5 死なない死者
(……冗談じゃないね)
右手にバスケットをぶら下げ、強い日差しの中、南の第二区画へ向かう。
その途中、リピカは何度嘆息をしたか知れなかった。みゃうみゃうと鳴く海鳥は紺碧の空の中で、白い雲のような模様をあやなしながら飛んでいく。
バスケットには紫色のハンカチーフが被さっていたが、その中身はビスケットやチョコレートなど、子供が喜びそうなお菓子がたくさん入っている。いわば、お詫びだ。仲直りだ。なんであたしがこんなことをと思ったが、フラムベルの女主人の迫力に押し負けてしまったから仕方ない。
(仲直りする相手なら他に居そうなものだけれど)
天空を貫く白亜の尖塔を見上げる。リタルダント・テレス宮殿。
魂の供給を打ち切ってもシャロウが使い魔である事実には変わりなく、今でも彼がどこに居るのか、だいたいの居場所は把握できていた。
クビにしたところで下宿先は同じなのだから、結局また顔を合わせるハメになるのかなどと、やきもきしていたのだが、どうやら昨夜、あそこから戻っていないらしい。
いらない心配をして損をした。
「ふん、何の心配してんだか」
わざわざ声に出して言う。もはや気に掛けることもない。その資格もない。
売り言葉に買い言葉。魔女にあるまじき浅ましい感情。あるいは、短慮だったとはいえ、自分は最悪の手段を以って使い魔を突き放した。きっと今頃苦しんでる。きっと今頃恨んでる。
もう、戻れないだろう。
「関係ないわよ……」
さっさと用事を済ませて部屋に戻ろう。
インドアの魔女にとって、この快晴は厳しいものがある。
海底の蒼いトンネルの中に激震が走ったと言っても過言ではない。
それ程の事実。
「……相変わらず貴様は緩い雰囲気を纏っているな。兄上殿」
ヒルベルトの発言を認めるように、ガイダットが吐き捨てたのだ。どうやら嘘ではないらしい。それらを聞いて、勢いを取り戻したのは、ダリアツォ。
「なるほどなるほど、ガイダット。まさかお前さんの身内が海賊じゃったとはなぁ……これは只事ではなかろうて……うごぉ」
したり顔で笑みを浮かべる奴だったが、腕を締め上げられ、すぐに苦悶へと変わる。一方のガイダットは馬乗りのまま、涼しい顔で冷徹に吐き捨てた。
「だから、どうした?」
「ど、どうしたもこうしたも、ないわい。こんなことが上層部に知れ渡ったら、どうなるか……!」
「おや、おかしいな。ダリアツォ老。今、我々は常人には辿り着けないような宮殿の秘密の場所に居るはずなのだが――どのようにして上層部がこのことを知る?」
「き、貴様ァ……ここでワシを殺して口封じするつもりか!」
「これはご冗談を。口封じをしようとしたのは、ダリアツォ老の方ではありませんか」
より一層、腕をきつく締め上げながら、ガイダット。もはや楽しんでいる。ダリアツォの老体がめきめきと悲鳴を上げていた。腕の先がかなり無理な角度まで上がっており、折れた翼のようにも見える。
よりにもよって、ダリアツォがシャロウやアレンに救いの視線を投げ付けて来たほどだ。
あれは、よっぽどだろう。
「ガイダット……アンタ、海賊、なのか……?」
シャロウが信じられない面持ちで――後から思えば、裏切られた思いが強く、半ば放心状態だったのだろうが――尋ねる。しかし、疑いの眼差しを掛けられても、ガイダットはガイダットのまま、不遜の態度を崩さない。
「全く……シャロウ・ヴィン。貴様のせいで、危うく計画が台無しになるところだった。貴様ら傭兵風情には関係ないと、再三言い続けたはずだが。貴様の脳みそはウニか? ちゃんと稼動しているのか?」
「何の計画だ! リタルダント・テレスを滅ぼすのか、お前たちが!」
「ははっ。滅ぼすだと……? 俺はこの腑抜けと兄弟であることを否定しない。だからと言って、リタルダント・テレスに剣を捧げて来た騎士としての誇りを裏切るつもりもない。身内に海賊がいるからというつまらん理由で断罪したいのなら、まぁ好きにしろ」
