第6話 工場に架かる虹 6

「手、大丈夫?」

 三日もあれば大抵のことはできるようなると言う。できるようにならなかったら、その仕事には向いていなかったと言うだけの話なんだそうだ。

 でも、作業の習熟度と、肉体的負担は全くの別物だ。その辺を理解できずに怒鳴り散らす人はやはり「向いてない」ことになるらしい。この場合は、人の使い方を憶えられない、と言う事かもしれない。

 ママは良く、そう言うことを言っていた。良いボスと言うのは部下を甘やかさず、なおかつ部下本人も気付かない能力の限界を見極められる人のことなんだそうな。

「今日は水仕事しない方がいいわね」

 もっと簡単に言えばそれは「気配り」だと思う。

 この日になって知ったんだけど、セレナは客室係であると同時に、従業員をまとめる役目も持っていた。彼女より年上の客室係も少なくはなかったけど、気配りの量が違うのは、あたしの目から見てもはっきりしていた。

「ちょっと痛いけどできない事もないと思う」

 そう言ったあたしの手を、セレナはぺちっと叩いた。

「言うと思った。あんた、チビの癖に頑固そうだもの。何か意地になってるでしょ」

 図星である。今もどこかでひげジジイが「とっとと帰れちびっこ」と言っているような気がしてならない。

「とにかく今日は休み。修理も大方終わったって言うし、明日になれば街に出てる乗客も戻ってくるから、その時頼むわ」

 そうか、もう出発するのか。

 そう思うと同時に、ふとした疑問がわく。あたしの立場ってどうなってるんだろう。

 訊ねたのは、別の事だった。

「いつ出発するの?」

「明後日の、朝。九時ごろになると思うけど、在来線次第ね」

「……ふ……ん」

「あ。あんたさびしいんでしょ?」

 多少やらしい笑みを、セレナは浮かべた。

「なっ……なん」

「何でって? 嫌々やっていそうに見える人ほどね、与えられた仕事がなくなるとどうしたらいいかわからなくなるものなの。自分がいなくても世の中が回っていると思う事に耐えられないのかもしれないわね」

 そこまで傲慢じゃない、と思う。思うけど、反論できなかった。実際あたしがいなくたって世の中は回るだろう。それが気に食わないと思う気持ちも、ほんの少しだけど、ある。

「なーに暗い顔してるんだか」

「え?」

 どんな顔だったか訊ねる前に、セレナは話題を変えていた。

「そうそう、鉄道長が呼んでたわよ。水仕事ができなくてもサボらせる気はないって」

「こき使ってくれるわけね」

「我慢なさいな。おうちの借金厳しいんでしょ?」

「はい?」

 なんだそれは? 名前以外の個人情報を誰かに言った覚えはない。当然だが、ローゼンストック商会に借金は存在しない。

 釈然としないものがあったけど、問いただすと面倒になりそうだったので、あたしはひげジジイの元へと向かった。


「良い朝だな、勤労児童」

 とひげジジイは言った。その瞬間にあたしは悟った。

 あたしが借金まみれな家の子だというデマを流したのはこいつだ。

「今日もきりきり働け。んん?」

 ひげジジイの性格悪そうな笑顔以上に、あたしの感情は顔に出ていた。

「おいおい感謝しろよ。てめえが家出中だってばれないように気ぃ配ってやってんだぜ」

 ひげジジイは何の前置きも挟まず、そう言った。言われてみればその通りだけど、自分で「気配りしている」なんて言う奴の、どこに思慮深さを探せと言うのだ。

「そんで今日の仕事は、だ」

 ひげジジイは紙束を放ってよこした。受け取り損ねて顎に直撃した。痛くはないけど、気分は悪い。

「普通に渡しなさいよ」

 無視された。妙にちっちゃいカップをつまみ、ひげジジイは別の紙束――書類だろう――にペンを落とす。そのしぐさがママそっくりで、またむかつく。

「買い出しだ。必要なものはそのリストの通り。支払いは鉄道公社につける。簡単だろ?」

「……簡単は簡単だけど、あたしが行っても信用されないんじゃないの?」

「その辺は心配するな。そのリストは俺のサインが入った、鉄道公社の正式な書類だ。それでもぐだぐだ言われるようなら、駅に問い合わせさせれば一発で解決する。俺様の仕事に抜かりはない。余所者の乗員から人を出すより、地元のお前の方が良いものを揃えられるだろう?」

