第2話 取り違えた想い
蒼太が最後にどんな表情をしたのか知らない。
知っているのは、疲れ果てたような表情で見つめる蒼太の顔。それは、一穂が感情的になって一方的に最後を通告したから。
そうしなかったときの今。蒼太はいったいどんな表情したのだろう。唯一それを知っているはずの自分にその記憶はない。実際になにが起きたのかは分からないのだ。
残った記憶と葬られてしまった出来事。自分の中にない記憶と立ち会っているはずの出来事。
まるで世界から切り離されてしまったような気持ちになる。それでも一穂の中には蒼太との記憶がある。それはたしかなはずだ。
一穂は、蒼太との最後に会ったらしい場所にいた。自分でない一穂は何を思ってここに来たのだろう。何を考えて覚悟を決めたのか。
県立総合文化センター。国道を県庁前で折れ、駅の裏を通って、博物館も越えて進む。まっすぐ行くとバイパスの下をくぐって、高速道路のインターチェンジまで繋がっている県道。バイパスの手前、視界が開けた場所ですぐに左に曲がると上り坂になっていて、そのさきに文化センターは建っていた。
そこには、大小いくつかのホールや会議室などがあり、県立の図書館をはじめ様々な施設が併設されている。
一穂が蒼太に初めて会ったのはこの場所だった。そして一穂の知らない自分はここで静かに終わることを選んだ。
当時を思い出しながら、当時のように一穂は施設の中を彷徨ってみる。
今では見慣れたはずの文化センターの景色に当時の記憶が重なる。まるでそのときの自分がここにいるかのように。
一穂がいるのは、今のここではなく、あの頃のそこだった。
指示されるままに来た研修会。
当時、身が引き締まる思いと同時に、心細さも感じていた。気安く話しかけられる相手は誰もいない。同じ研修を受けるはずの同期の友人とは違う地区になっていた。知っている顔は社内報で名前をみるくらいの偉い人だけ。
あとから知ったことだが、蒼太は中途入社だった。順番としては研修を受けてからつくはずの役職で、すでに働いていた。書類上、履修していることが必要となるためにそこにいただけ。
高校卒業と同時に入社した一穂と大学を出て、違う会社から移ってきた蒼太。年齢やキャリアを考えても、仕事上の接点はそんなに多くない。今思えば、まさに偶然だったと思える。
記憶を手繰って、手前のエレベーターには乗らずに階段を上る。
蒼太と初めて会った場所へ。
一段一段、近付いているはずなのに、記憶も感情もそのときの鮮明さを失っていることに気付いて、一穂は息苦しさを覚えた。当時と違うほんの少しの何か。目の前の現実が、大切な思い出を無造作に塗り替えていくような感覚。
出会ったときの一穂は焦っていた。時間は充分にあったのにも関わらず。
指示された会議室を探しながら北へ南へ、廊下を階段を彷徨った。ようやく目的の場所らしい部屋を見つけても閉まっている扉。プリントアウトした案内に印字された日時を確認をして、間違いではないと知ってますます困惑した。
「おはよう。まだ来てないよ。時間が早いからね」
記憶の中の最初の姿。エレベーターホールへ繋がる廊下の前、窓と窓の間に立っていた蒼太。両脇の大きな窓から外の光が差し込む。柱の部分だけが影になっていて、そこに人がいることに一穂はまったく気付かなかった。
当時の職場は先輩ばかりだったけれど、蒼太にはそんな同僚とはまた違った大人びた印象を受けたことを覚えている。穏やかな笑顔と落ち着いた雰囲気。
きっと、そのときの自分は、蒼太の言葉を聞いても場所と時間が間違っていないことに安心したくらいだったように思う。
お互いに所属と名前を告げて。いくつか他愛もない会話を交わした。どんな話をしたのか内容はほとんど覚えていないけれど、一穂のその後を決めたかもしれない一言があった。
「まじめだね。俺は頑張る人は好きだよ。応援したくなるから。……なんて、言える立場じゃないんだけどね」
蒼太は照れ隠しに笑っていた。慌てて否定したのを覚えている。一穂はまだまだ何も頑張れてもいないし、真面目でもない。方向音痴だからちゃんと目的地にたどり着けるか不安で早めに来ただけ。
