1章 始まり

1話 老爺

「やあ。黎君。久しぶりだね」


警視庁の入口に、眼鏡が似合い、知的さのえる老爺ろうやが立っていた。


まだ健全らしい黒髪くろかみは、やや茶色がかっていて、水流のように、左右に分けられている。

いかにも、理想的な紳士という風貌であった。


「……とは言っても二、三週間前に会ってからですよね…………絹田きぬた課長」


その老爺は絹田という。

絹田茶楽きぬたちゃらくである。


黎の三倍近くは年齢を積んでおり、だいと修飾したぐらいでは済むわけもない上司であった。


彼と対面し、黎の緊張は加速する。

さらには、先刻せんこくのこともあり、余計な不安もあった。


……あの少女は大丈夫なのだろうか。


そのことばかりが、黎の頭を駆け巡っていた。


時間のためとはいえ、しっかりと無事の確認をしていないのでは、後悔するほかはない。


見たところ大事だいじではなく、無事であろうと思うため、そこまで心配することはないかもしれないが……。


……そのとき、茶楽は、黎の思考を見透かしているかのように笑った。


「二週間なんて長いものだろう。短いと思うのは、毎日が充実していない証拠だ。こんなジイサンよりも、短い日常にしてはいかんよ。小さいことをジリジリと悩んだりせず、一人で何でも背負えると思わず、な。」


横隔膜の伸縮がはっきりと分かるほどにカッカと笑っていた。


紳士らしからぬ大笑いであった。


……さすがにお節介が過ぎていただろうか。


無事を祈ることしかできない。

だが、それで十分なのだと、それ以上はむしろ迷惑にもなりうるのだと、茶楽は言おうとしているように思えた。


ならば、どんなに心配であろうとも、無事であると考えているのが一番良いのだろう。


そして、再び会えるかは分からないが、会ったときには、もう少し言葉を交わしたいものだ……。


……そんなふうに考えていると、茶楽の大笑いは静まっている。

結論に至ったことも見透かされたのであろうか。

一見いっけん大きな背中を黎に向け、穏やかな口調で言った。


「さて、このまま立ち話をするのもいいが、時間もあまりないからね。そろそろ、中の案内を始めていくよ」

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