片道390円の旅

たつみ 庵

思えばここで

 ホイッスルのけたたましい音を聞きながら、小走りで扉をくぐり抜けた。その直後、背負ったリュックを押すようにして両開きのドアがプシューと音を立てて閉まる。じんわりとにじむ汗を手の甲でぬぐいながら、僕は辺りを見回した。

 平日の昼下がり、そこにはあまり人がいなかった。


 あれ、おかしいな。いつもならこんなに人が少なくはない筈なんだけど。


 そう思ってしまった自分に苦笑する。いつもなら、って僕はいったいいつの『いつも』を言っているんだろう。

 ゆっくりとリュックを下ろし、それを脚で挟むようにして、僕はえんじ色の横並びのシートに腰を下ろした。


「この電車は準急河内長野行きです。停車駅は河内松原、藤井寺、土師ノ里はじのさと、道明寺、古市以降各駅に停まります」


 マイクのアナウンスもいつかのいつもと変わらない。あの声はなぜ人が違っても同じように聞こえるのか、昔はすごく不思議だった。

 カタタン、カタタン、と鳴る線路の音が徐々に早くなってゆき、やがてそのリズムが一定になる。車窓から見える景色の移り変わりも音と同じく一定の速さになっていた。


 普段なら電車に乗ればすぐにポケットの中のスマホを出して、イヤホンを耳に入れ、ゲームなんかを起動するところなんだけど。

 僕は内心舌打ちをしながらポケットをまさぐる。確か切符を買うときにスマホが邪魔になってリュックの中に押し込んでしまったのだ。

 リュックのジッパーを開けようかとも思ったけど、朝時間が無くて色んなものを押し込んだリュックの中を人前でさらけ出すのは気がひけて、僕はスマホを取り出すのを諦めた。

 目的地まで三十分ほど。居眠りでもすればすぐに着くはずだ。

 

 程よいリズムの揺れはすぐに眠りを誘うだろう、そう思って僕は何となく向かいの窓に目を移す。

 高く新しいビル群は見えなくなっていて、古い民家と薄汚れたビルとが混在した街並みへと変わっている。ビルの名前の一字がなくなった灰色の建物が目についた。


 ──あの字ィってさ、落ちたんかな。

 一字欠けたビルの名前の看板を指差して歯を見せて笑う友人の顔が急に思い出せた。

 学ランの前を半分くらい開けて、格好良くもないのにトランクスが見えるくらいズボンを下げて(ちなみに一度イタズラでズボンを思いっきり下げてやったらキレられた)、髪をワックスで白くなるくらい固めた、ちょっと調子に乗った奴だった。

 ──やばない? 歩いとって落ちてきたら避けられへんやん。

 ──人間ってさ、横から飛んできたモンは避けれても上からのモンは避けられへんらしいで。

 ──なんかな、しゃがんでまうらしいで。


 そんなたわい無い会話が聞こえた気がした。

 僕はその時なんて言ったんだったっけ。


 ──それ、めっちゃわかる! 俺こないだ鳩の糞避けようと思てしゃがんだもん!

 ──アホや。普通に落ちてくるやん。

 ──そう、それがこれ。

 ──お前アホやろ! 洗えや!


 げらげら笑った。学校帰りの電車の中、きっと他にも通勤通学の人たちが乗っていた筈だけど、そんな記憶はない。僕たちは自分達が中心とでもいうかのようにうるさく騒いで、笑っていたんだった。

 灰色のビルは見えなくなっていく。その灰色は僕の記憶の中のものよりもずっと黒くくすんでいて、そして小さく見えた。


 ぶるり、と肌が粟立つ。

 クーラーが効き過ぎているのかも知れない。僕は半袖シャツから出る腕を手のひらでさすって、気休めの暖をとった。触れた手のひらがじんわりと温くて、思ったよりも身体が冷えている事に気付いた。

 そういえば。僕はクーラーに弱くて、夏場の通学の時はジップアップパーカーを羽織っていたんだ。久しぶりに乗るもんだから忘れていた。ここの路線はいつもクーラーが効き過ぎなのだ。

 そのくせ冬はヒーターが凄くて、電車に乗り込むなりマフラーを外して手のひらで顔をあおいだものだ。

 省エネだ、クールビズだ、節電だ、と言われだしたのは僕が高校を卒業したあたりからだったけど、この路線は今も変わらず『心地良い』温度を提供してくれているらしい。


 がたんと一度大きく電車が揺れ、窓を見ると、えんじ色の車両が進行方向と反対に走ってゆくのが見えた。すれ違う速さは目には追えないが、反対行きの電車もガラガラだったのが分かった。

