第3話 選択した結果
高校の頃に、もっとしっかり勉強しておけばよかったのかもしれない。
そうすればちゃんと追いかけられた。
中学の時に、将来のことを考えて進学先を選べば良かった。
もっと自分を仕事に対して最適化できたのかもしれないし、必要なことが積み重ねられたかもしれない。
けれど、何かの出来事を削除したとしても、一穂は将来、蒼太と出会うことを知らない。
そんな自分がそんな可能性を選ぶとは思えなかった。
頑張れたのは、蒼太が一穂を応援してくれて、「『頑張っている』いっちが好きだ」と言ってくれたから。
もし蒼太と出会うことがなかったなら、一穂はどんな道を選んだのだろう。
身の丈にあった仕事をして、趣味をもって、ほどほどの幸せを感じて毎日を送っていたのだろうか。
明かりの消えた部屋の中、窓際のカーテンの前に光を纏った天使が立っていた。
「わたしが出来るのは出来事を『消去』すること。お前の想いまで消すことはできない」
イラゼルは静かに答えた。
それでは、辛いだけではないか。結局、何も変わらない。
イラゼルのいう理屈は理解できた。本人の記憶まで消えてしまえば、削除された出来事に気付かないし、意味を持たない。過去をやり直せるわけではない。
出来るのは手の届かなくなった昔の出来事を消し去ること。
ひとつの出来事がなくなったことで、過去と今を繋ぐ歴史が変わる。
それは自分の知らない、あったかもしれない可能性の世界に、必要な記憶を持たないまま放り込まれるようなものだと思う。
イラゼルは一穂がふたつ目の望みを願うことを待っている。
用意しておこうと思っていた願いは、今このときも決まらないままだった。
どうすれば救えるのだろう。そう考えて一穂は気付く。
誰を救う必要があるのか。それは自分。……けれど、それだけなのだろうか。
そう、一穂は自分が救われることだけを考えていた。しかし、記憶も想いも消えないのなら、どうしようもないことだと感じる。何を消しても残るのだから。けれど、出来事を消去することでできることはまだある。
一緒にいた蒼太は何を考えていただろうか。笑顔で一穂を応援してくれていた蒼太だが、本当はどう感じていたのだろう。一穂がからかわれたようにふたりの関係のアンバランスさを揶揄されて、苦い思いをしなかっただろうか。一穂のために力を尽くした分、出来なくなったことがあるのではないか。
蒼太はきっと、一穂のことを重いとは言わない。けれど、言わないからといって感じなかったわけではないだろう。一穂は蒼太の負担になりたかったわけではない。
一穂はふたつ目の願いを決めた。
「『蒼太と出会ったこと』を無かったことにして欲しい」
一穂は恐ろしくなって眠れなかった。
イラゼルが跡形もなく消えたあと、残った散乱した部屋と蒼太との思い出。目が覚めたら無くなってしまう。それは願いを言葉にするときにだって充分に分かっていたはずのこと。
ふたりは休みを取ってゆっくり旅行に行ったことも、遊びに行った記憶もほとんどない。したくなかったわけではなかったけれど、いつも日常の中で時間を過ごした。同じ場所にいられた時間だってわずか。けれどそれは一穂にとって特別な思い出だった。
蒼太から初めて何かをもらったのも本だった。マネージャーの教科書だなんて、なんて飾り気のない贈り物だろう。けれど、ちゃんと気持ちはこもっていたのだと思う。蒼太はそういう人だったから。一穂もそれは分かっていたし、喜んで受け取った。
ふたりは恋人だったけれど、何かと戦う仲間でもあった。遠く離れていてもいつもお互いの活躍を願っていた。それでよかったし、いつかそんな戦いような日々が終われば一緒にいられる日もくると思っていたから。すれ違いだったなんて思ってはいない。ただ……。
一穂は蒼太から送られた本を手に取った。表紙がどんなふうで、開けば何が書いてあるのかなんて、見なくたって分かる。いつも持ち歩いて手元に置いていたから。そこに書いてある言葉がまるで蒼太の言葉のように感じていた。
励まされていたのはいつも一穂の方だったような気がする。自分は蒼太にできたのだろう。
こみ上げる悔しさ、無力感。それでも、自分に対しては精一杯の労いの言葉をかけよう。できることはやったのだ。よく頑張ったのだと思う。後悔は消えないけれど運命を受け入れる。そんなどうしようもない悲しみ。
人が眠れずにいられる時間なんて限られている。それまでの間、消えてしまうことが決まった想いが宿るいくつかの拠り所だったものとともに時を過ごそう。覚悟なんてできないけれど、少しでも長い間。ふたりでいた時間を感じていたい。
角が削れて表紙も汚れて、ありふれたビジネス指南書は古書のようになっている。蒼太と過ごした時間の証。それは実際の時間の流れを越えてずっとずっと長い間一穂を支えてくれた本。
「ありがとう、蒼太。さようなら」
一穂は思い出を過去にして、前に進む。そうする他にないことは分かっていたけれど、はじめて受け入れていこうと思った。ひとつひとつ無理矢理にでも理由を探して覚悟を固めていく。つらいから行ったり来たり。それでも少しずつ……。
どのくらいの時間が必要だったのかわからない。自分が崩れていくように徐々に意識が失われていく。思い出と現実の境界が滲んで、一穂は沈んでいった。
眠りという名の終わり。
瞼を開いたとき一穂の目に映る光景は一変していた。
無秩序に散らかっていたはずの紙くずや空き缶などのゴミの類いは目の前から消えて、整然とまではいかないまでも、書類の束や本が床にまで積み上げられていた。片付いていないという表現では同じだけれど、意味はまったく違う。
これはどういうことだろう。
予想外の変化を眺めながら、手元の書類のひとつを手に取ってみる。
――?
