は混乱に満ちていた。

 いかなる素材を使っているのか、そのカタナは頭蓋を貫通して刃こぼれ一つしない。女はカタナを横に払った。軽く一振りすると、血と脂と髄液が飛び散った。だがそれも、刃に乗った液体を払う為の動作ではなかった。刃を返し、女は屋根の端から端まで届く踏み込みを行なう。胴薙ぎ――いや、最早『面制圧』とでも言うべき範囲を、白刃が通りぬけた。

「三」

 足つきの胴像のと化した男の一人から、むせかえるほどの血煙が噴出した。まとめて斬り払われたうちの一人、背の低い男が心臓を破られたのだ。残る二人は臓物をはみ出させ、その場に落下した。肺の断面が見えたのは一瞬の事。赤が大鉄の屋根を染める。

「雪は嫌いだ。血の色が目立つ」

 緋色の外套をはためかせ、女は言った。

 生き残りの三人は――あり得ない事だが――それが血染めのように思えてならなかった。

「反撃せぬのか?」

 女が問う。

 既に勝負は決していた。反撃する暇などなかったのだ。

 見えなかった。女が動いたのはわかる。仲間が斬られたのもわかっている。だが、カタナの軌跡が一つも見えなかった。女の足捌きも。積もった雪が荒されていなければ、動いたことすら気付かなかったかもしれない。

「……お前、いったい、何者……」

 たかが女一人。たかがカタナ一本。それがたまらなく恐ろしかった。人間技とは思えない動き。いや、人間だとも信じがたい。男たちの感じた恐怖と疑問は、ごく単純に表せる。――こいつはいったい何者なのだ?

「ナギ」

 女が名乗り、カタナを水平に構えた。二メートル近いカタナの、ほとんどが刀身だ。両手で握れば見えなくなるほど小さな柄。バランスも悪いだろうに、切っ先は微動だにしない。あれが動いた時に――いや、あれを見失った時に自分は死ぬのだろうと、名前を尋ねた男は思った。同時に出来たものがある。覚悟。

 三人の生き残りは目配せを交わした。何かの策がある、とナギは即座に気付く。構えはそのままだ。

 逸刀・風祭は、見た目通りに重い。相手の動きを見てから剣筋を変えられるような代物ではない。ナギが修めた流派は、「剣術」ではない。刀対刀の戦いすら想定していない。『応戦の間を与えずに敵を解体する』ことを目的としていた。

 絶対に避けられない速度で刃を通す。ナギはそれだけを考え、男達を眺めた。

 中央の男がやや突出している。残る二人がじりじりと下がった跡が、削られた雪という形で残っていた。

(一人を犠牲にして、残り二人を逃すつもりか)

 たかが強盗だと思っていたが、彼らはそれなりに『義』を持ち合わせているらしい。好ましい事だが、斬らねばなるまい。所詮は道を外れた連中だ。

「うおおおおっ!」

 中央の男が叫びながら短刀を抜き、突っ込んできた。ナギの注意を一心に集めるつもりなのだろう。ナギはそれに乗った。賞金の得られない相手が一人二人逃げた所で困りはしない。しかしそれが、軽い誤算となった。

 右の男が列車中央に向かって移動していた。中央の男が右へ移動しながら短刀を振った。ナギからすれば稚拙な動きだったが、奥の銃手の所に移動するには邪魔だった。引き金を引くより速く動くのは簡単だが、それも踏み込む間合いがあっての話だ。最高速度の剣閃のためには迂回は選べない。

 それにもう一つ、ナギの目はあるものを捉えていた。

「ちっ!」

 仕方なしに、カタナを寝かせたままナギは踏み出した。心――刃の重心で中央の男を捉えるのを捨て、上段蹴りで迎撃する。剣士が剣のみに頼ると思ったら間違いだ。手がふさがる関係上、ナギは足技にも習熟している。彼女が注意したのは、延髄を蹴り砕かないように勢いを調節する事だけだった。蹴倒した男の腹に足を踏み下ろした。かえるが潰れるような悲鳴。踏まれた男が吐血。ナギのブーツを濡らす。

(あと二人)

