弐
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「なんじゃこりゃ……」
響くその声は、ただ誰にも聞きとられず空しく消え入る。
絶句する僕は、今ただただ自身の顔を鏡で凝視していた。
――――――――――数日前。
僕は無事に退院した。
目を覚ましてからというもの、気を扱えないこと以外に体の不調はない。
あれから例の頭痛も影を潜めており、通常の生活に別段影響がないことを確認できたため、僕はわりと健やかな気持ちでお世話になった病院を後にした。
今日は退院後初めての登校日である。
朝、差し込む朝日のまぶしさに目を覚ました僕は、いつも通り身支度をしていた。
スーパーで買いこんだ薄っぺらいトーストを焼きつつ、寝ぼけ眼をこする。
チンっ。
甲高い機械音と共にトースターから飛び出すトーストをキャッチし、速攻でそれを片した後、僕は歯磨きをするべく洗面台へと向かった。
洗面器に歯ブラシを濡らし、それを口に咥える。
そして、それと同時に垣間見た鏡に映る自身の顔が視界に入った瞬間、僕は絶句した。
改めて言わせてほしい。
「なんじゃこりゃ……」
そこに映るのは僕、らしきものだった。
燃えるような赤い髪。
業火に燃える灼熱の瞳。
鬼のごとくとんがった耳。
ちょっと鋭利な八重歯のような牙。
身長は……いつも通りくらい。気持ちちょっと大きくなったかなくらい。
「うそでしょ……?」
何でだ。前兆はまったくなかった。
あれ以来この姿になってしまったのは初めて。
しかも今回は前回のような頭痛はなかった。
正直、僕は油断していた。
前回あの姿になったのは、直前にあった頭痛が何かしらのトリガーになっているものだと思っていたからだ。
だから、もし自身の体に異変が起きたら、すぐにわかる。
頭痛が変調を伝えてくれるのだから、その時何かしらの対処すればいいだろう。
そう高を括っていた。しかし、それはまったくの勘違い。
何の痛みもなく。そして、何の感覚もなく。
無意識に、この姿になってしまっている。
これがどんなに危険なことか。
鏡に反射する赤い光をぼんやりと見つめる。
そういえば、天音に憑りついたときの『鬼神』と、今の僕は少し違う。
まず目についたのはその見た目だ。
天音が憑りつかれた際の彼の姿は、まさに伝承に出てくる姿そのもの。
化け物。それしかあの生物を言い表せない。
しかし、今の僕はそこまで人間離れをした姿ではなかった。
髪、瞳が赤くなり、耳も多少はとんがっているという姿は、確かに伝承の姿と類似しているといっていいだろう。
しかし、通常時と大して変化のない部分もある。
顕著なのは牙。これは人を噛み殺せるような牙ではない。
サイズで言ったら犬にも劣る、小さく、幼さをのぞかせる牙。ぶっちゃけ、八重歯です、と言えば通じるレベルだ。
そして、もう一つの気になる点は体のサイズ。
正直言おう。通常時とぜんぜん変わらない。
気持ち、身長がちょっとのびたかなー程度の微々たるもの。本人しか感じ取れないくらいの小さな差だ。
そして、天音と僕の一番の差。
それは、自我の有無だ。
天音のとき、天音の意識が戻ったタイミングが一回だけあった。
しかし、それはほんの一瞬だけ。常時、自身の意識を保つことは出来ていなかった。
しかし僕の場合は違う。
現状、僕の意識は完全に保たれており、また、自身の思うとおりに体を操作できていた。
僕が一番懸念していたこと。それは無意識に人を襲うことがあるのか否か。
天音の場合は完全に我を失い、僕たちを襲ってきた。
まるで獣のように。
しかし、僕の場合は自我を保てる。実際に今、僕は自身の意識を保つことが出来ている。
と、いうことはだ。
僕は『鬼神』になっても、人を襲うことはない。
「これなら学校に行っても大丈夫かな……」
そんな考えが頭の隅をかすめるが、それはすぐに断念される。
だめだ。
もし、この姿を誰かに見られたら。
そして、この姿が伝承の『鬼神』だとばれてしまったら。
そんな昔の伝承を知っている人なんていない。そう考えるのは楽観的過ぎる。
なぜなら、天音と白夜さんは知っていたのだから。
この街に住む誰とも知れない他人がこの伝承を知っていて、僕のことを『鬼神』だと認識してしまったら……。
考えるだけで嫌だ。怖い。
幽霊が見える。
ただそれだけの理由で、僕は昔いじめられていたのだ。
あいつは『鬼神』だ。
これがばれたとき、僕が周囲からどんな扱いを受けるのか。
それは火を見るよりも明らかだった。
――――――――――隠し通すしかない。
静かに頬をなめる滴を、拭うことなく見送った。緊張で強ばり、ほどくことの出来なかった拳を深呼吸と共にゆっくりと開く。
洗面台から離れ自室に戻り、鋭く長い爪を擦りあわせつつ、昨晩ソファーに放り投げたまま放置していたスマホをしっかりと掴んだ。
連絡先はもちろん、学校だ。
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