願いをかさねて
なるゆら
第1話 失意に差す光
何もかもどうでもいい気がした。明日のことなんて知らない。
いつの間にか大切にしていたものを忘れていた。
朝から晩までずっとこうして天井を眺めている。今は真っ暗でその天井も見えない。
疲れているのか眠いのかわからないけれど、とてもだるい。でも眠れる気はしない。身体は重くて床に縛り付けられているように動かないけれど、ふわふわとした意識はまだ残っている。
カーテンの隙間から差し込む月明かり。よく見えないけれど、部屋の中はあらゆるものが散乱してひどい有様だと思う。それがどうしたというのか。片付いていようが散らかっていようがまるで意味を感じない。
完全に酔っている。以前、研修旅行で真っ先に酔いつぶれて夜中に周囲に迷惑をかけたことがあった。自分はアルコールに強いタイプの人間ではないことを知って、それ以来お酒は飲まないことにしていたけれど。
でも、迷惑をかける相手なんてもういないし、どうでも良かった。
仕事は辞めた。決して円満に退社したわけではない。辞めたことになっているだろうと思うだけだ。書類上の扱いはおそらく解雇だと思う。
もう、出社できません。一言、電話で告げただけ。そんなことで済まない。社会人としての常識を疑われる行動なのは間違いない。分かっている。しかも理由がこれでは……。
重い頭をゆっくりと右に傾けると、床に落ちている何かしらの中に地味なフォトフレーム。どんな写真が入れてあるのか。わざわざプリントアウトしてデスクに立ててあった。毎日目にしていたのだから忘れるわけがない。
馬鹿じゃないか。でも、もうかまわないとも思う。自分にとってそのくらい大切なことだった。それなのに、こんなふうになってしまうまで忘れていたのだ。悔しさがまたこみ上げてくる。いままで積み上げてきたものは何だったのか。一瞬で意味を失ってしまった。
開き直っているのではない。自棄になっているのは自分でも分かった。どうでもいいなんて思いながら、実は後悔している。
どうしてこんなことになってしまったのか。あんなことを言ってしまったのか。やり直したい。それは叶わない願い。それでも思う。何かの奇跡が起こってもう一度やり直せたら…。
……もうダメだ。
そう思ったとき。窓側の空間に光がぼんやりと湧き上がった。
窓が開いているかのようにカーテンがひらひらと揺れる。室内の闇に無数の淡い光が蛍のように現れて、次第に形になっていく。
幻覚。それは疲れ果てて酔いが回った自分が見た幻影。そう思った。
光の輪郭は次第にはっきりとしてきて、輝きを増す。そしてその眩い光の中に人の姿が見える。そうか幻というものはこんなにはっきりと見えるものなのか。
「後悔をしているのか、人の子」
それは一穂に語りかける。これも幻、幻聴なのだろう。「人の子」だなんて、キリスト教かなにかの神さまか。あるいはその使いか。正体がなんなのかなんて考えても意味はないだろう。消耗した自分の脳が見せた幻覚なのだから。
けれど、不思議だ。自分は何かの宗教を熱心に信仰しているわけではない。その幻覚は幽霊や妖怪かもしれないし、悪魔なのかもしれない。しかし、その幻影は天使に見えた。
「お前に『奇跡』を与えよう」
天使の幻覚は言った。
「奇跡」…それは、世界のあらゆる物理法則を無視して起きるような、通常はありえないと思えるような出来事を指す言葉だと思う。そんなものが本当にあるのだとしたら……。
「『奇跡』? それはどんな『奇跡』?」
その天使に向けて問う。自分の声は掠れていた。しばらく声を出していなかったからか、喚きちらしたからか、それとも……。喉を痛めているのかもしれない。しかし、喉の調子なんてどうだっていい。
幻覚でも夢でも、奇跡が起こせるというなら縋りたい。
光を纏った天使は答える。
「お前が生きてきた人生で3つ、『出来事を無かったこと』にしてやろう。それがわたしが与えられる『奇跡』だ」
無かったことにしたいこと。いままさに自分が後悔していること。自分は躊躇いなく言葉にする。だって幻覚だから。きっと夢だから。躊躇う必要なんてない。