「うっわー……酷いな。なに、その言い草」
言葉ほどは傷ついた様子もなく、ヒルベルトが飄々と受け流す。
「ああ、そうだったな。この国が海賊によって侵略などの危機から未然に守られているということに対する感謝を失っていた。謝罪しよう」
「……なん、じゃと? どういうことじゃ!」
聞き捨てならなかったのだろう。ダリアツォが苦悶を浮かべたまま、ガイダットをねめつけた。
「ダリアツォ老。城壁もなく魔法も失ったこの国が二十年もの間、外部からの干渉らしい干渉を受けず平和にやってこれたのは何故だと思う。うちの緩い兄上殿が事前に手を打ってくれていたからだよ」
「大変だったぜぇ。特に十年前のグレイリオの軍艦が来た時とか」
「ば……馬鹿な……!」
大衆的には、リタルダント・テレス騎士団が総出で沖へ討って出て、グレイリオ王国の黒戦艦を返り討ちにしたとされているそれは、ここ百年で最も大きな戦いだったと言われているものだ。
「その話が本当だとして、海賊に何のメリットがあるというのだ。貴様の弟が英雄扱いを受けるだけだろうが!」
実際、今のガイダットを見れば、その通りである。
「ははっ。英雄とか勲章とか興味ないんでね。そんなものは、そこの不真面目にくれてやることにしたよ。俺が興味あるのは、ただひとつ――」
未だ、ダリアツォの口元、すぐ傍に突き刺さっているガイダットの剣に重ねるように、ヒルベルトの剣が突き刺さる。
「ひぃぃッ!」
「アラクサラだよ、ダリアツォ」
ヒルベルトの温和さがなりを潜める。厳しい口調で、険しい眼光で。有り体に言うと、ガイダットがふたりになった印象を受けた。
「アンタは覚えていなくて当然だが、俺も当時は魔法兵団に居たんだ。今じゃ海賊のシンボルのように言われるウロボロスの刺青だって、元を正せば、当時己の魔法の力を高める媒介として流行っていたデザインのひとつだろう。知ってるか。アンタらが海賊と呼ぶ俺の仲間のほとんどは元魔法兵団か、その子供たちなんだぜ」
「……そういうことだ。格式を嫌う兄上殿は海へ飛び出し、アラクサラが愛したリタルダント・テレスを陰から支えた。俺はその恩恵を有難く頂戴することになったが、ただひとつ、その見返りとして、一刻も早く王国で伸し上がり、貴様が隠したアラクサラを探し出すこと――これが俺たち兄弟の取り引き。当時、魔法兵団の下っ端だった兄上殿と、既に騎士団の上部にいた俺とでは、後者が残った方が早くここへ辿り着けるだろうという高度な判断だ」
「そういう余計なことは言わなくていいぞ、弟よ。いや、二十年も掛かるなんて、その判断は誤りだったようだが」
わざとらしく咳払いをし、ヒルベルトが不満を漏らすと、
「黙れ。兄上殿では、その倍は掛かっていただろうよ」
ガイダットも負けじと言い返す。
「じゃあ、ヒルベルトがやけに詳しかったのは……」
「全て俺が今日までに調べ上げたものだ。目ざといダリアツォ老に気付かれないようにするには、随分と骨が折れたものだよ。ついでに先程、牢屋を開けたのも俺だ。兄上殿をここへ連行するのは、計画のうちだった。昨夜、あの場所に貴様が現れなくてもな」
さて。と軽く咳払いをして、ガイダットは改めて馬乗りしているダリアツォを見下ろす。
「もう一度聞こうか――どのようにして上層部がこのことを知る?」
「き、貴様は……今までの名声も、地位も、海に投げ捨てるか……!」
「くどいな。そんなものは、アラクサラの行方を調べるためだけのもの。リタルダント・テレスを守るという気持ちに嘘偽りはないが、結果、裏切ったことに変わりはないというのが民意であれば、謗りも罵りも甘んじて受け入れよう」
ダリアツォの背中から降りたガイダットは、まるで猫を扱うかのように老体の首根っこを掴み、無理矢理立ち上がらせる。逃げられないように自身の身体でしっかりと退路を塞ぎながら、さぁ歩けとデプス・レイヤーの奥を顎で促した。
