第4話 工場に架かる虹 4
いつの間に眠ってしまったのか、さっぱり記憶にない。あったらあったで恐いんだけど、あたしの感じた恐怖も緊張感もその程度かと思うと、少し楽になったような情けないような……。
目覚めの瞬間ははっきりしていた。
何しろ、背中を蹴られたのだから。背中を蹴られたからにはもう壁に寄りかかっていなかった。体の右半分が痛くて冷たかった。壁を向いて、鉄板の上で寝てしまったらしい。あたしはごろんと転がり、細く目を開けた。
あたしが入ってきたドアは全開になっていて、そこからの光を受け、がっしりした男が立っていた。男が言った。
「起きろ、ちびっこ」
こいつは何者だろう。そんなことを考えつつ、あたしは男を観察した。
男――と言うよりはじいさん。人生経験と深い洞察力――と言うよりは頑固そうな眉間と頬のしわ。生涯現役にこだわる性格と見た。いかつい顎にたっぷりした白いひげ。髪も白い。がっしりした体躯を紺の制服に包み、肉牛を余裕でくびれそうな腕を組み合わせ、左足を少し後ろに引いていた。もう一回蹴られるのはやだなぁ。
「ちびっことはずいぶんじゃない」
「人様の工房に勝手に入って寝てた奴なんぞ、ちびっこでも丁寧な表現だ」
男は鼻で笑って、
「それと、身長が一四〇ない奴は誰が何と言おうとちびっこだ」
あるもん。一四〇・三センチ。靴込みで。
「ところでちびっこ。……家出か? 家出だろ」
いきなり言われて、あたしは答えに窮した。その通りなんだけどそれを認めたら自宅に通報されるのは間違いない。せっかく逃げてきたのに恐い思いしただけで連れ戻されるなんてまっぴらだ。昨夜死ぬほど怖い目に遭ったばかりなのに、危機を脱したらそんなふうに考えてしまうんだから、あたしって現金。
うまいいい訳を思いつけずにいるうちに、男は別の質問をした。
「家出はともかく、何でこんな所で寝てた?」
「ちょっとしたトラブルがあって」
男はあたしを見て、それから天井を見上げた。んったくしょうがねえな最近のがきんちょは、とかなんとかぼやく。
「勝手に入ったのは悪いと思うけど昨夜はそれどころじゃなくて、悪い奴に追いかけられて止むに止まれぬ緊急避難って言うかそっちこそ戸締りしてないのが悪いんじゃないの」
「俺んちじゃねえよ」
「は?」
「ま、戸締りしてなかったのは確かだな」
「そーよそっちが悪いのよ」
「んなわきゃねえだろ。いいか、ちびっこ、」
男は何か――多分、説教に類するお言葉――を吐こうとし、遠くの声を聞いて振り向いた。戸口に影が生まれる。
「わかってるよ! 今行く! ……んったく、俺がいないとなんにも出来ねえのかあいつらは」
戸口の人影に怒鳴ってから、男はあたしを見下ろした。
「話は後だ。ついてこい。飯ぐらいは食わせてやる」
素性を尋ねない程度には、男は寛大な精神を持ち合わせていたらしい。
作業員らしい集団と、男と同じ制服の群れが集う庭――屋外作業場なんだけど――の片隅、急ごしらえと一目でわかる竈と、子供の姿煮を作れそうなサイズの鍋があった。
鍋をかきまわしているのはもちろん魔女ではなく、男で、真っ白い制服を着ていた。平たく言ってコックさん。
「おう」
と、男が言って。
「あ、お疲れ様です」
と、コックが答えた。それからコックはあたしを見て、鍋をかきまわす手を止めた。
「……お孫さんですか?」
「せめて娘と言えねえのか。違う。こいつに何か食わしてやれ。近所のガキだ」
「何かって、こっちは賄い飯しかありませんよ。食堂車に連れてった方が、」
「それでいい。文無し相手にんな贅沢なもん食わせる必要はねえだろ」
文無しで悪かったわね。とあたしは言わなかった。男が何を考えているのかさっぱりだったけど、お腹が空いていたのでそちらを優先したのだ。
男はテーブルからパンを二つ取り、一つを口にくわえ、もう一つをお手玉のようにもてあそびながら、工房に戻っていった。コックがあたしをじろじろ見る。
「お名前は?」
聞かれて、あたしは逆に疑問を抱いた。そっちこそ、あたしを知らないの? そう考えた直後、恥ずかしさに赤くなる。
……うわ。めちゃくちゃ自意識過剰な高飛車お嬢様みたい。でも、イーリスハイトに住んでいて、ローゼンストック商会を知らないはずはないのよね。
名乗っていいものかどうか、少し迷った。
「……ミレニア」
「ん。ミレニアね。はいどうぞ」
コックさんはたいした疑問も持たず、シチューの皿をあたしにくれた。どうやら本当に知らないらしい。
シチューを受けとって作業員達の輪の隅っこに加わり、木のスプーンを動かす。お腹が膨れると元気になるとは、我ながら正直な体。余裕が出て来ると、付近の雑談に注意も払える。誰と誰が喋っているのかわからないほどに、彼らの会話は乱雑だった。
でさ、最近はノデンの生産ラインも歩留まりが悪くてさ。シャフトの強度なら足りてるでしょ。ギュンター産の葉巻? どうせバッタもんだろ。新型新型いつできる。おいそれ俺のサラダ。ちょっと待ってよそれじゃ計算が。客がいなくなったって? どうせ観光だろ観光。あ、経年劣化忘れてたうん。ほっといてクレームになったらどうするの。そういや俺が入社する前からそういう話って、テメエゆで卵返せっ。
一体、何?