 もしかしたら反対行きは各駅停車だったのかもしれない。一度だけ乗った事のあるその電車は、終点に着くまで一度も満席にならなかった。


 またがたん、と一度大きく揺れる。窓の景色を塞いでいたえんじ色が行ってしまうと、そこに映るのは川だ。

 青々とした河川敷を自転車がゆらゆらと走っているのが小さく見える。その黒い影は赤いアーチの柱に隠れて見えたり見えなくなったり、映写機のようにして小さくなっていった。

 水面が弾く光がギラギラと波打って、外の暑さを窺わせる。いまだ鳥肌立つ腕をさすりながら目をすがめて刺す光を和らげれば、ぼんやりと昔の光景が浮かび上がってきた。


 ──おいコラ、一年。

 そう言って入部したばかりの中学一年生を並べて前に立ったのは、何故か部長でも役員でもなく二年の先輩だった。

 ──一学期の間は走り込みやってゆーたよな?

 初めてできた後輩にイチャモンつけてやろう、その企みがありありとわかる顔で、その先輩は僕らを睨みつけていた。

 ──でも、グラウンドランニングは終わりましたし、先輩らもノック始めたんで……。

 勇気のある新入部員が一人おずおずと反論すれば、その先輩は俯く彼を下から覗き込むようにして睨んだ。

 ──俺らが一年の時もそうや。一学期の間はボールも触らせて貰えんと、ずっと走り込みや。当たり前やろ。

 ──そんな口答えしてる暇あるんやったら大和川まで走って来い。

 僕らが通う中学から大和川までは凄く距離があって、最初は冗談かと思った。でも運動部の類にはよくある、先輩の言うことは絶対ってやつで、僕らは何キロもある大和川まで走ったのだ。

 今と同じくらい、暑い日だった。途中で倒れた僕を、かつて完走した先輩が軟弱者だと叱ったのだ。


 あの先輩は、どうしてるだろう。ふとそんなことを考える。

 先輩の引退試合、夏の予選の三回戦でまあまあな強豪校とロースコアの試合で。掠れた声で応援していた先輩の肩が8回あたりから震えていたのを思い出す。立っていた場所は一塁側の観客席だったけれど、先輩も必死に戦っていた。

 人一倍、真面目な人だった。


「河内松原、河内松原でございます。次は藤井寺に停まります」

 マイクのアナウンスではたと我に返る。眠ろうと思っていたのに、どうやら20分近く物思いにふけっていたらしい。

 久しぶりに乗った電車はいつもと変わらないのに、どこか違っていて、その小さな変化が僕にさまざまなことを思い起こさせる。

 眠ることを諦めた僕は、再び向かいの窓に目をやる。結構な人が降りた車両の中は先ほどにも増して空いていて、僕の目の前には窓枠だけに区切られたパノラマが広がっていた。


 次の停車駅を知らせるアナウンスが流れる。その地名を聞くと、今度は父親の顔がふと浮かんだ。


 ──僕、甲子園いきたい。阪神の試合みに行きたいわ。

 駄々をこねる僕のいがぐり頭を父がぐりぐりと撫でる。ちょっと痛いくらいのその手のひらは黒く汚れていて、仕事の後すぐに飛んで帰って来てくれていたんだろうと思う。

 ──アホか、せっかく近くでプロ野球の試合やってんのに。見な損やろ。

 ──もう見られへんようになるかも知れんのやで。ここで。

 そう言って父親は球場を見上げた。

 嫌だと駄々をこねたくせに、もう見られないと聞くと急に惜しくなって、僕は父親の手を握って引っ張る。

 ──なんや、お前も惜しなったんか。

 そう言って笑った父親の顔がどことなく寂しそうで、僕は必要以上に楽しそうにはしゃいだんだった。決して贔屓していたチームではなかったけれど、その試合の勝ち投手や決勝打は今でも覚えている。今の今まで、思い出すことはなかったけど。