「あっそ。――っと、わわ」

 しらけてだらけそうになったあたしの顔に、今度は封筒が飛んできた。とっくに両手はふさがっている。鼻っ柱にきつい一撃。

「だから投げるなってば!……あ?」

 床に落ちた封筒から、真新しいお札が数枚、はみ出していた。小銭も一緒に入っているらしい。鼻が痛いのはそれが当たったからだ。買い出しはツケだって、さっき言ったばかりなのに。顔を上げたあたしを、ひげジジイは見てなかった。

「給料だ。少ないとか言うんじゃねえぞ、出所は俺の財布だからな」

「そんなの余計悪いじゃない」

「気にするな。十三歳のちびに給料払おうと思うと、方法はそれしかないんだよ。真面目な帳簿に労働法違反の証拠を残すのはまずいだろ?」

「でも、」

 あたしの言葉を途切れさせたのは、ひげジジイの厳しい眼光だった。

「四の五の言わずに受け取れ。とっとと働け。話は明日だ」


『話は明日』

 何故、ひげジジイがそんな事を言ったのか、あたしにはわからなかった。

 大鉄に乗せてくれるつもり――があるはずはない。だって、そうなら今日、給料よこす必要がない。

 強引に帰らせるつもりなのだろうか。十分にあり得るような気がする。物分りのいいふりをしてあたしを働かせ、その間にあたしがどこの子か調べたんじゃないだろうか。そう思わせる根拠が一つある。

 ……『十三歳のちび』。あたしは確かに十三歳で、背が低い。でも、見た目でわかるのは背が低い事だけ。いつもは一つか二つ下に見られる事が多い。ジジイの人生経験がいくら豊富でも、成長の個人差まで見極められるものだろうか。答えは、否。

 そこから導かれる答え――ジジイはあたしの素性を知っている。もうママと連絡を取っているのかも知れない。

『話は明日』

 工房に戻るのも危険になってしまった。

 明日、ママがくる可能性を否定できない。

 あたしは半ば以上機械的に、リストの買い物をこなしていった。買い物はタオルや歯ブラシ、インクなど。今になって買い集めるだけあって、どこでも手に入り、なければないでどうにかなりそうなものばかりだった。種類は多かったけど。

 多少ぼったくられもしたかもしれない。心の大半を考え事に裂いていた。

 かなり不注意だったかもしれない。

「あ」

 それでもぎりぎりで気付いた。

 前方の十字路、一番街と五番街の境目の辺りに、見覚えのある三人組がいた。

 そう言えばこんな奴らもいたっけ。

「ああっ!」

 太っちょが短く叫んだ。あたしは既に走り出していた。

「逃がすなっ! 左右に散れ!」

 太鼓腹が怒鳴った。こいつらに陣形を展開する頭があったのかしら、などと考えていられた時間はわずかだった。太っちょが人ごみをかき分けて突進してくる。そこかしこで悲鳴が上がり、屋台がなぎ払われる。足の早さならあたしのほうが断然上のはずなのに、距離が詰まるのをはっきり感じる。納得いかない。

「ごめんねっ!」

 ぶつかりそうになった親子連れへの謝罪を置き去りに、あたしは街路をすり抜けた。三人組はひたすら突進。距離が詰まる理由をあたしは理解した。あたしは通行人を避けなくちゃいけないのに、三人組はその後――あっけに取られて道を空けた人たちの間を進むだけでいいのだ。

 こいつは不利だ。単純な直線になりさえすれば振り切れるかも――その前に体力が尽きる気もする。手に持った紙束が邪魔だ。書類をたばねていた紐を噛みちぎり、後ろへ放る。ばらけた書類が煙幕の代わりにでもなるかと思ったけど、