一まとめにして考えちゃうからわかんないんだろうけど。
状況判断。
ここは工房である。よって、彼らは職人たち。何かのパーティがあって、コックを呼びつけた。
紺の制服を着ているのは輸送隊かなにかで、車両の整備をしに来た。
……もう思いつかない。どっちも違う気がする。
直接訊ねればいいんだろうけど、知らない単語がいくつも飛び交ってるし、彼らの雰囲気は、「ちょっと気軽に」を許す性質のものじゃなかった。妙に熱い。熱くて、活気がある。
「おいちびっこ」
はっとして、振り返る。さっきの白髪白ひげ男がいた。
「んだよそれっぽちも食えねえのか。だからお前はちっちゃいんだよちびっこ」
「ちびちびってうるさいのよ! 人の食べるペースにけちつけるのはお行儀悪いって知らないの!?」
知った事か、と男の目が言っていた。
「とっとと食え。でもって働け」
「はあ?」
「働かざるもの食うべからず。シチュー一杯で三時間だな」
えらいぼったくりじゃない。そう言おうとしたのに、
「今すぐ警察呼んだっていいんだぜ?」
「働かせて下さい」
そうなってしまった。
連れていかれたのは工房の裏手の水道で、半分にしたドラム缶が三つ並んでいた。
「みりゃわかるだろうが流しだ」
どこが?
「右端が汚れた皿をいれる場所。食いかすをここで落としたら、隣の洗剤入りの水で洗う。洗ったら隣ですすぐ。簡単だろ?」
とりあえずは自分が持ってきた皿をぶち込む。皿に残っていた油が浮き上がり、水面に虹模様を描いた。正直言って水仕事なんて嫌なんだけど、
「おら、さっさとやらないとおっつかなくなるぞ」
だそうだ。
「んな恐い顔して睨まなくたって、一宿一飯の恩義くらい知ってるわよ」
その時彼は確かに『けっ、ガキがいっちょまえに難しい言葉使いやがって』と思っていたはずだ。そんな事言われたって、家庭教師三人もつけられれば(憶えないと罰ゲームが待っていた)誰だって憶えると思うんだけど。
彼は「けっ」とだけ口にした。
「せめてゴム手袋は?」
「軍手しかねえよ」
どうやら怒らせてしまったらしい。彼はひげをかきむしり、「サボるなよ」と言い残していなくなった。
サボって欲しくないなら見張りでもつければいいのに。そう思って、すぐに別の可能性に思い至った。これはきっと「逃げろ」と言っているのだ。家出娘に説教して小突いて叱って親を探すより、自発的に帰らせようと仕向けているのだろう。
つまりあたしは厄介者。皿洗いもできずに逃げ出すがきんちょだと思われている。
「ふんっ!」
なめんじゃないわよ白髪ジジイ。こちとら一年も前から脱走計画を練っていたのよ。そんじょそこらの子供と一緒にしないでもらいたいわね。こんなもんちょいちょいちょいっと片付けてやるんだから待ってなさい!
