第3話 工場に架かる虹 3
こうもあっさり行っていいものかしらん。
夜霧を割って進みながら、あたしはそう思った。窓の下に番犬はいなかった。庭で警備に出くわす事もなかった。
最強の追っ手はソファから転げ落ちた姿勢のままで眠っていた。それを確認してから出てこれるほど、余裕があった。それでも夜明けには目を覚ますだろう。朝飯前には捜索を開始するだろう。でも、絶対に見つからない自信がある。
逃走における最後の用意――移動手段。
あたしと警備連中の追いかけっこは、日常茶飯事のレベルにまでなっている。今まで何十回も逃げてきたあたしだけど、自分の足しか使ってこなかった。シャルロットはきっと、今回もそうだと思うに違いない。子供の脚力と体力を計算して、街の中であたしが隠れられそうな場所を探す。
ところがどっこい。
今度ばかりは違うのだ。本気なのだ。決められた人生などまっぴらである。
あたしに決意させたもの、移動手段は、街外れでその巨体を露に濡らしているはずだ。
大陸周回鉄道に乗って、あたしは旅に出るのだ。
「……あれ?」
考え事をしていたせいか、予定と違う道に出てしまった。地図を持ってこなかったことを、ちょっと後悔。地図見て歩く地元民もいないと思うけど。目印代わりの色煙も、夜とあってはどこにもない。頼りない街灯に、幽霊のような煙突が浮かび上がる。方向は合っているんだしまあいいか、
そう思った時だった。
資材搬送用の、道路保護の為の鉄板を敷き詰めた通りの隅に、人目をはばかるようにして歩く三人組がいた。ひょろ長いのと太っちょと、太ってないけど太鼓腹の計三人。こんな時間に何やってるんだろ。三人組は何やら小声で相談しながら歩いていた。
特別怪しくはなかった。悪人にも見えなかった。どこにでもいる人のよさそうなおじさんが三人。でもあたしは隠れた。こちとら年季の入った逃亡者である。ついでに町内の有名人……の娘。あたしが知らない相手でも、向こうがあたしを知っていて、なおかつ余計な善意を発揮して通報しないとも限らない。さりげなさを装って顔をそむける。
な、の、にっ!
「あ? ……おい」
太っちょがこちらを見て、ひょろ長いのの肩を叩いた。途端に高まる緊張感。三人が警官だっりしたら面倒だなぁ。
走って逃げようか? でも本格的に迷うのも困る。適当にやり過ごすのが一番ね。そう決めて、あたしはさらなる何気なさを装いつつ、通りの真ん中に出た。
「こんばんは」
ひょろ長いのが言った。
真夜中に一人で出歩いている女の子見つけて、「こんばんは」はないと思う。普通は一発目から「夜道は危ない云々」のお説教じゃないのかな。と思いつつあたしは答えた。
「あ、どうもこんばんは。……こんな時間まで残業ですか?」
「んー。残業というより副業。お嬢ちゃんは痛っ」
気さくに話していたひょろ長いの(長いので以下ひょろ。残りは太っちょと太鼓腹で十分かな。本名聞いてどうなるもんでもないし)を、太鼓腹が横からつついた。太鼓腹が下品な感じの笑顔を作った。
「ところで、こんな夜中に何をしてるんだい?」
「秘密特訓。今度、学校で体育競技会があるの」
その問いは十分に予想できたので、動揺することなく答えられた。あたしゃもう卒業しちゃってるけど、そんなのこのおじさんたちが知るはずもない。が、太っちょが疑問符を浮かべた。
「あれ。ローゼンストック家って三人の家庭教師を――」
ばれてた。
「バカ野郎! 待て!」
太鼓腹が太っちょに、次にあたしに向けて叫ぶ。あたしはとっくに走り出していた。最初っからこうすりゃよかったのかもと思いつつ、疑問も少し。こいつらってば何で、あたしに家庭教師が三人もついている事まで知ってるんだ?
「待てと言っているだろうが!」
「待つわけないでしょっそんな事もわかんないのあんたら脳みそ豆腐でできてんじゃないの! あんたら何なのよっ!」
「トーフゥ? なんだそりゃ!」
豆腐を知らないのかあたしの言い様が気に入らないのか、三人組の誰かが裏返った声を上げた。誰が言ったのかは、後ろなのでわかんない。
「んなことより待ちやがれ!」
「何で追っかけてくるのよ!」
「知れた事!」
別の声がして、
「おいガキ! お前はミレニア・ローゼンストックに間違いないな!」
「だったらなんだってのよっ」
「おとなしく捕まれ!」
あほみたいな怒鳴り合いを続けながら、あたしたちは夜道を疾走する。誰かがこれを見ていたら、多分……いや、絶対間抜け共だと思うに違いなく、その直後、三人組の誰かが決定的なことを口走った。
「聞いて驚けおれたちゃお前を誘拐しに行く所だったんだ! そっちから出てきてくれるとはありがたはぐうっ!」
「テメエから正体ばらしてんじゃねえこの間抜け!」
何かとんでもない不吉な音が聞こえて、あたしはちらりと振り返った。太っちょが宙を舞っていた。あれは死んだな。うん、絶対死んだ。太鼓腹は見た目より腕力があるらしい。
……ってーか、大ピンチ?