「ちょこざいな!」

 見事に無駄だった。紙吹雪ならまだしも、ただの書類だ。ろくに散らばりもしなかった書類を、太鼓腹は片手ではたき落とした。が、予想外の効果もあった。太鼓腹の斜め後ろを走っていた太っちょが、紙に足を滑らせて転倒。通行人一人を巻き添えにして屋台に突っ込んだ。木っ端と果物が飛び散る。破砕音と悲鳴はすぐに遠ざかる。

「てめえ! ただで済むと思うなよ!」

「あんたにも責任あるでしょっ」

「んだとぉ! 待ちやがれ!」

 緊張感のないやり取りをかわしつつも、あたしは必死だった。行動こそ間抜けだが、三人組の表情は以前と違い、崖をのぞき込んで――あまつさえ飛び降りる決意を固めたかのような深刻さに満ちていた。

「犯罪者がいっちょ前に命令してんじゃないっ!」

 あたしは怒鳴り、商業区画を抜けた。家に向かうのが一番安全だとはわかっていたけど、丘の上、高級住宅街の我が家までは、あいにく距離がありすぎる。とりあえずはここ数日の宿であった工房に向かい、善良な一般市民の協力を仰ごう。

 どちらに向かうも面白くない結末が待っているだろうけど、それも命が無事だったらの話だ。


 ……なんて考えが甘すぎたと気付いたのは、それから間もなくの事だった。

 方向は合っていた。煙の柱を目印に、あたしはまっすぐ南西へ――駅舎近くの工房へと向かっていた。

 方向は、方向だけは、あっていた。

 目の前は壁だった。

「……とう、とう……追い詰、めたぜ……くそ、がき、が……」

 荒い息の合間を縫って、太鼓腹が言った。

 方向だけはあっていた。が、あたしは大事な事を見落としていた。

 煙の柱の色――イーリスハイト特有の方角の見極め方は、道路状況までは教えてくれないのであった。

 もうちょっと走っていれば振りきれたかと思うと、悔しさもひとしおである。

 あたしが答えずにいると、太鼓腹は大きく深呼吸をした。顔は真っ赤なままだったけど、

「そろそろ覚悟を決めろや」

 呼吸は整ったようだ。回復の早い奴。……腹に栄養を貯め込んでいるだけある。

「その前に聞きたいんだけど」

 太鼓腹は眉を歪めた。それに構わずあたしは続ける。

「何で誘拐なんかするのよ。こんだけこんじょーあるんだから、真面目に働いても」

「それはできない」太鼓腹は苦しそうに、続いてやけっぱちな口調で叫んだ。

「もう、脅迫状出しちまったんだよっ!」

「………………え?」

 今なんとおっしゃいましたか? 

 あたしの思考が読めるかのように、やけくそ気味な絶叫は続く。

「ああそうさ! どうせおれたちゃ馬鹿の集まりさ! 売上げ増やす方法も思いつかないから工場は潰れちまうしカカアと息子は逃げちまう!」

「いや、そんな事聞いてるんじゃなくて」

「……君に逃げられた次の日、君の家に様子見に行ったんだよ」

「そうしたらどうした! お前がいなくなってやがるじゃねえか! これがチャンスでなくてどうする!」

 存在感の薄いひょろが呟き、太鼓腹が涙混じりの絶叫で締めくくった。辛かったんだろうなぁ、と思うほどあたしはお人よしではない。間抜けどもに分相応の罵詈雑言を進呈しようと思い、頭の中で辞書を引いていた。

 その時だった。

「なーにやってんだぁ?」

 絶妙な、ある意味おいしいタイミングで、その声は響き渡った。

「ひげジジイ!」

 呼ばれて、彼は悠然と腕組みし、しかめっ面をさらに苦らせた。

「鉄道長様と呼べ。『様』を忘れるな」

「冗談言ってないで助けて! こいつら誘拐犯よ!」

「あァ?」

 ガラの悪い問いかけ――だと思う――を発して、ひげジジイは太鼓腹とひょろを眺めた。『睨んだ』でも『観察した』でもなく、ただ『眺めて』言った。

「こいつらに誘拐ができるんなら、さしずめ俺は銀行強盗前科十犯だな」

「……未遂ですけど」ひょろが呟いた。

「まだ失敗してない!」太鼓腹が怒鳴った。

 いつのまにかその手に、ナイフが握られていた。

 こいつらマジだ。今ごろになって、あたしはそんな事を考えた。行動が間抜けだからといって、心まで間抜けな訳ではない。むしろ、ある意味で一途だと言えるのかもしれない。太鼓腹の顔には「邪魔する奴は容赦しない」と混じりっ気無しの殺意で書いてあった。