無茶苦茶な理屈で気力を水増しして、あたしは腕まくりをした。冷たい水に手を突っ込み、ぬるぬるする皿をつかむ。
滑った。
落ちた。
割れた。
……あたしは皿洗いも満足にできないがきんちょだった。
最初のドラム缶には二十二枚の皿が入っていて、あたしは三十分弱かけて十九枚を洗い終えた。ぬめるし滑るし手は冷たいし。せめてぬるま湯だったら少しは楽なのに。消えた三枚は……そのうち土に還るかもしれない。
二の腕までドラム缶に沈めてフォークの束を探した時、後ろの方からガチャガチャという音が聞こえた。六本ばかしのフォークとスプーンを引き上げて身を起こすと、若いコックがあたしの側に立っていた。
「あ、本当にやってる」
両手を一杯に広げないと持てないトレイを抱えていた。トレイの上は、皿、皿、皿。
「ちょっと何それ」
「皿だけど」
「じゃなくて! 今あたしが洗ったのは!」
コックは少し考えて、
「朝ご飯の時の洗い残しじゃないかな」
「これがお昼の分?」
「……の、半分かな」
立ちくらみがしたのは、何も中腰で洗い物を続けていたからだけではないだろう。コックが持ってきた皿の山は、ざっと見ても百枚近くありそうだった。
甦る疑問。作業着と調理服と見た事のない制服と。
「あの、」
コックは皿をドラム缶に流し込む作業を中断した。
「ん?」
「あれ、一体何の集まりなの?」
「集まりって言うかなんて言うか、予定外の仕事。詳しくは知らないけど車軸が歪んだかもしれないとかで臨時の修理」
「修理?」
「壊れたものを直すこと」
こいつなんで何にも知らないんだ? と、コックの顔に書いてあった。
「あ、君は工房の子じゃないの?」
あたしがうなずき、コックが言った。
「僕らは大陸鉄道公社の社員だよ。もっと簡単に言えば、大鉄の乗員」
偶然を喜ぶべき――ではなかった。あたしは大鉄に乗ろうとしていたけど、旅費は昨夜路上にぶちまけてしまった。それに、修理に入っているということは、予定通りの出発は無くなったことを意味する。
「おかげで助かったよ」コックが無神経に言って、
「何がっ!」
あたしは思わず怒鳴ってしまった。その直後に慌てて手を振った。この若いコックさんは何も悪くない。多分まだ下っ端で、毎日これだけの皿を洗っていて、今日は仕事が減ったから単純にうれしいだけだろう。あたしの心中を察する事も、状況を理解する必要もないのだから。
「もしかして、こういうの嫌い?」
皿洗いが好きな人なんていないと思う。じゃなかったら、その為に人を雇ったり、新米に押しつけたりしないはずだ。
「僕は結構好きだよ。空っぽの皿見ると『お客さんは全部食べてくれたんだ』って思うから」
コックは袖をまくり、汚れた水から皿を一枚すくった。
「料理人はそう言うでしょうね。あたしは食べる方だもん」
「なるほど」
何が「なるほど」なんだか。コックは一人納得しながら、次の皿を取った。目立つ汚れだけ落として隣のドラム缶に滑り込ませ、別の皿を取って同じようにする。
あ、別に一枚ずつ最後まで終わらせなくてもいいのか。どうやらあたしは手間のかかる方法で洗っていたらしい。考えてみればドラム缶など用意してあるのも、まとめてやっつける為なのだろう。
手の甲にくっついたジャガイモの欠片を払って、コックは白い歯を見せた。
「僕はキュイジー。君は?」
「ミレニア」
「じゃ、がんばろうミレニア。ぼやぼやしてると晩飯の時間になっちゃう」
「ん」
汚れた皿の山をきれいな皿の山にするのに、きっかり二時間かかった。慣れるに従って速度は上がったんだけど、みんな一斉に食べるわけではないので、一つの山を洗い終わる頃に追加が届くパターンで時間がかかってしまったのだ。
と言ってもあたしの柔肌はそれほど長い時間の水仕事には耐えられず、洗いはもっぱらキュイジーが担当し、あたしは水気をふき取る係になった。
その二時間に、来客が二人来た。
一人は薄い黄色の制服を着ていて胸がでかくてキュイジーと同じ大鉄の乗員で客室係だった。客室係は、客車でトラブルがあったんだけど鉄道長を見なかったか、と訊ねた。
鉄道長と言うのがさっきの白髪ジジイだと、あたしはこの時知った。偉そうな訳だ。実際偉かったのだから。
「乗客のトラブルなんかで、わざわざ鉄道長が出て行くの?」
たとえるならそれは、社長自らいち消費者のクレーム処理に行くようなものだ。絶対にないとは言い切れないけど、それをやるしかなくなった会社は、例外なく潰れている。