「とにかく待ちやがれ!」
叫ぶ太鼓腹。逃げるあたし。
最近警備が増員した理由も、シャルロットがしつこくあたしを追いかける理由も納得できた。シャルロットは――と言うよりママが、どこからか噂を聞きつけて、対応していたのだろう。こーゆー身の危険があるならちゃんと教えとけっての。言われた場合に聞き入れたかは、我ながら怪しいけど。
とりあえずはこいつらから逃げなくちゃいけない。いつもの追いかけっことは違って、捕まったら命に関わる。体力的にも厳しい。誰かに助けを――。
――帰りますよ、お嬢様。
「あーっ、もう!」
ついさっき眠らせてきた警備主任の声を思い出して、あたしは胸の中で地団太を踏んだ。シャルロットがいればこんなヤツラの十や二十、ものの数でもないのだけれど、あいにく彼女は屋敷で夢の中。超人的な肝臓の強さを発揮してアルコールを分解し、颯爽とあたしを助けにくる事なんて期待できない。
状況最悪だ。星占いを確認しておくんだった。
「誰か助けて殺されて埋められて犯される――――!」
こうなっては家出どころじゃない。あたしはあらん限りの声を張り上げた。
「殺しも埋めもしないからおとなしく捕まれ!」
「何で最後のは否定しないのよこの変態!」
「いちいちやかましい!」
全くもってあほみたいだが、この怒鳴り合いが重要なのだ。こうやって騒いでいれば、迷惑に思った誰かが様子を見に表に出て、大雑把にでも事情を理解してくれる。警察に通報してくれれば御の字だ。
声がだんだん近くなる。追いつかれるのが早いか、誰かが出て来るのが早いか。
そう考え、別の事を考え付いてぞっとした。
さっきから、民家らしいものを全然見ない。この辺は各種の工房が立ち並ぶ区域で、夜になると誰もいないのかもしれない。となるとあたしはやっぱり捕まって殺されて、脅迫状と一緒に小指だけ帰宅させられたりしちゃうのかもしれない。郵便を開封したメイドが蒼白になって、屋敷には何十人もの警官隊が待機して、それらを眺めまわしてママは言うのだ。
――いくら必要なの?
ママは悲しまない。あたしに求められている役割は、「ローゼンストック商会の二代目」に過ぎず、ミレニア・ローゼンストック個人ではない。決して、ない。
それは単なる想像だったはずなのに、その時、あたしの中では決定事項と化していた。
震えながら走った。
ママは、場合によっては身代金を支払わないかもしれない。それはあたしにパパがいない事にも関連していて、あたしの人生が決められている、最大の、
両足が地面から離れた。
「はっはーっ。捕まえたぞ観念しなっ!」
不覚。リュックを捕まれている。
「嫌あー誰か助けて殺されるー!」
「やかましい! おい、黙らせろ!」「黙らせろってどうやって」「埋められるぅ!」「口ふさげ口」「噛みつかれたらどうするんすか」「だったらハンカチでも食わせろ」「犯されるぅ!」「何もしないって言ってんだろっ! こら動くな暴れるな」
待てと言われて待つのは犬だけだし、動くなと言われて動かないのは怪我人だけだ。どちらでもないあたしはめちゃくちゃに暴れた。めちゃくちゃに動かした腕が後ろの男――多分太鼓腹のこめかみにめちゃくちゃきれいに突き刺さって、しかし太鼓腹はのけぞっただけで手を離さず、代わりにリュックの生地が裂けた。
「うおあっ!?」
勢い余って太鼓腹が尻餅をつき、あたしは地面に頭突きをくれた。
裂けたリュックから札びらが舞い上がる。替えの下着も宙を舞っていたが、色気のないガキの下着など誰も見ちゃいない。
「兄貴! 金っすよ金! 現金っすよ!」
「おい、踏むな!」
がさがさ鳴らしながら、三人組はお札を求めて地に這いつくばる。
「こんだけあれば借金も返せるんじゃないすか」
「馬鹿野郎そりゃ無理だ。しかしあれだ。今月分の手形は何とかなるか」
情けない格好で現金わしづかみにいそしむ彼らに気づかれないよう、あたしはそっと後退った。
一歩、二歩、三歩――よし!
わき目も振らずに全力疾走。三人のうち誰かが「あ!」と叫ぶのが聞こえた。振り返らず、ひたすらに走る。角を十個ぐらい曲がったところで息が続かなくなった。すぐ側の工房の鉄扉が細く開いていたのをいいことに、あたしは迷わず飛び込んだ。肩をぶつけ、その衝撃に目の奥で星が飛ぶ。夜の闇より尚暗い工房の奥に手探りで進む。石壁に突き当たって、それによりかかってうずくまった。視界の中央、星明りのさし込む隙間を睨んで息を止める。
こんな所に隠れても無駄だ。あいつらはお金を――あたしが一年かけて貯めた全財産を拾い集めたら、きっとあたしの追跡にかかる。強そうにも職業的犯罪者にも見えなかったけど、大人三人が相手じゃ絶対勝てない。
見つかったらどうしよう。
見つかったらどうしよう。
どうしよう、どうしよう。どうしたらいいんだろう。
どうしようもないのに、それだけを考えていた。
いっそ見つかった方が楽だったかもしれない。未知こそ恐怖の本質とはよく言ったもので、指一本で帰れるならそれでもいいとすら思った。
空の色が変わるまで、あたしは瞬きすら忘れていた。
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