 しかしそれを見ても、ひげジジイは一歩もひるまなかった。

「おう? そんなちゃちなナイフじゃケーキも切れんぞ」

「……っ」

「だがまあ、刺されたらちぃ――っと痛いな」

 ふざけたように言って、ひげジジイは一歩下がった。間合いを計っているようにも見えたし、逃げる構えにも見えた。

「人質取られると面倒だよなぁ」

「ちょっ!」

 あたしは引きつった叫びを上げた。

「ちょっとあんた何考えてんのよ誘拐犯にヒントくれてやってどうする気!」

「どうするって。身代金払うのは俺じゃねえし。刺されんのは嫌だ」

 唖然。

 なんか、こいつの方がよほど犯罪者に向いているような気がする。お金に困って悪いことをする人より、自分が困りたくないから他人を見捨てる人のほうが、ずっとたちが悪い。

 しかしながら、文句を言っている暇はなかった。ひげジジイの言葉を真に受けた太鼓腹が、ナイフを振りかざしてあたしに向かってきたのだ。

 柄頭から打ち下ろされるナイフを、頭をそらしてかわす。不意打ちにもなってない。

「――わっ!」

 フェイントだった。太鼓腹の本命は足払い。斜めになっていたあたしは簡単に転んだ。背中を打って息が詰まる間もなく、太鼓腹があたしの上にまたがる。必死でもがいたけどびくともしなかった。

「おとなしくしろ!」

 押さえようともしない怒気。ナイフを喉元に当てられ、あたしは言われた通りにした。だからと言って口までは止めない。

「ちょっと! 助けてよ! ねえ!」

 あたしの懇願に、ひげジジイは鼻を鳴らして言った。


「やなこったい」


 これにはあたしばかりか、太鼓腹まで絶句していた。理解できたのか出来てないのか、ひょろだけが前かがみで、手すりを探す年寄りみたいにおろおろしていた。

「……こンの、人でなしっ!」

 目の前で、今まさに犯罪が行なわれようとしているこの状況で「やなこったい」と言えるとは、どんな神経の持ち主だ。徹底的に文句を言ってやろうと思うのだけど、興奮した頭は空回りするばかりで、脳内辞書の豊富な語彙は一つも引き出せなかった。口をパクパクさせるあたしを見下して、ひげジジイは言った。

「甘えてんじゃねえぞちびっこ。お前は決められた人生が嫌んなって逃げてきたんだろうが。それがどういう事かちゃんと考えたのか? 考えたはずねえよなあ」

 息をつき、ひげを撫でる。

「レールの上を走らさせるような人生。字面だけ見てると最低の生き方だよな。ふざけんなテメエとか言いたくなるのもわかる。そいつが若さだとも言えるか? んなこたどうでもいい。いいか、ちびっこ。レールのないところを進むってのはな、自分の足しか頼れないって事なんだよ。こういう……」

 ひげジジイは太鼓腹とひょろを眺め、

「石ころに引っかかった程度で泣き言言うんだったら、最初っからレールの上にじっとしてろ。いや、それもダメだな。レールを敷くのにどれだけの苦労があるかわからない奴には、俺の鉄道に乗る資格はない」

「…………」

 ひげジジイが言いたい事はよくわかる。わかりすぎて胸が痛い。

 一人で生きると決めたのなら、決して他人に頼ってはいけない。

 そんなの当たり前の事だ。働いて。お金を稼いで。

 自分の力で困難を乗り越えて、自分に自信を持って。

 そうして初めて、『自立して生きる』資格が得られるのだ。

 突然、理解できた。

 キュイジーやセレナは「嫌なことをしていても笑っていられる」のではなく「自分の力で仕事をしているから笑っている」のだ。笑顔は楽しさだけのものではない。自信の現れでもある。

