怪盗はいからと米粒の謎

〈一〉お嬢さんと米粒

「あら」


 素っ頓狂というにはあまりにもお上品すぎる声が上がる。


 声の主は平たくいうと幼なじみであり、我が後見人の娘さんであり、そして僕が永遠に仕えるであろうお嬢さんの嬉野うれしの直生すなおさんである。かっくりと頭が下がり、長い髪が揺れた。



 この時間さえ乗り切れば、勉学に勤しむべき時間から解放される、という五時限目の刻。


 直生さんの右一歩半後ろという定位置に控え、人っ子ひとりいやしない一般棟の一階を歩いていたときのことである。



 人気がないのはもちろん僕たちのクラスを除いたおおむねのクラスが、まだ黒板と机の上、はたまた借りた漫画やスマートフォンのアプリなどというものにかわるがわる向かい合っている時間であるからに他ならない。


 と、いいたいところだが、そもそもここにあるのは空き教室ばかりなのである。ここが喧騒に包まれるのはそれらを活動場所に借りているいくつかの部活動の部活動が活動する放課後ぐらいのもので、それも創作ダンス部(CDCとかいう、TKGみたいなとりあえず英字三文字にしておけばいいという風潮に乗っかった名前があるらしい)が休みをとれば一気に閑古鳥が訪れる。なにせ、他はお手玉研究会だの野鳥の会だの、物静かでマイナーな倶楽部ばかりなのだ。


 結果として、ほぼいつもどおりといって過言でない静けさのなか、僕たちは教室を抜け出し闊歩していた。



 はじまりは、授業の最初、自習を告げられたところからだった。


 おそらくは、黒板に真っ白な字でその二文字が浮かんだときには、もう直生さんの決意は定まっていたのだと思う。


 配布されたプリントに僕が格闘している最中、いかにも勉強にひと息入れたい、といった様子で「飲み物を買ってくるわ」ともっともらしい理由を用意した直生さんは、僕を引き連れ教室を後にした。もとより直生さんの公認の付き人と化している僕を冷かす輩はもちろんのこと、優等生然とした直生さんを見咎めるもの、そして「じゃあ俺のも」「あたしのも」なんて便乗するクラスメイトはひとりもいなかった。まるで僕たちが重要な使命でも賜っているかのように、目礼でもって送り出されたのだ。


 今となってはそれはたしかに言い訳でしかなく、その言い訳をきちんとアリバイとして提出できるよう、僕は喉が渇いていないというお嬢さんの代わりにいちごオレを購入し、そのおおげさな甘ったるさを血液と中和するのが目下の使命となっていた。


 舌先から浸食しにかかるいちごオレ帝国軍から逃れるため、買いに行くと言ったのは自分なのに、などと文句にもならない疑問を零すと、「あら。わたしの、なんていつ言った?」などと直生さんはのたまう。答えのわかりきった問いを放るのは、このひとの常套手段だ。


