青藍ベルガモット

アーモンドゼリー。

プロローグ 少女

車がアスファルトを高速で駆け抜ける音響は、さも初々しく見える竹田黎たけだれい青年の心臓をも加速させるばかりであった。


黎青年というのは、「几帳面」という言葉をそのまま具現化したような、容姿性格ともにこまやかな美しさを呈した青年である。


整えられた黒髪で、短くはなく、また長いということもない。

その美しさであるが、今日は普段以上に端正に仕上がっていた。


現在は四月上旬……桜の花びらが優雅に舞い落ち、質素な色の世界に鮮やかな因子を与えている。


新社会人を祝っているかのようだ。

もちろん、黎も祝われる者の一人なのである。


大学卒業の翌年、国家公務員試験に合格し、見事、今年から警視庁に勤めることとなった。


だが、ゆえに、それは彼にとって、新世界への突入を意味する。


緊張しないはずもない。


さきほどから、挨拶の言葉を思いついては、かき消す作業を繰り返している。

歩き方さえも、ぎこちなく思えてくる。

様々な思考が、脳内を駆け巡る。


そうしているうちに、やがて交差点の赤信号にとまった。


仮にも大都会東京であり、横断歩道と、それに伴った信号待ちは長い。


これほどまでに長い信号待ちを経験したことがあるだろうか……と、薄く余った平常心が思わせる。


時間の経過が遅い。

だが脈拍は速いままだ。


走る車の下敷きになっているコンクリートが、闇へ引きずりこもうとしているように感じられ、なるべくそれを見ないよう、とっさに車道を挟んだ向かいに顔を向ける。


そのとき……ふと、白髪はくはつの少女が目にうつった。


脈拍が一時停止をしたように感じる。


チラチラと観察しながら、黎は考える。


高校生くらいの年齢であろうか。

白髪というのは珍しいが、いわゆるコスプレか何かなのだろう。


少女は黎の視線に気付かない。


……さらに細かく見ようとする。


よくは分からないものの、端正だが穏やかな目鼻立ちで、引き締まった唇が彼女を理知的に魅せていた。

控えめに言っても美人である。


脈拍が次第に速くなっていく。


……深呼吸を入れ、さらに見る。


細く、長く、整えられた眉が、堅く、傾斜しており、彼女は信号待ちの時間に焦りを感じているようだ。


そこでようやく、黎の心は羞恥心しゅうちしんに負けた。


手を軽く一度、胸にトンと当てる。

視線を信号へ戻し、緊張感と羞恥心とを落ち着かせようとする。


それはちょうど、信号の赤が消え、代わりに真下で青が現れるところであった。


思考を切り替え、震えているかもしれない足を持ち上げて、横断歩道を渡ろうとする。


だが、そのとき、アスファルトから唸る音が鳴った。


グォンと響く音とともに、信じ難い速度で、交差点を、比較的大型のトラックが曲がってきたのであった。


ともに聞こえたのは足音で、ふと前を見ると、横断歩道を、かの白髪少女が走って渡ろうとしている。


少女は焦燥に追われるのみで、曲がるトラックには気付いておらず、このままでは必ずや衝突するだろうと思えた。


冷えきったような状況で、なんとかしなければ……という温かい情動が黎を突き動かす。


情動とは言ったものの、刹那せつなに思考などはない。


追突するような形で白髪少女にしがみつき、己さえ怪我することをいとわずに、前方へと身を投げた。


コンクリートに倒れる衝撃とともに、ウッ……とうめき声が出る。


文字通りの間一髪、紅血こうけつのにじみは見えるが、致命傷はない。

むしろ、その血をしたたらせているのはもっぱら黎の方であり、少女には傷などない。


なのだが、黎は少女の身を案じている。


「大丈夫ですか……!」


肩を揺すり、顔を寸前まで近づける。

少女はまもなく目を開けた。


そして、眼前に突然据えられた美青年の顔を見てすぐに赤面し、顔を横に背けた。

美青年でなくとも、この状況下で、何も思わずにいられることはないであろう。


「あ……大丈夫です…………ありがとうございます……」


黎は、雪のような純白の美しさの中に、紅く揺れ動くほむらのようなあでやかさを感じ、恍惚こうこつとしてしまった。


だが、冷静になれば分かることであったが、さきほどまで自分は何を焦っていたのだろうと案ずる。


ハッとして気付く。


限りなく最小の動きで、左腕を鼻の延長線上まで持ち上げ、時計を確認する。

はたして、こうしてはいられなかった。


多少の出血をしてはいるが、痛みのそれほどではないのが幸運であった。


急いで立ち上がり、前傾姿勢になりながら、少女へ視線を戻す。


「なら良かった…………僕は時間がないので、もう行こうと思います。もうこんなことがないように、気を付けてくださいね……!」


……黎は走っていった。


少女はまだ、地面に座り込んだままである。

そのとき信号の青は点滅を始めていた。


少女もまた恍惚としていたのだが、信号の点滅も含め、今は走らねばならない。


赤へと切り替わる寸前に、少女は先の歩道に辿り着いた。

出血してはいないが、少女の顔面は、通行の危険を叫ぶ信号以上のくれないとなっていた…………。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る