いとしいとしと-上-
「結婚を前提にお付き合いしてください」
思わず目を丸くした。
「ええ、と」
みいんみんみん、蝉時雨。みいんみいんみん、じいじいじい。あれはくまぜみ、あれはみんみんぜみ。靴の下には硬い感触、アスファルト。ひび割れた隙間から緑がつんと背を伸ばし、柔軟に風に吹かれて葉を揺らす。靴下の外側から擦る青を目に止めて、僕はまた目の前の事象に向き直った。
肩のあたりで切り揃えられた髪は黒。整髪料の匂いは特に感じない。きついシャンプーの匂いもない。かといって清涼とした爽やかさがある訳でもない。身嗜みを最低限整えた、どこにでもいる、ありふれた、月並みな、そんな平々凡々とした雰囲気だ。赤い縁の眼鏡の奥で焦げた茶色が酷いくまに縁取られている。まぶたは重そうで、瞳の上半分を覆い隠してしまっていた。
「
「はい。私の名前は次原
「なにもそこまで」
「そこまで? ふうん。まあ、構いません。これはあくまで比喩、言葉の綾に過ぎませんから。あなたに比べれば、という意味で」
太陽がじりじりと肌を焼く。背中を濡らした汗が伝って腰にへばりつく。
目の前でぱくぱくと口を動かし唇を濡らす彼女。あまりの情報の多さに、僕は彼女の話す声についていくのに必死になっていた。彼女の視線はしっかりと一点を見つめていて、………けれどそれは僕の目を見ているのではなかった。胸のあたりを凝視している。そこから目をそらすことはなかったが、僕の視線が彼女の視線と交わることもないのだ。
「きいていますか。人の話を」
倒置法。彼女はそう、語気を強めた。
「聞いています。けれど、僕にはわからない」
「何が、でしょう。できる限りお答えします」
ふむ、と僕は首を軽く縦に振った。できるだけ真摯に、彼女は僕に向き合おうとしている。突拍子も無い話を始められてしまったが、僕はそれが不愉快ではなかった。むしろどこか興味深かった。彼女のそれは僕にはない感情で、また、僕にはない判断で、そして、今僕は経験したことのない事象に行きあっているのだ。どこか不気味で陰鬱とした高揚感が微かに胸にあった。
「どうして、僕なのでしょう」
「どうして、って?」
彼女は僕の質問に対して首をひねる。
「僕よりも見目が良い子なら沢山いますし、あるいは、知能という点においても、僕は突出したものを持っているわけではありません。運動能力もさして誇れるものではありません。また、あなたはご存知かわかりませんが、家柄も、良いとはいえません。だのに、どうして僕なのでしょう?」
「なんだそんなこと。簡単です」
彼女は変わらず僕の胸のあたりだけを見ながら、口の端を吊り上げた。腕を組み、ふ、と、笑う。
「私は齋藤さんが特に好きというわけではありません。あなたではなく、あなたの個性が好ましいのです」
「個性」
「ええ、個性」
彼女は手をあげる。人差し指を伸ばす。そして、僕の心臓のあたりに向けた。
ようやく、彼女は顔を上げる。視線をあげる。右、左に揺れてから、その瞳は僕の藍色とかちあった。
「みえていますよね」
みーんみんみん。
鼓膜の内側から鳴り響くような大合唱。雨あられと降り注ぐ音の粒。吹き出す汗は夏のせいだけではない。
「友平くんが暴れた時、みんな、一目散に逃げました。遠のいて、できるだけ遠くに行こうとした。あなたは友平くんから離れようとしなかった。立ち竦んでいたから? ええそうとも言えるでしょう。けれど、あなたはずっとみていた––––––友平くんの腕を」
いいえ。彼女はかぶりを振る。
「友平くんの腕の目を」
あなたがあの時見ていたのは、と。
続けた声は無慈悲。
「友平くんの腕の目、………
僕の藍色は今どんな色をしているのだろう。
彼女は目を逸らした。また、僕の胸のあたりに視線をやる。
「あなたにお願いがあります」
ごくり。
喉がなる。唾を飲み込んだ音だ。内側から鳴ったそれは、耳で聞くのではなく心臓で聞く、そんな重低音がした。
「私に、××××を見せてください」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます