大鉄物語
上野遊
工場に架かる虹
第1話 工場に架かる虹 1
――その日、あたしは逃亡者だった。
ようやく涼しくなってきた空気を割って、熟し始めた果物と真新しい秋の気配が漂ってくる。
四六時中漂っている排煙の臭いは、慣れていても不愉快極まりない。この臭いこそ故郷の臭いだと懐かしく思えるようになるのは、ずっと後になってからの話。
穏やかな日差しは洗いたての洗濯物を連想させ、学校帰りの小さな子供が列を乱しながら車を避ける。「平和」としか言いようのない光景に目を走らせ、あたしは石畳の上を軽やかに走り出す。……と言うのは嘘で、暦の上ではとっくに秋だと言うのに半袖短パンで、球技の試合中みたいに汗をだらだらかいている。『颯爽』――と言う言葉と最も縁遠い場所にいるのは間違いない。
もう、三十分も逃げ回っているのだ。
武器もなければ援軍もない。
対する追っ手はこの上なく執拗で、まるであたしが国家最高機密を奪ったスパイであるかのように追い掛け回し、決して諦める事はないだろう。特にあいつらの隊長といったら恐ろしい。何を考えているのかわからない無表情で、平気な顔して屋根に飛び上がり壁を走り、あたしを何度も追い詰めている。もしかしたら水の上も走れるのかもしれないなんて思うのは、あの人がどこだかの特殊部隊にいた経験があると聞いたからかもしれない。まあ、噴水や街中の川ごとき、あの人にとっては椅子をまたぐ程度の苦労なのは間違いない。
そういう非常識な人間(とその手下)に追いかけられる十三歳の可憐な乙女としては、一刻も早く人目につかない場所に飛び込むしかないのだけれど。あいにくあたしが知っている程度には、彼らも地理を把握している。何しろお互いにとって地元なのだ。
あたしを逃がした所で、別に彼らに何らかの深刻な問題が発生する可能性なんて、煙突が倒れるほどにもないのだけれど、彼らにも面子と言うか義務と言うか、お仕事の都合というものがあるらしく、あたしはちゃんと『ちょっと出かけてくる』と書き置きしておいたにも関わらず、彼らは雇われ者の都合全開であたしを追いかけている。
ご苦労な事だ。
……じゃない。
雑念は頭の中で絞って固め、熱い息と一緒に捨てた。
逃走経路を考え直そう。市場を通り抜けて住宅街に抜けるルートは止めた方がよさそうだ。この道は前にも使った。警戒されている可能性、大。
どこからかチャイムが聞こえてきて、ふと思いつく。(学校はどうだろう?)もう放課後だし、隠れる場所は一杯ある。でも残念。あたしは三年前、飛び級で卒業してしまったのだ。ああ、何て優秀なあたし。とうの昔に卒業してしまったあたしが、意味もなく学校なんぞに行ったらそりゃあ目立つ。通報されて一発でお縄だ。乗合馬車もだめ。だって現金持ってないんだもん。
もっと真面目に計画を練るべきだったと思いながら、あたしは石段をかけ上がった。とりあえず高いとこへ。もしかしたら穴場が見つかるかもしれない。
何とも楽観的だと自分でも思うけど、「めげない負けない諦めない」は、逃亡者が備えるべき三大要素だとあたしは思う。状況の悪さにめげてはいけない。追っ手の組織力に負けてはいけない。諦めるのは問題外。それは、自分を信じていない証拠だ。
大事なのは勇気と知恵と……根性?