 涙が出た。

 あたしには、誇れるものが何も無い。

 子供だから、ではなく、与えられた環境すら使えないから。恵まれていることにすら気付けなかったから。

 甘い人生を送ってきたと痛感した。

『あなたのためを思ってなのよ』

 事あるごとに、ママがそう言ったのを思い出す。

 ママは本心からそう言っていたのだと、この時理解した。

 こんなどうでもいい事件のような、くだらない苦労をさせない為に。

 あたしの人生を決める為ではなく、あたしがより遠くへ進めるように。ママはレールを敷き続けていたのだと、あたしは理解してしまった。

「…………帰らなきゃ」

 あたしの呟きはとても小さく、馬乗りになっている太鼓腹にすら聞こえなかっただろう。

 しかし、ひげジジイが笑ったように見えた。

「俺たちを無視するなあっ!」

 太鼓腹が怒鳴った。

「お。そういやいたっけな」 

 ひげジジイが言って、太鼓腹の眉がつりあがった。怒りが手を震わし、あたしの喉に細い傷を作る。

 あたしは冷静だった。こいつをどうにかして、家に帰るのだ。

 太鼓腹はあたしの胸の上にまたがり、膝を使って両腕を押さえている。足は自由に動くけど、膝蹴りが効かないのはさっき証明済み。強引に蹴っても、その反動で喉をさばかれる危険を考えると無理はできない。かと言って手は動かないし、体重差があるので押し返す事もできない。ぎりぎりでひげジジイが助けてくれる、とは思わなかった。

 考えた末、あたしははしたない手段に出た。

 首をひねる。口を開く。喉が再び浅く裂かれる。太鼓腹の腿に噛みつき、それが三日ぶりの飯であるかのように力を込めた。

「がっ、ひぐわああっ!」

 太鼓腹が叫び、膝を浮かせた。自由になった右腕――肩に近い部分をひねって、その勢いを増してやる。太鼓腹がひっくり返る。その隙にあたしは横に転がった。

「っしゃ!」

 脱出成功! やれば出来るもんだ。

「……くそがき」

「へへん」

 あたしの嘲笑は、ただの虚勢だった。座った姿勢だから目立たないだけで、膝がものすごい勢いで痙攣している。左足首に鈍痛。

 太鼓腹がひっくり返ったとき、その全ての体重が、あたしの足にかかったのだ。折れてないとは思うけど、立ち上がる事が出来なかった。悪い事に、ナイフはまだ向こうの手にある。次こそ容赦なく刺されるだろう。

 しかし、その心配はすぐになくなった。

 どやどやと足音が聞こえてきたのだ。騒ぎを聞きつけた付近の住人だろう。間もなく、十人ばかりの人間が姿を現した。工業区だけあって、手にスパナやレンチやらを持っている。血の気の多い職人が、ケンカと思って駆けつけたのだろう。

「おやっさん!」

 職人の一人が言って、あろう事か太鼓腹がうなずいた。最悪のシナリオが浮かぶ。

「……もしかして……」

「おうよ。こいつらは俺の弟子だ。……いや、工場は潰れちまったから、元弟子だな」

 自嘲めいたことを口にしつつ、太鼓腹が余裕を取り戻す。

 これにはさすがにひげジジイも驚いたようだった。組み合わせていた腕を解き、足場を確かめるように片足をずらした。

 数えると、職人は十一人もいた。太鼓腹とひょろを加えて十三人だ。対するこちらはたったの二人。しかも武器なし、一人は捻挫したちびっこ。

 形勢大逆転、だった。

「この街一番の金持ちを誘拐するのに、たった三人だと思ってた? そうじゃなくても、誘拐ってのは結構人手がいるんだよ。情報収集に連絡役。面が割れないように……は無駄になったけど……交渉に見張り。僕たち三人は、ただの実行犯さ。君には悪いけど、身代金で工場を立て直すんだ」

