第4話 少女と美容師 その3
「さて、それじゃあ、カットを始めようか」
「はっ、はいっ!」
なんだかんだとやっているうちにもう8時30分も近くなっていた。
父親が迎えに来るとはいえ、家に帰す時間が遅くなるのは避けたい。
コートを脱いだミサキにカッティングチェアへ座ってもらい、服が散髪で汚れないようにカットクロスを着せる。
カットクロスから流れ出た髪の毛は、やっぱり床まで垂れていた。
今回は時間がないからカットのみだ。
「じゃあ、始めるけど」
「ふあいっ!」
さっきは人の話が耳に入らなくなるまで雑誌に熱中してリラックスしていたのに、今のミサキはガチガチに緊張していた。
無理もないかもしれない。こんな長さになるまで髪の毛を伸ばしていたということは、今まで髪を切ってもらった経験がないのだろう。
知らない男性に身体を弄られるようなものだ。
カットクロスを着せるときも、小さい体がかちこちに固まっていて一苦労だった。
「そんなに緊張しなくていいよ?」
どうにかリラックスしてもらえるよう、ミサキの顔を覗き込んで笑いかけてみたが、
「ひゃいっ!」
全然ダメだった。
――これはどうしたもんだろうか。
思わぬ状況に弘前は少し考えを巡らせる。
別に緊張していようが、構わずカットすることは出来る。
客が動けないのは、むしろ好都合と言ってもいい。
練習用のカットウィッグを相手にするときのように、テキパキとハサミを動かせばいいだけだ。
……でもそれはしたくないな、と弘前は思っていた。
彼女は髪を初めて切るのだ。
美容室に、もっと言えば髪を切るという行為に、苦手意識を持たれたくない。
それは美容師としてのプライドでもあるし、ミサキのことを想っての考えでもある。
これからの彼女はこれまでと違う。
これまで髪を切ったことのなかった彼女も、これからは生涯に渡って何回何十回と美容室へ行き、髪を切ることになるのだ。
そんな長い期間に渡って続く行為を、苦痛と思ってほしくなかった。
「それにしてもきれいな髪の毛だよね」
考えた末に弘前が取った行動が、髪の毛を褒める、ということだった。
合わせて髪の毛を少し触ってみる。
「へやいっ!?」
触れた瞬間ミサキは素っ頓狂な声を上げたが、構わず触る。
女の子特有の細く柔らかい髪。濡れたような艶のある黒髪は、見た目の良さと同じか、それ以上に手触りもいい。
なんだかこの世のものとはいえないような輝きまで発してるようにみえる。
滑らかで柔らかく、それでいて細いのに適度なコシもあり、サラサラとしていて、ひんやりとした冷たさがあった。
「冷たい?冷たいといいんですか?」
思わず声に出ていたらしい。くすぐったそうにしていたミサキが聞いてきた。
「そうだよ。髪の毛って実は結構水分を含んでるんだ。ひんやりするのはこれのおかげ。水分量が多ければ多いほど、髪質も良くなるんだよ。水分量が多いということは、キューティクルがしっかりと機能していて、髪の毛の中の栄養が逃げていない証拠でもあるから」
要するに、良い髪はひんやりと冷たいのだ。
「ふうん…」
「ミサキちゃんの髪はキューティクルが髪の毛をしっかりと保護していて、充分な水分が含まれてるからコシがあって、しっとりと重い。そういう髪は、光を反射して青や緑の複雑な色を見せてくれる。こういう髪のことを昔は濡烏とか、烏の濡れ羽色って言ってたんだ」
「カラス……、カラスと同じ色はちょっと嫌だなぁ。もうちょっとかわいい名前がよかった」
ミサキにはどうやら不評らしい。口をちょっと尖らせ、足までブラブラさせて全身で不満を表している。
なんて事だ。黒髪の最上級な褒め言葉だと言うのに。
「褒め言葉でもやだ」
また声に出ていたらしい。
「じゃあ緑の黒髪ならどう?」
「緑なのに黒なの?」
なんか変、そう言ってミサキは笑った。
話しているうちに緊張もほぐれてくれたようだ。
ミサキが落ち着いたのを見計らって、具体的な髪型を聞き出すことにした。
「ミサキちゃんは、どのくらいの長さにしたい?」
「あ、はい。えっと、こう、ものすごくバッサリと切ってくれていいんですけど」
ものすごくバッサリとした注文が来た。
――その表現じゃどのくらい切っていいかわからないよミサキちゃん。
弘前はそう思うが、この仕事、雑な注文はよくあることなので、冷静に細かい注文を聞き出す。
「ものすごくってどのくらいかな?コレくらい?」
弘前はひとまず、ミサキの腰辺りまでの長さを提案してみた。
いわゆるスーパーロングと言われるライン。普通の人なら最大級の長さでも、ミサキの髪の長さなら充分過ぎるほどバッサリだ。
何しろ本人の身長より長い髪の毛だから、これでも半分くらいは切ることになる。
「ううん、もっと」
鏡越しに長さを確認したミサキは、より短くすることを要求してくる。
「じゃあこれくらい?」
それでは、と胸くらいの長さを提案した。今度は普通のロングヘア程度。
「もっと上がいい」
ということは…、
「肩にかかる辺りまで?」
これでミディアム。
「もっと上」
「じゃあ、このくらいかな」
首が隠れるあたりで髪の毛を指にはさみ、長さを示す。
指がちょっと首に触れたのか、ミサキがくすぐったそうにした。
「……もうちょっと上で」
「このくらい?」
「はい、このくらいで」
首が見える程度の長さでようやくオーケーを出してくれた。