「蒼太とケンカになってしまったこと。そしてわたしが……。感情的になって関係を終わりにしてしまったこと……それを『無かったこと』にして欲しい」
自分は朦朧とする意識の中で言った。
天使は自分の要求に淡々と応える。
「『蒼太とケンカをしたこと』、『お前が関係を終わりにしたこと』。その2つの消去を願うか」
天使の確認。いや、2人の関係を終わりにしてしまったのはケンカになってしまったことが原因だ。感情的になって、一方的に関係を終わりにしてしまった。その出来事が「無かったこと」になるならそれで充分なはずだ。
「蒼太とケンカになってしまったのは、わたしが感情的になってしまったから。……そう、『感情的になってしまったこと』を無かったことにして欲しい」
天使は無言。おそらく表情もない。
「承知した。ではその望み叶えよう。お前が眠りに落ちて目覚めたとき、それは『無かった』ことになる」
そして、天使の幻覚は続けた。
「お前の名を告げよ」
自分は特に考えることもなく答える。
「わたしは一穂。
自分の答えに天使は頷いた。
「我が名は、
イラゼルと名乗った幻覚は、そう言い残すと纏った光とともに形を失っていき、解けて消える。消えてしまったあとには、そこに何かがいた痕跡もない。自分の疲れ果てた脳がが見せた幻覚。一穂はイラゼルが現れて消えた空間をぼんやりと見つめる。
たしかにそこにいたのだろうか。しかし気休めでもいい。
今日は、幸せだったあの頃の思い出の夢が見られるのだろうか。それとも、あったかもしれない明日の夢が見られるのだろうか。
一穂は少しだけ心が軽くなった気がして、ようやく意識がまどろむ。
そのまま眠りに落ちていった。
目覚めて違和感を感じた。
部屋の景色が昨日までと違う。
昨日の夢のことを思い出す。いや夢ではないのかもしれない。
確認する。日の光が差し込む室内が自分の部屋であることは分かった。けれど置いてあるものが違う。位置が違う。思い出そうとしても、なぜここにあるのか分からない見覚えのないものがいくつか。ここがどこなのかは分かったけれど、今が自分の知っている昨日の次の日ではないことを感じる。
と同時に混乱した。
昨日の出来事が本当なら、今日は自分が望んでいた未来になっているはずだ。そうだとしたら、一穂の目に映る場景はおかしい。
部屋の景色は違っていたが、様子はまるで変わらなかった。
雑多なものが散らかっていて、荒れた室内。
慌てて身体を起こし、電話を探す。いつも手元にあるはずのそれがない。ますます気持ちが焦ったけれど、幸いテーブルの影に落ちているのを見つけた。手を伸ばして拾い上げる。
画面を開いて確認する。表示される日付があるはずの今日なのは間違いない。
スマートフォンの電源は生きていたが、バッテリーは今にも切れそうだ。そういえば充電していない。
しかし、今は状況を確かめることが先だ。いろいろと気になることはあるけれど、真っ先に確認しておきたいこと。……そうであって欲しくないこと。
一穂はメッセージを開いて愕然とした。
何も変わっていない。
事実が何も変わっていないではないか。
なかったことになると聞いていたはずなのに。
もう一度確認する。自分の記憶と照らし合わせて、メッセージのやり取りの小さい部分に違いはたしかにあった。けれど、事態が進んだ方向は同じだ。
無かったことになるはずの部分はたしかに違っていた。
あの日、ケンカ別れした日、ふたりは会っていない。冷静なやり取りが数回あるだけ。
けれど、次の日に会っている。
冷静に淡々とやり取りは進んで、結果としておそらく同じことが起きている。
まるで、ふたりがそれを望んでいて、合意したかのように。
『今までありがとう。お互いに頑張ろうね』
事実は変わらない。別れた日が違うだけ。
そういうことだった。
一穂は心の中で叫んだ。
いつどこで、何を頑張るのか。何のために。どうして。
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