 余裕たっぷりで、ここぞとばかりにひょろが長台詞を吐いた。こうでもしないと忘れ去られるから……なんて場合じゃないわね。

 大ピンチ、だった。

 仮にひげジジイが鬼のように強かったとしても、圧倒的な人数差がある。

 ひげジジイの周囲に五人が展開した。残りは路地の出口を固めた。太鼓腹とひょろは、慎重にあたしとの距離を詰めていく。ひげジジイはこちらを気にしていたけど、包囲を突破できずにじりじりと靴底を滑らせていた。壁に向かって追い詰められている。

「さて、今度こそ観念してもらおうか、くそがき」

 その瞬間だった。


「観念するのはあなたたちの方よ!」

 朗々とした声が、狭い路地に響き渡った。あたしではなく、もちろんひげジジイでも職人――誘拐犯連中でもなかった。自信過剰で高飛車な女の声は、屋根の上から聞こえた。

「出やがったなクソ女ぁ!」

 誘拐犯の誰かが叫んだ。

「どちら様?」

 そう言ったのはあたしのママ――イーリスハイト最大の資産家にして商人。エレノア・ローゼンストックその人だった。

 ……なんで屋根の上に?

 その疑問を抱いたのはあたしだけのようで、誘拐犯軍団は憎しみのこもった目を屋根の上に集中していた。

「とぼけるな! てめえんとこの不当廉売で潰されたハインツ精錬所のモンだ!」

 あーもうこの人達はまたすぐ正体ばらしちゃって。

 そう思ったけど、話の流れを折るのも何なので突っ込まなかった。

「不当廉売? ……あれが? たった三割じゃない。消費者サービスの一環よ」

「生産者の事も考えやがれ!」

 太鼓腹が怒鳴った。ママは髪をかき上げ、「ふ」と笑った。嫌んなるくらい憎らしい笑みだった。

「笑止! 営業努力の出来ない工場など不要!」

 ママって、こういう性格だったかしら?

「あなたは脂肪を貯め込む前に、商売を学ぶべきだったわ! そもそも商売と言うのは売り手の意向よりも買い手、つまり市場の動向に左右されるものよ。目端の利かない凡俗が……」

 尚も挑発は続く。この手の皮肉が得意中の得意なだけあって、ママの弁舌は途切れることなく続いた。その中のどれだけを太鼓腹が理解したかは謎だったが、悪意は十分に伝わっていたようだ。

「……縁故で買ってもらうようなやり方では、どのみち潰れるのがわからないかしら?」

「いい加減黙れこの金の亡者!」

 怒りと共にナイフが飛んだ。凶刃は回転する事も無く、一直線にママの顔面へと進む。息を飲むあたしの視界の中央で、ママは不敵に笑い、懐から取り出した何かで、それを打ち払った。

「あ」

 お札だった。ごっつい札束だった。

「ふっ。世の中、最後にものを言うのはお金なのよっ!」

「……それ、絶対違う」

 あたしの呟きに、誘拐犯の数人がうなずいていた。ママはそんな事に取り合わない。嗜虐的な笑みを浮かべて、札束を扇子代わりにあおぐ。

「札びら切ってりゃ偉いと思うんじゃねえ!」

 誘拐犯の誰かが叫んで、今度はあたしがうなずいてしまった。

「そう? ……だったら、札びらの力を見せてあげるわ!」

 ママは空いた手で、パチンと指を鳴らした。

 途端、路地の両側の屋根一杯に、狙撃銃を構えた男の群れが現れた。いずれも黒ずくめ。どこからどう見ても暗殺者な怪しい一団だ。

 怪しい一団の一人が、荒縄でぐるぐる巻きにした太っちょを足蹴にしていた。死んではいないらしく、太い足がびくびくと痙攣していた。どこで捕まったのかは謎だが、太っちょ経由で情報が伝わったのは間違いなさそうだ。

