第一〇話 月にはないありふれた自然

 月で生まれ、月で育ったサクラにとって地球は知識の範疇を凌駕していた。

 水がある。空気がある。重力がある。自然がある。それらが極当たり前にある。

 宇宙服を着込まずとも外を自由に出歩ける。宇宙放射線に怯えなくていい。月面作業中に降り注ぐ隕石に警戒しなくていい。

 少しのミスが、油断が命を危険に曝す月と異なり、地球上では、あらゆるものが満ち溢れている。

 ただ、理解できないものもあった。

 何故、川と呼ぶ水路は、こうも無駄に水を垂れ流しているのか?

 水は生命の源と呼ばれる程、貴重なものだ。こうも簡単に垂れ流す神経が信じられない。

 何故、あんなでかい動物が管理もされず野放しなのか?

 幼き頃、電子図鑑で見た鹿という動物だと気づいた。月にも愛玩用の動物はいたが、犬猫のようなサイズで、あんな人間よりも巨大な動物など見たことがない。小動物一匹でも逃げ出せば警報発令の大事件だ。

 この温泉と呼ぶ泉もそうだ。

 カグヤ曰く、裸の付き合いで使用する天然の風呂場だそうだが、囲いもない、脱衣所もない、そして屋根もない。誰かに見られようと構わず悠々と風呂に浸かっていた先祖は何者だろうと考えてしまう。

 ただの露出狂? うん、先祖の失礼なことを言った。ごめん、顔と名を知らぬご先祖様。

 大地の熱で温められた地下水が湧き出たものが温泉であるそうだが……閉口、いや、口よりも閉じるべきは鼻だ。

 臭い! 臭すぎる!

 この匂いは科学の座学で学んだ硫黄であり、腐ったような匂いの中、呑気に風呂に入れる古代人の神経がサクラはまったく信じられない。

 身体を清める風呂そのものを否定するつもりはないが、硫黄の匂いだけではなく外界にある生の匂いというのもサクラの気分を害させる。

 一種の閉鎖空間で生活してきた以上、検疫には何よりも注意され、吸う空気も滅菌されて生産されてきた。

 生々しい空気というべきか……これが味も匂いもある空気なのだろう、と現状を納得させるしかない。

 結局のところサクラが温泉に入るため行ったことと言えば、ろ過装置をフル稼働して温泉をろ過して匂いを取り、コンテナを改造した小さな浴槽へと流し込むことだった。

「あ~こういう気分を、極楽極楽っていうのよね」

 いざ浸かれば温泉は悪くなかった。

 一日中、月の六倍の重力を受け続ける身体には疲労が溜まる。

 この泉に浸かっている間は、浮力が働いて有重力の負担を緩和してくれる。

 更に潤沢な湯の中に身を浸す行為は月では到底できない至極の贅沢だ。

 カグヤが温泉には疲労回復効果があると言っていたが、身体が軽くなったことで事実だと納得できた。

 もしかしたら先祖たちはその効果を求めて温泉に浸かっていたのだろう。

 ただサクラにとっては匂いさえ目を瞑れば最高だった。

「匂いに目をつぶるって何? 見えなくなるだけで匂いはそのままじゃないの?」

 言葉とは不思議である、と首を傾げるも大事の前の小事として切り捨てた。

「本当、見ると聞くとでは大違いって太古の人が言ったものよ」

 サクラはそのまま雲一つなき夜空を見上げる。

 月が見えた。右半分が欠けた上弦の月が。

 ついこの間まで自分があの遠く離れた衛星に住んでいたと思うと感傷の一つに浸りたくなる。

 この自然溢れる大地を家族に見せてやりたかった。

「んっ!」サクラは緩みかけた顔を、ぱしゃんと叩いて引き締める。

 過去を後悔するのは全てが終わってから。月に帰るのも全てが終わってから。

 何のために月からやって来たのか自問し、そして自答させる。

「ともあれ次はどうするか……」 

 考えるも為すべきことは多すぎた。

 ともあれまずは〈ドーム〉で救助したソウヤという奴の処遇を考えなければならない。

 名簿リストの中から〈彼女〉推薦の人物を協力者として選んだ訳だが、相手の心情を重んじてマニュアル通り応対する必要がある。

 カグヤが上手く説明し協力者として引き込んでくれれば御の字だが、肝心なことまで喋ってしまわないか心配だ。

 折角協力者として引き込んだのだ。壊す愚行はすべきではない。

 壊さないためには隠し通すしかない。

「まあ、命の恩人だと恩を着せて協力させるのがベタよね……」

 思案の中、左腕のブレスレット型量子端末がコール音を鳴り響かせたのはその時だった。

 次いで乙女の悲鳴を夜の森に響かせる。

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