いとしいとしと-下-
「神隠しをご存知ですか」
日が傾いてきた。草の影は背を伸ばし、灰色のコンクリートに濃い黒の波模様を描く。
「神隠し」
三角座りの彼女は首を縦に振った。「そう、神隠し」使い古され汚れた薄水色の運動靴が彼女と地面を繋げている。隣に並んだ僕の白いだけの運動靴。
「私、小さな頃に神隠しに遭ったことがある」
「………」
彼女は何ということでもないように、軽く口にした。神隠し。それは本来、恐ろしいもののはずだ。天狗が、鬼が、山の神が、子供を連れ去る、そういった行方をくらます伝承。帰ってこない事例もあると聞いた。そう読んだ。
「有名なんですよ、少しだけ」
「あの」
けれど。けれど、一つだけ首をひねる箇所がある。
「覚えている、のですか」
くふ、と。彼女は笑った。
「覚えていない。ええ、私は全く覚えていません」
「それは、もしかして誘拐事件とかだったのでは…………」
「いいえ!」
彼女は凄い剣幕でまくしたてた。むしろ噛みつくように。さっきとは打って変わって、僕の目をまっすぐ睨みつけ。今にも胸倉を掴むかと思うほど。
「私は神隠しに遭った! 私は神隠しに遭った! だって覚えている、覚えているんだから! 覚えていないけれど、覚えているんだから!」
その剣幕に圧倒される。
人とは、こんなものだったか。
これほどまでに強固な意志を、頑固な感情を、剥き出しにするものだったか。まるで本能のように。
まるで動物のように。
般若の形相の彼女は、それから歯を食いしばり、眉を吊り上げたまま、涙を浮かべた。
「………怖いんだ」
彼女の手が拳になる。強く握りしめる。爪が食い込んでいる。震えている。
「忘れていくんだ。………忘れているんだ。何があったのか、何を見たのか、そもそも何かを見たのか、もう、忘れて」
絞り出すように。嘆くように。
「なくなってほしくない……」
妖怪、異形、この世のものではない何か。
そういったものは、人から忌み嫌われるものだとばかり思っていた。少なくとも、好意を持たれるものではなく、厄として接されるものであると。けれど最近、それは間違っているのだと気がついた。
彼等は、僕等のそばに息づく現象なのだ。
それを生み出したのが僕等だとしても。
だからこその語り部で、だからこその裁ち鋏で。
だからこその黄泉への招き手だと。
「なくならない」
そんな彼等を呼ぶには何が相応しいのだろう。妖怪? 異形? 妖し? 鬼? どれもどこか違う。あやし、あやかし、そんなあやふやで、ふと目をそらせば姿を隠してしまうような彼等だけれど。
そんな、一線を画すものではないと。
「僕には、この世のものでないものが見える」
近しいものなのだと、
思いたいのかもしれない。
「けれどそれは本来の姿ではない、と思う。人間の、他の子の心は見通せないから、さとりの目でもないんだろう。見えるものがあの世のものなのか、この世のものなのか、区別することすら僕にはできない」
とっくに鳴かなくなった蝉。少し向こうに転がる小さなあれは、生を過ぎて事切れた、ただの土塊。かつては魂があったもの。かつては生きていたもの。その姿は遺っていても、到底それだとは思えなくて。
「だから僕は、凄く今、勉強している。この世の事象、あの世の物事、全てを。………そうしないと、追いつけない。知らなければならないと」
脳裏に蘇るのは、国防色の大日本帝国陸軍の外套。茶色く焼け爛れた肌に這う蚯蚓腫れ。白い手袋と黄ばんだ包帯。赤い赤い夕焼けが染め上げる古い町並みは頽廃的。闇をもつぶさに消し潰す、鮮烈な陽はかはたれに。
「知れば、見ることができるとは思わない。でも、知らなければ何もわからない。ただあちらのことを学ぶのではなく、こちらに目を向けることで––––––」
ぱちりと目を開き、閉じて。
彼女の目を、真っ直ぐに見た。
「あちらの側によることができるのではと」
思いたい、
だけだ。
だけなんだ。
ほんの少しの静寂。空気が消えてしまったかのような空白。
恋というのは、恋い焦がれるの恋いであると、乞うのこいであると聞いたことがある。愛し、愛しとこうのだろう。こいは孤悲、糸し糸しと言う心、そう書いて戀と書く。
彼女もいつかのなにかを乞うているのだろうか。
「………それはあなたの考えで、しかもなんの根拠もない感情に過ぎない」
彼女は立ち上がった。日が沈みきったというのに、空はまだ濃い夕焼け色をしている。足を大きく投げて、勢いよく跳ねた彼女は胸を張った。くるりと片足で周り、背の後ろで手を組んで。
「けれど好きだ」
朱色だった夕焼けは紫に移り変わっている。
彼女は逆光の中で、とびきりの笑顔だった。
後ろに、黒い翼が
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