 またも形勢大逆転である。ママの挑発は、彼らが配置につく時間を稼ぐ意味があったのだろう。

「ご無事ですか? お嬢様」

 黒づくめの一人が、そう言ってマスクを取った。表れたのは、締まりの無い笑顔をたたえた美貌だ。

「シャルロット!」

 黒い服装。色はいつも通りの黒なのだが、普段のシャツとスラックスではなかった。随所に金属板を縫い込んだ――戦闘服とでも言うような代物だ。

「……あの」

「ご心配なく、彼らは昔の同僚です。お嬢様がさらわれたと聞いて、急いで連絡を取りました。到着が遅れて申し訳ありません」

 同僚って、どんな職場だ。

 感謝も忘れてそんな事を考えてしまうあたし。

 シャルロットは狙撃銃を持っておらず、回転式の機関砲を二つ、左右の手にぶら下げていた。改めて、恐ろしい腕力であった。ふと見ると、誘拐犯の半数ほどが、顔を青ざめさせていた。

「社長、発砲許可を。一秒いただければ全員をミンチにしてご覧に入れます」

 さらっと言うな。

「ミレニアには当てないでね。それと……」

「ご心配なく、悪党は欠片も残りません」

「そう。なら問題ないわね」

「はい。死体が残らなければ殺人事件は成立しません」

「別に残っても構わないわ。金で片付く問題だから」

 恐ろしいやり取りであった。

 どっちが悪役なのか、あたしは真剣に悩んでしまった。


「ええいこうなりゃやけだ! 野郎ども! かかれ!」

 太鼓腹が叫んだが、誘拐犯は誰も動かなかった。数の上ではほぼ互角。得物の質では圧倒的不利になった今、とっくに潰れた工場よりも、自分の命が惜しいのだろう。

「……おやっさん。もう、やめましょうよ」

「なんだと!? おい!」

「こんなことしてもどうにもなりませんよ」

「……あの女はむかつくっすけど、言ってる事は正しいっす。『売りつける商売は消費者が許さない』……身につまされるっす」

「何言ってんだお前ら! 悔しくないのか!」

 太鼓腹は盛んに激を飛ばすが、誘拐犯たちの士気は上がらなかった。それぞれに小さな声で、犯罪者になってまで、俺の工場じゃないし、おやっさんの逆恨み、などと呟いていた。中には「工場ならまた作ればいい」とする前向きな意見も混じっていたけど、太鼓腹の耳には届いてなさそうだった。

「……っ」

 太鼓腹は血走った目を走らせた。

「そうだよな。お前らの工場じゃねえもんな。気楽なもんだよな。……だがな! 俺はあの工場に人生の全てをつぎ込んできたんだ。カカアも息子もいなくなった! それもこれもローゼンストック商会のえげつないやり方のおかげでだ!」

 逆恨みもいい所だが、あたしもママも笑わなかったし、反論もしなかった。太鼓腹がそう「信じたがっている」ことが理解できたからだ。工場が潰れたのが自身の無能によるものだと思いたくない。それを認めてしまえば、彼は人生の敗北を認めてしまう。

 しかしその妄執が、彼を追い詰めたのも事実だ。

 血走った目が、あたしの顔で止まった。

 ――まずい。

 あたしはまだ立てずにいた。太鼓腹の全体重が乗った足首は、力を入れようと意識しただけで、作業機械の角に頭をぶつけた時の百倍近い痛みを引き起こした。はいずる事すら満足にできそうもない。

 太鼓腹がスパナを振り上げる。誰がどう見ても、あたしの脳天を割るつもりの動きだった。

 屋根の上のシャルロットは間に合わない。戦闘服の何人かが銃口をこちらに向けたが、

「撃たないで! ミレニアに当たるわ!」

 ママの悲壮な叫びがそれを制した。結果として誰にも邪魔されず、太鼓腹はあたしの所にたどり着いてしまった。走ってきた勢いをそのまま、無骨な凶器に乗せて振り下ろす。

「散々こけにしてくれたな! お前だけでも道連れだ!」

「いやよ!」

 怒鳴り返す気力はあった。両手を上げて頭を守る。上になっていた右手に衝撃が加わり、嫌な音が聞こえた。脂汗が瞬間的に吹き出す。悲鳴を上げなかったのが不思議だった。

 一撃で終わるはずもなかった。

「死ね!」

 右手が変な方を向いているのが見えた。これじゃ防げないよなぁ。と、思ったところで、あたしの意識は消えてしまった。

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