あいいろあいろ-下-

 長い縁側と大きな庭。簡素で無駄がないとも取れそうなその空間は、つまりは余裕が無いことの裏返しで、必要とするものを必要とするだけの、つまらない場所だ。ここに入ったのは五年ぶりだが、薄く覚えている記憶と何ら変わりなく、迷路に何かを感じさせることをしなかった。松は無骨に剪定され、庭は枯葉の一枚もない。この紅葉の鮮やかな時期に、勿体無い話である。

 切り捨てるのがこの家だ。

 必要としないと感じたものは、片端から切り捨てる。

 そして集めて埋めるのだ。

 地中奥深く、見つからないように。

 二度と開かぬように。

 背中を押されながら進む脚は、自然と硬くなる。

 違いのわからない部屋に通され、襖を開かれる。絵も何もない薄い黄色はどこか重い。

 す、と音もなく開いた敷居の向こうに、見慣れない見知った人物。肌が死人みたいに白いのは生まれつきだと、僕は知っている。

 薄く青が刺した黒の目。

「ご無沙汰しています、お父さん」

 その目は、何も宿していなかった。

 虚ろで光も何もない。布団に寝かされ、瞳だけが開いて僕の方にある空気を眺めている。

 僕の後ろの庭を見ているのか、それとも僕の後ろに立つ部下を眺めているのか。どちらでもないだろう。

 成る程、確かにこれは、「死んでいる」。

「無理矢理延命治療を施しています」

 重苦しく、後ろの彼が呟いた。

「齋藤の力の全てを注いで、この世に留めていると」

 迷路の解釈に違いはないようだ。その沈黙を首肯と受け取り、迷路は顎を引いた。

 齋藤の家が具体的に何をしてこの強大さを保っているのかといえば、それは病院等の運営や有能な医療従事者の輩出に他ならない。僕の祖父にあたる人物の時に、その権力や財力は最たるものだったと、貸本屋から借りた書物で知った。どこから入手したものなのかはさっぱりわからないが、あの貸本屋には題名と作者のない本ばかりが置いてある。膨大な書物の中から探すのは困難を極めそうだと思っていたのだが、店主の管理は完璧で、どこにあるのかさえ聞けば直ぐに手に取ることができた。ほんの二ヶ月前を思い返し、こうなることを予想してはいた、と、肩をすくめる。

 齋藤の家は、異能の血統。いつから始まった呪いかは知らない。そこまで遡ること不能だった。けれど少なくとも一千年前から続く「祈祷」の巫覡は、現代では医療に用いられ、本来ならば治らない病をたちどころに直してしまう、あるいはそこまで行かずとも軽減させる能力の保持に駆られている。その先駆にして中心の存在が、齋藤の家なのだ。

 誰を治療するなど言うまでもない。世界にとって、日本にとって、失われてはいけない存在の為に、齋藤の能力は度々利用される。つまりは商売だ。売るのは巫覡の魂。力の源。

「念の為に伺います。…………僕に求められているものは、なんですか?」

「言うまでもなく、《齋藤の血の保存》に他ならない」

「簡潔な答えをありがとうございます。では一つ、伺いたい」

 僕は父であった物体に背を向けた。無表情の父の部下であろう人物に向き直る。廊下の奥から沢山の息が、気配を感じる。ここにいるのは彼だけではない。

 好都合。僕は息を吸った。

「僕の母、齋藤 令子の墓はどこですか」

 彼は、視線を彷徨わせる。僕の藍色を直視しないように目を逸らし、ぽつりと呟いた。

「…………存在しない」

「そうですか」

 僕は簡潔に、それに応えた。

 そんなことだろうと思った。

 それを意外に感じたのか、彼はまぶたを少し震わせる。僕は彼のことを何も知らないけれど、きっとこの人は悪巧みが苦手な人の部類に入るんだろうなと考えた。

「では、僕はこの家にいることはできません」

 僕は、答えた。

「なぜ、という顔をしていますね。では答えます。ここに僕の母の墓が無いならば、僕は此処の者ではない。あそこで寝ているのは僕の血縁上の父ですが、戸籍上の父ではありません。なんたって僕の戸籍上に父は存在しない。また、僕も彼を父だと思えない。僕の母は齋藤令子、ただ一人です」

 廊下の空気が濁る。きっと廊下の外の彼らも、これくらいは予想していただろう。僕はきっぱりと言い切った。そう、初めから、最初から、わかっていたこと。決意していたこと。

「この家で生まれ、この家で育った僕の母がこの家の墓に葬られていないのであれば、僕が此処にいる道理はありません。彼は父ではありませんから」

 僕は自分の頭から、制帽を外す。この場で唯一目を丸くする、彼にそれを差し出した。

「これは母が此処から盗んだ父のものです。傘は玄関の傘立てに。二つ、確かにお返しします。これで母も安らかに眠れることでしょう」

「きみ、は」

「僕の家族は、…………」

 彼の後ろに、ふわり、と、白いものが舞った。

 純白の衣装。袖には刺繍。飾りは少なく、白く、うつくしく。簡素な庭に舞い降りるのは、まるで神様のように神々しく、まるで朝焼けのように澄んだ色。雨は止んで雲は晴れて、青空が広がり太陽が覗く。藍色は広大に、その背に広がっている。

 彼は驚いて、その存在を視界に止める。この場にいる誰も、その場にいるその全て、生物も、無生物も、ひとならざるものも、全て、きっとそれにおどろき目を見開いていることだろう。それほどまでに、きよし、さやけし、ちはやふる、彼は不動の静かさを纏っているのだ。

