第2話 工場に架かる虹 2
エレノア・ローゼンストックが好む言葉はいくつかあって、その内のほとんどは「美食家を信用するな」。「金で片付けるのは最も安価な解法である」。「納期は遅れるものと思え。ただし、納期を遅らせる業者は信用するな」。と言った、商売の格言みたいな奴だ。
「信用第一。でもだまされるのはただの間抜け」「勝てない相手は、」
「あーもうむかつくぅっ!」
ぬいぐるみをわしづかみにして放り上げ、あたしは全身のバネでもって飛び上がった。空をぶった切る回し蹴りはしかし、つぶらな瞳のクマさんを真っ二つにできなかった。
窓の外では大きな夕日が、石と鉄でできた街を赤く染めていた。街中が溶鉱炉に入ったみたいで、好きじゃない。
『あなたのためを思ってなのよ』
ママなんて嫌いだ。この街も嫌いだ。馬鹿みたいな小言と馬鹿みたいな煙突と馬鹿みたいににぎやかな煙。みんな、全部、なにもかも、
「大っ嫌いだ――――っ! …………あぅ」
叫んだらお腹が鳴った。そう言えば昼ご飯も晩ご飯を食べてない。ママと顔を合わせるのが嫌だったのだ。
厨房に行って何か物色して来ようかと思った。
一般家庭に「厨房」ってのがもう絶対におかしいと思うのだけれど、あるものはあるんだからしょうがない。よそん家はどうだか知らないけど、我が家の厨房は、たった二人ぶんの飯を作るためだけにある。
あたしと、ママだ。ローゼンストック家に父親はいない。
理由も知らない。一度だけ訊ねたけど、ママは何も言わなかった。怒ったのではない、と思う。あたしには分からない感情が、ママを沈黙させたのだと、幼いあたしでも理解できる、さびしげな微笑を見せただけだった。
まあ、それはどうでもいい。戦争があったんだから、片親がいない家庭なんて珍しくないもの。
顔も知らない天国のパパより今日のメシ。
あたしはそっと部屋を出て、厨房に向かった。
廊下の角を曲がった所で、誰かにぶつかりそうになった。
「気をつけなさいよっ……あ」気付く。
やたら引き絞った腰回りに盛り上がった胸。やや広い肩。
経歴の怪しさではトップの黒服リーダー……正確にはローゼンストック商会警備主任・シャルロットその人だった。
「お嬢様」
シャルロットが言った。話しかけてる風でも驚いているようでもなく、見たままを口に出したような調子だった。
(こいつもしかしたら何も考えてないんじゃ……)
そう思わせるくらい、ある意味幼児的な発音だった。
「何してるの?」
「何もしておりません」
とシャルロットは答えた。
「お嬢様が逃げ出さない限り、私の仕事はありませんから」
「なんじゃそりゃっ!」
ふと、あたしは考えた。
「……あのさ、逃げ出す前に止めようと思わないわけ?」
そういう指示は受けていません。とは、さすがに言わなかった。彼女は軽く肩をすくめた――ように見えた。子供扱いされて、あたしはちょっとむっときた。
その瞬間にひらめいた作戦を、誰が非難できようか。
「ところでシャルロット。……今、暇?」
監視対象が目の前にいるんだから、暇に決まっていた。
周に一度は発生する「お嬢様失踪事件」の最中でなければ、シャルロットにとってあたしは雇い主の一人娘である。雇い主の一人娘からの夕食の誘いを断るようでは、勤め人なんかできないのである。事件中は逃走者と猟犬の関係でしかないけど、普段からぎすぎすしても仕方ないし。
厨房を物色し、使用人連中の賄い飯らしいサンドイッチ、ついでに各種酒瓶と戸棚の奥に潜んでいたクラッカーとチーズをかっさらった。
頭の中で想像の体重計が右に傾き、汗だくで走った記憶がそれを強引に戻した。
今、あたしたちはシャルロットの部屋にいる。彼女もこの屋敷に住んでいるけど、ここは彼女の私室ではなく、警備部員が書類仕事をするための部屋である。
「半分住んでいるようなものですが」と、シャルロット。
「なんで?」
「字を書くのは苦手です。報告書があがらないので帰れないんです」
「…………あっそ」
真顔すぎてわからなかったけど、もしかしたら冗談を言ったのかも。
「ま、いっか」
それより作戦開始だ。あたしは事務室のソファに座り、対面を指差した。
「座ったら?」
シャルロットは、恐縮です、と言ってから腰掛け、じっとあたしを見た。ほとんど瞬きしないのがちょっと恐い。目論みがばれたのかと思って焦った。