 それからすぐだった。大阪ドームができて、そこは二軍の球場になり、その何年か後には閉鎖になったんだ。ひっそりと、公的なイベントもないまま。


 今そこはどうなっているんだろう。きっと小学生の僕が立っていた頃とは全然違う街並みになっているだろう。

 ビルやマンションが立って、新しい街になっているだろうけど僕はそれを知らないから、その街を想像するとやっぱり球場が思い浮かんでしまうのだ。


 プシュー、と音がしてドアが閉まる。向かいを見ると折り返すのか、藤井寺終点と書いた車両が停まっているのが見えた。

 時計を見る。時間があるからと急行には乗らなかったのだが、もう三十分近くも電車に揺られていた。

 学生の頃は気にしなかった、時間の流れる早さ。都会で仕事をしてみれば、この街で過ごしていた日々より時間が目まぐるしく動いている気がする。こうしてぼんやり窓の外を眺める機会なんて久しくなかった。

 外に目をやれば郊外らしい穏やかな街並みが広がる。一戸建てのベランダには白いシーツが広がって、風に揺れていた。

新しい家とちょっと古い家が並んで立っている。家の一軒一軒にまで見覚えはないけれど、きっと、古い家は僕がこの電車から一度は見た事のあるもので、新しい家は僕が電車に乗らなくなってから建ったものだろう。

 でもそのどちらにも同じように洗濯物が干してある。古いものにも、新しいものにも、同じように時間が流れているのだと思った。


 ◆


「次は古市、古市。奈良方面へお越しのお客様はお乗り換え下さい。尚、後ろ四両切り離しの為暫く停車致します。今暫くお待ち下さい」


 アナウンスの声ではたと顔を上げる。慌てて周りを見ると、乗客が皆降りていた。

 寝ぼけていたが、僕が乗っていたのは最後尾だったから、前の車両に乗り直さなくてはいけなかったのだ。

 脚の間に挟んでいたリュックを右肩にかけて、車両を降りる。前の車両に移動する為にホームを早足で歩いて、水色のベンチの横でその脚を止めた。


 水色のベンチ。ひと続きの普通のベンチではなく、一人掛けの椅子が四つ連なったような、駅特有のベンチだ。

 僕がこの駅で降りることなどほとんどない。今回は駆け込み乗車の所為で最後尾に乗ったが、移動する手間を考えれば発車駅で歩くことの方が良かったのだ。

 だが、このベンチには覚えがある。赤い自販機のそばのベンチ。片思いの女の子が降りる、この駅で一緒に座ったベンチだ。


 ──ねえ、大丈夫やって。もうすぐお母さん迎えに来てくれるし。あんたも帰んの遅なんで。

 そう言って彼女は自販機のミルクティーを買っていた。寒さをしのぐためのものだろう、両手でそれを包んで僕を振り返っている。

 ──いいって。お母さんが来るまでおるよ。女の子一人で待つのも危ないやろ。

 僕も彼女の隣に立って自販機に小銭を入れる。あったか〜いと書いてあるボタンを押して、出てきたものを拾ったら、彼女が目を丸くした。

 ──え? コーンスープ?

 ──なんか変? 俺めっちゃこれ好きやけど。


 僕の握る黄色い缶を、彼女は怪訝な顔でまじまじと見つめていた。

 正直その時飲んだコーンスープの味なんて覚えていない。むしろ味なんてしなかったと言っていい。

 降りるはずのないその駅で降りて、彼女の母親を一緒に待っているのには理由があった。僕はその日、彼女に告白しようと思っていたんだ。

 グループで遊びに出掛けて、同じ電車に乗るのが僕と彼女だけだった。二人でいる時間は長かったのに、別れ際になっても意気地なしの僕は彼女に何も言えていなかったのだ。


 ──クリスマス、楽しかった。

 鼻の頭を赤くして彼女が笑う。次会うのは新学期かな、と言葉を続けて。

 電車が発車してもう5分。ホームに人影はなく、小さな声でも僕らの話す言葉は冬のホームに響いた。

 時計を見れば彼女が母親に電話をかけてから大分時間がたっていた。もうあまり余裕がない。

 酔ってしまいそうな心臓の鼓動を押さえて、僕は小さく声に出した。


 ──それまでにもう一回くらい会えへん?

 缶を握る指先が震える。彼女の目が見れなくて、コーンスープの黄色に目を落としていた。

 ──え? お正月ってこと?

 ──うん。初詣とか、二人で。

 ──二人、で?