「うちは特別だよ。大陸中を回るから。お客さんもいろんなのがいる。絶対に肉は入れるな。食事する姿を見られたくないから部屋に運べ。金属アレルギーだから陶器の食器を揃えろ。おかわり自由なんですか、とか。いいえ違いますマダム。んまあうちの子は育ち盛りなんですのよ、納得できないわ責任者出しなさい! とか」
食事がらみのネタばかりなのが、彼の職種を物語っていた。
「おかわりできないの?」
それはちょっと辛いかも。
「駅か車両基地が近ければ出来るよ。普段は万一に備えて、献立の段階から無駄を出さないようにしてる。考えてもごらんよ。大鉄は一週間以上も無補給で走る区間が何度もあるんだよ。好き勝手に飲み食いしてたら遭難しちゃう」
レールの上で遭難もないと思う。でも、最大三百人――初めて見た時の印象とは違って、さすがに千人も乗れなかった――大人数を一気に運ぶための超巨大列車ともなれば、食糧難は笑えない事態なのはわかった。
「まあその辺は気をつけてればどうにかなるけどね。口に合わなかったって言われるのが僕としては一番辛い。セレナ……さっきの客室係の人ね。彼女に聞けばもっとすごい話一杯あるよ。脱獄囚を知らずに乗せちゃって大騒ぎになったとか。彼女、列車強盗にナイフ突きつけられた事もあるから。やばい客はわんさといる。遠くに逃げるには、大鉄がうってつけだから」
家出計画を揶揄されたような気がして、背筋が冷えた。
二人目がやってきたのは、その時だった。
「キュイジー」
そう言ったのはまたも女で、結構な美人だった。
見るからに「ヤバイ客」だった。
外国人だった。
彼女の国にはものすごい日焼け止めが存在するのか、あるいは一年中日がささないんじゃないかと思わせるくらい、とんでもなく白い肌をしていた。目が大きくて瞳も大きくて、笑えばそれだけで百人がプロポーズしそうな顔つきはしかし、思いつめた病人を思わせる雰囲気だった。短いジャケットは濃紺。厚手の生地で作られたスカートは白。飾りボタンは南方の流れを汲む意匠が刻んであった。そっちの生まれなら肌は浅黒いはず。
それだけなら別に「やばく」ない。旅先で買った服を着ているだけだろう。
やばげなのは、軍用犬も一撃で蹴り殺せそうなごっついブーツと、背中の長物。
カタナ、だ。
「ナギさん街中でそれはまずいって何度も、」
「これがないとよろけるのだ」
外国人の女――ナギと言う名前らしい――が、真顔で言った。これがやばくなくてなんなのだ。
「少し出かけようと思うのだが、ぬしは……暇でもなさそうだな」
「ええ、まあ。……出かけるって、また例の?」
「それもあるが、今日は別だ。あぶく銭が入ったのでたまには観光らしい事でもしようかと思うたのだが」
あたしはキュイジーをちょいちょいとつつき、彼の耳元にささやいた。
「誰?」
「大鉄の乗客」
そりゃそうなんだろうけど。あたしが言いたいのは、刃物を体の一部にしちゃってる人間とお友達になるってのはどうなのかってことなのよね。
「……ところであぶく銭って?」
キュイジーがとがめるように言って、ナギは短く息を吐いた。
「昨夜な。酒が切れたので出かけたのだが、大声で誘拐がどうのと言っておる連中を見つけたので、少しばかり忠告を」
「……刃物で、ですか?」
「あーっ!」
うむ、とナギは言ったのだけど、それはあたしの悲鳴に飲み込まれた。キュイジーが不思議そうにあたしを見た。
「ななんなんでもないなんでもない」
二人は訳がわからない様子。
まさか「それはあたしのお金です」とは言えない。言えばどうやって集めたのかも聞かれる額だったし、どうやって集めたかの説明をすると、必然的にあたしの正体がばれてしまう。白髭ジジイならまだしも、善良そうなキュイジーが、あたしを親元に連れていくとか言い出すのは間違いない。
「……それで酒を買い溜めしておこうかと思うてな。大陸の酒はぬしの方が詳しいだろう?」
「申し訳ないけど今日は賄い当番だから」
「そうか。……娘。地元の者ならどこぞに良い酒屋」ナギは瞬きして「……済まぬ。そういう歳ではないな」
「あたしのお薦めは、一番街の『ショット・ショット』か『酩酊亭』。安くて強烈なお酒が好みなら六番街の『くだまき』。……まとめ買いするなら酩酊亭かな。道がわからなくなったら、「卸もやってる下戸のバーテンの店はどこだ? って聞けば一発」
ナギは何やら驚いているようだったけど、「感謝する」とだけ言って去っていった。ちなみに酩酊亭はローゼンストック家の出入り業者である。大陸西側の酒なら、ほとんど手に入るはずだ。くだまきは警備連中の行き付けの店で、慣れていないと二晩目覚めないほど強烈な自家製醸造酒を出す店だ。一応言っておくが、密造ではない。
