死神-上-
「ねっちゅうしょうに きをつけよう」
黒縁眼鏡の先生から配られたのはざら半紙のA4判プリントだった。ほけんしつからのおしらせ、と題打ったそれには、大きく熱射病予防の事柄が記されている。水分をこまめに摂取する、よく寝る、朝ごはんを食べる、等々。季節外れにも程があるが、確かにここ最近は熱射病患者が大勢出ていると話に聞く。曰く、下校途中に突然倒れるとか。意識がまだ戻っていない重体の患者も出たらしい。さすがにこれは大問題だと、学校が重い腰を上げたのだろう。特に関わりのない話だなあ、ざらりと適当にプリントに目を通した。特に強く握りしめたわけでもないのに、くしゃりとプリントは歪んだ。皺を丁寧に引き伸ばしてから、ランドセルの中にしまい込む。誰に見せるでもないけれど。
さようならと挨拶をしてすぐに、クラスの少年少女は廊下へ駆け出していった。昨日の夜の残骸を踏みつけ、雫を飛ばしてきゃたきゃたと走り去っていく。友達の手を、宝物のように握って、また、握り返して、少女たちは帰路につくのだろう。それもまた、彼にとっては他人事に過ぎない事柄だった。大きな藍色の瞳でそれを見送り、彼もゆるりと席を立つ。ランドセルを背負って、制帽を被り、一人もいなくなった教室から外へと足を運んだ。
がらりと扉を開き、外へ出て、閉める。
人が少なくなった狭い廊下を、一段一段が低い階段を、いつものようにひとりで降りていく。
はずだった。
「なあ」
遠慮がちな雰囲気を内包した声が降る。
視界の死角に隠れていた人影が、首だけをこちらに向けてみせた。
「こんにちは。
何を思っているのかわからない、単調で淡々とした声色の藍色は、恐れの色を浮かべた少年に、さも当たり前のように応える。声をかけた少年、松野は小さく、ああ、と呟く。
恐れるのも無理はないのだろう。藍色の少年は首肯した。
なんにせよ、藍色の少年を苛めたのは、藍色の少年の宝物を奪うよう手下に指示を出したのは、他ならぬ松野少年であり。
松野少年に理解不明の、まさにこの世のものでない目玉の腕を見せたのは、藍色の少年なのだから。
「齋藤」
齋藤、と呼ばれた藍色の少年は、はい、と返す。
松野少年は何処か口惜しそうに顔を歪ませる。どのような理由で松野少年が齋藤少年に恐怖や悔恨を抱くのか、齋藤少年はとんと見当がつかなかったが、とにかく、《松野》という人物が己に対してなんらかの不相応な感情を抱いているということはわかった。松野少年は、はくりと口を動かす。
「お前、ようかい、退治できるか」
齋藤迷路は、言葉の意味を理解できず、首をかしげた。
「妖怪退治、ですか」
「あれが妖怪なのか俺はわかんねえけど、でもお前見えるだろ」
みえるかどうかと聞かれればみえると応えるしかない。迷路はとても素直な子だった。うんと首を縦に振ると、そんなことはすでに知ってるという風に松野少年はなんの反応も示さない。
「それをいうなら松野さんもみえているのでは」
「俺はなんか、ちげえっつうか、なんか、あいつ、伸びるんだよ」
見えるだけでは対処できない、と、松野は嘆く。
「なるほど、もしや、それが今多発している熱射病の」
「熱中症」
「熱中症の、根源ですか」
わざわざ言い直された訂正を受け取る。松野少年は厳かに首肯した。
「熱中症は屋内でも発症する。けど、なんでか屋外でしかぶっ倒れた奴は出てない。しかも、噂によりゃあ日光が出てる時じゃねえか。それにここ最近は冷え込んできて、温度だって高くねえだろう。なんで熱中症なんか出るんだ」
「水分を補給してなかったんじゃあないかな」
「ちげえんだよ。俺は見たんだ!」
とぼけた訳ではない、迷路は至極真面目に返答したのだが、松野少年の目にはそれが不真面目に写ったらしい。苛立ちを隠そうともせず彼は声量を上げて叫んだ。
「えらくでかい坊主なんだ! しかもどんどんでかくなってくんだ! こけちまったら倒れて動かねえんだ! あいつは死神なんだ、みんな殺してるんだ!」
「死神」
目を見開き今にも迷路の方に掴み掛からんとする松野は、切羽詰まった顔で眉を下げる。瞳には恐れの色しかない。
「助けてくれ! 友平の時もお前、なんとかしてただろ?!」
そんなことを言われても。
ううむと、迷路は首をひねった。そんなことを言われても、迷路はみえるだけで、他に何ができる訳でもないのだ。そも、縋られたところで他人には変わりなく、また、誰がどこで倒れようが、それもまた他人事に過ぎない。
けれど、と。迷路は考え直す。
家にやってくるお手伝いさんはどうみても《みえていない》人だ。彼女に害が及ぶ可能性も否めない。それはなんとしてでも阻止すべきことだった。
「それじゃあ、駆け引きをしましょう」
迷路は目の前の、いかにも矮小な少年に声をかける。
「僕と一緒に今から死神を見に行きましょう。上手くいけば、先参られるように畏み畏み申し上げましょう。そのかわり」
迷路は口元に右手を当てる。
「あなたは僕と僕の家族と僕の持ち物に手を出さないでください。これ以降、何があっても」
それが守られないようであれば、私は協力いたしません。迷路は初めから全く変わらない単調で温度を感じさせない声だ。
わかったと、松野は小さく応じる。
迷路はにこりと微笑んだ。
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