今なら分かる。そのときも本当に真面目で、本当に頑張っていたのは蒼太の方だったのだ。
廊下でのそんなやり取りを思い出しながら、一穂は現実の会議室の前に立った。
扉は閉まっている。きっとどれだけ待っていても開くことはない。一穂に声をかける人もいない。
閉まったままの扉は、これ以上の過去への立ち入りを許さないという世界からのメッセージのようにさえ感じられる。
そんなメッセージは受け取れない。
蒼太が立っていた今は何もない空間。少しの間、見つめて気持ちを整理する。思い出ならたくさんあるのだ。
一穂は初めて出会った場所を後にした。向かうのは階下の別の部屋。
研修は何日かおきにあって、じっと聞いているだけのものもあったが、参加型のものもあってレポートの他に課題も出た気がする。内容は職場リーダーの育成のための研修だった。時期が来ると誰でも一様に受けることが決められているものだったけれど、一穂にはとても難しく感じられた。
通常業務の間に挟まれた各種の研修は、先に控えた試験と合わせて、一穂の悩みの種になっていた。
年に一回の登用試験では、一斉に筆記で選抜が行われていた。しかし、一定以上の等級になると、社内に公開される課題の発表が加わる。残ったものが役員も立ち会う前で取り組んだ課題の発表を行い、総合点上位者が面接に進む。そこで採点されたの評価を元に人事部で最終的な進路が決められていた。
一穂などは等級ごとに用意された筆記試験をパスすることも簡単ではなかった。おそらく、筆記で振り落とされることが一穂としても、経営側にとっても想定していた現実的な未来だったのだと思う。
「利益を追求するのは、会社のためだけじゃない。その利益は俺たちの給料になっているし、働く仲間の雇用を守るためでもある。そして顧客にまたより良いサービスを提供する上での財源になるんだ。もちろん、使途はチェックしなければいけないし、そのために数字の意味は分かっていた方がいいと思うけど……」
「仕事はひとりではできない。大きなことをしようとすれば尚更。チームで仕事を進めていくためにはメンバーに自分の意思を理解してもらう必要がある。そのためには、理解してもらえる伝え方をしなければいけない。ルールや業務命令で縛ったって人は離れていくだけだから。俺たちだってそういうことされたら嫌だしね……」
「組織のやり方に疑問を感じたら、その意思決定がどうやってされたのか確認してみるといいよ。そのための検印だから。そして関わった人たちがどんな仕事をしているのか見て、何を考えているのか想像してみるといいかもしれない。おかしいって思ったら伝えたらいい。だけどね、組織のあり方自体を変えようと思うなら、自分が偉くなって権限を持つ立場になるしかないんだよね。……あはは」
蒼太は、一穂に見えないずっと先を見ていた。
いつも聞いていると頭がぼーっとするような話を楽しそうにしていた。一穂はそんな楽しそうに何かを語る蒼太が好きだった。いろんなことを教えてくれたし、一緒に考えてくれた。一穂が分からなくて悩んでいると蒼太も辛そうな表情をしたし、答えが出たら笑顔になった。
一穂は思い出の中を彷徨いながら、現実の部屋の前にたどり着いていた。市民講座やセミナーなども行われる大きめの会議室。扉の前には案内板が立てられていて、今日もなにかの講座が行われているようだった。
部屋の前の廊下は広くて、平日でも人が行き交う。振り返れば、窓からは今歩いてきた広場が見える。その当時はあまりの緊張で周りの景色を確認している余裕なんてなかったと思う。それでもきっと広場の様子はこんなふうだったのだろうと想像する。
経験したことがないくらいの緊張の中、一穂はこの扉をくぐったことを覚えている。本当に自分で良かったのだろうか。何度も心の中で繰り返しながら、それでも応援してくれた所属長をはじめ、たくさんの同僚の期待に応えなくてはいけない。そして――。
「だいじょうぶ。こんなの社内行事だし、みんながいっちの練習に付き合ってくれてるんだよ。気楽に行こう!」