それは、一穂が所属していた事業所も含まれる営業部ごとの予算と実績。印字された日付を考えると退職していないことは間違いなさそうだ。
また違う書類に手を伸ばすと、今度は地区の部門別の予算に対する実績に、地区全体におけるそれぞれ部門の構成比など。
目にすることがないわけではなかった。日頃、担当している部門の計画を立てるときに参考にしたりもする書類だ。けれど、事業所におけるさらに部門担当者でしかないはずの一穂が強く意識しなければいけないのは、荒利率、荒利額であって、所属する事業所の営業利益であるはず。……だったけれど。
そこに添えられた報告書に書かれている名前を見て、一穂はつい声が出る。
事実かどうかを疑う。印字ミスではないか。けれどそんなミスはありえないだろう。別の書類も確認して疑問は解けたけれど、さらに簡単には分からない謎が生まれる。
狭山一穂の肩書きが、担当部門の主任ではなく、担当部門の地区を管轄するSV(スーパーバイザー)になっている。一穂が担当していたはずの業務ではないし、おかしい部分を子細を省いて簡単にいえば、以前より明らかに難しくて高い職位のはずだ。
どうしてこんなことが起きるのか。
机にもたれかかったまま眠ってしまって、生気を失って抜け殻になっていたはずの一穂。けれど、生まれた疑問が次々に焦りと不安を呼び起こす。一穂の身体が意思を置き去りにして動いた。腕がデスクの天板をつかむまま、勢いに任せて立ち上がる。眠っていた姿勢が悪かったせいか身体の節々が痛んだけれど、とりあえず今はどうでもいい。
デスクに黒い手帳を確認する。一穂は心当たりのままそれを開いた。
書き込まれたスケジュール。状況は信じがたかったけれど、自分の特性や性格までは変わっていないようだ。研ぎ澄まされているけれどよく分からなくなるデジタルと、良いも悪いも必要以上のものまで染み付いてくるアナログ。一穂は重たくは感じるけれど、アナログでないと物事に追いついていけない。だから部屋にプリントアウトされた書類が山積みになっているのだろう。
スマートフォンの日付を合わせて確認して、一穂はひとまず安心した。
今日は休日になっている。ひとまず状況を把握して、すべきこと整理しよう。
一穂は巡回先の事務所でPCの前に座った。この事業所の担当者とは顔見知り。担当者会議で何度も会っている。この世界の彼女は一穂のことをあまり知らないかもしれないけれど、一穂にとっては頼れる仲間のひとりだった。
当然だけれど、一穂にはとても指導する知識や能力なんてない。それではSVとしては失格なのだろうけれど、そうなっているのだからしかたないと思う。だったら、意見を出し合って一緒に考えて、作り直せばいいだけ。
販売計画の修正も終わったので、次の巡回先の実績を確認しておこうと考えて画面を開いた。
自分の社員番号を入力していて、ふと思う。いや、ずっと思っていたけれど、もうどうしようもないことだからと注意を逸らしていただけ。
意識してしまうと忘れることは難しい。踏み込むことで泥沼にはまることが分かっていても。
一穂は事業所別の実績ではなくて勤怠の管理画面を開いた。
さらに開いたのは経営企画部。
一穂は、蒼太の名前を探していた。覚悟なんて簡単にできないし未練だってある。見つけたところで何ができるわけでも、何をするわけでもないけれど。
なぜなら、この現実では蒼太は同じ会社の働く仲間というだけの存在なのだから。
管理画面には履歴が残ることは知っている。誰がその画面を開いたかを確認する人がどのくらいいるのかはわからないけれど、きっと本人が知ったら気味が悪いだろう。地区のSVが本部のしかも中央の社員の出勤状況を知ってどうするのか。何の意図もないのに確認するようなものでもない。
罪悪感がだんだん重みを増していく。……やめよう。
けれど、おかしい。一覧をスクロールさせたけれど名前がない気がした。それが必要なことなのか疑問だけれど、もう一度だけ確認してみる。
やっぱり名前はない。この世界では、蒼太も一穂と同じように所属している部署が変わっているということなのか。
ますます気になってしまう。自分の予想通り泥沼ではないのか。
一穂はよくわからないまま、蒼太の社員番号で検索する。
表示された蒼太の在籍しているしている部署。そして勤務状況。
知って一穂は困惑するしかなかった。
もうストーカー行為と何が違うのか。けれど、一穂は鞄を手にすると、表示された画面を閉じることも忘れて立ち上がった。
椅子のスプリングが鳴って、回るキャスターが音をたてる。
一穂は勢いそのままに事務所を飛び出した。
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