 僕の瞳、藍色の空。

 僕はその存在と目を合わせて、生きてきた中で一番、いちばん大きく、笑ってみせる。


「僕の家族は、隘路だけなので」


 地に足をつけた神様は、頬に大きな傷跡をつけたそのかみさまは、首をすくめながらも、朝焼けの目を細めた。




「苦しみに満ちた十年間を、悲しみに満ちたその生を、享受して生きるなどこの私が許さない」

「…………なんの話ですか、隘路?」

「お前の話だ、迷路」

 その背に凭れながら、僕は隘路に尋ねた。

「僕は自分が苦しみや悲しみに満ちながら生きていたとは思いません」

「まあ、お前はそういうだろうな」

 見上げる空は美しい。いつの間にこんなに晴れていたのだろう。ほんの数分前、僕が齋藤の家の敷居をまたいだ時は、どんより曇天だったはずなのに。なるほど、これも隘路の吉祥なのだろうか。ゆっくりと流れていく空気を肌で感じながら、もふもふと首元の毛に後頭部を埋もれさせていると、隘路はぽつりと呟く。

「さっきは悪かった」

「何のことですか?」

「…………気にしてないなら、いい」

「気にしています」

 がくんと背中が落ちた。もふんと跳ねる。すぐに体制は直るが、何となく空気で隘路が唸るのを聞く。

「お前という、奴は…………」

「僕は多分、隘路が思っているよりしたたかですよ」

「…………まあ、そんな気は、初めからしていた」

「隘路はばかですねー」

「やかましい」

 隘路の背は暖かい。白くて長い毛は優しい。ふわりふわりと、遠のく、もう二度と入らない、いつかの家をちらと横目で見た。

「僕の父と母は、きょうだいなんですよ」

「…………」

 何でも知ってる隘路なら知っているかもしれませんけど、と前置いて、僕は独り言のように、空に向けて言葉を浮かべた。立てた脚の間を風が通り抜ける。

「どういう経緯なのかは知らないんですけどね。父が十三、母が十六の時に、母は僕をみごもりりました」

 隘路は何も言わない。驚かないところをみれば、きっと隘路は知っているのだろうな、と思う。さっきの言葉も、どこかそんな節があった。

「そして、世界は父を選んで、母を切り捨てたのですね。僕が育ったのは隘路と暮らしているあの古びた家ではありません。…………小さな、アパートです。そこで僕は、五歳から十歳まで過ごしました」

 だから、あの街に来たのは二年前。

「齋藤の家から離れたアパートに、母の背を走って追いかけながら、移って。そして、」

 そして。

「お前なんか、生まれて来なければと、」

 何度言われただろう。もう覚えていない。覚えているわけがない。母は何度も何度もなんどもなんども、僕を昔から使っている扇子で叩いて、僕の目を潰そうとして、一日中泣いて、枯れてしまいそうになりながら泣いて、そして、夜には眠った僕を抱いて泣いた。

 母は夜の帳の中で、なんどもなんどもなんどもなんども、泣きながら、ごめんなさい、ごめんなさいと、しきりに繰り返した。

 僕は目を開けないまま、強く強く抱きしめられて軋む体をそのままに、その声を聞いていた。

 忘れられない声だった。

「泣いて泣いて泣いて、泣き疲れて、母はある日、動かなくなりました」

 お腹が空いて、母は眠ったように動かなくなって、初めて自分から触れた母の手は冷たくて、でもどうして動かないのかわからなくて、胸に耳を当てて、その器官が動いていないのを理解した。その時初めて、母はもう、泣かないのだと思った。

 もう、僕のせいで悲しまなくていいのだと思った。

 泡を浮かべた母の右手の中には空の小瓶があって。

「扉を叩いて迎えに来たのが、迷子さんでした」

 迷子さんの勧めで、今の改装された古民家を買って、そこに住もうという話になって。迷子さんに面倒を見てもらいながら、学校に通うということになって。

 母が齋藤の家から縁を切られる時にもらった手切れ金は、莫大な財産だったけれど。

 母が一つも使おうとしなかった、その気持ちを理解した。

 そこから喋らなくなった僕の代わりに、隘路が口を開く。

「藍色の藍は、愛色の愛だ。迷路の迷は、明路の明だ。誇れ、君は美しい」

 きょとんと、僕はさらに口を閉じるしかなかった。いや、むしろ開けた。声が出なかった。

 それから、くすりと吹き出す。

「それなら隘路の隘も、愛路の愛です。誇ってください、隘路は美しいのですから」

 くすくすと笑い続ける僕に、不思議そうに隘路は言う。

「迷路、そういえばお前、私の名前を二度呼ばなくなったな」

 隘路、隘路。そう繰り返していたな、と、思い返す。全く気付かなかったが、そういえば隘路が迎えに来てから隘路を呼ぶのに一度しか名前を呼んでいない。そのことに、ああ、と、すとんと何かが胸に落ちた。

「必要がなくなったのです」

「必要」

「隘路は、ちゃんと呼んだら応えてくれるでしょう」

 隘路は、ああ、と、納得がいったと言うように息を吐いた。

「今更だな」

 僕はまた、わらった。

「ええ、今更です」

 ふわりふわり。隘路の白いのが、揺れる。もうすぐ僕らの家に着く。

「ねえ隘路」

「ん」

「隘路は僕の家族です」

 隘路は、呵呵、と笑った。

「今更だな」

 僕はそれに応えて、はは、と笑う。

「今更です」

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