等級も職位も一穂より上のはずの蒼太。試験は別の日にされているはずなのに応援に来てくれていた。その期待に応えたい。一穂は大きく頷いて演台に向かった。役員もいる前でやんちゃに拳を突き出して笑顔で送り出してくれた蒼太。まるで蒼太が試験を受けるかのように熱くなっていた。それは今でも忘れない。
お互いに職位が上がって忙しくなった。蒼太は本部に配属が変わったが、ほとんど本社にいなかった。電話でも声が聞くことが少なくなる。一穂も取れる休日がどんどん減っていって、会えない日が続いた。無理だとも思える難題に直面する度に一穂の心は大きく揺れた。どうして自分はこんなことをしているんだろう。もっと適任の人がいるんじゃないかと。
何のために頑張っているのかなんて、ずっと知っていた。
蒼太は「頑張っている一穂が好き」だって言ってくれたから。
一穂はひとつひとつ思い出を紐解きながら、文化センターの廊下を歩く。ふたりがよく待ち合わせ場所にした図書館前へ向かう。そこには意味の分からないモニュメントがある。蒼太ならそんな理解不能なモニュメントにも意味を見出せたのだろうか。
再び屋外に出ると思ったよりも強くなった日差しに目がくらむ。
小さな屋根が組まれたベンチの下には学生の姿が見える。
県立総合文化センターの近くには県下では進学校とされている高校がいくつかある。進学塾も多く、平日でも学生の姿は珍しくない。一穂が現役の頃には全く縁がなかった世界だったが、ここに通うようになってからそんなことも知った。
職場で「ちゃんと勉強してこなかっただろう」とからかわれることがあった。それは事実なので、自分の不勉強を詫びて教えを請う他にない。けれど、「『経営企画』に彼氏がいるのにそんなことも分からないのか」と言われると、一穂はよくムキになった。自分がどんなふうに思われてもそれは自分の問題だったけれど、自分と一緒にいることで蒼太の評判に傷が付くことは許せない。意地になって無理も無茶もしたと思う。
それでも、地道に積み上げてきた人たちにはとても敵わないことも思い知った。
蒼太と一緒にいたくて、笑顔を見ていたくて、組み上げた積み木。足下は今にも崩れそうに不安定で、けれど崩すわけにはいかない。せめて蒼太が見える場所で、蒼太の語ることの意味は理解できる自分でいたい。
たまに会っても仕事の話になってしまうふたり。それ以外に何もしていなかったのだから仕方はなかったけれど、そんな中でも耐えかねて聞いてみたことがある。
「もし、わたしが仕事を辞めて蒼太と一緒にいたいって言ったら、蒼太はどう思う?」
「……それは嬉しいよ! でも、今はできないことかな。俺はほとんど家にいられないから、絶対にいっちにだけ寂しい思いをさせちゃうこと分かってる……。俺たちはまだ若いし、夢を追いかけてみてもいいと思うよ。だから諦めなくていいから!」
そう言って笑った蒼太。きっと励ましてくれたんだと思う。でも……。
――寂しい思いなら、ずっとしてるよ。蒼太。
一穂は笑顔の蒼太を見て、そんなことはとても言えなかった。
やっぱり……とは思わない。だって信じていたから。それでもこの毎日をやり抜くと決めたんだから。きっと続けた先に良かったと思える明日があるんだって、ふたりで信じていた道だから。
けれど、それを一穂は壊してしまった。
蒼太が海外の事業所に転属になると知ったとき、一穂ははっきりと取り違えていた自分の想いに気付いた。そして、もう我慢なんて出来なかった。
ずっとずっと追いかけてきた存在が見えなくなってしまう。手が届かなくなってしまう……。
そして暴走した。
もしかしたら、最初から終わりが決まっていたのだろうか。
一穂の目の前に意味不明のモニュメントがある。結局、蒼太にその解釈は聞けなかった。一穂の知らない自分は聞いたのだろうか。
そういえば、
月影の下の後悔に現れるという。それは今晩なのか、来月なのか、もっと先なのかは分からない。
けれど、次にイラゼルと出会ったときには何を願うか決めておこう。
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