 まあ、もう十年来のお付き合いである。考えはだいたい読めていた。



 どうせ〈さて部〉活動の一環であろう。



 さて部、というのは、直生さんが立ち上げた部活のことだ。さては扨でもなければ左手でもなく、ひらがなの「さて」。しばしば文頭に登場する、「さて」。


 部員は嬉野直生さんそのひとと、名ばかりの幽霊部員が数名。

 そして最後に、哀れな子羊、正之守まさのもり幸大ゆきひろ



 つまりは、僕だ。



 活動内容は主に探偵小説を焦点にあてた文学研究――

 と、いうのは、設立のため生徒会や一般向けに公開していたものであり、直生さん本人が意図している部活動の主な目的といえば、すこし違う。いや、大いに違う。


 なぜなら、それは――――であるからだ。


 そうともなれば、みょうちきりんな部活動名の由来も聞いてみれば納得のひと言だった。

「名探偵は常に謎解きを〈さて〉という言葉ではじめるから」と我が部活動に命名した直生さんは、そのうちユニフォームにディアストーカーとパイプを指定しかねない。


 もっとも、たとえそうと決まったところで、僕に残された選択肢はひとつきりだ。僕は直生さんの決定を受け容れ、なんちゃってホームズのコスプレだってしてみせるだろう。


 僕は彼女に頭が上がらない。


 ひとつには、直生さんがかの有名な嬉野グループの血筋であるということ。そしてもうひとつには、何を隠そう彼女の父上どのが、僕の後見人にあたることが大きな理由だ。

 両親亡きあと僕を育ててくれた祖父母も、僕が中学二年生のときに亡くなった。ほかに親戚もおらず、本来ならば児童養護施設行きとなるはずだったところ、付き合いのあった直生さんのお父上が僕の後見人となってくださったのだ。祖母の遺言状にその旨があったことにはもちろん、それを二つ返事で了承したお父上にも目玉が飛び出るほど驚かされた。


 もともと祖母の働いていた図書館で何度か顔を合わせたことがあり、直生さんとも友人のような付き合いをしていた僕だから、ということもあるのだと思う。そのうえ天下の嬉野家なのだから、中学生をひとり預かるところでネズミが一匹増えるか程度のものだろう。けれど、それにしたって他人の子の後見人を快く引き受けてくださった嬉野さんには、一生分の感謝の気持ちを使い果たしても足りないほどだった。


 そしてそのお父上より直々に「娘の願いを叶えてやってくれ」ということばを賜ってしまえば、僕のなかで、唯一無二の主君は決まった。


 幸か不幸か、僕はランプの精ではない。叶える願いの数に制限はなかった。僕にできることならなんだって、叶えてやれた。叶えたいと思った。



 ――それがたとえ、名探偵になりたい、などという突拍子もないものであっても。



 そういうわけがあって、僕は今日も今日とて彼女の後ろについて、彼女の願いを叶えるために尽力していたのだけれど、どうやら直生さん、今日も何かを見つけてしまったらしい。


「直生さん?」


 立ち止まった足は動かない。後ろに控えている僕は彼女が何を見て、そして何を思ってそんな声を上げたのかわからないので、自然、彼女の肩口から視界が開けるように覗き込む形になる。



 見たところ、何もない。ように見えた。


 そこに何かがあると知ったのは、直生さんがその答えを薄紅色のくちびるで発したからだ。


「米粒だわ」

「はい?」


 失礼に当たらぬ程度に疑問符を付随させると、直生さんは、足元の一点を指差した。人差し指という銃身から照準の合わさった場所へと視線を辿らせると、そこには確かに、一粒の米が転がっていた。何の変哲もない、ちいさなちいさな、米粒が。


 放っておくと直生さんがしゃがみ込みかねないので、僕は先回りしてそれを拾う。一度炊かれた様子もない米粒は手で取るにもそう支障はなく、僕は再度手のひらで転がしてから、頷いた。


「米粒ですね」


 まごうことなき、米粒だ。


「どうしてこんなところに?」と直生さんは首を傾げるが、僕もまったく同じ仕草を返してみせた。


「さあ。生なので弁当から落ちたわけでもなさそうですが……調理部か家庭科の授業かな」

「そうかしら」


 直生さんがふうん、と品定めするような頷きを落とすときは、だいたいにおいてその答えに納得していないときである。十年もの付き合いになる僕が察していることを直生さんも既に存じているから、そのまま、不満は表へと零れ出した。


「でも、それならどうして調理室から離れたここに落ちているの?」

「それは……」


 続きを繋げられなかったのは、そのとおりだと思ったからだ。


 現在僕たちがいるのは、一般教室棟の一階、東側の廊下だ。自動販売機や生徒用の昇降口に近い位置で、そのまま進むと突き当たりの事務室に進行を阻まれる。対する調理室は特別教室棟の一階、西側にあるから、階が同じでもここから行くのはずいぶんと遠回りになる。