螺旋を描きながら徐々に海底に向かう通路の中、先頭をダリアツォが、その後ろ、剣を老体の背中に突き当てたままのガイダット、後頭部で両手を組んで剣呑とした雰囲気のヒルベルト、そして、アレンと、アレンに肩を借りたシャロウが続く。
「おい、どう思う……」
アレンが小声で耳打ちしてきた。
「どう、って?」
「オッサンのことだよ」
「別に……まぁ、ガイダット、だなぁ。と」
「それだけかよ。やっぱ、お前もどこか浮世離れしてるよな……俺なんか、少なからず動揺してるってのに」
「はは、は……」
アレンはこちらをちらりと見やり、少しだけ姿勢を低くしてシャロウの腕を担ぎ直す。
「つーか、お前、本当に大丈夫なのかよ。風邪とか熱じゃねぇのか」
「説明しても、理解してもらえないと、思うけど……」
苦笑交じりに、シャロウ。
実は、自分とリピカは異世界人で、そもそも自分は人間ではなくリピカの魔法で造られた者で、しかも喧嘩別れしたせいで死に掛けてるなんて。騎士団と海賊の件は、余所者のシャロウでさえ衝撃的だった。この国で生まれたアレンにしてみれば、それ以上かもしれないところ、更に衝撃を重ねることもあるまい。
どの道、上手く説明できる自信もない。
「やれやれ……どこでも俺は蚊帳の外ってわけですか」
「そう、不貞腐れるなよ……肩、貸してもらってるのは、感謝してる」
そして、ダリアツォと揉めた通路からそう遠くないところで、螺旋の通路が終端を迎える。海底に辿り着いたのだ。上を見上げると、若干蒼は濃くなったが、それでも桟橋の隙間を縫って差し込む太陽の光はまだ確認できる。
海底の土砂の中に埋もれた終端には、無愛想な扉が一枚あるだけだ。何の変哲もないもので、けして何かを予感させるようなものではない。ましてや、この先に魔女がいるだなんてとても思えない。
「さぁ、開けろ」
ガイダットが凄むと同時、
「ふ……」
呼吸が漏れるような音。それが笑い声だとは気付かなかった。
「残念じゃったな。それは二十年前に閉じられて以来、一度たりとも開かれたことのない開かずの扉じゃよ。そこまでは調べが足りんかったか!」
無言でヒルベルトが扉に近づき、両手を当てて探るが、すぐに諦めたようだ。肩を竦めて首を横に振る。よくよく見ると、その扉。扉と表現したものの、壁との隙間は見当たらず、取っ手すらない。見る者によっては、扉と認識しないのではないかと思うほど、壁と一体化していた。
「ふはははは、無駄じゃ!」
後ろ暗い愉悦感か、勝ち誇るダリアツォだったが、その愉悦の笑い声はすぐに小さな呻き声へ変わった。奴の黒ローブの背中の辺りにじわりとした染みが広がる。ガイダットが剣の切っ先を僅かに突き刺したのだろう。本当、容赦ない男だ。
「あと、どれほど突き進めば、開けて貰えるのだろうか」
「ほ、本当だとも! ワシですら開けたことはないのだッ!」
少なくともシャロウには、それが演技には見えなかった。
が、ガイダットも引き下がらない。
「兄上殿。いかほど所望か」
「そうだな。とりあえず親指ほど突き入れてやってもいいんじゃないかね」
「や、止めてくれ、ほ、本当、本当なんじゃよッ!」
「ぬるいか。じゃあ人差し指ぐらい――」
「やめ、やめ――ッ!」
「おい、オッサンら。本当だってよ」
アレンが割って入ると、ガイダットは誰にも聞こえるように大きな舌打ちをして、ダリアツォを突き飛ばした。勢い余った老体は全身で扉に激突し、ずるずると床に落ちていく。アレンが止めなければ、本当に剣を突き入れて殺していたかもしれないな、このふたり。と、シャロウは思った。
その、刹那、
「――お困りの様子ね」
少女の声に、誰もが振り返る。
かつんかつんと規則正しい足音を立てて、螺旋通路を辿り、降りて来る小柄な人影。銀糸の髪に、漆黒のビスチェ。シャロウにとって、見慣れた少女がここにやって来た。少なからず顔見知りではあったガイダットとアレンは驚いた様子だったが、ヒルベルトとダリアツォは不思議な表情を見せる。