ミサキはどうやらショートボブにしたかったようだ。
「ショートボブかあ」
「はい、そのくらいがいいなって」
ミサキの顔はきれいな卵型で、ショートボブとの相性はいいはずだ。
彼女の雰囲気にもショートボブはきっと似合うだろう。
「他には何かこうしたい、っていうのはある?」
「ええと、あまり細かいところはよくわからないので、これを」
そう言いながらミサキは、カットクロスの中で何やらゴソゴソとやり始めた。
そしてカットクロスの下から雑誌の切り抜きを取り出して見せてきた。
「こんな感じがいいです」
「なるほど」
切り抜きは女性芸能人の写真だった。
要望と同じショートボブで、重くなりがちな黒髪をパーマをかけずにアレンジで、軽く見せるスタイルに仕立てている。
髪質的にもミサキと似てそうなので、これならうまくいきそうだ。
「うん、いいんじゃないか。似合うと思うよ」
弘前がそう言うと、ミサキは少し恥ずかしそうに笑った。
「じゃあ、いくよ」
少し緊張した声で弘前が尋ねる。
長い髪の毛をバッサリと切るときは美容師も緊張する。一度切ってしまったら、もう取り返しがつかないから。
例え切られる側がいいと言っても、切る側だって緊張してしまうのだ。
「バッサリやっちゃってください」
こちらの緊張とはお構いなしの、のんきなミサキの返事が返ってくる。
先程までとは逆の状況になってしまった。
まずは腰くらいまでを切って様子を見ることにした。
いきなり要望のショートボブまで切るのは、プロとして10年近くハサミを持っている弘前でも抵抗があった。
下準備として髪の毛に櫛を通しながら弘前は思う。
ミサキの髪はやっぱりとてもきれいだ。
櫛を通しても全然引っかかりがない。
店内の照明が当たった髪の毛は、持ち上げてみると光の干渉を起こして、宝石のように輝いている。
まるで自ら輝きを発してるようにも見えて、ずっと眺めていても飽きない。
見ていたら緊張はほぐれていったが、別の思いが弘前の中をよぎった。
――もったいないなあ……
こんなきれいなものを切ってしまうなんてもったいない。素直にそう思う。
だが、お客の要望は絶対だ。意を決してハサミを入れた。
ハサミはシャキシャキと小気味いい音を響かせながら髪の毛の中を突き進み、きれいな髪の毛は抵抗することなく、ミサキの身体から分かたれて床に落ちていった。
腰から下の処理が終わったら、次は肩あたりまでをメドにハサミを差し込んでいく。
ミサキは自分の髪の毛を切っていく弘前を、鏡越しにぼんやりと見ていた。
「ふう」
肩までの長さでおおまかに揃えた所で一度ミサキの後ろに立ち、全体像を鏡で見てみる。
先程までの長すぎるほどの髪の毛が無くなり、結構印象が変わって見えた。
珍しそうに自分の姿を見ていたミサキは、今度は少し不思議そうな顔で軽く頭を振った。
「なんだかすごく頭が軽いです」
「そりゃ、あんだけ長い髪の毛載せてたらね」
髪の毛は、一本一本は軽くてもまとまると意外と重い。ミサキのような異常な長さなら人の何倍もの重さがあったことだろう。
頭を振りながら楽しげに笑うミサキにつられて、弘前も笑顔になった。
ここから本格的にカットしていく。
霧吹きで水を吹き付けて髪を湿らせると、ミサキは冷たそうに目をつぶった。
大まかなデザインはもう決まっているから、さっきの切り抜きを参考に見ながら切り始めた。
櫛を通して髪を整えながら、毛先も整えていく。
ミサキは髪を梳かれるのが好きなようで、梳かれるたびに気持ちよさそうにしている。
弘前の方と言えば濡れてさらに艶を増したミサキの髪に少し見惚れてしまう。
少し鋤いて毛量を減らし、髪の広がりをコントロールしながら、全体的にカットを施していく。
ミサキは目をつぶったり、かと思えば目を開いて切っているところをじっと見たり、たまに弘前を見たりと、好奇心の赴くままにしている。
店内は有線のBGMが流れているが、とても静かだだった。
BGMに合わせてハサミの音がシャキシャキと続く。
ゆっくりとした流れで時間は進んでいった。
「よし、終わり」
「……」
「ミサキちゃん?」
「……むにゃ」
どうやら髪を切られながら眠ってたらしい。
「終わったよ」
「あっ、はい、……うわあ」
目を覚まし、寝ぼけまなこで返事をしたミサキは、鏡に映った自分を見て驚きの声を上げた。
彼女の要望通り、雑誌の切り抜き写真を参考にして、彼女に合うようほんの少しアレンジした、シンプルなショートボブ。
あまりふわっとした丸いシルエットにはせず、彼女が動くたびにさらさらの髪の毛が流れるようなスタイルだ。
こうすることで髪の毛の艶も良く引き立ってみえる。
黒髪の重い印象を抑えるため少々鋤いて、軽さも演出。
ワンレンのように長く伸びていた前髪も眉毛のあたりで切りそろえてぱっつん風に。
「どうかな」
わりと自信作だ。
「すごいです……」
ミサキは信じられないと言った顔で自分が映る鏡を見ている。
「そっか。気にいってくれてよかった」
安心した弘前がつぶやくと、ミサキは輝くような笑顔を向けてくれせた。
「はい! ありがとうございます!」
気のせいか、髪まで光り輝いているように見えた。
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