「……君さ、いや、やっぱいいや」
キュイジーがそう言った。どうせろくな事じゃないだろうと思ったので、あたしは問い正さなかった。
ひげジジイが戻ってきたのは、あたしが夕食の下ごしらえに参加した直後だった。
「……何やってんだちびっこ?」
「ボランティア」
「俺には食材を生ゴミに作り変えているようにしか見えない」
だまらっしゃい。
でもその通りだったりする。あたしはハムの輪切りすら満足にできなかった。包丁が斜めに入って、どうしても半月の形にしか切り取れないのだ。
「お客さんに出すものじゃないから、これでも」
キュイジーがフォローしてくれたけど、ジジイの顔つきは険しいままだった。
「俺たちはともかく工房の連中も食うんだぞ」
「あ。……まずいですか?」
「まずくはねえが、良くもねえな。無理言ってねじ込んだ作業だ。馴染みじゃないから尚のこと関係はよくしておかないと、参号車四号車が困るかもしれん。ところで、そもそもこのがきんちょがまともな飯作れるように見えるか?」
キュイジーが何も答えなかったのが、あたしのプライドを傷つけた。
ジジイはあたしを正面から見て、また言った。
「何やってんだ?」
「だからボランティアよ」
説得力ないね、うん。
もちろんあたしに「善意」なんてものは欠片もなくて、あるのは晩飯にもありついておこうとかあわよくば泊めてもらって明日も手伝ってうまく立ち回って大鉄に乗っけてもらおうとするせこい目論みだけなのである。
だって、旅費の回収は絶望的になったし。
ジジイはしばらくあたしを睨んでいたが、
「働く気ならもっとおまえさん向きのがある」
そして連れて行かれたのは、昨夜あたしが忍びこんだ工房の隣の工房だった。車輪やパイプや、その他何なのかさっぱりわからない金属の塊がごちゃまんと並び、その隙間に職人がうごめいていた。
ほうきとちりとりとバケツと雑巾を渡された。
「説明は要らんな?」
ええ、まあ。
「じゃ、これつけろ」
ゴーグルとマスクも渡された。こっちは説明が欲しい。
「そこら中金属の粉が飛んでいるから、失明したくなけりゃゴーグルは外すな。痒くなっても絶対に目を掻くな」
「…………」
「肺病持ちになりたくなかったらマスクは取るな。工員の邪魔もするな。動いている機械には近付くな。悪くすると指やら耳やらもっていかれるぞ」
「それでどうやって掃除、」
「隙を狙え。文句があるなら今すぐ警察行くか?」
「………………う……」
割に合わない。
危ないから作業中は近寄るなとは言われたけれど、そもそも近寄る余裕なんかなかった。工房はあたしが通っていた学校の体育館ほどもあって、その内、使われていたスペースは半分ほどだった。残りの半分を掃除しているだけで、日が沈んでしまったのだ。食事ができたので一旦呼ばれて(今度もシチューだった。どうやら作り置きだったらしい。)食後は例のドラム缶三本の流しで皿洗い。
くたくただった。どうしても、こう、無駄なことしてる気がする。皿なんか何回洗ってもどうせ汚れんのよ。
「洗わなきゃ次の飯食えねえだろうが」
「はえ!?」
毛を逆立てて振り返る。ジジイがいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「声、出てたぞ」
……「忍び足」技能保持者が、あたしは大嫌いだ。
ジジイは「そろそろ帰る気になったか」ってな顔をしていた。
「掃除までさせなくたっていいじゃない。シチュー一杯じゃ働かせすぎよ」
いまさら文句を言ったのは、うまい事話を運んでここにいられるようにするためだった。
「昼飯の分は皿洗い。寝床の分が掃除だ」
「じゃ、晩ご飯の分も働かせるつもり?」
「そいつも面白いかもしれん」
あたしがいやそうな顔――もちろん演技なんだけど――をしたのを見て、ジジイはにんまりと笑った。
「じゃあ次は寝床の準備だ。心配するな、宿代は無料にしといてやる」
払えといわれても一文も持ってないあたし。一応女の子なので気を使ってもらえたのか、工房の事務所っぽい一室の、比較的柔らかい(と思いたい)ソファを使わせてもらった。内側から鍵がかかる部屋は、そこしか空いてなかったのだ。
引き裂かれたリュックを枕に、その日は泥のように眠った。体力にはそれなりに自信があったけど、慣れない作業で疲れきってしまったのだ。
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