――――――それは遠い遠い、昔の話。


とある村。そこに一人の青年がいた。

彼はとても明るく、そして誰にでも優しく、そしてとても働き者で、村の皆からも好かれている好青年だった。


とある日の昼下がり。

青年は一人、畑仕事にいそしんでいた。


そして、畑仕事もひと段落。

休憩に地面へ座り、握り飯をほおばりつつ、お茶を味わう。


のどかな日だ。


気分よく空を仰ぐ。

快晴。雲一つない。

それはそれは気持ちのいい日だった。


不意に。


視界の端を何かかがかすめた。


何だ?


視界を揺らし、一瞬瞳に映り込んだその何かをひたすら探す。


何かが浮いている。


形容するならば、手まりのような形をした光。

今にもかき消されそうな、ぼんやりとしたほのかな輝きを持つそれは、静かに青年の視界の中をさまよっていたという。


ふわり。


そよ風が吹いた。


少量の砂埃に目を細める青年。


風がおさまり、再び空を仰ぐ。


すると、どうしたことだ。

先ほどまでゆっくりと大気をさまよっていた淡いまりのような光が、こちらに向かってくるではないか。


何事か。


得体のしれないそれに、青年は落ち着かせていた腰を上げた。


その時、耳の奥底から何かがよじ登るような感覚。


気持ちが悪い。


思わず悲鳴を上げる。


ひっひっひっひっひっひっ


これは、笑い声か。

視界が揺れる、足元がおぼつかない。


耳の中が気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。


まるで耳の中で百足が這いずるような、おぞましい感覚が青年を襲う。

たまらず耳の中をかきむしる。掘るように。ひたすらかきむしる。


掻きすぎて出血する。しかし、青年はなおもかきむしる。


がりがりがり。がりがりがり。


痛覚すらも置き去りに、彼は自分の指先を血で濡らしていった。



どのくらいそうしていただろうか。


暮れかかった灰色の空。そこから覗く少しの夕陽。


照らされる少年は、赤く染まっていた。

それが夕陽によるものなのか、自身の血によるものなのか、もう彼にはわからない。


何もわからない。


朦朧とする意識の中、彼は自身の掌を捉える。

ぼやける視界の中。彼は見たのだ。


掌におさまる、マリのような光を。





――――――かん、かん、かん、かん、かん



けたたましい半鐘の音色が村中に鳴り響く。


化け物だ、化け物が現れたぞ!


怒声が響く。


女子供は避難しろ。間に合わなかった者は捨てていけ。


村の男たちは武器を持って立ち上がる。


武器を向けられた物の怪。


燃えるような赤い髪。

業火に燃える灼熱の瞳。

鬼のごとくとんがった耳。

人を食い殺さんとする鋭利な牙。

身の丈は7尺ほどの大男。


周囲には女、子供の死体の山。

子供の肢体は四方に引き裂かれ、女は犯されたのちにその体を噛み千切られている。


辺り一面に広がる、精液と血が混じった、鼻をつく異臭が辺りを飲み込む。



殺し合い。

ひたすらに殺しあった。



時間の感覚がない。

どのくらい殺しあったか。

わからない、わからない。



それは突然のことだった。


身の丈、7尺ほどの化け物は突如うち崩れる。

地面が大きく振動した。


村の男どもはおそるおそるそれに近づくが、化け物は微動だにしなかった。


念のため、3度ほど心臓に刀を立てる。

吹き出る血。


村人たちは安堵とともに歓喜した。


大きな大きな穴を掘った。

村人全員で穴を掘った。


それはそれは大きな黒穴。

地獄に通ずる大きな黒穴。


埋葬されしは災難もたらす物の怪、鬼神(おにがみ)。


灼熱色に染まる物の怪の死体は、まるで鬼のよう。

村に災難もたらすその力は、まるで神のよう。

異形のものに魅入られしは心優しい人間。



ゆめゆめ、忘れることなかれ。





♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎




なるほどね。

僕は、天音が忘れていった彼のメモ帳からゆっくりと目線を外した。


昼下がりの授業中。

黒板をチョークで叩く音が聞こえる。


鬼神、か。


感想としては、あまり面白い話ではなかった。

それに、特に真新しい話というわけでもない。


何で天音は、今更こんな話を持ってきたのだろう。

分からない。


僕は机に広げた彼のメモ帳を机にしまう。

窓から差し込む光を細目で見上げ、僕は小さく欠伸を漏らした。


そのまま机に突っ伏しつつ、外の景色に目をやる。


快晴。雲一つない青々しい空。

いつもなら気分のいい一日だろうに、なぜか嫌な予感が僕の心を揺さぶっていた。


心の奥底で引っかかる、なんとも言い難い不安感。

気持ちのいい外の景色を見ても、それが拭われることは一切なかった。

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