「リピカ、さま……」
少女は、シャロウへは一瞥しただけで済ませ、苛立ちを隠せないガイダットたちを見やる。
「開けてあげようか。それ」
それの指す物が何かは全員が理解したが、過剰な反応を見せたのは、老人ひとり。
「何者じゃ貴様はッ! いきなり現れたかと思えば、この扉を開けるじゃと?」
突き飛ばされた時に扉で打ち付けた鼻頭を押さえながら、誰何する。
だが、言葉による返答を面倒に思ったのか、リピカは人差し指をダリアツォに向けて、指先から細い光を放った。それは赤くなっていた奴の鼻をじりっと掠めて、開かずの扉に焼け焦げを作る。当然、ダリアツォの鼻も更に赤くなって、薄っすらと煙を吹き上げた。
「魔法を自分の専売特許だと思わないことね」
「ま、魔女なのか……貴様ッ!」
「ええ、そうよ」
今まで細心の注意を払って、周りに隠して来たことをあっさりと認める彼女。
シャロウの口が開いたまま塞がらない。
「何故、ここに……!」
「質問の意図が理解しかねるけれど。何故この世界にということであれば、魔女の死後、二十年が経過したにも関わらず、魔法の力が滞留しているのでそれを回収に。何故この宮殿にということであれば、ここで働いている偉いさんのお友達と言えば、簡単に入れてくれたわよ。息子さんが倒れたから連絡に来たといえば、簡単だったね。何故この場所にということであれば――」
あまりにもさらりと告げられた内容だったので、ほんの一瞬だけダリアツォの動きが止まった。
が、すぐに、
「待て! い、今、誰が倒れたと!」
「……サーシェ、だったかしら。造営委員の貴方の娘が血相を変えて飛び出して行ったわ。貴方も帰ったほうがいいんじゃない? 可愛い孫でしょ。エリクス・ゲルム」
「く、ぅ……!」
そこからのダリアツォは今までが信じられないぐらい迅速だった。
ガイダットとヒルベルトを両脇に突き飛ばし、ふたりが伸ばした手からも逃れ、螺旋通路を戻っていく。追おうと思えば追えたが、そうしなかったのは、既に追うだけの理由がないからだろう。
「放っておけば? あの男はアラクサラの力を借りているだけの道化。どの道、彼に出来ることはもうないし、その扉が開けられないというのも本当よ」
「自分なら開けられると言いたげだな」
ガイダットが問うと、
「だから、開けてあげようかって言ったじゃない」
むっとして、リピカが強く言った。
「可能なのか」
「どきなさい」
ガイダットやヒルベルトを押しのけて、扉の前に立つリピカ。まずはヒルベルトと同じように、扉に手を当てて何かを探り始める。ふん、と軽く鼻を鳴らして――それが何を意味するものか分からなかったが――一歩後退。胸の前で両手を組み合わせ、辛うじて聞き取れる程度の声量で呪文を紡ぎ始めた。
「おおっ……」
感嘆の声を上げたのは、アレンである。
扉は左右にスライドするわけでもなく、前後に開かれるわけでもなく、ただ単純にその場で消滅を始めた。徐々に透過し、消え去っていく扉。完全に消失し、扉の向こうの部屋が明らかになる――
「……ん?」
事ここに至りて。ようやく。
シャロウは違和感に捕らわれ、とにかく背後を振り返った。
「パウリナ……?」
ついさっきまでいたはずの山吹色の髪の少女がいないのだ。
一足先に部屋に入ったアレンに名を呼ばれ、曖昧に返事しつつ、海底トンネルを見上げ視線を這わせるも、その姿はどこにもない。
まるで煙となり、溶けてしまったかのように。
扉一枚で区切られた部屋の向こうは、海底の楽園とはまた違った世界があった。
太陽光に似た白い光溢れる場所。
けして広くはないが四角に切り取られた壁面には緑が溢れ、天井から床に向かって絶え間なく水が流れ落ちる。壁から滑り落ちた水は満遍なく床を濡らして、部屋の中央に向かって集束。そして、排出。