 つまり、調理室に向かうという目的があるのなら、まず通らない道なのだ。


「それに、一粒だけ落ちているのも妙よね」

「と、いいますと」

「だって、調理部にしろ授業で使うものにしろ、持ってくるときは袋の封をきっちりとめてきているはずだし、その封を開くのは調理室以外の場所ではありえないわけでしょう? それにもう六月。調理室がある棟は反対側だって、この時期なら生徒はみんな知っているはずよ」


 一年生なら、と口を挟む前に先手を打たれてしまったため、僕はしかたなく頷いた。


「まあ、たしかに」

「幸大はどう思う?」

「さあ……」


 考えましたよ、のアピールに数拍の間を設けてから、「こんなのはどうですか」と僕は言った。


「毎朝米を研いで炊くのが自分の仕事である女子高生がいるんです。その子は今日もせっせと米を研いできましたが、その際、零れた米粒が彼女のスカートのひだに引っ掛かってしまった。学校に来るまで落ちることはなかったそれも、所詮は米粒。運悪く彼女が友人に声をかけようと駆け足になった折、ぽつん、とここに取り残されることになり……」

「ふざけてるのね」

「題は『廊下に死す』あたりでどうでしょう」

「クリスティ・ファンに怒られるわよ」

「つまりは直生さんのことでしょうか」

「わかってるんじゃないの」


 ご機嫌ななめである。

 しかし、僕もただふざけているわけではないのだ。


「でも、あながち間違っていないと思いますよ。確率はうんと低いかもしれませんけど、ありえないって話じゃないでしょう。直生さんの敬愛するホームズも言ってたじゃないですか。〈完全にありえないことを取り除けば〉……」

「……〈残ったものは、いかにありそうにないことでも、事実に間違いない〉」


 未だに不服の二文字を両頬に書いたような様相の直生さんは、それでいて、かの名探偵の名言を引き合いに出されては何も言い返せないらしい。


「じゃあこれは捨てますよ」と声を掛けても異論は返ってこなかったので、心おきなく、すぐ傍にあったゴミ箱に落とすこととした。どこぞの誰かが丹精込めて作った米粒に対しては非情な仕打ちだけれど、一粒では飯も炊けないし、誰かに踏みつぶされている可能性とて無いとはいえないので仕方がない。さようならば米粒さん、もう会うことはないでしょう。僕はようやく安堵した。



 べつに、僕が引っ張り回されるぐらいなら構わないのだ。



 問題なのは、の登場を直生さんが待ち望んでいるということである。僕は彼女が、校内で見つけた「なぜ?」に、やつの影を見出している――見出そうとしているということを知っている。


 ぶるり、と背筋に寒気を覚えて、そそくさとゴミ箱から離れた。未だ掌から熱を奪う言い訳のお陰で身体が冷えたせいもあるのかもしれないが、そもそも長居をする場所でもない。


「戻りましょう、直生さん。曲りなりにも授業中に出歩くのはやっぱりよくありませんよ」

「幸大……」


 珍しくしおらしい声を出している。やはり敬愛するホームズの名言を引っ張ってやり込めるのはやりすぎたかな?


「大丈夫ですよ。いつもみたいに、お父上には黙っておきますから」

「幸大」


 やや強く声を掛けられて、僕は直生さんがゴミ箱を覗き込んでいることに気がついた。


「どうしたんですか?」


 言いながら僕も覗き込み、思わず「あっ」と声をあげた。


「幸大」

「……はい」

「あなたの説も、たしかにありえるかもしれないわ。いいえ。一粒なら、ありえたかもしれないでしょう」

「…………」


 僕はしおらしく俯き、鬼の首でも取ったかのような、直生さんの勝ち誇った表情を見るまいとした。

 けれどそうなると、今度は目に入るのはゴミ箱の中身で、それもまた僕の眉間に皺をいくつか刻み込んでゆく。


「ね。これでも謎じゃあないって、思う?」


 直生さんの微笑みを躱した先、つまり視線を落とした先にあったのは、僕が先ほど拾い上げた米粒と、ともに散らばる――――やはりひとつかみほどの、米粒だった。

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