死神-下-
「俺のせいかもしれない」
赤く染まるアスファルトの上で、彼はぽつりと呟いた。側溝は昨日の雨の名残を残して水たまりを落とす。彼の言う死神を探して、迷路と松野は暗くなり始めている町の中心部を歩き回っていた。
隣で顔を青くさせる松野をちらと見てから、迷路は「どうしてですか」と単純に質問する。
「俺、中学受験すんだ」
「それは、」
そのあとの言葉が出てこない。どう言葉を返していいものか、ほんの二、三秒逡巡して、迷路は「凄いです」最後に出てきた感情に従った。
「何にも凄くねえ。受験するだけなら誰だって出来んだろ。受かるか受からないかの話なだけで」
「僕は、合格しない可能性の方が高いなら、受験したくありません」
「そうかよ。まあ、そうだろな。よっぽど入りたかなけりゃ、見込みのない受験なんざしたくねえ、俺も」
松野の成績は、迷路の目から見ても、もちろん第三者から見てもずば抜けて素晴らしいものに違いない、そう迷路は心に浮かべる。言葉の端々に感じる諦観を読み取り、迷路はきっとその受験が彼にとって良い意味だけを持つものではないのだと判断した。そも、迷路にとっては、己の通う学校の学力が低いとは思わなかったが、目指す地点によれば低いこともあり得るだろう。また受験に必要なのは何も学力だけではなく、勉強が得意だからというものが受験をしたいという理由になりうるとは、少なくとも迷路にとっては、到底思えるものではなかった。
「母さんがやれって言ったんだ」
そうだろうな、と。迷路は相槌を打ちながら、そうですか、と返す。
「嫌じゃない」
松野はそう、どこか別の場所を見ながら吐き出す。
「けど、思っちまった」
どこか口惜しそうで、悲しそうな顔。眉間によった皺は小学生とは見えなくて。口をぐっと閉ざし、唇を噛んで。
少し震えている。
「なんでって、」
思っちまった。
とても小さな消え入る声で、彼は嘆く。吐いた息は重苦しく、喉は掠れて焼けたような音を出す。
「思っちまったら、止まんなかった。なんで、訳がわからないまま、なんで、そうやって。そしたら、…………怖くなった」
「こわい」
「先が見えないのが怖かった。どこまでも続いていくんだろうっていうのが怖かった。母さんに言われるままに、言われたことをするのも、先が見えないのと同じなんじゃねえかって、思った。今までなんとも思わなかった《将来》、《未来》が、漠然とした、不安にまみれた、理解できないものみたいに思えて、なおさら」
それは果てしない空を見上げるように。
「そう、ですか」
なるほどなあと、迷路は一人合点がいく。あれがここに出てきた理由としては足りないかもしれないが、そもそも、彼岸のものらは神出鬼没だ。それがたまたま、現れた時に、引っ張られたと考えるのがいいだろう。
ゆらり、ゆらめく。
日が沈みかけた町は赤く染め上げられている。
足元のそれに、松野が気がついた。
「……………な、」
首が自然に持ち上がる。顎が上がる。視線が上がる。目を離すことができず、それだけを凝視したまま。首以外のどこも動かせない。息ができない。はくはくと口を動かし空気を捉えようとするが、口の中に入るだけで。ずるりと伸びていくそれを目で追うことしか
頭が固定された。
「うぐっ」
あと少しで尻餅をつく、その瞬間に、頭がこれ以上後ろにいくことがないようストッパーをかけられる。迷路の手が松野の首を固定している。これ以上後ろに下がらない。
動かない、動かない。
だめだ、つらい、苦しい、苦しい、苦しい。見えない、わからない、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。なんで、なんで。
なんでおればっかり。
目の前の死神の、口が、かぱりと開いた。
「なんでおればっかり」
「知りませんよそんなこと」
呆れたような声が、眇める藍色が、じとりと松野を見つめた。
「あ、ぐ」
「あなたのことなんてどうでもいい。僕は大切な人を守れたら他のことなんて知らないしなんでもいい。けどね、その言葉は許せません。いいえ、言いたくなる気持ちもわからないではありません。けれど、あなたは僕の制帽を盗みました。僕のことを殴りました。僕のことを蹴りました。僕のやってもいないことを言いふらしました。僕が先生方から恨まれるように仕向けました。そんなことまでしておいて、なんで自分ばっかり、なんて、よくも言えますね。あなたは馬鹿なんですか? なんで自分ばっかり、その言葉を言えるのは自分の不幸を他人に押し付けない人しか使えないんですよ」
ぐ、ぐ、ぐ。首が痛い。体力のない迷路の腕がそこまで強いものとは到底思えないのに、その力に抗うことができない。
「誰かのいいなりになるのが嫌なら自分で何かを始めればいいじゃないですか。将来に漠然とした不安を抱いているならそれを打ち消す何かを探し求めればいいじゃないですか。あなたほど頭のいい人ならそれくらいわかるでしょうに」
つらつらと流れる言葉は、松野が初めて聞く、迷路の長台詞。
「それで? あなたが今なすべきことはなんですか? 自問自答、自傷行為、自暴自棄に至る暇などあなたには与えられていないんですよ」
松野は、
妙なことに、気がついた。
松野の首が固定されてから、死神は動いていない。動くどころかそれ以上大きくならないのだ。ただじっと、こちらを見ている。
視線を、首を、少し、引いた。
死神は小さくなる。
また、引いた。
また、小さくなる。
松野は、ああそういうことか、と。
納得した。
小さく、小さく、小さく、小さく、小さく。
松野の背よりも小さくなって、幼児ほどのせたけになった小さな小さな死神は、それでも動かない。
迷路は松野の首から手を外し、アスファルトに胡座をかいて、頭を下げた。
「畏み畏み申し上げる」
そして、頭を上げる。
まっすぐに死神に向かい合い、迷路は淡々と、その魔法の言葉を口にした。
「見越した」
しゅう。
なんとも軽く、淡く。
死神は消えていなくなった。
「
「神輿?」
「見越す、の、みこしです。まあ、神輿の文字を当てたり、神輿に乗って去る、なんていうのもあるらしいですが。見越入道、尼入道、
「へ、へえ」
「見越した、と言うと消えていなくなる。あるいは、視線を落としていくと小さくなり、最後には豆粒になって消える。そんな言い伝えです」
「………お前、最初から」
「知っていましたけれど」
しれっと返した顔はやはり何を考えているのかわからない。
「でも、あなたは自分でどう対処したらいいのか模索して、辿り着いた。あの妖怪は、先の見えぬもの、いつ起こるかわからないもの、そういう不安の塊なのではと私は思います。あなたは、きちんとそれを見越した。対処する術を、対処できるものを、見越した。それさえわかれば」
あとはどうとでも。
「なあ、齋藤」
「はい」
松野の腕を担ぐ、自分よりも背の低い藍色をちらと見る。
「お前、なんで俺の助けを、許した」
「さあ、なんとなく」
なんとなく。
それがなぜか酷く愉快で、松野は喉を鳴らした。
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