失せ物ふたつ、小路に迷え。

卓上計算機のあれそれ

 がらり戸が開く。ひょこりと制帽が顔を覗かせて、ランドセルを背負った小柄な体が背を曲げながら玄関をくぐった。右手に何かを下げている。行き掛けには無かったものだ。はてなんぞと首を捻りながら、上がり框で靴を脱ぐ矮躯に声を掛ける。

「おかえり、迷路」

 こく、頷いた。しかし応えることはなく、靴を揃えて立ち上がり、ふらりと隘路の脇を抜けていく。

 音の鳴る床を踏みながら、控えめに、ゆっくりと、明らかに不自然な足取りで迷路は自室へ引っ込んだ。




 なんとなく顔色が悪かったような気がする。人の子はわからない、何せあまり関わりのない部類のものである。夢を見ようともそれを容易く忘れ、日常に溶け込ませてしまう、なんとも《件》からすれば関わりを持とうとするのは馬鹿らしい行為とも取れるものなのだから。予知も予言も聞き入れることなく、あるいは聞き入れたところで誰ぞに話すことなく、または話したところで誰も聞き入れることのない、そんな不可思議極まる奇妙なもの。歳幼き人の子は、人の中でもあまり良い思いをしていないのかもしれない。

 弱いものは守るべきものであろうに。

 茶匙三杯数え茶こしに入れる。湯呑みを取り出して、茶こしの上から温い湯を注ぎ込んだ。

 まあ––––––弱い者を虐げるのは今に始まったことではない。平安の世の追儺式も等しく、あれも「穢多非人」とやらに、人を虐げ石飛礫つぶてをぶつけ、厄を祓うなどとうそぶき日頃の憂さを晴らしていた。己の中の鬼を膨れさせて。

 だが、いい思いのするものではない。

「迷路、飯は」

 台所に顔を出した気配、その主に声をかける。返事はすぐに届いた。

「食べたいです」

「食べれば良かろうが」

「けれど、なんとなく、食べる、ありません」

「食べるが無いのか。それとも食べたいが無いのか」

「……食べたいは、あります。けれど、食べたいは、無いです」

「ん、まあ判る」

 然れど体に何か入れぬとそれはそれで厄介よ。そう肩を竦めれば、気配は少し縮こまった。やはり何ぞあったようである。いつもならこんなことで萎縮したりはしない奴だ、と思った。

 思って、何を、と、思い直した。

 そんなことを言えるほど近くにいるわけでもあるまいに。

 そんなことを言えるほど、人に近いものでもあるまいに。

 人でもあるまいに。

「隘路さん、隘路さん、隘路さん、は、」

「ん」

「人ではありません」

「ん」

 もう一つの湯呑みに茶こしの上から湯を注ぐ。ほわりと立った湯気が鼻先を掠める。煎茶の香り高さが際立った。

「だから、僕は、話、から、話、でも、大丈夫、です」

「迷路」

「はい」

 ゆっくりと、あくまでゆっくりと。迷路へ体ごと動かす。俯き口をぐっと縛り、背を丸めて制帽を膝の上に乗せ、ぴくりとも動かない。小さな背中はあいもかわらず寂しそうで、そしてどこか諦観を感じさせるものだった。

「我は予知ができる。否、昔は、出来た。今は出来ぬ、我は最早くだんではない故」

「くだん」

「人と牛と書いてくだん。夢に現るる一介の土塊よ。それすら消え、今は名もなき《おに》だが」

 俯く顔にはあの日の見据える瞳が居ない。あの射抜くまでの意思を宿した藍色は、伏せた瞼の裏側に身を隠してしまって。

「故にな迷路よ、我は望まれねば何もせぬ」

「––––––」

「迷路」

 その頭に、手を伸ばす。小さな頭は片手で持てるほどだ。さして力を入れていないというのに、かくん迷路の首は後ろへ振れた。その虚ろな目が、ガーゼに頬を隠した醜い顔を映す。とても空虚な顔だ。無表情などではない、単なる無。それは夢を映した無。

 意思の見えない瞳は空虚だ。しかしそれを認めることだけは出来なかった、夢と同義になることだけは認められなかった。この藍色はそんなものではない。

 この私の空虚になってはならない藍色だ。

 ましてや人の子が。

「今は求めずとも良い。今は出来ぬとも良い。今は望まずとも良い。いずれ、いずれ望め。求めよ。さすれば我は与えよう、主の欲するものを。主が望まねば、何一つとして《あらぬ》のだ。故に我は幾度となく云おう、欲しれと」

 ふ、藍色が歪んで朧げになり、大粒の雫が頬を伝って流れ落ちた。一雫落ちれば、堰が切れたようにぼろぼろと流れていく。

「迷路、何があった。話してみゃれ、聞いてやろ」

「電卓、が」

「でんたく」

「おかしくて」

「可笑しい」

 頭を押さえていた手を退かせる。すると迷路の小さな手が動いた。制帽を膝から退けると、小ぶりな絡繰が顔をのぞかせる。四角のゴム製のものが並んで、算用数字が一つ一つに書かれている。んん、と唸り。ああこれが電卓か、と察した。

「うん。電卓だな」

 ぽ、電源を押すと。

 ちかちかちかと文字盤がついたり消えたり。そして、八の字が並び、動かなくなってしまった。

「壊れているのではないか」

「それは、ありません」

「何故わかる」

「先生、が」

 せんせい。その単語を口の中でもが、と動かしてから、「迷路は、」言おうとした。

 言おうとして、やめた。

「先生は、お前が悪い子だから、壊れるはずのない機械が、壊れる、と、言いました。巫覡の家系だから、機械に触れば、祟りが起きて、壊れるはずのないものが、壊れる、と、言いました。すると、みんなが、僕を、僕に、笑っ、から、それが、じょうだん、でも、かなしい、くるしい、で、僕の、せいで、壊れるはずのないものが、」

「莫迦」

「ば」

 やめようとしたが、出た。

 迷路は目を丸くしてばっと手元に落としていた視線をあげる。ば、ば。信じられない、と言いたげにはくはく口を開いて閉じて繰り返した。

「そのせんせいは莫迦だな。そんな事があってたまるか」

「えっ、えっ」

「お前の目は歳幼き悪意に鈍い故気付けなかったのだろうが、明らかに悪意の凝り固まりだぞ。妖怪も妖も怪異も異形もあるか。というかお前も世の中すべてのものを信じる必要など無いことを少しは学べ」

「えっ、えっ」

「いいか迷路、よく聞くがいい」

 もにゅ。頓狂な顔をした迷路の頬を両手で挟んで顔を合わせて近付け、その藍色に映り込むのが私だけになる。

 少なくとも、欲しがる事ができるまではな。

「しん、じる––––––」

 迷路の頬を解放する。涙の跡が色濃く残る肌を撫でてから、湯呑みを迷路の前に差し出した。

「もう温くなっているが、それくらいが丁度であろ」

 首をすくめる。迷路は訝しげに眺めてから、口をつける。

 迷路はかすかに、眉を下げた。

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