まあなんだっていいんだけど。
極めて減量向きの――絶対にお散歩コースには入れたくない急勾配をかけ上がって、あたしは左右を見まわした。
右手にベンチ。左手に低いひな壇。ど真ん中に砂場があって、周囲にぽつぽつと児童用の遊具が据えつけられていた。公園だ。子供の姿はまだどこにもない。ベンチの一つにしわくちゃのおじいさんおばあさんが座っていた。しわくちゃ過ぎて、どっちがおじいさんでどっちがおばあさんだか見分けがつかない。両方ともおばあさんの線もあるな。おじいさんじゃないと思うのは、二人ともハゲていなかったから。
待ち伏せはなかった。
そう思うのと同時に、両足が休息を訴えた。労働法ぶっちぎりで働いていた心臓と肺が同調し、両手が膝を押さえてささやかに同意を示した。頭は今のうちに逃げるべきだと主張していたけど、体全体が発する「お前、働いてないだろ」の声に沈黙した。
あたしはその場に座り込んだ。できれば仰向けに転がりたかったけど、汗を吸ったシャツが砂まみれになると思って我慢した。こんな時でも身繕いを気にしてしまうのが、少しおかしかった。
深呼吸を何度か繰り返すと、最初に肺が職場復帰した。心臓がそれに続き、新鮮な血と栄養分を足に送る。ストライキ寸前だった太ももはしばらくぐずったが、捕まったらお終いだと言う脳みその意見を聞き入れて立ち上がってくれた。
よろめきながら、公園の端まで歩く。
元は小高い丘だったんだと思う。公園の縁は崖になっていた。石垣で補強され、金属で作った手すりが備わっている。『危ないので手すりに登らないでね』と看板。
看板には、手すりに片足立ちになってよろめいている二頭身の子供の絵が書いてある。
その子供が妙に楽しそうなのは、一体どういうわけよ?
手すりにつかまって、あたしは町を見下ろした。それほど高い場所じゃないと思ってたけど、イーリスハイト(この町ね)は全体が北から南へと下る緩やかな坂になっていて、この公園はその中でも北側の地区にあるので、町の半分以上が見渡せた。
これにはあたしもびっくりした。ここに十三年も住んでるのに、こんな場所があるなんて知らなかった。
石で作られた緩やかな坂の町は、なだらかで穏やかで、どこも喧騒と活気にあふれている。あちこちから色とりどりの煙が吹き上がっていた。赤、橙、黄、緑、青、紫、白。カラフルだとかにぎやかだとか言うより、なんだかやけくそじみた光景だ。地元民のあたしですらそう思うのだから、他所からやってくる人達にとってはわけわかんないだろう。
煙は全部、高い煙突から出ている。
煙の色はそれぞれの工場で使う素材に起因するもので、関係者なら色を見ただけで何を作っているかすぐにわかる。ついでにイーリスハイトの住民なら方向もわかる。この町の小学校では、迷子になったら煙を探せと教えるくらいだ。
嘘じゃない。例えば黄色い煙を出しているのは、雷精石を使って発電を行なっている施設だ。赤は銅、青は銀、緑は鉄鋼を精製している。後は……何だっけ? 専門家じゃないからパス。
あ、この時間は営業してないけど、黒い煙はお風呂屋さん。単なる火力を生み出すだけの燃石だけは何の色も出さない。
七色の煙を見ながら、どっちに逃げるか考える事十数秒。ふと右側に気配を感じて、あたしは警戒しながら振り返った。
「こんにちは、お嬢さん」
さっきのおばあさんだ。
「? なにか?」
お嬢さんとか呼ばれるのは嫌いだ。
ちょっと誉められない態度であたしが答えると、もう一人のお年寄りも「こんにちは」と言った。声からすると、おじいさんとおばあさんで正解だったみたい。あたしに何か用があるのかと思ったら、違った。近寄ったから挨拶しただけ、と言った様子で、二人は街の外の方を眺めていた。
つられて、あたしもそちらを見る。
「……ほ、今年もきなさった」
おじいさんが言った。
「……何、あれ?」
訊ねておきながら、あたしはそれがなんだかすぐわかった。