「アラクサラ……」
誰かが呟いた。
光と水が流れ込む白い部屋の中央。
排出口の真上で、質素な黒い椅子に座っている女性が居る。
燃えるような緋色の髪に、足首まで覆い隠す長く黒いコート。手は膝の上に添えられており、非常に行儀がいい。
「二十年……経っても、そのままなのか……」
おそらくは、遺体が傷んでいたり、腐敗していることを覚悟していたのだろうガイダットがやたらと安堵の表情を見せ、心なしか嬉しそうに呟く。ヒルベルトはいち早くアラクサラの元に駆け寄り、彼女の膝の上の手に自分の手を添えて必死に何かを堪えている様子だった。
「死なない死者、か……大したものよ、アラクサラ」
感慨深くリピカが呟く。
無表情で、無神経で、無愛想で、でも美しいこの部屋を見渡し、アラクサラを見やり、そして――表情を一変させた。
何かを探すように忙しなく部屋を回って、ぶつぶつと何か独り言を呟き始める。さらさらと一定のリズムを刻んでいた水音に複数の雑音が混じる。
「……大丈夫か、リピカちゃん」
「さぁ……」
いつもならアレンの耳打ちを目ざとく聞いている彼女なのに、それにも気付かない様子で、部屋とアラクサラを交互に見つめていた。
やがて、
「シャロウ」
唐突に、リピカ。
「……はい?」
「キミのおかげだね。キミの、おかげだよ……」
「はぁ……」
普段から滅多に聞くこともないそんな感謝の言葉に不意をつかれ、シャロウは肺から空気を押し出すことしか出来なかった。
隣でアレンが本当に大丈夫かと、いよいよ本気で心配している。
「違った。違ったのよ。アカシック・クロニクルに記述されていたリタルダント・テレス滅亡のシナリオは、あたしたちの想像とは全く異なっていた」
興奮状態にあるのか、彼女は矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「見て。天井と壁の隙間から流れ出る水を。水が魔法の媒介として最適だという話はしたと思うけれど、これが逆に仇になったのかしら。死後二十年、衰えはしたものの、未だに消失しないアラクサラの力が水に混じって飽和状態になりつつある……正直に言うと、部屋に入った瞬間、息苦しさのような違和感を抱いた。それは、長い年月を掛けてアラクサラの力がこの部屋中に充満していた証拠」
「と、いうと?」
「この部屋が爆弾のようなものよ。無論、今ここで火を付ければ、即爆発するといった類ではないけれど、危なかったね。あと数日か、数週間か――それとも、今晩なのか。具体的には分からないけれどこのまま放置してれば、海底火山の噴火のように、蓋であるリタルダント・テレスは跡形なく吹き飛ばされていたよ」
「うわぁ……」
と、呻いて、ふとシャロウは我に返った。全員の視線がリピカとシャロウに集められている。
そして、全員が一体何の話をしているんだと目が語っていた。リピカはそんな視線など気にも留めず、シャロウの方がどう説明すればいいのか、思案に暮れた。
「ちょっと、リピカ様……」
「後にして」
今更だが、敬語を咎めることも忘れている。表情は平坦だったが、きっと、本当にそうなのだろう。
アラクサラに近付いたリピカはスカートの下から、太ももにベルトで巻きつけていた漆黒の小刀を取り出した。刀身と柄が一体となっているアサイミー。魔女の短剣を呼ばれるものだ。
それを動かぬ魔女に向かって振り上げる――
「何をする!」
それを静止したのは、ヒルベルトだった。
飄々とした態度は一転、アサイミーを持ったリピカの腕を掴んで引き摺り倒し、アラクサラの前に仁王立ちする。
「聞いてなかったの、人間。アラクサラの力が行き場をなくして、この部屋に充満している。このまま放置しておけば、リタルダント・テレスなんて簡単に吹き飛ぶ大爆発が起こるわよ」
「だから、アラクサラを傷付けようっていうのか!」
「……魔女には、魔女の葬り方がある。人間と一緒にしないでッ!」