 今度は心中で数えた。もう言葉で威圧する必要はない。

 ここまでの動きは、後ろの二人が狙いをつける前に終わっていた。残った二人が同時に引き金を引いた。

 一瞬、雪が消えた。

 耳障りな、金属を引っかく音が響いた。

「て、ててて、てっぽ」

 左端の男が喚いた。彼は恐らく、こう言いたかった。

『鉄砲玉を斬るなんて不可能だ』

 実の所、ナギにもそれはできない。

 だがしかし、射線がわかっているのなら、剣の腹で弾き返す事は出来るのだ。最初の射撃もそうやって防御した。その時は弾丸を空に向かって弾いたのだが、今回は少し失敗し、払った弾丸のいくつかが大鉄の屋根を叩いた。響き渡った跳弾の音によって、男はそれを理解したのだろう。

 皮肉な事だが、ナギの動きが完璧でなかった事によって、彼らにも理解できるレベルになったのだ。

 ナギは言った。

「神を信じているなら、祈りを済ませるがよい。そのくらいの時間はくれてやろう」

 その時だった。

「!」

 車両前方からすさまじいブレーキと、なにかが潰れ、引き千切れる嫌な音が聞こえた。ナギが背後――大鉄の進行方向に注意を払う。事故か?

 強盗団の二人はその隙を逃さず、銃を放り投げて屋根から飛んだ。うち一人が足をもつれさせ、壁面にぶつかりながら落ちた。屋根の上からでは見えないが、車輪に巻き込まれたかもしれない。

「……はン」

 死体の一つを足でよせてスペースを作り、ナギは軽く助走してから大鉄から飛び降りた。



「……やっちゃいましたよ」

 運転士は、震えながらそう言った。

 人をはねた。

 相手は武装強盗で、こちらは襲われる身だった、何も悪いことはしていない――そう考えようとしたが、それでも、他人の命を奪ったことへの生理的嫌悪感はどうしようもなかった。

 思っていたほどの衝撃はなく、思っていたよりも人間の潰れる音はよく聞こえた。

 これで優良運転士表彰はおしゃかになったな、と彼は場違いな事を考えてしまった。人身事故を起こしてしまった現実から、そうやって逃れようとした。それでも両手はきちんと動き、大鉄を緩やかに停車させていた。

「気にするな」

 ギュスが言った。絶対に停まるなという指示を無視して列車を止めてしまった運転士をとがめるつもりはない。前方から聞こえた嫌な音は、人間を轢いたものだけではなかった。何かの金属を車輪に挟んだ恐れがある。低速運転でも横転の危険がある以上、停車は仕方の無いことだった。