列車だ。
線路の上を、駅に向かって進んでいる。あんなものを見間違う人はいない。
でもあたしは訊ねてしまった。
町の半分を挟んで見る駅は、手元に置いた万年筆ぐらいの大きさでしかない。近寄ればそれでも二階建て、土産物屋もレストランも駅舎も車両倉庫もあるはずなのに、
その鉄道は、駅よりまだでかかった。厚みこそ線路の幅しかないけれど、長さは駅舎とだいたい同じ、煙突の位置は駅舎の屋根の少し上になるのだろうか。千人乗りとか言われても納得できるような、無茶苦茶な規模だった。
「お嬢さん、知らんのですか?」
おばあさんが言った。あたしは無言でうなずく。黒煙を吹き上げる機関車から目が離せない。
「本当に知らんのですか?」
それはなんだか、かわいそうな人にゆっくり語り掛けるような口調で、あたしを不機嫌にさせた。もしかして一般常識なのかも。
「いやだってあんなの普段走ってないし」
「そうでしょうそうでしょうとも」
やっぱり噛んで含めるような言い方。お馬鹿になった気分で、あたしはもう一度訊ねた。
「あれ、何? 何で列車があんなにでかいの?」
ふと、あれは軍用なのかもしれないと思った。五年くらい前、大陸を統治する連邦政府と、大陸の西にある島国――弦都が戦争をしたのだ。あれは戦車やテッポーとかを運ぶための特注で、今までほったらかしになっていたのかもしれない。
……って、いくらなんでも想像力が飛躍し過ぎだった。
おじいさんが答えを言って、
「あれは大鉄と言ってな、一年かけて大陸を回る特別な列車だよ」
おばあさんが注釈を加える。
「大陸周回鉄道の略ですよ。本当は隣町のローバーに停車するはずなんですけど、今年はどうしたんでしょうねえ?」
ローバーならあたしも知っている。イーリスハイトが製造の街だとすれば、ローバーは販売の街だ。大鉄とやらがこっちに停まった理由は、聞かれたって答えられる訳ない。
おじいさんおばあさんは何が楽しいのか、にこにこしながらあたしを見ていた。何か言わなきゃだめかしらん。
と、その時だった。
「いたぞ! 捕まえろ!」
「え? あ! わっ!」
振り向く、黒服マッチョと目が合う。焦る。
「ご免ねっ!」
思い出す。
今日のあたしは逃亡者だった。
あたしよりはいくらか季節感のある――でもどこにいても浮いているとしか思えない服装の追っ手が何やら怒鳴り、そっくり同じ格好の男達がわらわらと現れる。不衛生な台所にいる虫みたいで気色悪い。一度そう言ってやったら、あいつら白い背広なんか揃えちゃって、筋肉つけ過ぎのアヒルみたいでかえって気持ち悪かった。
「……」
思い出すんじゃなかった。喉の奥がすっぱい。
胃酸が逆流する前に逃げようと決意。左右を見まわす。ブランコと運梯とくるくる回るよくわかんない何かと滑り台。ベンチと手すりと看板。その向こうは全部崖だ。
逃げ場なんかありゃしない。
逃げる必要は、
少しだけ考えた。
つかまった所で殺されるわけじゃなし、今回は準備も計画も運もなかったとして諦めちゃうのが素直なような気がしないでもない。もっと大胆かつ用意周到に――
まで考えた所で、あたしは本能に従って行動を開始した。
あいつらに捕まって、未知の生命体みたいに連行されるのは嫌だ。
あたしにだって人権があり、自由意思がある。
あたしが逃げているのも、そういう理由だ。
逃げ場はない。迷っている間に黒服が増えていく。今、一ダースを超えた。一人か二人いればあたしを捕まえるなんて簡単なはずなのに、黒服は必要以上に警戒し、身構えたまま公園に入ってこない。どんどん集まってくる。
これは一つの好機だ。
「さらばっ!」
叫んで、あたしは手すりを乗り越えた。後ろは崖。黒服が「あっ」と悲鳴に似た声を上げた。あたしは迷わず崖を降りる。崖ったって断崖絶壁じゃない。街中の、ちゃんと整備された石垣だ。高さも五メートルかそこら。取っ掛かりさえ掴めれば、道具がなくても降りられる程度だ。黒服の足音が迫る。崖の中ほどまで降りて、あたしは両手を離した。内臓が浮き上がる浮遊感。直後、かかとから背筋に向かって痺れがつきぬける。