「まあまあそんな恐い顔しないでさ。今日はもうおとなしくしてるつもりだし日頃迷惑かけてるしそう言えばシャルロットのことほとんど知らないなとかまあそんな感じで、ささ、ぐーっと」
自分でもようわからん事を言いながら、あたしはグラスに酒を注いだ。当たり前だけど、自分の分はなし。いける口だけどあたしは一応お子様である事だし、酔っ払ったら計画が終わってしまう。
「……いただきます」
果たし状のように突き出されたグラスを、シャルロットは一息にあおった。
彼女が酔いつぶれたのは、日付が変わるちょっと前のことだった。その間、厨房との往復を五回ほど繰り返し、空になった瓶は二十を超えた。量だけ見るととんでもない酒豪のようだけど、彼女はひたすら静かに飲み、いつもどおりにゆっくりと話した。
「戦争には、行っていないんです。軍人と言えば確かに軍人でしたけど、制服を着るような現場に配属された事もありませんでしたから。員数外ですね」
それでどうして川を飛び越えたりビルから飛び降りたりできるようになるのかちょっと不思議だったけど、その辺を訊ねる前に、シャルロットは船を漕ぎ出し、かくっと倒れて寝入ってしまった。すっきりしたおでこを叩いて見たが、起きる気配はなかった。
「……よっしゃ」
彼女のポケットを探って鍵束を抜き取り、あたしは事務室の机に向かった。鍵つきの引出しを開け、『九月の警備計画・持出厳禁』と書かれた書類を探り当てる。今週の見回り当番を確認。夜間は八人体制だった。多いなぁ。最近物騒だってママも言ってたっけ。でも、見回りは不審者の侵入を防ぐ目的のコースに設定されていた。あたしは専門家じゃないけど、この家に住んでいるんだから「構造上どこそこの守りが薄い」ってのは理解できる。
巡回の隙間を縫うのは、十分可能に思えた。
そう思った途端、膝がかくかくした。
何かとんでもない事をしでかそうとしているような、それが全く間違っているのを知っているように。
「だしゃあっ! ……ふう」
怒鳴ったらすっとした。我ながら単純なあたし。自室に急ぐ。分厚いじゅうたんのおかげで、足音を気にする必要はない。
計画――と言うほどでもないかもしれないけど、確認しよっと。
まずは警備に穴をあける――オッケ。警備主任はさっき酔いつぶれたばかりだ。
逃走資金――実は貯めてある。本当はママに連れられてローバーに行った時に使うつもりだけど、結果として使い道は一緒なので気にしない。
そう。
今夜、あたしは遠くへ行く。
これは断じて脱走でも家出でもない。ママのいいなり(……になってないけど、口だけの反抗じゃ同じようなもんよ)になる人生からの脱却であり、新天地への旅立ちなのだっっ!
と、力一杯握り締めた拳でドアを殴り、あたしは自室に飛び込んだ。さっき蹴飛ばしたクマのぬいぐるみを掴み、
「ごめん!」
クマのお腹を縫い目から引き裂いた。中身はもちろん臓物じゃなくて、ちょっとしわのよった札束。使ったふりして隠しておいた、あたしの全財産。ガキの小遣いと侮るなかれ。イーリスハイトの職人の、平均月収の倍はある。
早足でクローゼットに入り、動きやすそうな服を物色する。よそ行きのワンピース、ダメ。ローランズのコート、今が冬だったらね。ピンクのフォーマルドレス、問題外。学校指定の体操服、何でこんなもの取っておいてあるんだか。動きやすそうだけど、さすがに三年前の服は着られない。
結局、薄手のトレーナーにジャンパーを羽織り、下は膝丈のキュロットパンツを選んだ。これならそれほど高価じゃないから、少しは「お嬢」だとばれにくくなりますように。
祈ってどうする。
下着を二セット――洗うのと乾すの――リュックに詰め込み、その隙間に札束をねじ込んだ。服なんか着てるのを含めて三着あれば十分だと言うのは、あたしの持論である。それはそれとして、荷物は極力少なく。タオルと歯ブラシと手鏡と、まあそんなものか。必要になってから買った方が、荷物が軽くて済むわよね。
リュックを背負って、ベッドにクマを押し込んで毛布を丸めてそれっぽくして、
十三年住んだ部屋をぐるっと見まわして、あたしは窓枠に足をかけた。
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