前触れなく声を荒げたリピカに、ヒルベルトさえも一歩たじろぎを見せた。
それはリピカにとって、魔女にとって、表に出してはいけない感情なのだろう。死して、行方不明だった親友がようやく見つかったというのに、この上、更にその身体に刃を突き入れて、魔女として完全なる死を与えなければならない。
そんな、不快感。
(あれ……)
そういえば、あまりに色々ありすぎて自然に受け入れていたが、この状況――
「悪いが、許容できねぇなっ! そんな話自体、信じ難い!」
「信じようが信じまいが、それは貴方の自由。でも、これは事実なのよ!」
あろうことか、ヒルベルトは白鞘から剣を引き抜いていた。切っ先はリピカ。彼女は無防備だった。奴が動いてからでも、なんとでも対処できるという自信の表れだろうが。
ぎぃんっ。
「……青年ッ!」
「シャロウ!」
リピカとヒルベルトの叫びが同時に聞こえた。
本当に最後の力だったかもしれない。アレンの肩を借りていた分、回復した最後の力。飛び出したシャロウはリピカの前に割り込み、振り下ろされたヒルベルトの剣を受け止める。
「青年、無理はするな。衰弱し切ってるお前では、相手にならんよ」
「へっ……やっぱ、そう、かな……?」
我ながら情けない。こんなにも弱々しい声を絞り出すのが精一杯で。ヒルベルトが剣に込めた力を緩めなければ、間違いなく斬り下ろされてだろう。
と、
「がっ……」
打撃音が二つ。
小さく呻いて崩れ落ちるヒルベルトの体の向こうに、アレンとガイダットが立っていた。ふたりとも鞘に収めたままの剣を手にしている。あれで打ち付けたのだろう。意識を失う瞬間、背後のふたりを見咎めたヒルベルトの表情はとても恨めしそうで、酷く脳裏に焼き付いた。
「アレン……ガイダット……」
「ったく、無茶しやがる」
今に始まったことじゃねーが。と付け加えて笑うアレン。
そして、
「……恋人と、二十年ぶりの再会だったのだ。許してやってくれ」
ガイダットは気を失った兄を見下ろし、苦しげに呟いた。
この部屋に入った時からそんな気はしていたのだ。無関心を装いながらもこの部屋を目指し、そして、アラクサラを見た瞬間のヒルベルトは、確かにそうだった。
「お前たち……信じるのか?」
我ながら、間抜けた質問だとは思ったが。それでも彼らふたりは疑っていないようだ。
「……ごめん。シャロウ。あとでね」
小声でぼそっと呟き、アラクサラに向かうリピカ。あとでね、の意味はよく分からなかったが、破門は終わり、ということだろうか。
疑問には思ったが、それとは違うことをその背中に問う。
「記述された歴史を変えることは、好みじゃ、なかったんじゃ、ないんですか」
主に意見する。試すような言葉を投げかける。
逆らって魂の供給を打ち切られた前例に倣えば、すぐにこの世のものじゃないようにされてもおかしくはなかったが、たった一日。それで主の考えが真逆に転じたり理由が純粋に気になった。
あるいは、彼女もまた、ただ悩んでいただけなのかもしれないが――
「そうだね……本当は、迷ってるよ」
アカシック・クロニクルに記述された滅びを食い止めることは、相乗的に異なる未来を生み出し、新たなる破滅をも呼び寄せる可能性を内包する。盛大に改変が行われるであろうアカシック・クロニクルの再確認はリピカが最も毛嫌いしているものだった。
それが原因で仲違いし、こうしてシャロウは衰弱し切っているのに。
「迷ってる……どころの話じゃない、よね。正直、アカシック・クロニクルに記述されるような滅亡が海賊如きの手でもたらされるはずないとは思ってた。間違いない。この部屋に充満したアラクサラの力が今にも弾け飛ぼうとしているのよ。分かるの。これが破滅の原因なんだって」
リピカは所々言葉を淀ませながら、アラクサラの前に立ちアサイミーを構える。その切っ先もまだ、所在なさそうにふらふらと揺れていた。