「……んんぅ」
とりあえず着地成功。『危ないので登ってはいけません』と書かれた看板を蹴倒し、危ないので入ってはいけない柵を内側から飛び越える。石畳を駆け抜けて路地裏に飛び込み、ゴミ箱をまたいで野良犬に吠えかける。ケモノ風情があたしの進路をふさぐんじゃない。反対側の通りに出て、すぐさま別の路地裏に飛び込んだ。
「お嬢様」
呼ばれた。
恐る恐る振り返ると、そこに、一人の黒服がいた。黒いシャツに黒いパンツ。白くて細いベルトが、これでもかっ、てな具合に腰を引き絞っている。一応はネクタイもしているのだけれど、宴会ででき上がったおっさんのように、だらんとさせているので意味がない。上から三つ目までのボタンを外したシャツの隙間から、それなりに豊かな盛り上がりがちらりと見えた。そう、この黒服だけは女だ。
最初に言っておこう。あたしはこの女が苦手だ。引き締まった、均整の取れた体型だとか、りんごを握り潰せる一方で、楽器が似合いそうな細い指とか、何にも考えてなさそうで実はものすごく頭が回ることとか。年相応の落ちつき以外は、あたしが持っていないものを全部持っているこの女が、毎度毎度脱走するあたしを捕まえて連れ戻すこの女が、嫌いと言ってもいいくらい苦手だ。
「……あんた、今、……どっからきた?」
聞かなくてもいい事を、あたしは訊ねた。女はほわほわっとした笑みを崩さず、人差し指で空を指した。雲一つない青空に、薄くなった緑色の煙が流れていく。
「…………空飛んできたとか言わないでよ」
「さすがにそれはできません。羽根もありませんし」
飛び方だけなら知っているようにも思える発言だった。羽根が生えたら飛ぶかもしれない。
「屋上を伝って移動しておりましたら、足元にお嬢様が見えましたので」
あたしは上を見て、口をあんぐりと開いた。
「屋上ってあんた」
左右にある建物は、五階建ての集合住宅だった。あたしが飛び降りた崖とは比べ物にならない。って言うか、落ちたら死ぬ。背中のほくろが見えるくらいに首がひん曲がって死ぬ。
問い。
こういう人間(じゃないかもしれない)に追いかけられて、逃げ切れるでしょうか?
答え。
絶対無理。
今月三度目の脱走作戦は、一時間かからずに失敗に終わった。
「……それで、今度は何が不満なのかしら? ミレニア」
三十分かからずに自宅に連れ戻されたあたしに、ママは書類を読みながら言った。
こーゆー態度は教育上よくないんだとあたしは思うのだけれど、ずいぶん前に直接言って、しかも何の効果もなかったので今回は言わない。沈黙するあたしを、ママは一瞬だけ見た。
エレノア・ローゼンストック。
泣く子も黙るローゼンストック商会の会長で、銀行屋が泣き出す資産家である。商売の街ローバーではなく、工業の街イーリスハイトに居をかまえる理由は実に明快。仕入れに便利だから。
「服も食事も家庭教師も最高の物をあげてるでしょ? 護衛がつくのは我慢してちょうだい。最近何かと物騒だし、ローバーでまた強盗が出たらしいわよ。お小遣いなら今の額で十分よね? 高価なものは会社の名前で買いなさい。現金はあまり持ち歩かない方が、」
「そんな事じゃないわよっ!」
ママはぴたりと動きを止めて、
「レオナルド。この見積り甘いわよ。やり直させて」
隣の秘書に言った。
「…………うぅ」
なんかこう、ふつふつと怒りがわいて来る。生産者の皆さんには気を使うくせに、どうして自分の娘にはこうなんだろう。
正直な(単純な、とも言う)あたしは叫ぶのだった。
「ばかっ! 大っ嫌い!」
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