あいいろあいろ-中-
首を絞められたことがありますか。
湯船に沈まされたことはありますか。
実の母親の死体を見たことがありますか。
動かなくなった土塊を、動かなくなった心臓を、動かなくなった胸を触っても、
それが死体だと気付かなかったことはありますか。
僕の父はつい最近死んだのだと言う。それがどういうものだったのかは知らない。聞いていない。けれど、父が死んだということは、…………「齋藤」の当主が死んだということは、血縁上「子供」に当たる僕になんらかのアクションがあっても不思議ではないと思っていた。
僕はあの時、貸本屋の店主に、「齋藤の家は息災ですか」と訊いた。店主は「当主が亡くなった」と言った。確かにそれは大事件だ。けれど、当主が死んだことが「息災ではない」ならば、予想できることが一つある。
齋藤の家に、次期当主がいないということだ。
齋藤の家は血統を重んじる。当主の実子、あるいは当主の実弟が次期当主となるはずだ。僕の記憶によれば、父に兄弟はいなかったと思う。つまり実子がいなければ傍系に逸れる。
そんなことはまずない、と思っていたが。
あったのだろう。
齋藤の当主であった齋藤行路には、実子がいなかったのだ。
あんなに綺麗な奥方を捕まえておいて、よく手を出さなかったものだと思いかけたが、いや、そうではないのだろうと僕は考えを改めた。自分の意思で子を作らなかったのではなく、後回しにしていただけなのだろう。二十六にもなって何をやっているのだろうか、血筋の保護は大切な役目でもあるだろうにと首を傾げそうにもなったが、僕の心配することでもないかと思考を中断した。
もしかしたら、子供が出来なかっただけかもしれないけれど。
僕に受け継がれたからこそ、二人目が出難かったのかもしれないけれど。
馬鹿な話だ。ふざけた話だ。愉快も不愉快も通り越して呆れる。
まあ、僕を殺さなかったのは、その為だろうとは思っていたけれど。
血統の維持。血筋の保護。
その為の、バックアップ。
いなければいい鬼仔でも、そういう意味での利用価値ならばあるということか。
反吐がでるな。
「反吐がでるな」
じろり、と。
運転手がバックミラー越しにこちらを睨む。首をすくめて受け流した。
独り言にもぴりぴりと、よく働く脳髄だこと。
逆らったところで無理矢理押し込まれる、その空気を察してはいたが、一応向こう脛を渾身の力で蹴っておいた。わざとののろのろした動きだって、背中を押してくる手を見ていれば無理矢理にも見えるだろう。子供一人に大人二人、僕になんの危機感を感じているのやら。こんないたいけな小学生を捕まえて。
外が見えないように黒一色に塗られた窓は僕を写すこともない。どこをどう走っているのか、ばれないようにのものだろうか。
…………もう行ったことのある場所で、何処にあるのかも知っているのに。
重ね重ね、馬鹿な事をする。
暫く走っていた車は、ぐるりと回って止まった。どうやら到着したようだ。
運転手が降りる。外から車の扉が開いた。
のろりと降りると、見慣れない顔見知りのかつての場所だ。なるほど、ここまで僕の予想通りだと思わなかったけれど。
大きな敷地の大きな建物。古民家はそのままに。
いくらか洗われている木の戸板は黒ずみが少なかった。
馬鹿な事をする。あいも変わらず、馬鹿な事をする。
僕の母の家。僕の血統の父の家。
はん、と鼻で笑う。
二度と来たくはなかった。
いつもそうだ。いつも隘路はそう言う。
いつだって「自分の事を知りたがる人なんていない」「自分のことなんて知っても何も面白くない」そうやって、僕の気持ちも否定する。
僕は隘路の所有物じゃない。
僕が隘路の事を知りたい気持ちをなんで否定するの?
「話しても面白くないだろうから話さない」んじゃない、それは単なる甘えだ。単なる逃げだ。隘路は単に「自分の事を話したくない」だけだ。僕が面白いと思うか面白くないと思うかなんて隘路がわかるわけないでしょう?そんなこと隘路が決めることじゃない。そもそも「面白い」「面白くない」そんな判断基準を持ち出すのもおかしいんだ。それすら馬鹿げている。
隘路は逃げてるんだ。
「僕が面白いと思わないだろうから話さない」、そう理由付けて逃げている。「話したくない」という感情から、「話したくない」という意思から。そうやって逃げ続けているんだ。
僕には「目を背けるな」「目を逸らすな」「目を閉じるな」そう言って物事の本質を見極めるように口先で弄しながらも、隘路は何一つとして出来ちゃいない。隘路は自分の心から、感情から、目を逸らし続けているんだよ。
どうして「自分はこう思うけれど、自分がこう言ったからやめる、そんな理由にしないでくれ」なんて言えるんだ?