 一瞬の間があって、彼女がどんな顔をしているのか怖くなって、僕はぎゅっとコーンスープの缶を握った。口からコーンの粒が出るかもしれないと思って、唾をごくん、と飲む。

 すると彼女が口を開いて……電話が鳴ったんだ。


 ──あ、お母さん、来ちゃった。もうロータリーで待ってるって。

 ──もう、そんな時間か。

 平静を装ってそう返したけど、内心すっごくガッカリした。勇気を出すのが遅かったんだって。

 ごめんね、と言いながら階段を登っていく彼女を見送って、落胆の溜め息を吐いた。口にしたコーンスープがとっくに冷たくなっていることに、僕はその時ようやく気付いたんだ。


 その後で彼女からメールが入ったことより、初詣に二人で行ったことより、やっぱり一歩勇気を出して言ったあの言葉が印象に残っている。

 それまでにもう一回くらい会えへん、って、高校生にしてはちょっと格好つけたと思うから。


 前の車両に移って、またえんじ色のシートに腰をおろす。次の駅で降りなきゃいけないから、僕はドアのすぐそばの端っこへ座った。

 ここから次の駅へはものの2、3分で着く。長く感じた準急の旅ももう終わりだ。スピードをあまり上げることなく、電車は次の駅に着く。

 平日昼間の、しかも単線駅もある短い路線の駅には降りる人も乗る人も少なくて、シートから腰を上げたのは、車両の中では僕を含め三人だけだった。

 重いリュックを右肩に背負って、開いたばかりの扉をすり抜けるようにして列車から降りる。黒く汚れた黄色の点字ブロックをまたいで、僕は階段をおりていった。

 ポケットに手を入れると、スマホの指定席のはずのそこにあるのは小さな紙切れ。


 390円と印字された、白い切符だ。


 地下にあるために妙に薄暗い改札に切符を突っ込んで、切符売り場の上の時計に目をやる。

 5を指していた長針がカチリ、と動く瞬間だった。


 ──おかーさん、おかねかして。

 背も届かないはずの僕が、切符を買うために母親に小銭をせがむ。

 ──あかんて。急がなもう電車来てまうよ。お母さんが買うから。

 ──いやや! ピッておしたい! きっぷかいたい!

 時計を見上げて眉を寄せる母親にしがみつき、スカートを引っ張りながら駄々をこねる僕。柔らかなシフォンのスカートに顔をうずめてベソをかいた。

 ──あ! いやや、シュンちゃん。スカート汚れてまうやん。

 慌てたように母親が僕を抱きかかえる。そして困ったように笑って、小さく息をついた。

 ──しゃあないなぁ。ほんなら押すだけな、お母さんがお金入れるから。

 チャリチャリと音がして、細長い穴に小銭が一枚ずつ入っていく。お金を入れるたびに、赤く光る字が増えていった。


 ──じゃあ、シュンちゃん。このボタン押して。

 ──これ? このさん……きゅう、れい、ってかいてあるやつ?

 ──そうそう! へえ、シュンちゃんいつのまに9の数字も覚えたん。

 白い母親の手が僕の頰に触れてなでる。いつもの柔らかな匂いと、いつもと違う粉っぽい匂いが僕の鼻をくすぐった。

 次の瞬間、頭上で地鳴りのような轟音がなり、母親はまた困ったように眉を寄せて笑った。

 ──あらら、電車来てもうた。また10分くらい待たなあかんで。

 ──だいじょうぶ。すぐやって。

 僕はボタンをおした。母親に抱きかかえられて、やっと届いた赤く光るボタン。こんなボタンは駅以外に知らなくて、特別な気分になったんだ。


 切符売り場の自販機に目をやる。母親に持ち上げてもらわなくては押せなかった切符の390円のボタンは今の僕の腹あたりで、やっぱり僕はこんなに小さかったかな、と首をひねるのだ。


 ロータリーに続く階段を上がって、空気を吸う。大阪の、郊外の、駅だ。

 昔からある和菓子屋の隣にはいつできたのかコンビニが立っていて、ドアが開くたびに聴き覚えのある曲が流れて聞こえる。

 普段なら行き慣れたコンビニに入ってコーヒーのペットボトルでも買うところだけど、僕の足は隣の和菓子屋に向かっていた。なんとなく、そこの笹だんごが食べたくなって。


 片道、390円。所要時間30分。

 なのにどうしてか、今まで生きてきた分の電車に乗っていたような気分になった。

 きっと思い返すことがあり過ぎたんだ。あり過ぎるほどに足が遠のいていた。たった390円の距離に。


 笹だんごが入った袋を手に道を歩く。歩道のないガタガタ道を進んでいたら、リュックの中の背中に当たる部分でスマホが一度震えたけれど、気にせず歩き続けた。

 少し行ったところに懐かしいパン屋が見える。今度は誰のどんな顔が浮かぶのか、少し楽しみにしながら僕はわざとゆっくりと瞬きをしたんだ。

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