 雪原を撤退していく列車強盗を、ギュスは確認していた。

 雪原は平らなようでいて、あちこちに起伏があったようだ。雪上車の小さな影が不意に消え、それっきり現れなくなった。

「さて」

 銃は仕舞わず、ギュスは車内放送の用意をした。



「状況」

 運転士、機関士、それに客室係の半数が集まったところで、ギュスは言った。

 各部署の状況と取るべき対策、発生している問題の報告をしろ、の意味が、その一言に込められている。

 真っ先に口を開いたのは、保安部長だった。

「交代で監視を続けているが、再度の襲撃の気配はない。油断は出来ないが。それと、食堂車の屋根に大量の血痕があった」

「同士討ち?」

 機関士の一人が訊ね、保安部長は肩をすくめた。

「判断材料がない。そっちは?」

「線路をふさごうと……並走しようとしたんだろうが……雪上車一台と、強盗らしい男二人をはねた。足回りに異常はないが、ラッセルの連結部に歪みがある」

「走れるのか?」

「積雪次第だな。無理をすれば雪の圧力で車体に悪影響がでる」

「雪かきしながら進めってのかよ」

 ギュスがぼやいた。

 雪は今も降り続いている。少し、風も出て来たようだ。

 つまりは走れないのと同義だった。

「乗客はどうしてる?」

「問題ありません。落ちついてきています」客室長はそう言ってから、付け足した「少しばかり食料を余分に消費しましたが」

 運行の遅れによって、備蓄は予定よりも減っていた。だが、この臨時の消費は問題ではなかった。乗客が暴動を起こすよりはマシだ。

「……となると、修理が第一だな。どれだけかかる?」

 おおよそ五時間、ギュスはそう睨んだ。トラブルなど日常茶飯事。工具も資材も備えはあるのだ。

「修理は難しい」

 と機関長が言った。

「ああん? どういうこった。機関士にケガ人でもいたか?」

「そっちの方がまだよかったと言える。先の襲撃で貨物車両にも被害があった。もちろん、五分かそこらでなにか盗み出したりは出来なかっただろうが」

「勿体つけるな、日が暮れる」

 これは比喩でもなんでもなく、車内に灯りが必要な時間帯に入っていた。

「すまん。結論から言えば、貨物車両の一つのドアの鍵が、奴らの銃撃で破壊された。当たりどころが悪かったんだろう。色々使えなくなった物がある」

「当たりどころって、おい、頭ぶつけたのと違うだろうが。――悪い、続けてくれ」

 場を和ませようとつい、ギュスは余計なツッコミを入れてしまった。

「ドアが壊れて工具を落としたってことか? んなもん、今からカンテラ持って探しに行けば問題ないんじゃないの?」

 客室係の一人が言った。機関士長は難しい顔をした。

「もう探した。見つけたよ。ひびが入ったボンベもな」

 一同が天を仰いだ。

 分厚い鉄板の屋根の向こう、雪は降り続いている。



「料理用のガスボンベは使えないんですかね?」

 真面目な意見ではなかったのだが、キュイジーは言わなければよかったと後悔した。

「……馬鹿かテメエは」

 場所は片付いた食堂車。といっても、椅子の数は合わなくなっているし、テーブルクロスは足跡だらけで食堂の隅に押しやられている。さすがに営業できる状態ではない。今日の夕食は客室係の協力を受け、各部屋へと運ぶ段取りになっている。

 掃除前の食堂車に集まっているのはいずれも乗員で、テーブルにはいつにもましてぞんざいな賄いが乗っている。

「料理用のボンベってのはあれだろ。燃石から作ったやつ」

〈燃石〉と言うのは化石燃料の一種だ。石炭のような「可燃物の塊」ではなく、「可燃性の気体を封入したスポンジ状の構造体」であり、熱を加えることによってガスを放出する。構造体自体も熱伝導性がかなり良く、長時間運転を行なう機関に良く使われている燃料である。ここからガスだけを取り出したものが、携帯用の火元として活用されているのだ。

「それじゃダメなんだよ。ガスはある。欲しいのは酸素ボンベだ」

「酸素?」

 キュイジーは残り物のスープにぶつ切りヌードルを入れたものを椀によそいながら訊ねた。酸素が燃焼を助ける程度は知っていたが、溶接に使うというのがよくわからない。それに酸素なら、その辺の空気にだって混じっている。

「溶接には白炎三型ってガスを使う。こいつはちょっと厄介な癖があってな、引火点が高いからなかなか火が付かない。ついてもすぐ消える。火力は相当なもんだが、反応が速すぎるんだよ。普通に火をつけると、周りの酸素を使い尽くして窒息してしまい、あっという間に火が消えるって訳だ。だから横から酸素を吹き付けてやらないとうまくない」

 塩で甘味を引き立たせるようなものだろうか。工業技術に詳しくないキュイジーは、見当はずれの想像をしていた。二種類の気体による溶接は、飲食物で喩えるなら、カフェオレのようなものだ。どちらが主と言うことはなく、両方揃えないと意味がない。

 会話が途絶え、キュイジーは自分の椀を取った。しばらく眺め、ため息をつく。

「どうした?」

 いつ来たのか、料理長が隣にいた。

「あ。何でもないです。今日は大変だったなあ、と思っただけで」

 料理長は何も言わず、スープを一口分だけすくった。

「もったいなかったな」

 これには不意を突かれた。本日のスープ係はキュイジーで、「客に出す」料理は今日が初めてだった。列車強盗の襲撃さえなければ、スープが賄いの雑炊に化ける事もなかったはずだ。

 それを踏まえて料理長は「もったいない」と言った。

 いつもであれば眉間にしわを寄せるだけの料理長の、それは、最大の賞賛である。

「あ……」

 りがとうございます。キュイジーはそう言うつもりだったが、料理長はあいにく関係ない方向を見ていた。そして言った。

「……おい、あれ、灯りじゃないか?」

 風吹く平原の向こう、消えそうな灯火が――灯火らしいものが見えた。

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