失せ物やっつ、迷路に穿て。
あいいろあいろ-上-
それの予兆のようなものは、少なからず見えていたように思う。私が気付かなかっただけで。
そう、彼は口にしていた。「すこぶる面白くない」、それは単純な言葉だ。しかしその意味までを理解することはできなかった。理解の範疇の外だったから。
彼の私の関係は、あやふやでぼんやりとしたものだった。彼にとっては恐らく、家族より近く、友より遠い、側にいる誰かとしての一人だったのだろう。
彼を傷付けたかったわけじゃない。
しかし、……しかし。
私は今、何より驚いているのだ。
私が私を嫌うことが、彼を傷つけていたことに。
がらり、と、戸の開く音。足音は緩く、その歩き方から、入ってきた人物は迷路ではない事に、
失望している自分がいる。
「…………迷路坊ちゃん?」
黒い髪を後ろで丸く括り、薄い青の割烹着に身を包んだ彼女がぽつりと呟いた。
空気の異質さを察したのか、彼女は目を見開いている。顔色がさっと青くなる。それもそうだろう、彼女の言う迷路は。
たった今、家を飛び出して行ったのだ。
始まりは単純だった。とても簡素でこれと言った特別なことなど何もない、単純な言い争い。でも、僕が隘路とした口論までもない口喧嘩は、まともな口喧嘩は、初めてだと思う。互いに譲れないものがあって、相互理解の及ばない思考があった、ただそれだけの話。でも僕はそれが許せなくて、隘路は初めから諦めることで突き放していた。
どちらが悪いどちらが正しい、そんな話でもない。
咄嗟に家から飛び出てしまったが、どこに行くわけでもなく、何か目的があるわけじゃない。逃げるなと大きな口を聞いていながら、逃げたのは僕の方なのだから馬鹿らしい。
空はどんよりと曇って今にも雨が降りそうだ。濃灰色はグラデーションなど無くて、ぼこぼことした丸が重なってくっついた、まるで規則性のない模様。
でも謝らないと、と、僕は思った。
きっと酷いことを言ってしまった。許されるわけじゃないけれど、僕が酷いことをしたのには変わりがない。間違いを犯したのに変わりはない。ごめんなさいと頭を下げないといけない。理由なんかなくたって。
こつんと足先に石ころが当たる。
黒いアスファルトは影すら作らなくて、雨も降っていないのになぜか濡れているようだった。
あおう、あおうと足元のいたちのような猫のような犬のような、ふさふさとした尾の小動物が、足元にまとわりつく。赤ん坊の泣き声のその怪異は、母の乳を求めて、愛を求めて足に縋る。見当違いをわからずに。
ポケットからハンカチを出して、びりと破いた。
二つに分かれて襤褸になったハンカチの残骸を、小さく哀れさを誘う怪異の鼻先にぶら下げてやる。匂いを嗅ぐようにすんすんと鼻を動かす。惹きつけられているのを認めて、注意がそれたタイミングを見計らい、ついっと役目を果たさなくなったハンカチを投げた。ざあっ、足元の彼らはそちらへ駆ける。その内に、するりと抜けた。
まさに家出中ということだろうか。
家出、というものは、家に待つ人がいて、初めて言えることだろう。それを思えば、僕はすごく恵まれているのだろうなあと、気の抜けたことを考えた。
隘路に出逢うまでは、そう、家族は家にいなかった。
少なくとも…………二年前。
二年前は、家出なんて考えることもなかった。
家から出ることなんて考えの中にない。そもそも家という概念すら無い。あそこは僕のあった、僕の、
僕の母さんの。
僕と、僕の母さんの。
唯一許された場所だったから。
頭に浮かぶのは古いアパート。溜め込んだ洗濯物。掃除のしたことのない部屋。光の入らない窓。埃の積もった箪笥。水が漏れる壊れたエアコン。腐った匂いと、車のガスの排気音。古いドアは鉄のようだった。空気の重いあの部屋に横たわる母はまるで眠っているようで、初めて触る母の腕は鉛のように重くて
とても
お腹が空いていて
「齋藤迷路」
今ここで呼ばれるはずのない名前が聞こえた。
声のした方へ首をもたげると、見たことのない車と、見たことのない人。
いや、僕は今嘘をついた。
見たことのある人、見たことのある車だ。
かつての、昔々に。
「今から私が話すのは、私の大きくて長い独り言です」
胡座をかいた膝に頬杖をついて、その言葉を聞いた。……やはり、この女は、気付いていたか。
「まず知っていていただきたいのです」
割烹着を脱いで、彼女は正座した隣にそれを置く。
恐らく見えてはいないだろう。
何かがいる、というのは、気がついていたとしても。
彼女は真っ直ぐに、揺るぎない言葉で私の後頭部を殴った。
「坊ちゃんの寿命はあと二年です」
「………….え?」
頓狂な声が出た。そんな、ばかな、と。
嘘ではありません、と彼女はかぶりを振る。
「坊ちゃんはあと二年で彼岸に渡られます」
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