「このままじゃアラクサラは更に汚名を被ることになる。そんなこと、このあたしが耐えられない」
「だったら、まだ、改変の方がマシ、ということですか……?」
「そう」
「酷く個人的な理由、ですね」
「ええ、そう。とても個人的。何より矛盾してる……でもね、でも」
彼女の背中が自嘲する。
「それでも。そんなになるまで頑張ってるキミや、弱いくせにあたしを庇おうとするエリクス見てたら、なんだかモヤモヤし始めたのよ。自分のやれることやっているのに、あたしひとりだけ燻って。馬鹿みたい」
彼女は笑いながら泣いているような、心は決まっているのに体は揺れ動いているような、不安定の狭間でもがき苦しんでいるようだ。
「アカシック・クロニクルに記述された未来は、絶対。それを改変するだなんて愚の骨頂。改変した未来は異なる未来を呼び寄せ、収拾がつかないことになるかもしれない。これはどうしようもない事実。それは分かってくれるよね」
「はい」
「――でも、あたしは、アラクサラを助けたい。このリタルダント・テレスの改変はあたしが責任を負う。全て面倒を見るわ。この次はどうなるか分からないけれど、もう一度、頑張ってみようって今なら思える。だから、今更って思うかもしれないけれど、都合のいいことは分かってるけど、シャロウ」
振り返ってきた彼女は無理くり作った笑顔を浮かべていた。シャロウがフラムベルで少しぐらい向けてくれたらと願ったものに近い表情を。
そして、
「あたしを、助けて。お願い」
そう言われて、頷けないのなら使い魔である必要もない。
「俺は、いつまでも貴方のお傍に」
「……ありがとう」
ふっ、と。
リピカの口から柔らかい溜め息が漏れる。言葉は続いた。
「これで、仕返しも出来るわ」
「仕返し?」
リピカは自分の頬を指の腹でとんとんと叩く。じっと凝視すると、なんだか薄っすらと赤くなっているような……
「恐れ多くもこのあたしに平手打ちをかました生意気な人間に死ぬほど後悔させてやらないといけないの」
「誰ですか、それ」
「フラムベル。うちの女主人だよ。小さな男の子を泣かせるなと詰め寄られて一発。挙げ句、謝ってこいだなんてお菓子の詰め合わせまで持たされて。そのまま買い出しに出かけたわ。一瞬で消滅なんて楽なことは許さない。あたしの恐ろしさを骨の髄まで味あわせてやるんだから」
おかげで、エリクスが倒れているのを発見したのだけれど。と、リピカは付け加えた。
リピカがいつもの調子を取り戻したところで、改めてアサイミーを握り、その刀身をアラクサラの左胸、乳房の上から斜めに刺し込んでいく。そして、彼女はぞくりと背筋を震わせた。背後からもよく見て取れるほどに。相手からは悲鳴すら上がらない。でも、金属を伝ってくる肉を裂く感触は本物。そんな現実離れがリピカを嫌悪感を与えたのだろう。
そして、視覚的には何一つ変わらない儀式が終了する。
「終わり。これで、大丈夫だと思う」
これから彼女には、アカシック・クロニクルの改変記述の確認という気の遠くなるような膨大な作業が待っているというのに、その表情は心なしか晴れ晴れとしていた。それは親友の亡骸をきちんとした形で葬れたことによる充足感からだろうか。少なくとも、昨日フラムベルで自分の境遇を恨み辛み交えて吐き出したリピカはそこには居なかった。
決意の表れがそうさせたのかもしれないし、案外、吐き出すものを吐き出して、すっきりしたのかもしれない。
(人間と一緒にするなって言うけれど……魔女だって、同じだよな。そういうとこ、とか)
人間でない自分が言うのもなんだが。
と、若干、自嘲的な思いが浮かんだところで、ようやくシャロウは意識を手放すことにした。次、目覚めることがあったら、ここまで頑張った自分を褒めてやりたいと思いながら。
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