隘路には覚悟がないんだ。人に及ぼす言葉の覚悟が。
例え隘路がそのつもりじゃなくても、僕の心に残れば「理由にしないでくれ」なんて馬鹿げたこと言えないよ。だって僕の心には残り続けているから。物事の判断の基準をそれに合わせるから。それはもう、無意識に、それを理由にして。
ほら、ほら、そうやって。
隘路は逃げてるんだ。隘路は目を逸らしているんだ。隘路は目を背けているんだ。隘路は目を閉じているんだ。何より大切な隘路の気持ちから。隘路の意志から。僕を理由にして。
僕には隘路を理由にするなって言う癖に。
矛盾してるんだよ。隘路、ねえ隘路。どうして僕も否定するの。
それほどまでに僕に目を背けさせたくないなら、逃げさせたくないなら、どうして隘路は
思わず、手を上げそうになった。
その先の言葉を聞きたくないと思ったから。
その口を塞ぎたいと思った。
その先の言葉がなんなのか、わかっていたから。
それでも。
本当に、自分は自分に価値を見出せないのだ。
だからほんのすこし、ほんのすこしだけ。
嬉しかったんだ。
走り出した足は重い。鼻緒が食い込んで親指と人差し指の間に激痛が走る。肉体を甘受したこの体は酷く使い難い。人の目に見えないだけの体は厄介だ。夢の中ならもっと、もっと軽く、もっと早く、もっと速く。
迷路に会わなければならないと、思った。
話が終わる前に駆け出した。走ることしかできなかった。陽の光は夢になれた目に痛い。それでも、それでも。
一刻一秒を、迷路の人生の少しを、私に欲しかった。ただの我がままだと知っている。迷惑かもしれないと、子供のように考えている。それでも私は会わなければならなかった。あの時殴りそうになった、手を上げそうになったことに詫びなければならなかった。あの時何も言ってやれなかったことに謝らなければならなかった。私を信じ、私の為を想い、私に自分以上に価値を見出し、私とともにあると選んでくれた、迷路に会わなければならなかった。
夢の中ならもっと、もっと、もっと、もっと
夢の、中なら。
「ゆめのなかなら…………?」
夢の中なら、なんだと言うのだ。
あったところで抱きしめてやれない。あったところで側に行けない。月から地球までほど遠い数十センチがそこにあるだけだ。
飛べたらいいのにと、今ほど思ったことはない
「とべ、たら」
飛べたら…………………、いいのに、と。
何故だ、何か、何かが頭に残っている。何かを、大切な何かを忘れている。何だ、何を私は忘れている、何を私は忘れている。一体何を、何を私は失くしている。私の失くし物はなんだ。私の失せ物はなんだ。何を、何を、何を。
暗くなり始めた空は朱色だ。朱色? いいや、紫、赤紫。この色は何だった。この空は何だった。この色は、この空は、何処かで見たことがあるのに、何処かで見たことがあるのに、何処かで見たことがあるのに。私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は、私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は私は、
「てめえのことなぞ、てめえでわかるわけもねえ」
私は、
…………私は、全てを知っていた。
この世の成り立ちを、この世の出来方を、この世の作り方を。あの世の成り立ちを、あの世の出来方を、あの世の作り方を。土塊も生物も人間も妖怪も神も等しく、私の知識。私の欲を満たすもの。私の忘却しない脳にある、知識の一つ。一人一人の人間の生を、一柱一柱の神のなす事を。虫の一つも、微生物の一つも。全てをこの目で見た。全てをこの手で触った。
森羅万象を。その全てを見通す。
それができるだけの九つの目が、私にはあった。
それがどうだ。それがなんだ。
私にはわからない。
…………俺には、わからない。
だから、
だから。
夢に籠った。
願うは一つ、思いは一つ。
思想も理想も投げ捨てよう。あの日あの時、君に出会えたことに心から感謝しよう。名前をもらった事を。君の名前を知った事を。君のそばにいたことを。
ああ、なんだ。そういうことだったのか。
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